赤い花びら

1.あの日の続きに

 夕暮れ時だっただろうか。紅に染まる家々。花が咲き乱れる時期だっただろうか。木々が花びらを散らしている。記憶に残るもの。それは赤。地平の果てよりやって来た紅の、終わらない夕暮れ。流れる川は空が垂れ込み赤黒く。熱で景色が溶けていく。そう、これは繰り返される夢だから、早く覚めてしまえ。全てを包む炎。


 さらり。紅い花びらが、少女の頬を撫でる。一瞬びくりと身を震わせ、赤い大地に身を埋めていた少女が目を覚ました。記憶に残り続ける色に囲まれて、呼吸も忘れるほどの混乱に染まる。強張る体を起こすと名前を呼ばれた。聞き慣れた優しい声が過去の残像を払拭し、現実へと引き戻した。

「どうかした?」

 空色の青年が、ぽつり、一面に広がる花の群に囲まれている。そうだ、ここは旅の途中で見つけた、もとい迷い込んだ森の中の開けた場所。赤い花畑。

「夢を……。どのくらい眠ってた?」

 はっきりとしてきた頭で今とさっきを結び付け、シェミネは答えた。青年が、一拍置いてから冗談交じりに言う。

「それほどでもなかった。猫が通って見えなくなる程度」

「猫?」

「鶏でも良い」

「あ、人」

「うむ、人でも良い」

 シェミネは森の一点を見つめたまま立ち上がる。それから直ぐにでも駆け出しそうな顔を青年に向けた。

「違うのスイ、綺麗な女の人よ」

「うむ……?」

 あいまいな返事をしてから、青年は少女の視線を追う。しかし彼の反応は遅すぎる。蒼天を抱える木々と赤い花の群れの他には、動く物は探せない。

「海のように広くて深くて青い森だ。魚が木々の間を泳いでいてもおかしくないな。しかし女の人となると、ちょっと話が違ってくる」

 樹間に顔を向けたまま、頭の中をよぎったのは森に住まう民の話。

「スイがそんな言い方をするとなると何かあるって事よね」

「よく解ってらっしゃる」

「一つの季節を一緒に越したわけだから、それなりに」

 そう言ってからシェミネは歩き出す。もちろん追うのは樹海に姿を消した人影である。そしてよっこらせと立ち上がったスイもまた、当然のように少女の後を追った。かさかさと音を立てて行く二人の足元で、花びらが火の粉のように舞う。


2.遠い花園

 花の香りは風に乗り、思ったよりも遠くまで流れていた。二人の足音も同様だったのだろうか。木陰に女性が佇んでいた。二人を迎える姿勢で。

 間もなく頂きに達する太陽は、迷ううちにすぐに沈んでしまう薄情者。迷った先で出会った人は何者だ。天に届く背丈の樹木。起伏の激しい地表。歩けども果てが無い広さの古い森。集落などあるものだろうか。重く湿った空気に、咲き始めた花の匂いが混じった。親密で厳格な舞台の上でその女性は、旅人たちに柔らかに微笑みかけた。言葉を発しはしなかったが、挨拶の声を受けた気がして「こんにちは」とシェミネが口を開く。さり気ない警戒を見せるスイの様子を気にしてか、不用意に近付きはしない。ただ、やはりことことと戸を叩き続ける好奇心は抑えきれない。彼女の声は少しだけ大きく、しんとした森の中でやけによく響いた。

「あの……道を外れたら森に迷い込んでしまったみたいで」

 続く言葉を探す少女と、耳を澄ませる女性の目が合った。しばし見つめ合った後、女性は口よりも雄弁な瞳を緩めて少し首を傾げ、それから森の奥に向かい歩き出した。

「付いて来い、ということかな」

「追いかけましょう。どのみち私たち迷っているんだから、奥へ行こうと戻ろうと同じだわ」

「わかった行こう」

 女性の歩調はゆっくりではあるが、歩き難い道にも関わらず一定の速さを保ち続ける。対して木の根や目の前の枝に引っ掛かり歩く二人の足取りは危なげだ。彼女は迷い込んでこんな場所に居る訳ではないらしいと考えつつ行くスイの足元を、何かが掬った。

「わぷっ」

 突然の事に対処出来ずよろける。あても無く投げ出された手をシェミネが掴むより早く、斜め前方の枝に頭をぶつけた。

「スイ! 大丈夫なの」

「大丈夫だよ。木の根に足を取られたかな」

「珍しいわね、何かある場所で転ぶなんて……」

 確かにその通りだと笑って頷くスイの様子を見て、女性がくすりと笑った。それに気付くと、スイは警戒を緩めて笑った。

「それにしても痛い」


3.響くのはきみの声

「森の妖精を知っている?」

 それが尚も前方を行く女性の声だと気付くのには時間を要した。見た目よりも幼く聞こえる声に、二人は戸惑う。返事を求めて振り返り、真直ぐ見つめる仕草で、その人の声だと判断する。

「妖精、ですか」

 妖精という言葉が指すものは、三種類考えられる。物語の中のもの、些細で不思議な現象、遥か昔に姿を消したいたずらな種族。何を指すのかと首をひねるスイの横で、シェミネは楽しげな声を上げた。名も知らぬ存在の呼吸が聞こえる。

「素敵な森だわ」

 嬉しげな表情を見せた女性は、満足そうに前を向くと、足取り軽やかに歩き出す。そして一瞬にして姿を消す。二人は顔を見合わせる。声も出ない。消えた? まさか妖精だったのだろうか。危うくお伽噺に結論を持って行きそうになるが、ぶんぶんと頭を振るシェミネ。同時にスイは女性がいた場所まで走り寄る。草を掻き分け行くと果たして、段差の下でひっくり返っている彼女がそこに居た。

