カウント3
そうして
時が過ぎゆき
うららかな春がやってきました
明るい白色の照明。グラウンドを敷き詰める芝生の青が、よく映える。一塁側から三塁側方向に、風がゆるやかに吹き抜けていっている。
次の打者を告げるアナウンス。それに呼応し、打ち鳴らされるメガホンの音。グラウンドに立つと、それらが、まるで天から降り注いできているかのように聞こえる。
一点ビハインドの七回裏。ツーアウト、ランナー一、二塁。応援のボルテージは、最高潮に達している。バッターボックスに立つ成田がバットをくるりと一回転させて、打撃体勢に入る。変に気負っていないのが、そのフォームから見て取れる。対照的に、相手ピッチャーの金山には、余裕がなさそうだ。
この様子だと、成田が試合を決めてしまうかもしれないな。
でも、それで構わない
いつまでも俺が出しゃばるわけにはいかない。
ウェイティングサークルで、成田の打席をじっと見守る。彼の陽気な性格に合わせたかのような応援歌が、場内に響き渡っている。
振りかぶったピッチャーの手から、白いボールが勢い良く放たれる。鋭く振られた成田のバット。高々と上がったボールが、バックグラウンド側の客席に飛んでいく。
ファール
ふぅと肩で大きく息を吐く、金山。
だいぶ気負っているけど。それでも、ヤツの浮き上がってくるストレートは威力がある。普通にスイングしていたら、バットの芯から外されて、簡単にフライに打ち取られてしまうだろう。
二球目。バッターの肩の高さくらいに、ボールが外れた。キャッチャーの渡辺が肩をほぐすようにとジェスチャーしてみせる。それに頷いて、肩を回す金山。
三球目。カッと澄んだ音がバッターボックスから上がった。打ち上がった打球がグングンと伸びていき、右中間を破っていった。戻ってきた二塁ランナーとハイタッチする。一塁ランナーの田口は既に三塁を回っていて、センターからのボールはまだセカンドに届いていない。悠々とホームベースに戻ってきた田口を出迎える。
よし
これで、逆転だ。
二塁ベース上で、ガッツポーズをしてみせる成田。金山の勢いのある速球に、コンパクトなスイングで対応してみせた。見事なバッティングだ。彼のプレーに拍手を送る。
さて
ここで、俺の出番か。後ろには盤石な救援陣が控えているから、もう試合は決してしまったかもしれない。だけど、救援陣を楽にする意味でも、ここで追加点を上げておくことは重要だ。
ズンズン チャ
ズンズン チャ
観客の応援が、俺に向けたモノへと変わる。
ありがとう
いつも、いつも
このリズムを耳にするだけで、体に力が漲ってくる。
マウンド上には、ガクッと意気消沈したかのような顔つきの金山がいる。
おいおい
そんなんじゃ、駄目だぞ
まだ試合は終わっちゃいないんだから。
ここで俺を抑えれば、次の回に味方が逆転してくれるかもしれないじゃないか。切り換えていかないと、痛い目に遭うぞ。
一球目。ストレートが、ド真ん中にやってきた。それをしっかりと叩きつけて、三遊間に振り抜く。二塁ランナーに気を取られたショートの足が遅れて、打球がレフトへと抜けていった。前進守備をしていたレフトが素早く捕球した為、二塁ランナーの成田は三塁で足を止めた。
ツーアウト、一、三塁。思っていたより、金山のボールが重くて、打球が詰まってしまった。それでも、最低限の仕事はできた。一塁コーチの田辺さんと、軽く拳を合わせる。額の汗を拭って、ヘルメットを被り直す。
ピッチャーが投球姿勢に入るのを確認して、リードを広げる。ツーアウトでもあるし、盗塁をする絶好のチャンスだ。牽制球が飛んできて、一塁ベースに戻る。再びリードを広げると、すぐさま二度目の牽制球が飛んできた。かなり警戒されているようだ。
それならば…
いつもよりリードを広くとる。そうして、バッターへの集中力を削いでいく。案の定、ストライクが一つも入ることなく、重原はフォアボールとなった。痺れを切らしたのか、相手チームの監督が出てきて、投手交代のアナウンスがされた。二塁ベース上でストレッチしながら、交代で出てきたピッチャーの投球練習を見守る。
シーズンが開幕して一カ月。
