四季を咲かす大樹の章

 森へと誘う道標

1.いざなう

「スイ」

「はい?」

 少女の突然の呼び掛けに、遥か後方を歩いていた青年は間の抜けた返事をした。振り返り立ち止まった少女は、誰もいない森に声を響かせて一言。

「ここはどこ?」


 出会ってから数日、二人はただ歩き続けた。気ままな少女はいつしか街道を外れ、獣道を歩き、今は森の道無き道を歩いていた。軽い散歩のような気分なのかもしれないし、確かにそれは二人の目的でもあった。

「少し休もうか」

 さして疲れた様子も見せない青年は、返事を待たずに土の上に腰を下ろした。湿った土は程よく体を冷やす。声を聞いた少女が、木々の間を縫いながら戻って来る。木漏れ日に隠れ、木の肌を撫で、木の葉の色を映し、獣の足音のリズムで、森の音の一つとなって上手く歩く。スイは、ぼんやりとした頭で空を仰いだ。

 ひどく遠い空だと思った。重なる葉脈の間を器用にすり抜けてここまで届いた日の光も、力無く見える。過去の現実、見えない明日、そして今居る場所……。目を閉じる。風になびき千の色をばらまく木の葉のように巡る思考をなだめた。間も無く、間近でかさかさという小さな音を聞いたスイは、今は旅の仲間となった少女がそばに戻って来た事を知らされた。音は座り込んだ青年の後ろを通り、それから少し離れて横に落ち着く。

 目を開いたスイは、隣の少女がまるで見知らぬ顔の妖精や森の獣でない事を確認した。樹間を行く鳥に目を向けている少女の横顔は、午後の白色の日差しと慣れない道のおかげでうっすら赤い。


2.ことのは

「疲れてないかい」

 静かな声は野宿を重ねた新米の旅人にかけられた。その声は、鳥の羽ばたきも風の通り道も乱しはしない。一拍の後に「大丈夫」と短く返った答えの後には、沈黙が続いた。少女は続く言葉を探したが、結局見付からず、口を閉じた。無数の葉の囁きの中、二人は言葉を探す。話さなくてもいい気がした。川に映った影に話しかけなくてもいいように。木の洞から覗く目に挨拶を引っこめるように。しかしスイは口を開いた。

「ここは迷い込んだ森の中さ」

 何気なく掴んだ物を言葉にしてみた。それは質問に対する答えだったが、問いはずいぶん前に忘れ去られてしまったのではなかったか。思わぬタイミングで返った木霊に、シェミネは聞き返す事になる。

 言葉を探す間止まっていた時計が動き出す。沈黙をふり払うようにゆっくりと、和やかにくずれるスイの表情。

「聞いただろ、さっき。ここは何処かってね」

 なるほどと大きくはきだされた少女の息が、空に昇って雲になる程の間を置いてから「そう言えばそうね」と声が追う。微かな笑いを含んだ声だった。出会ってからこちら、大きく変わることが無かった少女の顔が僅かに綻ぶのを見たスイは、これは人の子との旅路なのだと安堵する。迷ってはいられない。行く先を知りはしないけれども。