「シェミネ、気をつけて降りておいで」

 先立ってスイが、彼の身長より少し高い段差の下に消えた。

「妖精……ではなかったわね」

 何かに期待していた少女は、残念そうに溜め息をついてから滑り降りようとした。そんな時である。

「触れてはだめだよ!」

 大きな声が木々の葉を振動させた。遠くで鹿の跳ねる音がした。


4.散る、散る、紅の

 突然上がった声は正に青天の霹靂。驚きぐらりとバランスを崩したシェミネは着地に失敗し、草と低木に顔を埋めた。顔を上げた先で、場違いなほど綺麗な白い影が揺れる。それから赤い花の香り。こんなところまで流れてくるのか。ぼんやり花の香りを気にしていると、ぐるりと勢い良く振り向いた白い影が顔を近付けてきた。何者だ。子供だ。銀髪に、同じく銀の大きな瞳を持つ子供。光に染め抜かれた雲の色に目が眩んだ。

「妖精のお通りだよ」

 突然の乱入者が跳ね回る。子供の声は、今し方聞いた女性のそれと全く同じで、シェミネを混乱させた。動かないでねと制されると、ぴたりと体が動かなくなった。木々が重なり深い陰となった窪地に降った、小玉の太陽。子供は女性の様子を見、助け起こしてやりながら状態を確認した。

「大丈夫そうだね」

 よく分からないがそれは良かったと言いかけたシェミネが声を上げる。

「スイ、その左腕はなに?」

 半ば叫びかけたのも無理はない。スイの左腕は固い氷に覆われ、小さな氷柱をぶら下げていたのだ。

「噛みつかれたようなものだな。この氷は、さて……うん、彼女に聞いてみるのがいいな」

 声は普段通り穏やかだが、表情が硬い。痛みを堪えて僅かに力が籠っている。スイが妖精に目をやる。女性を後ろに下げて、子供が二人との間に立つ。

「ごめん、氷は私の魔法のせいだ。力加減を間違えたんだ」

 魔法、と聞き返す。

「氷の魔法。つまり、その、彼女に触れられるとまずいんだ。きみたち、街の人だろ?」

 子供の話す内容は耳慣れない単語や意味を孕んでいる。妖精という言葉が再び過ぎる。どうも太陽が落ちて来たらしい。優先事項は何か。事態の収拾。そうだ。シェミネは呻くように言った。

「まずは彼の腕に噛みついた氷をどうにかしなくては」

 氷は周囲の空気を冷やしていく。寒さを感じた子供が、確かにまずいからなんとかすると引き受ける。

「火はすぐに起こせる?」

 木に寄り掛かるスイを横目で見てから、シェミネは鞄からマッチを取り出す。どうやって火をおこすの? と子供が聞くので一本擦って見せる。「いいね」と短く答えた子供は、シェミネを伴いスイに近付いた。

 子供と青年が向かい合う。もう一本マッチを擦らせて、腕に近付けてから、銀髪の子供は一点に意識を集中させ始めた。頼り無く燃えるマッチは、どんどん炭化していく。黒く、黒く。燃え尽きる直前、子供が火に息を吹きかけた。音を立てて揺らいだ炎は消える。静寂。

 見守る少女が不安を顔に出した直後、かっと眼前が橙に染まった。荒々しい炎の音に混じるのは知らぬ言語の呪文。渦巻く熱風は猛る龍となり周辺を取り囲む。口も開けぬその場に、青年と少女は息をつめて耐えた。確信と不安が風に揉まれ、そして消えた。

 終わりはあっけなく訪れた。熱風に包まれ音を無くした森も、次第にざわめきを取り戻す。長く細く息を吐き出したシェミネは、溶けた氷が水溜りを作ったのを見た。

「動かしてみて」

 子供が促す。くるくると腕を回し、手を握ろうとしたところで動きが止まる。

「痺れは暫く残る。でも大丈夫そうだね。女の子の方は。手に火傷してない?」

「冷やせば治るから、大丈夫よ」

 小声で呟いた少女の声は震えていた。そして良かったと言って座り込んだ。子供もほっとしたように息をつき、こう言った。

「リピア様の手にかかればこんなもんさ!」

 少し焦がした銀髪を気にして整える。


5.銀の色した太陽の

「きみたちはなに?」

 子供が面白そうに青年少女の周りを回る。妖精になにと聞かれてどう答えようか。シェミネはひとまず保存食として持ち歩いていたクッキーを渡した。「これはなに?」と子供が聞くので齧ってみせる。もう一枚を渡す。ほほうと難しい顔で顎を撫でてみせてから受け取り頬張る。すぐに美味しい! と手足をばたつかせてジェスチャーで感想を伝えられる。もう一枚とせがまれる。味わってから、サクサクしていてほんの少しだけ甘い。花の蜜が入っているのだろうかと興味を示す。いかがと女性に聞くと、首を振られた。

「彼女は食べないんだ。でも、美味しそうですねって。花畑の蜜も、きみたちはきっと好きなんだろうね」

「赤い花の?」

「うん。根元にちょっとだけ溜まっているんだよ」

 行こうかと子供が手を引くままに、再び赤い花畑へ。自分たちはなにに該当するだろうかと、スイが考え続けている。

 

