カウント1

 さぁ、さぁ

 皆さん

 そんなわけで、いよいよ審議が始まったわけです


「谷口祐樹君」

 委員長からの指名を受けて、法案の概要を読みあげる。

 自分に初めて任された大役。病気で欠席中の川口さんの代役ではあるが。まさか自分に出番が回ってくるとは思わなかった。きっと、準備段階から法案に関わってきたことが大きかったのだろう。こうして与党内での支持を取りつけ、法案として国会に提出されて審議に入ることについては非常に感慨深いものがある。

 おそらく審議は難航することになるだろう。世論調査では、法案への賛成と反対が拮抗している情勢だ。そんなこともあってか、野党は徹底抗戦の姿勢をみせている。与党内で未だに異論が出ている状況でもあり、委員会は紛糾するに違いない。

「お疲れ様。ここからが大変そうだね」

 一回目の委員会が終わって、栗山さんが私に声を掛けてきた。

「ええ。これからが山場です。気を引き締めていかないといけません」

 二人で向かった議員食堂。奥の方の席を確保して、やってきたウェイターに食事を頼む。

「しかし、委員会が立ち上がったのはいいけど。余命宣告の法案、今期中の成立は難しいんじゃない?」

「簡単ではないでしょうね」

「そうだよね。谷口さんが法制化の為に頑張っているのは、わかっているけどさ。そもそもこの法案って、川口さんが強行したから、こうして国会提出できたわけじゃない。党内にだって、まだ異論が残っている状況でしょ。私だって、党の指示だから、議決の時は賛成に回るけどさ。この法案に素直に賛成かと聞かれると、そういうわけではないもん」

 私だって認識している。

 誰しもが、すんなりと受け入れられる類のモノではないことは。

 だけど、最終的に法案に賛同して貰う為、様々な立場の人と粘り強く話し合いを続けていくしかない。

 今日の夕方には、村山さんを交えて五年化法案の今後の進め方について議論することになっている。党内外に影響力のある人だから、法案への積極的な支持をお願いしているけど。村山さんは未だに慎重な姿勢を崩していない。彼自身、色々と思うところがあるのだろう。二人きりになったとき、彼の真意を訊ねてみなければならない。


 その日。家に帰り着いたのは、深夜の二時過ぎだった。だけど、不思議と疲れはない。

 しんと静かなリビング。普段より明るく見える。棚に置かれた野球ボール。それを手に取る。埃を被っていて、皮が少し黄ばんでいるけど。ボールに書かれた澤田祐樹という文字を目にするだけで、この胸がジーンと熱くなる。

 はやいモノだな

 あれから二十年以上も経っているのか。

 今でも、このボールが私の存在を支えてくれている。ボールと一緒に置いてある手紙。それを引っぱり出して読む。


 祐樹くんへ

 お手紙ありがとう。

 しっかりと読ませてもらいました。祐樹くんが困難な状況にあること、私にも理解できました。お母さんが亡くなってしまうのは、大変辛いことですよね。祐樹くんの気持ちは、よくわかります。

 実は私自身、今、祐樹くん達と同じ境遇に置かれています。私も、あと少しで命が失われてしまう運命にあるのです。もう大好きな野球ができなくなってしまいます。大切な家族や、友人達と別れなければなりません。それはとても辛く、悲しいことです。

 正直言って、死ぬことはすごく恐いですし、逃げられるものなら逃げ出したいです。だけど、人として絶対に避けて通ることができないものなんですよね。そのことは十分に理解しているつもりですし、覚悟もしています。

 だからこそ、思うのです

 祐樹くんのお母さんは、君以上に辛い思いをしているんじゃないかと。だって、君のことを誰よりも思っているはずじゃないですか。君のことを誰よりも愛しているはずじゃないですか。きっと、君と別れることを、とても辛く感じていると思います。君を一人にしてしまうことに、大変申し訳ない気持ちでいると思います。

