ブラックボックス

1.黒い箱の丘

 見慣れない光景だった。いや、この旅の中に見慣れた景色などなかったが。それとはまた違った意味で、得体の知れない恐ろしさが漂う景色。近付くべきか迷った。近付いてはならない気もした。足音が眠る者を起こすような気がした。分厚い雲の間から光の梯子が射す。曇天の下、なだらかな丘陵地帯の、濃く陰影が落ちた場所。黒い箱が等間隔に並んでいる。墓石だろうか。広範囲に渡る。一つの丘の斜面から、土砂崩れのように表面をざらりと埋め、谷に裾を広げている。箱は冷えた溶岩のようにねっとりと黒光りし、遠くからでも亀裂が駆けているのが分かった。丘の草も、青白く痩せているように見える。

「おむすび転がしねずみの浄土へ」

 連なる丘を見ていたリピアが呟いて、なんとなくそれを聞いてしまった残りの二人。誰ともなく黒い箱の並ぶ方へと進路を変えた。


 息を潜めながら歩いた。空気はすうっと通り抜け、灰色の雲の隙間から時々光が注ぎ、背丈低くカサカサと鳴る足元の雑草は、野山のそれと比べると絨毯のよう。

 喧騒の中にいるわけでもないのに、方々から声が聞こえるような気がした。黒い箱に掛かる影の営みがあるようだった。蟻の生活を眺める事と似ている。三人が立ち入ったことで影が混乱する様子も無かったので、散策を続ける。この場所は誰かの手が掛かっており、街と言っても良さそうだった。

 黒い箱はシェミネほどの高さがあった。三人が並んで通れるほどの間隔で、碁石のように並べられている。傾斜地なのでそれほど圧迫感もない。石で出来ているようにも見えるが、有機物めいた佇まいをしている。冷たい命がぼんやりと光を放っているようなのだ。表面を走る太い亀裂の奥に触れたら熱を感じるだろうか。墓石、あるいは機構とも表現出来そうだ。

「おや、これ」

 黒い箱の横に、籠が置かれている。ふわりと被せられたレースのハンカチの下に、柑橘の実が半分ほど、コロコロと入っていた。

 どう見ても置き忘れ。

「近くに誰かいる?」

 注意して見回すが、丘を風が渡るだけ。

「シトラスころころ転がして……」

 リピアがぱくりと一つ食べた。

「転がさずに食べてしまっては、物語が進展しない」

「拾いものを食べてはなりませぬ!」

「大丈夫さ、渡り鳥はシトラスとの親和性が高いんだ」

 親和性だなんて何もかもを納得させるような言葉を放り込んで、二人が一瞬黙った隙に、

「忘れ物を届けに行こうよ。ほら」

一つの柑橘を転がした。コロコロ、呼ばれるままに丘を下る。黒い箱の間を上手にすり抜けて。コリントゲームの遊戯台の上、穴の先は天竺か、常世か。


2.侵緑の洞

 台の上の球は、打ち込まれた無数の釘によって幾つもの進路を取り、一枚の盤上で毎回違う旅をする。落ちる穴は違っても、辿り着く場所は同じだから、好きに跳ね回ればいい。

 そんな想像をしており、草で出来たうつろな洞に入ったところで、二人を見失った。一つの柑橘を追いかけていたはずなのに、はぐれるとは器用な。これまでの旅の中でも何度かこうしてはぐれたが、不思議と三人に戻るのだ。それにしても、転がる黄色まで見失った。

 過去の積み重ねが未来を決定する事は無い。別れは再会に繋がらない。このまま誰も見つけられなければどうなるんだろう。シェミネはたった一人の旅路を想像する。これまで来た道を一人で歩き直す。同じ旅路など辿れやしない。見つけなければ。心を定め、すとんと切り株に腰を下ろす。目を瞑る。


 目を瞑ると、瞼の端から木漏れ日がしずしずと訪れた。森はどこまでも続いていた。この場所からも、きっとずっと続く。地平が見える場所があるならば行ってみよう。森から伸びる糸を辿る。三人で抜けた数々の森と、見上げた空。木の葉たちが手を伸ばす。もっと光を。赤が射す。リピアの森の鮮烈な風景。スイと歩いた森の深かったこと。かつて住んでいた森の隅々や、逃れ歩いた夜の冷たさ。過去へ過去へと遡る。一本の道をつける。

 彼女の意識はうつろいやすい。今居る森はどの森か、彼女は意識しているのか。三人で居ながら一人であったり、ここに居ながら別の場所を歩いている。記憶を取り出し、絨毯のように敷いて、踏み込めばその場所に行ける。彼女は幾度も同じ景色の中を旅する。盤上で弾かれた球のように。そんな彼女は、今日は道連れ二人を探すため、静かに記憶を見つめ直す。絨毯の端を探し、抜け出して、くるくる纏めて記憶の棚に仕舞おうと。そうして今を探そうとしている。記憶の中に、今が紛れ込んでいる。今の上に立たなくては。