 道中会話は無かったが、樹の間から光が差して子供の髪と瞳を光らせた時、スイはおもむろに口を開いた。

「銀色の髪と瞳。魔法を操るきみは『森のひと』なのかな」

 その口調は問うのではなく確認している。子供を見つめる。子供は青年を見上げ、後ろ歩きで観察する。女性にあぶないよと肩を叩かれて、くるりと前を向く。

「リピアさんと呼んでくれて構わない。ええと、きみは……スイ君」

「リピアさんは『森のひと』なんだね?」

「そうだよ、『街の人』」

 なにと聞きはするけれど、子供も旅人たちを表現する言葉を持っていた。姿は同じでも、成り立ちが違う。異なる種であることを知っているから、区別する言葉で呼び合う。

 森のひとは木々から発生し、種が落ちた場所に住まう。その土地にしか咲かない花があるように、住処でひっそりと生を楽しむ。森のあらゆる場所を散策し、変わらぬように守る。

 森を選んだひとの話は、お伽噺だとか、ふと生活が交わる点で語られるのみで、森のひとという呼称に出会わずに生活する者も多い。名と存在を忌避し、忌まずとも無闇に触れぬように口に出さない場面もある。呼び名を耳にしたシェミネは、改めて子供を見た。銀の髪が光を呼ぶ。子供が森を背に胸を張る。街に住む者にとって、『ひと』と呼ぶ者たちは畏敬の存在でもある。異なる理の中に生きる隣人は、神様や妖精に並ぶ幻想に包まれている。街に住む人々や動物たちと、大地の子等を分ける大きな境界がある。ひとは森や川、土や花と言葉を交わし、魔法を操る。

「元は同じだと言われているんだけれどもね……。つまり、我々や動物たちの遠い遠いご先祖様も、魔法を使えたと。街の人は魔法を失ったとされているけれども、どこまでが昔話なのかな?」

 元から魔法の力とは縁が無かったのではないか。また、魔法を手にするとなるとそれはもう街の人ではなくなるのではないか。次元の違いは埋められそうにないと、スイは言葉の端に表した。それに対してリピアは、昔をこの目で見たわけではないがと断りを入れてから答える。

「私達は確かにきみ達とは違うよ。同じ言語を用い、同じ姿を持つけれどね。森から生まれ、森に喰われて死ぬのが森のひと。生き方から終わり方まで、なにやらちょっとずつ違うんだ。それでも元々の根っこが同じと言えるだろうね。同じ木から、イチョウやカエデの葉が生えている感じかな」

「冬に葉を落とす事は変わらない?」

「そう。最後にはみんないっしょにね」

「常緑樹は?」

「世界の終わりにはみんな葉を落とすさ」

「世界が終わらなくても、木の寿命というものが」

「それもそう」

「ややこしくなってきた」

「正しい答えを知らないのだからこんなものだ」

 三人がそれぞれに口を開く。シェミネが一息ついてから「同じ木だったのね」としみじみ言うと、リピアがそういうことだと笑った。この世界に零れ落ちた理由を知りはしないが、言葉を交わして戯れることが出来る隣人として、同じであると受け取って貰えたことを喜んだ。

「他にも岩間のひと、月の民……沢山の枝が存在するんだ。会ったことはある?」

 無いとシェミネが答える。

「私も実際に会ったことはないんだ」

「交流は最低限だから、会う機会は少ないね。旅をしていると、彼らの領域に知らず踏み込んでしまう日もある」

 今日みたいに、とスイが森のひとをもう一度見た。それから触ってはいけないと言われる女性のことも。女性は相変わらずゆっくりと歩き続けており、先導する背中で長い髪が揺れている。ふと、リピアがきみたちはなに? と聞いた理由に行き着いた。互いは未知である。不透明な淵を覗きこんで尋ねなくてはいけない。どんな出自であろうとも。その種として生きる意味は知らないけれども、何かであると答えを出して、銀色の太陽は隣をぴょこぴょこと跳ね歩くのだろう。呼び合うには名前が必要で、そういえばとリピアが少女の方を向く。

「シェミネだっけ?」

 名乗り損ねていたことに気付いたシェミネは、よろしくねと右手を差し出す。彼女の笑顔につられてリピアは警戒も無く手を握り返し、ぶんぶんと振り回した。

「シェミネ、よろしく!」

 その後、見知らぬものたちの間に挟まったリピアの、満足そうな歌声が響いた。


6.愛しき隣人よ

 目指した赤い揺らめきが見えてくる。緑の中に現れる赤い土地は、天がこの森に降り立った痕跡か。近付くほどに花の香りもはっきりと感じられるようになる。迷い歩いた末に、雲のように冷たい香りに呼び寄せられて花畑に迷い込んだのだった。少女が花畑の美しさを称えると、前を行く女性が振り返る。そしてどこか照れたような、誇らしげな笑顔を見せた。

「ありがとう。花たちも喜んでいます」

 感謝の言葉を紡いだのは何故かリピアである。シェミネとスイの視線を受けて、言葉を付け足した。

「……と、彼女が言っているのさ。花畑の訪問者を歓迎しているよ」

 今度は顔を見合わせて、翻訳なのか、聞き取れない音域なのかと目で相談し始める二人の様子に、リピアが再び付け足して言うには。

「聞こえないでしょ、彼女の声」

 当然の事を言うような口調で返された。街の外に溢れる未知に向き合うために、そろそろ何か言わねばならない。

「すると、森の中で聞いた声もきみの声なのかい?」

「そうだよ、スイ。でも勘違いしないでね、言葉は彼女のものだから」

 うむ、と唸った後、スイが聞く。

「いたずら好きの妖精?」

「妖精ではないけどね」

 その会話を大人しく聞いていた女性が、隣を歩くリピアをこつりと小突いた。その仕草は、め、と子供をたしなめる母親に近い。ひょいと肩を竦めたリピアは素直に謝る。

「あの時スイを転ばせたのは私だよ。悪かった。彼女に連れられて森の奥まで入って来るから、気になったんだ。迷わせてやろうか、遊んでやろうかって」

 やれやれとスイが苦笑した。横でシェミネも笑う。

「見えないものは、確かに存在しているのね」


 花畑に戻って来た。迷い込んだ時には風に一つの声も上げなかった花たちが、今はざわざわと雑談をしている。リピアが花の群れにひらり飛び込んだ。後に続く三人も腰を降ろす。中天から日が下り始めていた。空を見たシェミネが、軽く昼食でもと食べ物を広げる。リピアが何の儀式かと聞く。森のひとに食事は不要だ。たまに木の実を齧る楽しみは知っていると言う。食べられない物は無いと言うから、クッキーや味気ない保存食など、手持ちの物を並べて見せる。森を彷徨う間にだいぶ減っていたけれど、豊かな森だから食い繋ぐには十分だ。