 だから、どうか祐樹くんも、お母さんの心中を思いやってあげて下さい。どうかお母さんのことを大切にしてあげて下さい。君の思いは、必ずお母さんに伝わるはずです。

 祐樹くんの人生は、これからも長く続いていくことでしょう。両親を失って、大変な困難が待ち受けていることと思います。私自身、祐樹くんの力になれないことをとても歯痒く思います。きっと逃げ出したくなるような辛いこともあると思うけど、でも、逃げずに、歯を食いしばって生き抜いて下さい。そうやって耐えた先には、きっと明るい未来が待っているはずです。

 夢って、信じて努力していれば、必ず叶うものなんです。

 私はそう信じています

 だから、私にとって大切な物を君に送ります。

 これからの祐樹くんに幸運が訪れることを、私も祈っています。

 ありがとう

                     澤田祐樹


 届けられた箱の中には、手紙と一緒に野球のボールが入っていた。母と二人でスタジアムにまで見に行った試合。澤田祐樹がリハビリから復帰し、その日に彼が打ったホームランボール。そこに書かれた澤田祐樹のサイン。何物にも代えがたい私の宝物だ。

 その年、彼のいたチームは優勝した。急逝したヒーローを失って、団結したチームは圧倒的な強さでシーズンを戦い切り、プレーオフも制して日本一となった。野球史に残る伝説として、今尚語り継がれている。

 このボールと手紙が、これまでの自分に幾度も生きる力を与えてくれた。母が亡くなって、谷口家の世話になって、何度も、何度も嫌になった。新しい父と母は、二人とも優しい人達であったし、特段、彼らとの間に不和があったわけではない。今でも、彼らとの関係は良好であるし、こうして一人前の大人になるまで私を育ててくれて、彼らには本当に感謝している。

 だけど、そんな思いがある一方で、彼らの息子であるということに、未だに違和感を拭えない自分がいる。そんなせいかはわからないが、彼らの優しさや気づかいに嫌気が差して、何度も、何度も、あの家から逃げ出したくなった。だけど、その度に、自分には逃げ場所がないことに気づかされた。今、この場で耐えるしかないことを思い知らされた。

 そんな時、このボールを握りしめながら、幾度も手紙を読み返した。手紙を読んでいて、頭にいつも浮かんでくるのは、「祐樹、愛しているよ」と最後に言った母の顔だった。病院のベッドの上で起き上がるのもままならない状態なのに、あの時の母の表情は、まるで痛みとか、苦しみとかから解き放たれたかのように和らいでいて、本当に美しかった。あの時の母の表情を思い出す度に、強くならなきゃいけないと、母が天国で私のことを誇れるような人間にならなければならないと、心を新たにさせられた。

 スポーツが得意でなくて、野球選手にはなれなかったけど。あまり頭が良くなくて、学者になれるわけでもなかったけど。でも、こうして一人前の社会人としてやっていけている。政治家という道を歩んだのも、何かしらの導きがあったのだろう。今、余命宣告の五年化法案に携わることができているわけだから。


 川口さんが欠席している委員会。副大臣である笹塚さんが、先程から釈明に追われている。

「いずれ、あなたも死ぬんですよ」なんて発言を、記者達の前でしてしまったせいで、メディアから激しい非難を浴びている。

「人の死について、軽々しく考えているんじゃないですか」、「あなたは何様のつもりですか」なんて、先程から野党議員の厳しい追及を受けている。

 そうして法案の趣旨とはかけ離れた方向に議論が進行してしまっている。このまま本質的な議論が十分に為されないようでは、今期中の法制化は難しいだろう。周辺では、そろそろ解散という話が出ていて、総選挙に向けて、それどころではない議員も多い。

 そう

 私にも、国民からの審判が下されることになる。与党の支持率は、前回の選挙から十ポイント以上も落ちていて、厳しい選挙戦が予想されている。私だって、再びこの場に戻ってこられるかはわからない。

 だけど…

 絶対に、戻ってこなければならない。そして、この法案を必ずしや成立させなければならない。その為には、何だってやる覚悟でいる。

 夜の七時過ぎに議員庁舎を後にして、高級レストランに向かう。

「谷口さん。お待ちしておりました」

 車を降りると、いつものウェイターさんが顔に笑みを浮かべて立っていた。そして、私を個室へと案内してくれる。案内された部屋には既に川口さんがいて、私のことを座って待っていた。体調が悪いせいか、その顔は少しやつれて見える。