打撃成績は、過去にないくらい好調だ。自分が打ち立てた数々の記録を更新しそうなくらいに。七割を超える打率。一試合に一本以上のペースで打っている本塁打。残念ながら、シーズン途中で、俺はこの世界からいなくなるわけだけど。
不思議だな
体は、こんなにも軽いのに。
余計なモノから解き放たれたかのような感覚すらあるのに。
ひょっとしたら、余命宣告は何かの手違いで、俺はまだまだ野球を長くできるんじゃないかって、そんな淡い期待を抱いていたりする。
しかし、何れにせよ、告知された日は刻一刻と近づいてきている。
死に対する恐怖や不安。それらは、日増しに自分の中で大きくなってきている。
いつまで野球ができるのだろうか。
この体はいつまで持つのだろうか。
ふとした時に、残りの日数を数えながら、そんなことを考えている自分がいる。
今、巷では、余命宣告を五年前にしようという話が出てきているそうだ。例えば、俺自身、告知されるのが五年前だったら、何か違っていただろうか。
わからない
わからないけど
それでも、俺は最後まで野球をしていたはずだ。それ以外の選択肢が、自分には見つからない。結局、そんなモノなのかもしれない。早いか、遅いかの違いはあっても、最期は必ず誰しもに訪れるモノなのだから。決して避けて通ることができないモノなのだから。
もうシーズンは始まってしまったけど。可能な限り、家族と過ごす時間を取るようにしている。有り難いことに、由亜はこれまでと変わらずに俺に接してくれる。美弥は、やたらと俺に懐くようになった。いつもべったり寄り添ってきて、なかなか離れようとしない。それはそれで面倒だけど。でも、自分のことを思ってくれてのことだから、彼女の一つ、一つの仕草や表情に愛おしさを感じずにはいられない。翔は、まだ死という概念が、彼自身の中で漠然としているのかもしれない。それでも、一緒に風呂に入ったり、一緒に家事をしたりと、事ある毎に俺についてくるようになった。そうして家族に囲まれていると、これまでいかに自分が満たされた生活を送ってきていたのかを、しみじみと実感させられる。
んっ
気づくと、試合は再開していて、キャッチャーがピッチャーにサインを送っているのが見えた。満塁ではあるが、キャッチャーの渡辺は内角の厳しいコースにボールを投げるよう要求している。そうして強気な勝負を挑んでくるところが、彼らしい。敵に回すと、非常に厄介な相手だ。
二球で追い込まれた松下が、打球を打ち上げる。ライト前方にふらふらと上がったボール。落下地点に辿り着いたライトのグラブにすっと収まった。
スリーアウト。コーチから帽子とグローブを受け取って、ライトの守備に向かう。観客席で売られている食べ物の匂いが、風に乗って、こちらにまで届いてくる。試合が終わったら、何を食べようか。
いつものようにそんなことを考えながら定位置について、スタジアム全体をぐるりと見渡す。夜空をかき消すかのように光る照明。観客で埋まっている外野席と内野席。バックスクリーンのスコアボードとディスプレイ。それらにぐるり囲まれた、百数十メートル四方の野球グラウンド。そこに、九人の選手達が散らばっている。実に狭くて、ちっぽけな世界だ。
こんなところで、俺達は野球をしている
ここでの一つ、一つのプレーが、日本中を沸かせている。
そんな実感はないけど。それでも、こうして野球を通じて色々な人達と繋がっているんだなと思うと、なんだか感慨深いような、心温まるような、そんな感情が奥の方からじんわりと滲み出てくる。
そう
だから
今を楽しめるだけ、楽しんでおこう
「澤さーん」という声が聞こえてきて、肩慣らしのボールがセンターから飛んできた。
シーズン中、試合がない日は週に一日くらいしかない。試合がなくても、移動日であったり、練習であったりで、完全にオフの日はめずらしい。だから、家にいられる時間は貴重だ。
今日は午後から練習があるから、正午には家を出ないといけない。それでも、午前中ゆっくりできるというのは有り難い。朝寝坊して起きてくると、子供達は既に学校へと行ってしまっていた。由亜に「朝が遅い」とか、「ちょっとくらいは家事に協力してよ」とか、ブツクサ言われながら、朝食を摂る。
「最近、子供達の様子はどうだい?」