 花を分けてとリピアが女性に頼む。女性はどうぞと何輪かを摘み、ハンカチの上に並べた。口にしてみろということだろう。彼女は相変わらず見守るだけだが、いただきますと手を合わせるスイとシェミネに倣った。物の形や、行動の輪郭をなぞりながら食事を進める。蜜の香りが広がって、花々の声を聞く。身体が森に馴染んでいく。一方、街の食べ物を初めて食べたリピアの心は外に向き、「森の外も素敵だね」と夢見るように日差しを受けている。それから四人は花に埋もれて雲を数えた。太陽が降りてくるのを見守る。太陽が雲に目隠しされた一瞬、ふと声が途切れる。


7.物語はいつから始まったのだろう

「ちょっとごめんね、迷子になりたいらしい人がまた来ている」

 少しの間黙り、耳をそばだてていたリピアは眉根を寄せた。立ち上がる。

「やれやれしつこいったらない」

 止める間も無く走り出したリピアだが、直ぐに舞い戻る。そして女性の肩に手を置き、律義に説明を始めた。

「どこぞの兵士が来ているんだ。街からの。私達の力が羨ましいらしくてね。しつこい彼らを追い払いに行く。邪魔をしないでね」

 街からの来客は、最近は珍しくもないのだと言う。望まぬ来客が。金属の音を聞き分けて、猛獣の目を見せた子供にかける言葉を探せない。

「この人にはくれぐれも触れないで、消えちゃうから」

 スイとシェミネの顔を交互に見る。女性の肩から手を放し、また走り出した。背中を見ながらスイが苦い表情で呟く。

「どうも王都の兵士らしい」

 青い顔を見せたシェミネに、待っていてと静かな声をかけて立ち上がる。森に向かう背中が、気をつけてとの少女の言葉を受け取る。そして彼の言葉は、空と翻る外套が残さずさらって行った。少女の耳まで届いたかどうかは、分からない。


 昔々、魔法の力を欲した小国の王がいた。王は巧みな戦術と用兵で近隣の国を打ち負かし、少しずつ、確実に力をつけていった。国を大きく育てる王が目を付けたのは、街の人が持たない力。隣人たる他種族の魔術。放っておくにはあまりに強大で、更に惜しい。だから、そう、ここは一つ、協力を仰ごうと。保ってきた距離を詰めた先に血溜まりが出来た。触れず踏み込まずの距離を築くまでに、どれほどの時間がかかったのだろう。崩すために必要なのは野心の一歩。

 街の人は魔法を失いひとの『環』から外された。循環から外れて以来異なる思想を育てる街は、異物と見做され繋がりを断たれた。何故安寧と魔法を捨てたのか。向けられる視線は冷たかった。それまで同じ道にあった者に対しての線引きは時に無慈悲と言われたが、生命として決定的に分かたれてしまったことをそれぞれが理解しなくてはならない。環の中は遥かな故郷となり、今や故郷にいた頃の心も分からない。境界を跨いで触れ合えるというのに、戻る術は知られていない。

 戻れやしなくても、知識のやり取りは出来た。行商人は調合した薬草や食物を行き来させ、森の迷い人は歓迎を受ける。細く確かな生活の繋がりは、切れはしない。強かな生活に支えられてはいるが、小舟は少しの波で大きく揺れる。小国の王が投げ込んだ石は波紋を描いた。誰も知らぬ場所で見知らぬ者が水に投げ出されていても、平穏を保つ事は出来るけれど。個人の力では抗えない流れに呑まれていく者たちの声は、増える一方。

 昔々に小国を率いていた王様は、今は王都の城の高くにおわす。


8.流れるもの

「スイ!」

 駆ける子供の動きは軽く、小振りの獣にも見えた。やっと追い付いた青年が何事か喋ろうとする前に、リピアが牽制する。

「私は森を守る為に命を削る。相手と、自分の、ね。邪魔をするとさっきみたいに氷付けにする」

「協力する」

 途切れる息の中、先ずはと伝える。

「理由も無いのに!」

「放っておけない。兵士に加勢する理由も無い。きみに協力する」

「むちゃくちゃ、だ」

 盛大なリピアの笑い声と一緒に、何人かの男の声が聞こえた。近い。こちらにも気付かれている。

「そんなもんさ」

 呟いたスイは、ひとまず剣を抜かず、森の番人よろしく男たちの前に立つことにした。旅装を掻き寄せ申し訳程度に顔を覆う。横ではリピアがするりと木に登って姿を隠した。樹上で声を張り上げる。

「遣いの方々、用件は!」

 むせかえる緑が眩しい森に、目立つ枯れ草色の髪。兵士が引き寄せられてやって来る。軽装だが、腰に吊った大きな剣は、今にも飛び出しそうな番犬のようで。戦わずに帰るつもりの者など、この場には居合わせない。張り詰めた空気が漂う中、兵士の一人がお前、と声を上げた。半ば間が抜けた声だったので視線を集める。意識が散ったところに、森の妖精が返答を促す。

