海へ

1.あちらはどちら

「人が、流れている」

 ぼんやりと流れそうになった言葉を口にするやいなや、スイは駆けた。生した草のにじんだ匂いと共にただ川沿いを歩き続けた退屈が、飛沫に消える。飛び込む音だけ流されない。いきつくのは、どこか。


 それは暗い川だった。対岸は遠く、水底は深い。水面には時折跳ねるものもあるが、はたして魚だろうか。川辺の草花にさざめきも煌きも与えた水は寡黙。

 リピアさえ足音をひそめた。そうして歩いて幾日か。一行は対岸へ渡りたかった。しかし川向こう、季節の花が盛りの彼の地を前に、橋を探して川の流れと下るばかり。季節が終わってしまうとリピアが笑った。

 水面がもう一跳ね。静けさと、暑くなる午後の予感が広がる。その矢先のことだった。


 川は冷たくも速くもない。しかし拒むような温さで水中のスイを巻きこみ流す。いきなり飛び込んだのは軽率だったか。深みに引きずり込まれないように流れる人影を追う。水に浸かりながらスイは薄ら寒い感覚に捕らわれていた。泳ぐよりは浮く感覚に近く、水は透明だが自分の手足の輪郭がぼんやりとする。あの影に辿りついたところで、手を掴めるのか。そんな事を考えながらも手を伸ばしてみて、はたと気付いた。流れている人は助けを求めているわけではない、と。

 脱力した。退屈が足を引っ張る。水を呑んだ。


2.みずのこもるいのち

 水流。右に鉱石の残響を聴き、左に柔らかな雲が映っていくのを見た。轟音。水の玉が鳥の速さで飛んでいく。遥かな梢から見下ろす遠い景色が透明に霞んで、体がくるりと一度回って、耳が重くなった。圧がかかっている。水の中にいる。沈んでいく。浮かばない。ここに人は無く、みなみずのこもるいのち。


 誰が溶けた水だろう。声にならないまま彼は思った。そういえば水を呑み肺は詰まっていた。とぐろを巻きぶつかる水圧には手も足も出ない。抵抗できず水に転がされ。流れはスイを巻き上げ、包んで、逃がさない。引き込まれてしまった。いつしか轟音は自分の内から響くようになり、ひとの旋律を忘れた時、ローレライの唄を知った。音楽。波が高まり、落ちるように引いていった。その白……。


 白骨が絡みつき、臓腑に抱かれ、あの温い水を呑み、にわか離れていた意識が戻る。

「いる、確かに」

 見える。音の中に人の姿。人ではない人の姿。自分の姿によく似た。みなが流した過去、魚の骨のようなきみ、その感嘆するほど透明な瞳に、写る自分。

 たすけようか? そう尋ねた。どちらが。川は緩い流れに見合わぬ速さで時間を流す。一瞬から見る、過去の日から夢想の未来。ここに生きている、確かに、それは水のひと。過去とも先ともつかぬ水のひと。スイは追った。昔の影を追うようなあいまいな流れが手を引いて離さない。水が誘うまま深いほうへ。

 ほんのり汗ばむ時刻、水面下は少し温度を下げる。眠りにつく体のように。みなもの下に、抗えぬ眠り。午睡には寒すぎよう。すっかりふやけた手を伸ばしてみる。

「きみは、どこへ」

 走る水の流れに身をゆだねた水のひとは、一度、飛沫の人物を見た。


3.彼岸の岸辺

「スイが溺れた」

 何日続いたか分からぬ川の音が破られた。鮮やかな浄土、花に色付く向こう岸が笑い出す。ざわと風が走ったのか。はたと二人は顔を見合わせ、慌ててのどかな空気を風に飛ばした。

「飛び込んだの」

「どうして」

「どうかしていたんだね」

「あやうい」

 少女二人は川下に駆ける。足取りはどちらかと言えば軽やかで、祭り神輿を追う子供に似ていた。やんややんや、草と土の匂いを撒き散らして神の行列に加わる。川が旅人を連れて行く。長い平地を抜け、急流を越え、行き着くのは神の懐の闇なのか。

「川に落ちた猫を見る気分のような」

「川に流した木の実を追うような」

「そう、追わなければならない」

 二人は歌い跳ね転がりながら機会を窺った。本当に取り返しのつかなくなる一瞬を逃さぬよう慎重に。スイは猫だ木の実だと言われはするが子供ではない。流れるも浮くも自由だ。生きる術に裏打ちされた力は信頼を得ていることであるし。


 やがて流れが緩くなる場所に、金髪が水草と引っかかっていた。空はからからに青かった。時間を映さない空。水を払いもせず三人がみつめあう。とおい対岸は相変わらず並行に走っていて、夢を見ている気分になる。安堵の声も無い。ぽたりぽたり水が滴る。一滴、一滴また――ぱん! スイが一つ手をたたき、空が音を跳ね返す前に、少女二人が驚く前に、

「きみたちは、まったく、ひどいね」

空色の瞳を緩める。笑っている。恥ずかしいのかもしれない。それほどに冷え、濡れてしまっている。なんだかいっしょに微笑みながら、シェミネは、

「行き先が、同じなので」

心配などできやしないのだ、と言いずぶ濡れのスイを乾かしにかかる。


「行きたいのです。

 雨へ、流木のはかばへ、

 光とは別の次元、とおい彼岸。

 海は、どこですか」

 助けたのか助けられたのか、正直わからない。それは水のひとと呼ばれるもの。それは流れていた。抵抗を無くした猫のように、追う子のいない木の実のように。無口に求めるまま、ただ低い方に。執念に似る。ゆらゆら漂う輪郭に問えば、海を目指すのだと言う。水のひとの集落である「溜まり」を後にしてまで行くのか。海とはなにか。それは聞かなかった。まさに朽ちようとする水のひとが海へと流れる、それだけだ。


4.水の旅路

 水のひとの生はまことに静かである。生まれは魚の白い骨であり、水に入ったその他生物であるという。水の中に戻る事を許されたひとたち。その生活はさらに水へと戻るべくある。のぞむことなどなにもない。その静謐から抜け出す者は稀。どこへ行こうというのか。ここはどこか。きみはどこにいるのか。

「この先に、きっと」

 シェミネが川の行く方を指す。スイは半身を水に浸したまま、手を伸ばし、今にも失われそうな異種の旅人の手を握り、離した。音も無く、白い影はまた流れに取り込まれる。この深い川を見つめ傍らを歩き続けてきた数日。奇妙な川の白い影。錯覚の魚影。似た姿のちがうひと。異種のひとを想う。この川は地の果てに繋がる。海に繋がるのはどの川か。誰もが承知の事実を口にする怖ろしさ。しかしシェミネは知る。彼のひとが求める海はエメラルドの楽園ではないと。

「行き先が、同じなので」

 流れる人影を見、もう一度呟いた。

「還る場所も、行く場所も、決められてはいない。知っているだけ。あのひとは尽きるときに海を作るだろう。海を作ることを知っているから。何も無い地の果てを水平線に変えるだろう。そんな旅もある」

 がんばれ、とリピアが言った。渡り鳥の声をみなが刻んだ。さよなら、誰かが言った。

「私はきみたちのことが好きだよ」

「きっとだいじょうぶ」

 川はほどなくして浅くなる。交差して橋が架かっているのを確認し、三人は道の相談をする。

「渡るかい?」

「行きましょう。ひととき、蜜の香りに埋もれたい」

 では、と一行は橋を渡った。水のひとの影はもう無い。一行は川を渡りたかった。浄土のような対岸は通り道。その先とは。きみはどこへ。後行くスイが見守る。

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