3.水路通ず

 丘の割れ目の湿地。きのこにシダに、小さな家々。一件一件ノックして探そう。切り株から立ち上がる。そう、一歩目がいちばん重い。自らの記憶だって未知のものだ。記憶の上は一人で歩かなくてはならない。ぼんやりと迷い込めば、森の出口は現れない。定めて行くのだ。立ち上がったならば、次はもう一歩。進もう。おそれは無い。過去に体験した不安や怖さは無くならない。喜びも、過ぎて消えて無になることなどない。大切にしまわれている。おそれることはない。少なくとも、あの二人が居る場所に、おそれは無い。

「私はそこにいるのでしょう」

 そう、三人で。


 リピアが歌った歌をはなうたで紡げば、一つの家から人が出てくる。不思議な歌ね、と声をかけられる。そうなの、異郷の隣人の歌なの、と答える。暮らしには歌があふれている。ひとは、しばしば歌を紡ぐ。旅路で聞いた歌を紡ぎ直す。それぞれの種の、地域の、言語の。分岐し隔てた暮らしをしているけれど、歌を歌う。シェミネもまた、彼女の歌を織り込んで歌った。

 奥まった家に歌が届き、声が聞こえた。森のひとの歌によく似た歌を紡ぐ、あなたはだれ。私は誰なのかしら、シェミネは微笑み答えた。街を離れた人の下に生まれ、森に迎えられた人々が集まる集落で、鳥と虫の囁きと、あめつちの間に育った。攻め落とされた集落から逃れ彷徨った。曖昧に。ひととひとの間で。

 共にあった銀の髪の美しい隣人は、そう、その人はつまり森のひとで、なにもかもが少しずつ違う隣人が当たり前にお茶を飲みに来て、世話を焼いて、生に触れていた。本人も周囲も森のひとという呼称を使いはせず、ただ単純に彼を名で呼び、何かである前に兄であった。そして狭間を渡り歩く私は渡り鳥であり、兄にとっての妹であり、スイやリピアの道連れで、この場所の中では誰であるとも言えない。

 きっと私は何かになる途中なのね、だから私は私なのね。そう言って笑った。そう、常に何かである必要はない。どのような道を辿ってきた者であっても。


 笑い声にくすぐられて、一つの窓からこちらを見ていた幼い女の子も笑った。それでいいのよ、シェミネは言う。幼子は文字を彫りはじめた。日記だろうか。記念だろうか。記憶を残しておくための呪文だろうか。熱心な彼女はあっと言う間に昼を板に注ぎ込み、太陽が降りてきて、真っ赤な夕暮れ時となった。

 足元も見えない、こんな真っ赤な闇の中で。

 生まれの集落が焼け落ちた日の色は、瓶に詰めて棚の奥に入れられており、たまに足を滑らせて落ちて、とっぷりとした緋色の絵の具に浸かる。瓶の中で手足はいつも重く、時の流れは遅く、死んだ者が絡みつき、無気力である。

 炎が身を焼くのを待つばかりだった。蹂躙する側の兵士の刃が降りてくる、その光景を何度も描き、また溶かして瓶に詰めなおす。濃度を増す赤。瓶の中で漬けものになる私を見ている。私はあちらにいる。しかし私が私を見ているのは、助けられたからだ。

 焼ける家の中であの人が、仲間である兵を切り捨て、私に向かい、行け、と言う。地平線からやって来た青を映した瞳で。救われたのだ。私は立ち上がる。歩き出して、そして今を見つけ、二人を見つけ、背中に声をかけ、名前を呼ぶのだ。

「スイ」


4.常緑に寄せて

 ここは記憶の眠る丘。

 各地の、誰かの、記憶の断片が、墓石に刻まれていく。黒い箱を守るひとが、洞(うつろ)のひと。

「届けてくれたの。大変だったろう。転がり落ちてきたものね」

 柑橘の入った籠を手渡すと、洞のひとは目を細めて三人が来たことを喜んだ。

 集う記憶は、彼らの手で大切に管理されていく。図書館のようだ、とスイが言う。黒い箱は本のようには開けないけれど、中に膨大な記憶を湛えて丘に安置されていく。誰のため、何のためかも分からない、丘の一角、異様な風景。

「この中に、きみたちの記憶も保存されているかもしれないね」

 黒く均等に並んだ箱が、日を受けて燦然と立ち並んでいる。

 ここにあるの。

 ここにいるのね。

 ならばきっと大丈夫ね。

 記憶は消えないわ。

 記憶をくるくるとたたみ、シェミネは棚に収めていった。


「大丈夫?」

「スイ」

「走りながら、ぼんやりしていたでしょう。たまにぼんやりしている。俺もたまにぼんやりして、今日なんか、きみたちを巻き込んで転がってしまったけれどね。リピアなどは果てしなく笑って、洞のひとがいることにもしばらく気付かなかった」

「スイ」

「大丈夫?」

 シェミネが笑い出した。あはは、と、声をあげて。スイの手を取って、

「驚いたけれど、大丈夫よ」

やっとそう言って、しばらく笑い続けた。リピアも笑い出して、洞のひとは柑橘をかじりながら稀の旅人を眺めていた。記憶と過ごすひととき。記憶の集う場所に荷を置いて身軽になったら、また彼らは飛び立つだろう。今が帰ってくる。

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