「用件は!」

 兵は森のひとを求めてここまでやって来るのだ。リピアは何度目のやり取りだったかと数えてみる。生かして帰したこともあったが、殺しても同じだった。

「交渉」

 一方的な交渉に、この森に住んでいた同胞はどれほど痛い思いをしただろう。狩りの間違いだろ、とぼやくのも忘れぬリピアは、さらに声を大きくして言う。隠れているのに位置を特定されてしまいそうだ。

「私たちは自然の力をきみ達の争いの為には使わない! 何度言わせるんだ。帰る?」

 また血が流されるのか。

 誰の呟きだったか。争いとはそんなものだ。高みを夢見て解き放たれた剣が、未知なる魔法の力への恐れと苛立ちを吸って輝きを放つ。目指す栄華の先に帰る場所はあるのか? 街の人として生きる理由は知らないが。兵らは血を求めているだけにも見えた。それならば素直だ。一斉に周囲に広がる輝きに、スイは一呼吸遅れて、短剣を構えた。先鋒の兵士を迎え撃ったのは、最も近い位置に立つスイではない。樹々が手を伸ばし、リピアの声に応えた。竹串に具材を刺すように貫く。断末魔は聞こえず、人が崩れる音のみが不気味にこだまする。舞う木の葉は地に付く前に刃となり、スイの眼前の一人も倒れる。見よ、これが魔法の力。子供の腕の一振りで武装した兵がやすやすと葬られた。


9.隔てるもの

 見えぬ場所からの攻撃は恐怖だ。魔法を初めて目の当たりにした新米が、見えない標的から狙いを変える。魔術師の足元で、乗り気でないため突っ立っている森の番人はすっかり囮になっている。金髪の番人は、手にかけたくないなあと躊躇するが、新米とて帰らせては貰えないだろう。目前に迫る危険として排する。短剣を突き刺すと苦悶の声が横に流れていった。引き抜かずに別の短剣を構える。横から飛び出した大男の相手をするためだ。それなりの強さを認められた者らしいが、乱れた刃に捉えられるスイではない。身を捻りかわして、大きな背中に蹴りを入れる。本来の力では倒すには至らないが、足跡は予約の刻印。樹の腕が、刻印目指して振るわれる。大きな兵士は前のめりに倒れた。露わになった首元に、スイが短剣を突き立てる。深く刺さった剣を抜かぬうちに、一度に二人が襲い来る。回収は諦めて、屈んだ体勢からころりと回避してみせた。兵らの連携は見事だが、型通りだ。呟き息を吐いたスイは、低い位置から左に肘打ち、もう片方に足払いをかけてやった。次の魔法はいつ放たれるのか、樹上を見たスイの一瞬の隙に、襲い来る影。ナイフを抜いて応戦の構えを取るも、少し遅れたので一撃を覚悟する。ところが振りかざされた剣はそのままだ。腹に響く怒鳴り声。

「お前、何をやっている!」

 スイはこれ幸いと低い姿勢から体当たり。言葉の意味を噛み砕いている場合ではない。剣の間合いの内側に潜り込むようにしてナイフを一振り。軽鎧に阻まれて傷を与えられない。逆に突き飛ばされて体勢を崩す。立て直す間に鈍い痛みを上腕に受けた。血だ。久しぶりに見た自分の血は鮮やかで。視界の端に広がる赤。赤い花が舞うようで、襲撃者はここに居る者で全てだろうかと残して来た二人を心配する。早く終わらせねば。狙われているのは彼らでは無く、あくまでも『森のひと』なのだが、取り逃がしてはならないと急く。目が眩み、もう一太刀腕にくらう。今度の傷は深め。しかし何故急所を狙わない? 敵意の薄さに僅かに気を留めたが、これ以上くらう訳にはいかない。ナイフを持ち替えた。迫り来る相手はやはり急所を外そうとしている。もう一度真直ぐぶつかって行けば仕留められそうだ。交錯する、その前に、横槍が入った。文字通りの樹の槍だ。リピアの魔法で、森の木々は再び凶刃と化した。対峙していた者が最後の一人。これで、全てか。

「スイ! まだだ」

 樹に貫かれ、倒れ込みながらも斬りかかって来た男に、脇腹を裂かれる。血に濡れた相手の顔を見て、ああ、と呟く。見知った顔じゃないか。死力を振り絞った男の勢いと体重を受け切れず、押し倒される形で地面に背中を付けた。


10.凪

 登る時の身軽さはどこへ行ったのか、リピアは木から転がり落ちて来た。倒れ込んだまま動かぬ青年に走り寄る。

「しっかり!」

 目は閉じられているが、肩が上下している。生きていると確認し、わずかに安堵の色を浮かべた。傷口から流れる血を布と草が吸っていく。なおも溢れる血は、どちらのものだろう。兵士が動かなくなったことを確認して、スイの頬を叩くとごそりと動いて微かな声で戦況を確認する。

「他には」

「兵士は……今日は多かったな。これで全部」

 下敷きになり抜け出せないスイを手伝ってやりながら、近くに薬になりそうな草は無いかと探す。見当たらない。焦りを溜め息で紛らわす。緑の大地を侵す赤は、勢いを増す。赤い水溜まりに、ただ二人。

「片付けるかい」

 一方が周囲を眺めながら、抑揚の無い声で聞く。起き上がってから軽く止血をする。子供は慣れない手付きではあったが手を貸した。

「構わない、森がやってくれる。それより手当てだね。花畑まで戻ろう」

 青年は立ち上がる。刺さったままの二振りの短剣を回収した。滴る血を近くの草で拭えば、化粧された大地は更にかおりたつ。目が眩んだのは気のせいだ。間をおいて、彼が答えた。

