透明な手

1.迷いの森から見た光

 古くから続いているその森は、土地に染み込んでいる。地にも空にも深く根を張っている。緑の染みは、住まう生物や生み落とされた子らに透り、より複雑な網となる。

 森が生んだ子が今日、呟きを置いて沼の深みから出て行った。沈み緑の歴史になる筈だった木の葉が、風に乗っていった。

「大樹の枝を渡りに行こう」


 旅人は森から抜けた。入る日は二人、出る日は三人。

 一人が、ほっとためていた息を吐いた。背の高い姿が心なしか萎む。今は焼けた大樹の膝元の森は、森の住人の案内無しには抜けられなかった。二人は迷い子だったのだ。いつから迷っていたのかと考えると、道を歩く気も無い少女について歩き出した日からではあるのだが。何を目指しているのだろう。少女の背中に問う。しかし答えは要らない。だから尋ねもしない。旅路を守るだけ、それが一貫した姿勢だった。少女がどこに向かおうとも、青年は背中を追いかける。

「シェミネは何に向かっている?」

 青年の胸の問いを、小さな銀髪がいとも簡単に放った。青年は驚きも困りもしない。聞いて当たり前の質問だ。

「軌跡を辿っているの。パンの欠片を拾って行く様に」

「私はどこに行きたいとも思わない。だからシェミネについて行くね」

「リピアは知らないだけよ。地図を開きましょう」

「地図はいらない。私は自分で地図を作るよ。ここは未知の世界だから。私は吹いた風に乗っただけさ。別な風が必要になれば、そちらに乗るよ」

 リピアには森の終わりが地平線だった。果てを自らの意思で広げていく。手探りの中で掴み取るのが誰かが書いた地図では味気無いのだろう。

 やり取りの終わりにスイは肩をすくめた。やっぱり、と。萎んだ背中が、それでも楽しそうに揺れている。


2.光の中の迷い道

「触れられるもの、触れられないもの」

 上の空に想いを馳せていたシェミネが、リピアに尋ねる。

「……赤い花畑の彼女、森の中の花園で今は独り。リピア、良かったの?」

 リピアは頷く。

「また帰るとだけ言って来た。約束だけに命を入れてきたよ。また会える。生きているならば」

「生きているならば」

 スイが繰り返した。

「きみを狙う兵士は、また森に来るだろう」

「彼らは何をするか分からない。だからといって同じ場所に居続けては消耗するだけだ。彼らの相手ばかりをしてはいられない。それから、彼女も大丈夫。彼女には怖い魔術師がついているから!」

 大袈裟に天に振られた手の周囲に、一瞬赤い花が散ったように見えた。それは見る者の幻影か、実際リピアが魔法で光を反射させる可愛い演出をしたのか。

「魔術師とは、リピアの仲間のかい」

「それが違うんだ。さあ驚け、その魔術師とはきみたちの同族だ」

「……何?」

 短いがはっきりと、スイが驚きを声に出した。無理も無い。魔術を操る街の人の話などは、遥か昔や伝説の話。

「存在するんだよ。環に戻った街の人が」

 異種の縄張りの森に入り込んだ時からだ。何かが変わった。それは交わされる言葉なのだろうか。魔法、森のひと、王都、兵士、花の守人、母さん、そして環に戻った同胞……。異種に出会う恐れは無い。だが危うい。呑気な旅路にかかった霞に、スイは進路を変えるべきか悩む。

「触れられるもの、触れられないもの。私たちはどっち?」

 スイの難しい顔を、シェミネが覗きこんだ。目を合わせれば彼女は微笑んでいる。避けられない流れも、種族間の塀の上を歩く旅路も怖くない。どこまでも行ける。

 靄の中の進路に、スイは表情を崩した。

「どっちだったかな」

 触れられるもの、触れられないもの。花の守人の存在に概念は崩れる。守人を存在とする事は出来るのか。自分は他に触れる手を本当に持つのか。

 身一つの旅路である。


3.霧散

 透明な手を伸ばした。幻影の赤い花は舞わないが、代わりに光が飛び散っていった。弾かれた光はやはり透明だから、自分が飛散したのかどうか悩んだ。ふ、ともう一つの手が伸びてきて光をかきまぜる。隣に座る少女が同じように空に手を伸ばしていた。雲が渦を巻いていく。

「スイ、これは真実」

「空が白い。虚実も無く綺麗だと思う」

 二人を真似てリピアも手をかざした。興味深げな視線を得ると、目を閉じる。飛散したものをかき集めるようにしながら小さな手を握る。目を開き、握った手を解くと、小さな水玉がそこにあった。

「魔法は場にあるものを掻き集めて初めて使える。無からは生めない。この水玉も、風の刃も木の槍も、赤い花も。……今はけっこう空気が湿っているね。雨、降りそう」

 白い空が湿気に霞んでいる。渦巻く雲が森の中のような暗さを落としていく。まだ緑の迷い路の上にいるのか。雨の霞はやがて旅人の周りに溢れていった。白がぽつぽつと増し埋めていく中で、何もかもはただ、透明だった。

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