昼夜の谷

1.魚の腹

「我々は何から逃げているんだい」

「わからないわ」

「しかし、にげろ!」

 叫び声が遠ざかっていく。三人が走っている。逃げていると聞こえたが、追う者はいない。はて。

 必死よりかは悪ふざけ、いたずらではなく見えない何か。とにかく逃げなくてはいけない。そんな時も、たまにはある。


 ここは渓谷の道。頂は高く谷は深い。大昔水が枯れた川底を歩いている。魚の臓腑に入ったように感じる。龍の腹なら余程良かっただろうに。乾いた水草は水の夢を待ち眠っている。岩々に染み付いた流水音が風を呼ぶ。深い谷間では空の音はしない。だから人はこの地の破れ目を行くとき空を想像する。谷を歩く人からは、空はうねり泳ぐ辰に見えた。懐かしい空。

 彼らは谷を抜けなくてはならない。

「頂の手も届かぬ高さよ。空は確かな青を届けるのに、二つの壁の上端ときたらあんなにか細い。遠近の感覚が効かなくなる」

「この足元の暗さよ。大気の遥か向こうを見るような突き抜けた闇。足はすくみ縺れ、前に出る意思を失いそう」

 彼らひとは小さな生き物。遥かな天辺、深く濃い谷は人の恐れに触れる。必死よりかは悪ふざけ、いたずらではなく見えない何か。走り逃げろ、影が増していく。空の色は歩を進めるほどに失われる。空と谷しか無い魚の腹の中で。

「ここから見える空を辰と呼ぶなら、対の谷は彼が落とす影だろう」

「それが恐ろしいのだ」

 鉄砲水、落盤、奇襲、白い骨。何が待つか知れぬから、ここはひっそり進みたい。そこを彼らが。彼らが走って渡るのだ。叫ぶ声が幾重にも響き、自分の声に自分で返事する。撹乱され、また敵の正体がわからなくなる。敵、見えない敵。見えないものを敵と呼んで良いものか?


「我々はどうして走っているんだい?」

 ふとスイが同じ問いを繰り返した。自問すると同時に尋ねている。岩壁に染み入る水の声だった。走り続けたわりには掠れも弾みもしないから、ただ駆ける足音を追い越し吹き抜け、シェミネの足を止めるに至った。リピアが行き過ぎてから戻って来る。とことこ。そして反響が止む。少しだけ残されたこだまもやがて止む。じき空の音だけになる。


2.谷の道

 水の声より少しだけ大きな音をたてて雲が流れていく。上空は風が強いのだろうか。みな空をみやる。

 鳥の一羽でも見えれば良いのに。いいや、このか細い空では。

 立ち止まって、気付けば走ってだいぶ奥まで来ていた。入った頃よりも日差しが弱い。谷の壁はじき陰の一色になる。ここは昼夜の谷と呼ばれる場所。あちらの広い入口から、狭いこちらの出口まで、昼から夜が巣食うのだ。右手に見えますは太陽、左手には星……。夜の夢が白昼夢に食われ、脳は霞むような現を頼りに歩く。谷に食われた通行人は昼夜の籠に閉じ込められ、夢には尽きぬ渓谷の惑わしに、明けも暮れもしないまま沈んでいくこととなる。

「谷を流れていた川は、沈殿物を蓄えながら魚たちを流していった」

「川が流れきった。今はここは魚の腹。川を食らった魚の腹には、これからも澱が溜まり続ける」

「でも私たちは、お腹に居着いちゃあいけないね」

 そう、呼吸を整え立ち止まる。恐れを誘ったのは谷の闇か光かよくよく確認することだ。それからで良い、慎重に、走り抜けたこの場所が何であるのかを考えろ。ここは渓谷の道。昼夜が人を惑わす。昼も夜も無しに考えなくてはいけない事があるはずだ。ひたすら逃げた先に待つ、戻れない一本道の中で。ここは昼夜を再び分かつための思考の干渉地帯。

「そうだ。谷は極力静かに抜けなくては。川底の沈殿物を掻き回さないように」

「そうだ。谷に惑わされないように」

「行こう。……じき谷を抜けられる」

 魚の腹をしずしずと歩く。鉄砲水、落盤、奇襲、白い骨。何が襲っても良いように、互いに寄り添い気を向けながら。彼らは小さな人たち。小さな声で話す。彼らは何かを確かめている。恐ろしい谷の中で。例えば、そう。

「我々はどこに向かっているんだい。ねえ……シェミネ!」

 問われるべき問いを確かめている。スイが今度は尋ねた。シェミネに。それは、そう、昼夜も無く繰り返した問いだった。名前を呼ばれて少女は呼吸を静かに飲み込んだ。一瞬だけ。懐かしい表情をしたなとスイは思う。会ったばかりの頃の表情だった。夢の住み人のような、戸惑いと遠い精神の。彼女は考えているのだ。道程のこと、求めたいこと。でもここで考えたのは一瞬だけ。昼夜の中で探し続けてきたからには。

 聞いてくれたの、とシェミネ。

「今、聞こえなかった」とスイが慌てれば、いたずらに微笑まれた。耳の良いリピアが、くつくつと笑い声を風に流した。


 誰がここを昼夜の谷と呼んだのだろう。ただ一本の道を行く者たちは、長い思索にふけりながらそれぞれの目的地を目指した。かつて通った人々と一緒の出入口。誰もが夜明けを夕暮れを見た場所で、彼らもまた谷の終わりを見た。

 見えない敵を探し当て、渓谷を抜ける。三人は、もうしばらく三人でいる。 


寄り道.龍たちの通る道

 谷を見下ろしたいとスイが言った。寄り道を提案するとは珍しい。シェミネが頷いた。息を切らしながら近くの山道を登った。見下ろせる場所まで来たときに雨が降り始めた。うっすらとした雨だ。スクリーンのように、辺りを一枚向こうの世界へと引き剥がす。その向こうに見た。

 魚が水を飲み、谷が潤う。いつぞや降った大雨、昔々の水の気配に、人の足跡も獣の気配もそれから澱みも浸されて、青い線が出来上がる。辰に見えた空から今は見下ろしている。その視点からは、さらさらと流れる水流はか細い蛇の、その寝息ほど。しかし見よ、谷からは見えなかったこの山道は、また天に昇る龍のようで……。

「まあ、低い位置にいると怖いよ。相手が大きく見えるもんだ」

 思い思いの姿勢で眺めていた少女二人が言葉の意味を考える前に、スイはもう歩き始めていた。雨が引き、谷を通り過ぎた現象も再び黄色い砂に吸われ、過ぎる龍が虹を作って行ったことに、誰か気付いただろうか。

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