「痛い。でも、致命傷ではないよ。行こう」

 二人の後を追って、血の匂いは森の中に広がった。暫くすれば肉を好んで食する鳥獣がやって来るだろう。辺りの木々は、澄ました顔で指揮官を見送る。


 一層に輝く花畑は、ひっそりと静まり返っていた。そこに居る筈の二人はと言えば、淡い光が作る森の道の上。見ると彼女達は、立ち止まっては草を摘んでいる。草は無造作に麻袋に放られていった。そのうち一人が、唐突に振り返る。花の香りに被さる僅かな鉄のにおい。森を住家とする女性は、少しの変化も見逃さなかった。穏やかだった口元はいつしかきゅっと結ばれている。その表情は窺えないが、緊張を感じ取ったシェミネもまた遠くを見やる。

「薬草は……十分かしら」

 先刻から集め回っていた物を抱え直す。女性は小さく頷くと変わらぬ足取りで歩き出し、シェミネはそれに従う。


11.花の守人の見た夢は

 四人は合流し、今は風そよぐ赤い花畑の中だ。

 このような姿を見せるとは不覚とスイが嘆く前に、シェミネは手早く傷の手当てをした。薬草の類はシェミネが管理しており、消毒液、飲み薬から塗り薬まで小さな鞄に詰め込まれている。薬草の知識が豊富で、小さな症状ならば魔法のように解決する。森に詳しい者から賜った知識だ。これまでの道中、争い事は無かったが細かな怪我は付き纏う。スイも何度か彼女の世話を受けていたので、大人しく身を任せている。

「安静にしてくださいね」

 ゆっくりとシェミネが言って、患者はありがとうございますと深々頭を下げた。動作が脇腹の傷に障ったらしく、腹に手を当てて横になり、沈黙した。その横にリピアも倒れ込み、ああ、つかれたと寝息を立て始めた。


「どれくらい寝てた」

 スイは飛び起きようとしたところを「ゆっくり」とシェミネに押さえられた。

「それほどでもなかった。リピアの寝言を三回聞いて、アヒルとペンギンが空を横切るくらい」

 薬草を磨り潰していたらしい。花と草の匂いが目覚めに優しい。

「ああ、なんだか草の懐かしい香りが」

 起き上がって作業の続きを見ているうちにリピアも目を覚まし、同じ事を言った。日暮れが近付いている。

「安全な寝床を提供するから、一緒に来ない?」

 リピアの提案を、二人の迷い人は有り難く受けることにした。

「少し森の奥に入る事になる、構わない?」

「歩けるよ」

 それじゃあ、と言ってリピアが立ち上がる。ぱたぱたと服を払ってから歩き出した。慌てて追いかけるのは二人。のんびりと見送るのは、女性の優しい視線。遠く離れてから気付いて、彼女はどうするのかと先を行くリピアに尋ねる。リピアが方向を変えた。危うく背後のシェミネにぶつかりそうになる。よろけながら女性に向かい叫んだ。

「お花、もう一輪貰って行ってもいいかなあ? かあさんに持って行くよ」

 頷くように揺れる花に囲まれて、女性が笑ったように見えた。礼を言ってから、足元の赤い花を摘む。朝露のようにみずみずしく、零れる生命の色。リピアは両手で包んで、寝床に向かい歩く。

「彼女は……」

 花の香りを楽しんでいたリピアが顔を上げる。花びらを撫でる。

「彼女は、今は花の守人。花畑が彼女の家。家の周りからは、ほとんど動かない」

「彼女はどこから来たの」

「始まりから花畑にいたよ」

 いたずらっぽい笑みをスイに向けて、花を丁寧に腰のポシェットに入れた。花は姿を隠してもほんのりと薫る。記憶の中に染み込む香りだ。

「触れるな、と言ったよね。それは何故だい」

「彼女はひとの形をしている。でもそれは見た目だけなんだ」

「解らない」

「そう、解らない。認識出来ていない人が触れると、現実と物の間に誤差が生じる」

 その意味に、二人の迷い人は考え込んでしまう。

「彼女はね。昔の誰かさんの願いと、彼女の夢で出来ているんだよ」

「現実、願い、夢……。お伽噺や魔法のようで、しかし彼女は本を閉じても消えはしない」

 そのとおり、とリピアが頭の上で丸を作った。妖精のサークルを幾つも潜り、自分とは何かを問い直す度に、存在が曖昧になる。いいや、異種の領域に踏み込んだと知らされる。異なる理の中で頭をまっさらにして問う。

「彼女とはなに」

「そうだね、昔々に私が見た答えを言おう。街の子たちは信じるかい」

 問答の果てに正体が明かされる。

「彼女は花だ。枯れる事を忘れた、ね」

 笑いは出来ない。現実として二人は呑み込む。触れられなくとも、在るのだから。

「世界は広いが、彼女に限って言えば、広いだけが世界だろうか。植物は根を張った地にあり続けるものだ。彼女が意味を見出すものがあるならば、それは世界ではなく命にある。彼女の目に映る私の姿を知ること出来ない。映るのはただ一人で、時に盲目とも揶揄される……さて、目的地だ。お疲れさま」