「庭から続く道を知りはしない。この森の名前を知る人はいるのかしら」

「いたら、会ってみるべきだ」

「そうね。その人は正しく森を抜ける道も知っているかしら」

「そう、とは限らない」

「ここはどこ」

「どこへでも行けるよ」

 ひそひそと笑う声が徐々に重なるようになり、木々もほっとした様子を見せる。都合良く真直ぐ射した太陽は、辺りに鮮やかな朱を塗りたくって行った。夕暮れである。


3.それは深刻、切実な

「ところで」と切り出したスイの表情は、真剣そのものだった。真直ぐに目の前の少女を見つめ、ためらい少し間を空ける。暮れかけの世界の光を浴びた金髪が眩しい。

「なにか」

 素っ気なく答えたシェミネだが、「食料が底を尽きました」という言葉を聞いて動揺を見せた。まあ、と無意識の内に呟いた声が空しく響く。

「明日街に出られるかしら」

 深い森の中で、小さな声は何処へも行き着けず。

「飛んで出た兎が切り株に頭をぶつけて食料に……なんて話は転がっていないわよね」

「頬づえついて、待ってみようか」

「いいえ、いいえ。兎がいるかさえわからないものね」

 そうして二人で静かに笑いあう。ため息と遣る瀬無さを隅に追いやる。

「食料調達に行こうか。日が暮れたら動けなくなる」

 かくして二人は食料を探しに出たのだが、兎に巡り会えたのは一晩を空腹で過ごした後のことである。


4.兎が隠れた月夜に

 昇る湯気が、白く輝く月を包んだ。月はほくほくと幸せそうに光を放ち、旅人に降り注ぐ。

「でも月光は食べられない」

 使い込まれた小さな鍋の中では、木の実や草、それから上手い具合に映りこんだ月が、ふつふつと音をたてていた。

「煮込んだ月のスープ」

 鍋の中で健気に輝く月を見て、二人は思い思いの感想を述べた。

「月の魔力が溶けているわ」

「明日になれば魔法を理解出来るようになるのだろう」

「今度は兎も逃がさないわね」

 魔法は確かに存在するが、生活の中で遭遇する機会はほとんど無い。遥か昔、少女らの祖先は魔法を操る術を失った。それまでは大気から水を取り出し、草木から刃を受け取り、自然を体の内に循環させて暮らしていたが、今は単なる隣人であった。

 持たない力に明日のご飯を託すことは出来ない。彼らはそれ以上魔法についての幻想を追うことはなかった。代わりに準備不足を反省する。器の底から、月は既に抜け出した。空きっ腹が空虚を膨らませる。器を軽く払う。焚き木を放り込む。シェミネがぽつりと口を開いた。

「昔々、魔法の力を欲した王さまがおりました」

 スイがはたと顔を上げる。青い瞳が燃え上がった炎に遮られる。結んだ口から、言葉が出かかる。しかし、声にはしない。シェミネは焚き火を見つめたままだ。魔法の力を欲した王がおり、魔法と共にある種属を力として手の内に置いた。あるいは脅威として集落を焼き払い、隣人や隠れ住む同族を殺める。王は子供たちが産まれる前に火種を各地に撒いた。街や森は戦火を抱えている。

 シェミネが顔を上げる。語りを続ける気配は無い。言葉として紡げない物語がある。二人は焚き火を挟んで遠い岸に立つ。

「器を洗って来ましょう」

「あ、俺も行く」

「ではご一緒に」

 月明かりは全てを照らすような事はしない。いつかは陽光にさらされようと、今はまだ、温かく低い場所を漂う夜闇が支配する時間なのだ。


5.夜明け前の霞

 少女の朝は早い。日の出の少し前には目を覚まし、巡って来た新しい日に体を慣れさせるのだ。ただ、その日はいつものようにはいかなかった。寝ぼけた頭で周囲を見回す。旅の連れがいない。

 夜明けに眠る動物は寝床に戻る時間だ。これから起き出す動物は身体を伸ばして支度をしている頃だ。森は緩慢に昼夜を入れ替える。夜から朝への乗り換えの便に遅れると、暁の時間に取り残される。夜明け前の霞がどこまでも続くようになる。生物の無い森をさまようことになる。

 ぼんやり霞み掛かる頭と現実が一つの器に流し込まれる前に、少女は立ちあがった。悪い夢でも見ているのだろうか。ならば一歩きして来ようか。少女はすたすたと森に分け入る。