「遅れて、申し訳ありません」

「いや、君が謝ることはない。私の方が、ここに早く来ていただけだからな」

「大丈夫なんですか? 体調の方は」

「うむ。問題ない」

「そうですか。それなら良かったです。あまり無理をなさらないで下さい。もうすぐ選挙もありますし」

「選挙か。そういえば、もうそろそろだな」

 私が席につくと同時に、料理が運ばれてきた。ここでよく食べるシチュー。その奥深い香りに、腹がきゅうと鳴る。

「すまんな。君の分まで、もう頼んでおいたんだ」

「いえ。構いませんよ。ここのシチュー、大好きですから」

「そうか。それなら良かった。それじゃあ、食べるとしようか」

「はい」

「おいしいな」

 スープを一口飲んで、川口さんが言う。

「おいしいですね」

「やっぱり、いつ食べても、ここのメシは最高だな」

「ええ」

「良い身分だよな。こうやって旨いモノを食いながら、好きなことができるんだから」

「そうかもしれませんね」

「なぁ、谷口くん」

「はい」

 川口さんの視線が、ゆっくりとこちらに向く。

「私はな、あと一週間で死ぬんだよ」

 その言葉に、この心がぐらりと大きく揺れる。

「それは、本当のことですか?」

「うむ。参ったよ。一週間前まではなんとかなっていたんだが。さすがに、今日になると体が動かなくなってしまって。困ったものだ」

 淡々と語る川口さん。その表情からは、彼の心中を察することができない。

「ご家族には伝えているんですか?」

「まだ誰にも言っていないな」

「えっ。まだ誰にも言っていないんですか。一週間後に、亡くなるというのに」

「みんな、俺のことをわかっているからな。好き勝手やっているヤツだって。だから、突然、フッといなくなるくらいが、ちょうど良いんだよ」

「そんなことないですよ。皆さん、悲しむと思いますよ」

「まっ、そうかもしれんな。これでも妻がいて、二人の息子の父親なわけだからな。しかし、残念なことに、息子達からは毛嫌いされているんだよな」

「そうなんですか?」

「ああ。二人共、君くらいの年齢なんだが。そこそこの企業で働いていて、政治にはまったく興味や関心を示さず、それなりの生活ができればいいやなんて考えていやがる。俺の息子だというのにな。自分達の将来と政治が密接に繋がっていることに気づいてすらいない。遠くで、欺瞞に満ちた政治家達が好き勝手なことをやっていると思っていやがるんだ。でも、仕方がないよな。俺が今までずっと、家庭のことをほっぽり出してきたわけだから。政治のことにしか頭がいかなくて、子供達の面倒なんか、まったく見てこなかったわけだからな。自業自得だよ。最後に、二人には謝らなきゃいけないかもしれないな」

 そう口にして、川口さんが顔を少し上に向けた。

 室内に流れていたクラシック音楽が、急に耳に入り込んでくる。民族的な曲調の交響曲。どこかで聞いたことのあるメロディが、流麗に紡がれていく。

「そういえば、谷口くん。君にとって、澤田祐樹はヒーローだったんだろ」

「ええ」

「息子達も、野球が好きだったんだよな。そんなせいか、当時、俺も野球の試合をよく見ていたんだ。中でも、澤田は別格だったよな。ヤツが死ぬ一年前に、リハビリから戻ってきた時に打ったホームランは、今でも忘れられないよ」