 唐突に話題を転換したリピアが指す先で樹木が背を反らしている。続きを促す前に、開けた空間に目を奪われる。暮れ色がおとぎの森を染めていく。吹き渡る風も薄桃色かと思いきや、そぐわぬ重い匂い。空気の変化に身を硬くしたシェミネ。円形に近い空間に導かれる。舞台中央には逆光で陰を纏う巨人の玉座。リピアが選ぶにしてはシルエットが禍々しい。胸の重さが増していく。この匂いは、木を焼いた匂いだ。風雨と時間で薄れてはいるものの、土地にはまだ染みついている。近付くと玉座は森の主そのものであると知る。胴周りからして立派な大樹だったに違いない。淡い光に照らされた木は陰を纏うのではない。上部が焼け焦げていた。広場の柱や椅子は切り株で、空間はそのまま火災の範囲を示しているのだろう。躓かないようにとリピアに声をかけられる。森の主に近付くとそれでも見上げるほどの高さだ。焼失から時間は経っているようだが、新たに伸びる枝は見られない。木が疲れきっているとでも言えようか。近付くと下部にも焼けが見られる。組織が欠損した個所は痛々しく、内部壁にもところどころ炭化部分がある。洞は焼けて出来たものか、元からあるものか、一目では判断できない。根元の草が無邪気に手を伸ばしている。

「ただいま、かあさん」

 幹に手を触れ、リピアは語りかけた。


12.赤の焦点

 かあさんと呼んだ大樹の根本に、小さな太陽が戻る。暫くの間幹に頬を寄せ、リピアは何事かを報告しているように見えた。そこには親密な会話があり、繋がりがあった。木の様子を観察しながらシェミネは鳶色の瞳を細める。

 赤い花が根元に置かれた。映える色だ。こうして見ると、全ての風景がこの花の為に在るように見える。焦点は赤にあり、何もかもがゆっくりと吸い込まれていく。

「かあさん、今日も森は元気だよ」

 リピアは木を背にして客人を見上げ、改めて自分と一族について語る。

「森は呼吸し、吐息は人の形となった」

 しんとした生の中に生み出された動、『森のひと』。

「私たちはそれぞれの母から生まれる。この木が私を生んだ。木の温もりは私の肌の温もりなんだ」

「木を母と呼ぶ?」

「木が母である」

 森のひとは母木と共に生きる。母木より智を授かり、動物と駆け、草木から道徳を学ぶ。木から雫が落ちるように、森のひとはほろりと発生して大地に立つ。森を庭に遊び、森の維持に力を発揮する。ひとの姿を持った花。ひとの姿を望んだ木。それぞれが長い記憶の中でふと、ひとを恋しく思うときがあるのだという。老木が夢見る。若木が旅人に手を差し伸べる。

「私は木である。ひとでもある。握手もできる」

 花の彼女よりは、きみたちに近い生命なのさ。隣人の手を取る。異種ではあるが、ひとである。恐れることはないぞと。お互いに。シェミネが握り返す。三人は根に腰を下ろす。森の円形劇場の中央。声がよく響きそうだが、動物を観客として呼ぶつもりはない。この場所はまだ眠らせておくべきだ。

「これほど広く深い森。名のある木はまだありそうだが……」

「森のひとは他にも住んでいたけれど、一部は街に運ばれてしまったよ。その他は土に。一時期よりもやかましく兵士が来ないところを見ると、今は私一人が残るだけだろう」

「先刻の兵士たち、狙いはリピア一人か?」

「彼らが把握しているのは私一人であるにしても、森がまだ私たちを隠していると思っているんじゃないかな。たまに違う道に逸れていく隊があるんだよ。彼らに森の全土を焼く力はないけれど、無駄に火を点けられたらいやだなあ」

「リピアのかあさんは、つまり」

「街の人に焼かれたよ。きみたちはずいぶん大きな炎を持つようになったんだね。私の母木は森一番の古木だった。真っ先に朽ちる命ではあったかもしれないね」

 同胞が気掛かりだとリピアが声を落とした。森のひとの生は、母たる木に喰われる事により終わる。それは死と呼ぶものではないという。単純な終わりなのだ。転生の教えは無く、母胎への帰還を果たす。事情により「死」を迎える場合もあるが、彼らの生命に関わる事故などごく少数だ。身体の損傷により尽きた場合は体を遺すことになる。回帰を終着点とする森のひとにとって好ましい事では無い。彼らが必要以上に静かに慎重に日々を生きるのも、木に返す身を思ってのこと。

 身を返還する先、それぞれの母木を失った森のひとは、ではどうなるか。返還先を失い、身体が自然に朽ちることもない森のひとは、身体を絶つ他に生を手放す術が無い。森のひとの性質を知った王都は、木を切り、焼いて森のひとを炙り出す。

「リピアも、生命を返す術を失った」

「うん、渡り鳥になってしまった」

 母木を失いさ迷う者を彼らは『渡り鳥』と呼ぶ。永遠の時間を、あても無く季節と渡る。

「人が鳥になる瞬間って、どんなものだろうね?」

 リピアは問を投げ掛けるが、答は誰にも分かりやしないのだ。問を発した本人でさえも。

「さあて、殺風景で驚いたかもしれないけれど」

 リピアは手を打った。自分の話はおしまいだと。

「ここには獣も来ないんだ。休めそうかな」

「ありがとう」


13.月の焦点

 その晩、シェミネはふと目を覚ました。焼かれた木を見上げる。ぽっかりと空いた天窓から月が見え、月明かりの下にリピアがいた。短く切られた枝の上で、足がぶらぶら揺れている。ぼんやり目をやっていると、リピアが振り向いた。目を丸く開いてからにっと笑う。隣においでよと手で示す。