6.モノトーンの森

 大きな荷物は置いて来た。持ち物は腰のポシェットのみで身は軽い。そのためか独り森を行く心許無さからか、シェミネの歩みは早かった。日の出前。色彩ではなく陰影に支配された森を行く。背の低い木や段差に引っ掛かりながら歩く。音は森の目覚めを促すように響いた。響いて、どこかに消えていった。吸い込まれて、きっと彼らは霞の向こうに行ったのだ。今日はいつまで経っても夜が明けない。落ち葉を踏んだ。虫の一匹も、道を尋ねに来やしない。朝が来る方角を知らないのは私だけなのだろう。迷い子に道を尋ねる者はいない。導く者もいない。少女は重い息をつく。スクリーンが不吉な黒煙を映し出す。暁から朝に辿り着けない。勢い付く炎、止まらぬ赤い川。記憶へと帰り着いてしまった。そちらには行きたくない。炎に背を向けて、また霞の中に踏み込む。木が焼けるにおいと、熱風が漂っていたはずだった。しかしここにはなにもない。いっそ寒いくらいの冷気が足元を通る。たたずむ青磁の木々は、梢が見えないほどに背が高い。彼らは領域に踏み入る何者をも歓迎しない。少女は存在をモノトーンの中に押し込められる。抜け出せなくなってしまった。それは一人だからか。いいや、一人でも抜け出せるはずだ。

 青磁の森から、手を引かれて抜け出した。一度辿った道だから、覚えているはず。どちらに向かえば良かったか。手を引いてくれた人の背中を思い出す。兄と慕った人だった。彼はいなくなってしまったけれど、私はここにいて、ここは記憶の森ではない。


 幾度目かの空気を震わす音が、意識を現在に引っ張り上げた。周囲はかなりはっきりと見える明るさになっている。自分の居場所を確かめたシェミネは、野営地からそう遠く離れていないことに気が付く。戻らなくてはならない。ぼんやりとしてしまった。立ち止まってはいられないのだと、気持ちを奮い起こす。周囲の音が耳に入るようになり、川の流れる微かな音も聞き取る。野営地は川の付近にとっていた。散々歩き回り、元の地点まで戻ったらしい。魚が跳ねた。森の生物が起き出した。朝に戻って来た。乗り遅れてはいなかったようだ。太陽が気遣わしげに顔を出して、畳まれた毛布と二人分の旅具を照らした。旅の連れはまだ戻っていない。いなくなってしまったのだろうか。いいや、荷物がある。食料を探しにもう一度出掛けようか。ゆったりとした足取りで、歩き出す。


7.ひとまずの夜明け、そして今日も

 ぱしゃり、冷たい水が跳ねた。清らかな川の流れは雫を包容し、もとある姿と時の流れに戻してやった。少女は水面に映る自分の顔にもう一度手を伸ばし、すくい上げ、顔を洗う。不意に、無防備な背を晒す森の茂みが大きく揺れた。驚き咄嗟に振り向く。大きく開かれた瞳が映したのは、探していた人物である。血が煮えるほどに激しく鳴る心臓を押さえ付けてはき出した息に、その人の名が交じる。

「……スイ」

「シェミネ」

 彼もまた探し人の名を呼ぶ。水が煌めく。少しの間を置いて、彼はもう一度口を開いた。

「シェミネ、少し心配したよ。荷物は置いてあったから……近くにいるとは分かっていたのだけれども」

「ごめんなさい、少し森を歩いていたの」

 歩く間に拾い集めた食材を指す。決まり悪そうに彷徨った視線が、スイの手元で止まる。

「その袋は?」

 麻袋はごろりと重く膨れていた。ひょいと目の高さに上げたスイは、こちらも遅くなって悪かったと律義に謝ってから、「朝御飯にしよう」といつもの笑顔で微笑んだ。絶妙なタイミングでころころと鳴った腹の音は、せせらぎが消してくれた。


「兎」

 本当に狩って来るとは思わなかったと感心する少女の横で、スイはぽんと両手の平を合わせた。血抜きは既に済んでおり、切り分けるだけだ。獲物の皮を剥ぐ為に刃を当てる。と、シェミネがそれを止めた。

「私がやりましょう」

 スイは一瞬反応を遅らせたが「お願いしようかな」とナイフを渡した。

 白い煙がたちのぼる。ゆるり、ゆるりと、日常の一端を気侭にただよっていた。始まりを告げる鳥が心地良さげに羽を伸ばし、お早う、お早う、森の木々に挨拶をして回る。にぎわいを取り戻した森の中、道無き道を行く旅人は、しばしの平穏に身を任す。森を行く風は、今日も新しくも懐かしい時間を送り出す。

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