「えっ」

 あの試合を、川口さんが見ていたことに驚く。

「三対四の八回裏。ツーアウト満塁。そこで、ヤツが代打で出てきたんだ。そして、そこで逆転満塁ホームランを打った」

「ええ。ホームランを打ちましたね」

「君も見ていたのか?」

「はい。私は、あの場にいたんですよ。母と一緒にスタジアムで試合を観戦していました」

「そうだったのか。あの場にいたのなら、さぞかし興奮したことだろうな」

「そりゃあ、もう。あれほど感動した試合は、あれ以降、見たことがないですからね」

「そうだよな」

 いつになく優しげな顔をした川口さん。その表情は、なんだか楽しそうにも見える。

「谷口君。俺も、澤田のファンだったんだよ。それこそ、ヤツがデビューした頃から、コイツは大物になるなって目をつけていたんだ。まぁ、正直、あそこまで活躍するとは思わなかったけどな。それに、ヤツは人格者でもあったよな。敵に対しても感謝できるような素晴らしい人間だった。俺もな、そんな人間になってみたかったんだよ。なれるものならな。文句を言われたり、批判されたり、恨まれたり、そんな事ばかりだったからな。経済の活性化や国民生活の改善に貢献しても、世間から評価されることはなかったさ。本当に損な役回りだったよ。俺だって、たまには人から褒められたり、喜ばれたりするような立場に立ってみたかったのにな。

 でも、悪くはなかったかな。こんな人生も。嫌われてばかりだったけど。それでも、やりたいことは十分にできた。野党の箕山とか、墨田とかとは、よく喧嘩したし、取っ組み合いにまでなったことだってあったけど。でも、あいつらも、本当に良いヤツらだったんだよな。議会では喧嘩していても、それが終わると、飲みに行ったりもしたものさ。ああいったヤツらがいたから、なにクソッて頑張ることができたんだ。たとえ主義主張が違っていたとしても、同じ血の通った人間だもんな」

「ええ」

 先程から、川口さんは料理にほとんど手をつけていない。もう体が食べ物を受けつけないのかもしれない。

「政治家って、本当に色んなタイプの人間がいるよな。みんな、一筋縄でいかないヤツばかりだ」

「まさに、川口さんがそうですよね」

「君も、だよ。谷口君」

 川口さんの視線が、まっすぐ私の方に向いた。

「だから、俺は君に期待しているんだ。君は、たいして頭の回転も良くないし、弁舌が立つわけでもない。おまけに優柔不断で、頑固ときている。政治家としてやっていくには、これからひどく苦労するだろうな。だけど、今回の五年化法案を、なんとしてでも実現させようとしている、その熱意だけは認めてやる。こうして政治家になる前から、ずっと五年化を主張していたわけだろ」

「ええ。よく御存じで」

「そりゃあ、知っているさ。俺の地盤に変わったヤツがいると周りから聞いていたからな。だから、わざわざ君に会って、見込みがあると思ったから、議員になることを勧めたんだ。たいしたものだよ。君くらいの年で自分を持っているヤツは、そうそういない」

「ありがとうございます」

「だけどな。同時に、心配してもいるんだ。なんというかな。君は、昔の俺に似ているんだよ。驚くくらい、似ているんだ。理想ばかりを追いかけていた頃の俺とな。全ての人が幸せになるようにって。誰もが満ち足りた生活ができるようにって。そんなことを願っている。でもな、全ての人が等しく幸せになるなんてことは、絶対に不可能なんだ。それを、これから君自身が痛いほど味わうことになるはずだ。そんな甘いモノじゃないって、そんな簡単にいくモノじゃないって、理解することになるはずだ。だけどな。たとえ、そうであっても、そういった思いを持つことは大事だぞ。俺だって、常に忘れたことはない。そういった思いがあるから、こうして長く政治家を続けることができたんだからな。だから、いいか。今回の国会で法案が通らなかったとしても、絶対に諦めるなよ。君の信念を貫いてみせろよ。政治家として、君にしかできないことをやってみせるんだ。後のことは、君に任せたんだからな」

 そうして川口さんは席を立つと、私の肩をポンと一つ叩いてきた。

「承知しました」

「頼むぞ。それじゃあ、私は帰る」

 そう言い残すと、川口さんは部屋を去っていった。

 座っているのもきついはずなのに、その姿は普段と変わらず堂々としていて、まるでこれから国会にでも行くような去り際であった。

 そんな一人の政治家の最後の姿を、私はこの目にしっかりと焼きつけていた。

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