 よじ登ってみると、闇も手伝ってか、かなりの高さに感じられた。宙に投げ出した足を動かせば地面の無い空間を歩くようで。

「どこまで行けるかしら」

「ここまでだよ。落ちないでね」

「どこまでが体なのか分からなくなりそうね」

「森も土も雲も、夜は皆同じものになってしまうね。シェミネも私も」

「鳥も」

 どこまで行けただろう。リピアは在りし日の木を暗闇に描く。鳥の視点を借りて、かつて登った天辺まで行く。森の果ては見えない。高所から見下ろすと、木々の頭が絶えず刻む詩が聞こえてくる。空には木々が編んだ黙示の層がある。街からの客人に森の歌を聞かせたくなって目を向ける。シェミネは月の向こうの透明な闇を見ていた。ふむんと頷き、視線を戻して今日は星が少ないなどと考える。

「月の口は大きく、何もかもを呑み込む。光の梯子は、呑まれる言葉が放つ最後の意味だ」

「シェミネ、それは何?」

 文字を辿るかのような口調にリピアは尋ねたが、それも月の口が咥えていった。全てが吸い込まれる。焦点だ。

「森のうたが聞こえる?」

 沈黙の重さ軽さをお手玉していたリピアが尋ねる。

「それはなに?」

 今度はシェミネが聞き返したので、リピアは幾千の詩から一節を引き出して、森の言葉で歌ってみせた。「懐かしいような旋律だわ」と言ったシェミネが、似た音を途切れ途切れに紡いでみせると、リピアは喜んだ。

「きみは、森の親戚?」

 シェミネは首を振りかけたが、「親しいひとが、もしかしたら魔法使いだったかもしれない」と呟いた。

「飛んでみない?」

 リピアは咄嗟にシェミネの服を掴む。存外やんちゃで飛び降りるのかと思ったのだが、違うようだ。動く様子も無い。

「どこまで行けるかしら」

「そうか、鳥か」

 一つの場所に留まらぬ渡り鳥、方角を失った迷鳥に言葉をかけられているのだと気付く。

「森はずいぶん静かになってしまったけれど、いずれ慣れると思っていたんだ」

「いずれ」

「いずれ」

「時間の感覚が違うからかしら、妙な誤差があるわね」

「……ありがとう、シェミネ。実を言うと今の暮らしには風が無い。羽が腐り落ちそうだ」

「リピアの森はまだ燃えているの」

「火消しの風を呼びに行くことにするよ」

 遠い残照が消えない。森の果てが赤く染まっている。落ちない陽が一筋の道を作っている。待てども暮れない夕刻に惑わされてはいけない。虚像に向かって歩くと落ちる。大樹の膝に置かれた赤い花も、月に色を食われてしまった。今は夜。草木も眠る時刻なのだから、行く先は朝になってから確かめるとしよう。

「落ちないでね」

「シェミネもね」

 肩を寄せて小さく笑い、お休みと挨拶を交わす。


14.それでも若芽は空に伸び

「うん、よし、私も一緒に行きます。ごはんおいしい」

 リピアが朝ご飯にと渡された保存食を頬張りながら宣言をした。呆気にとられているのはスイである。もぐもぐと口を動かしながら、瞬きはせずリピアを凝視する。飲み込むのにいくらか時間を取られる。彼は昨日の傷も気に留めず、いつもと変わらぬ時間に起き出していた。何も無かったかの様な振る舞いで朝食の席に着いたのだが、リピアの意外な一言のせいだろうか、喋ろうとしたその時、「うぐっ」と呻いて傷口を押さえた。隣のシェミネが薬草を差し出す。

「大丈夫、だけど、一体どこまで行こうって言うんだい、リピア」

「渡り鳥はどこに居ようと渡り鳥なんだよ」

「渡りの季節は見ないのか?」

「良い風が吹いているよ」

「風向きが変わるかもしれない」

「スイ、私はきみたちのことが好きだよ」

「俺が裏切らないだなんて保証は無いよ、どこにもね。街に出たら売り飛ばす」

「そりゃ王都の兵士より残酷だ」

「そうだよ」

「……ふ、はははは」

「これ、笑うでないよリピア」

 やれやれとスイも苦笑する。横で笑いを堪えるシェミネが何も言わないので、一枚噛んでいるなと察する。リピアはもうひと押し。

「きみたち、森で迷っているんだろ。案内無しに出られるのかい」

 シェミネはスイを見て、出られない、まことに困った、という顔をする。森もいいけれど、いつか街の布団が恋しくなるわよと聞こえてくる。気のせいだ。するとリピアは布団というものはさぞ良いものなのだろうなというそぶりで遠くを見る。気のせいだ! スイは頷かない。返事を渋っていると、やっとシェミネが口を開いた。

「父さん、どうでしょう?」

「父さん、街に連れてって」

 真面目な顔の二人を制してお父さんがゆっくりと笑う。

「まず俺はきみたちみたいな大きい子供を持つ年齢じゃない」

「父さん!」

「分かっているよ、川の流れに委ねよう、風の行く道も遮らない。一緒に行こう、リピア」

 時には逆らう気力も必要だが、流れる方が自然で楽なのだ。なるようになるさ、スイは思う。川は支流を受け入れながら、主流に交じりながら、旅路を行く。どの判断が自分の意思だったのかも分からず、目指す先も無いままに行くのだろうか。確かな過去でさえも注ぐ流れに薄められていく。なるようになるさと繰り返して、食事の残りを腹に収めた。

「改めてよろしく」

 リピアの銀髪が風に流され、川面の一瞬の煌めきを再現する。青年と少女は眩しく見つめる。よろしくと握手をする。挨拶を交わした朝を、焼けた大樹が記憶する。根元で赤い花が別れを告げる。伸びる若芽が記憶の炎に焼かれないように、炎を内に収めて燃える。 森の中の赤い花、夜の月。何もかもを呑み込む焦点。光点が灯台となり、森を離れる舟を見送る。三人の旅路はここから宛てなく延びていく。

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