「特に変わりないかな。そういえば、翔ね。二番目になったみたい」
掃除をしていた由亜に尋ねると、彼女は作業を中断して、ふふふと笑いながら答えた。
「二番目に?」
「うん。やっと柿沼くんの身長を追い抜かしたんだって。昨日、帰ってきて、ずっと自慢していたんだから」
「それじゃあ、これからグングンと伸びていくんじゃないか」
「そうかもね。あなたの子なのに、なかなか身長が伸びてこないから、本人も気にしていたみたい」
「なんだ。そんなこと気にしていたのか。俺だって、身長が伸び出したのは、小学校高学年だったからな。まだまだ、これからじゃないか」
「そうだよね。それとさ、美弥の方は今、気になる男の子がいるみたいなの」
「ほぉ。どんな子なんだ?」
「中井君って子なんだけど。女の子みたいに可愛いらしい顔をした子でね、サッカーが上手みたいなの。困ったことに、美弥は面食いなのよね」
「お前に似たんじゃないのか」
「はぁ? 面食いだったら、あなたなんかと結婚していないでしょ」
「んー。そうか」
「あっ、そういえば。ファンレターが届いていたよ」
由亜が、机の上に紙束をドンと置いてくれる。
「おぉ。ありがとう」
球団から送られてくるファンレター。
メールなどで送信されてくる応援メッセージを、球団がわざわざ印刷して自宅にまで送ってくれる。それを、今日みたいに時間がある時にまとめて読むようにしている。量が多くて、全て読み切るには時間がかかるけど。それでも、応援メッセージの一つ一つに自分自身が力を貰っているから、一つたりとも見過ごすことはできない。
ふと、一つの手紙に視線がいった。
薄茶色の封筒。不揃いな宛名の字。興味を惹かれて封筒を開けてみると、便箋が三枚入っていた。そこにびっしりと書かれた文字。平仮名が多くて書きなぐったような字だけど、読めないわけではない。
差出人は十一歳の少年。金村祐樹君。自分と同じ名前を持った少年。俺のファンであった父親から、名づけられたそうだ。名誉なことだ。こんな自分なんかの名を引き継いでくれる人がいるなんて。
それにしても、気の毒だな。
彼の父親は既に亡くなっていて、あと少しで母親の方も亡くなってしまうそうだ。母親が亡くなってしまったら、その後、彼はどうやって生活していくのだろう。親代わりになってくれる人はいるのだろうか。
心配だな。
一人で苦しんでいるのかもしれない。だから、こうして俺宛てに手紙を書いてきた。
視野が狭いな、俺は。
いつも自分のことばかりにしか頭がいかない。
そうだよな
自分だけじゃないんだよな。こういった境遇に置かれた人間は。この世界中にたくさんいる。そして、みんな苦しんでいる。愛する人との別れを。
手紙を書いてみようか。
この少年に。
そう思い至って、ペンと便箋を持って机に向かった。
だけど、何を書いたらいいのかもわからない。
言葉にすることは苦手だ。紙に書き出してみては、それを捨てて、また新しい紙に書いて。
うーん
ちょっと違うんだよな
言いたいことがうまく表現できなくて、もどかしいような、むず痒いような、そんな感覚に襲われる。それでも、それを何度か書き直しているうちに、段々とそれらしい文章になっていく。
佑樹君へ
そんな書き出しで始まる文章を、最初から読み直してみる。彼に、自分の思いが伝わるだろうか。何度も、何度も読み返してみる。そうしているうちに、ハッと気づかされた。
これを書いているのは、自分自身の為なのではないかと。
自分が、どう考えているのか。何を思っているのか。それを整理して、理解する為に、俺はこの手紙を書いているのかもしれない。そうして、自分の思いを彼に託している。
その先へと続いていくであろう未来に
こういった機会を与えてくれた彼に、感謝しないといけない。
最後に、ありがとうという言葉で締めくくって、ペンを置く。脳の奥に普段感じない疲労がじんわりと残ったが、不思議と嫌な気分ではなかった。
「ちょっと、祐樹。なに、のんびりしているのよ。さっさと行かないと、遅刻するでしょ」
由亜の怒ったような声が、二階のベランダから聞こえてきた。
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