カウント4

 それ、それ、それ

 祭囃子に心躍る、そんな日でもあるわけです


 夕暮れ空に、響く笛の音。

 近くの会場で、出し物をやっているようだ。屋台がずらりと立ち並んだ道路。練り歩く大勢の人、人、人。そこかしこに溢れる笑顔。

 やっぱり、いいよな

 祭りって

 地元の祭り。私自身、子供の頃からよく来ていた。そんなせいか、この祭りに来ると秋も終わりなんだなと感じる。何気なく視線を向けた先に、林檎飴の屋台があった。

 懐かしいな

 昔、好きだったんだよな。

 林檎の表層を覆っている飴の甘さが口の中に蘇ってくる。林檎と一緒に口にすると、林檎の酸味と合わさって、なんとも言えないクセになる味になる。だけど、食べにくいのが難点で、表面の飴が口の周りにくっついて、ベタベタになってしまう。それを、よく母に叱られていたっけ。

 小さな少年が、林檎飴を買っている。屋台の人から林檎飴を一つ受け取って、嬉しそうに親のところへ戻っていく。

 自分にも、あんな時があったんだよな。

 何でもないようなことが楽しくて、愉快で、駆けるように時間が過ぎていった日々が。

「それで、ですね。谷口さん。こちらの道路についても、現在、車線幅拡大の検討をしているんです。交通量が多いにも関わらず、片道一車線ですし、小・中学の通学路になっていますからね。住民からの要望も多いですし、私共としても、来年度の予算で是非とも実行したいと考えております。ですが、土地購入の交渉で苦戦していまして」

 そう言って、市議の足立さんが苦笑いを浮かべてみせる。

「土地購入で苦戦されているんですか」

 やれやれ

 そんな感傷に浸っている暇もないか。

 仕方ない。

 様々な人の意見を聞いて、それを国政へと反映していかなければならない身だ。

「やはり皆さん、代々続いている家を手放したくはないで。どのように説明したら納得してもらえるのか。私共でも頭を悩ませているところでして。この祭りにしたって、道幅を広げれば、もっと色々なイベントができると思うんですけどね。そうすれば、現在の苦境を打破するアイデアも生まれてくると思うんですが…」

「今、苦境にあるんですか?」

「ええ。祭りの開催費が、市の財政を圧迫しているんです。祭りをやめようという話は、毎年、予算編成の度に議論になっていまして。とはいえ、この祭りには長い歴史と伝統がありますからね。私共としても、継続させる為、アレコレと施策を練っているところでして」

「そんな状態だったんですか」

 こうして、祭りの空気に直に触れると、十分に活気があるように感じるけど。観光客は、年々減少しているそうだ。その影響もあって、今年は開催範囲を狭めたと聞く。祭りを参加型にするとか、地元出身のタレントを使った宣伝など、実行委員会でも色々と手は打っているが、なかなか目に見える効果は出ていないようだ。

 祭りの運営本部にお邪魔して、市長さんや市議さんに挨拶する。既に赤ら顔の安田市長。

「まぁ、楽しんでいって下さいよ」なんて陽気に私の肩を叩くと、イベントの挨拶に繰り出していった。

 この前の選挙でお世話になった市議の森本さんと、祭りのメイン会場に向かう。その道すがら、現在の市政課題を聞かせてもらう。労働人口の維持、社会保障財源の確保、財政の健全化。どこも変わらない問題を抱えている。

「地方自治体交付金の増額は、やはり難しいですか?」

「簡単ではないですね。国の財政も苦しいので。私としても、最大限の努力はするつもりですが」

「そうですか。やっぱりなぁ…。三年前、隣町と合併してからなんですよね。色々とおかしくなり始めたのは。管轄地域が増えた割に、税収がほとんど増えなくて。おまけに、高齢者人口が増えた影響で、社会保障費が増大してしまって。それが今、市の財政に重く圧し掛かってきているんです。このままでは十年後に財政破綻する恐れがあると私は危惧しているんですが。残念ながら、市長にはそういった危機感がないんですよ」

「そんな状況でしたか。私自身、地方活性化の為に協力できることは、協力したいと考えているんですが。なかなか力になることができず、申し訳ありません。今、新たな工場投資の検討をしている企業さんと話をさせてもらっているところでして。その候補地として地元を推しているんですが…」

「本当ですか。それでしたら、是非とも、向こうの丘にある工業団地を推薦していただけると有難いです。敷地がかなり空いていまして、頭を悩ませていたところなんです。工場を運用していくのに、基準も他の自治体と較べて緩いですし、空港や港とのアクセスだって悪くありません。ですが、いかんせん、工業団地としての認知度が低くて、問い合わせが来ないんですよね。谷口さんの方から、お口添えして頂けると助かります」

「わかりました」

 そうは言ってみたものの、うまくいく保障はどこにもない。

 気が重たくなる。森本さんに変な期待を抱かせてしまったかもしれない。だけど、ただ話を聞いているだけで何の解決策も示せないようでは、国会議員としてこの場にいる意味はない。

 そう

 それくらいのことは、わかっているつもりだ。

 時折、声を掛けてくれる人達と握手をして、言葉を交わす。中には「頑張れよ」とか、「期待しているよ」とかいった声をかけてくれる人もいる。

 心強いことだ。

 こんな私にも応援してくれる人がいるということが。

 何の実績もない新人議員なわけで。ほとんどの人達が、アイツは誰だという感じで私のことを一瞥してくる。印象が薄いということは、政治家として致命的だ。しかし、人を押し退けて前に出ることが苦手な性分のせいか、なかなか内外で存在感を示せずにいる。

 おっ

 佐川さんじゃないか

 対立候補である佐川さんが向かいから歩いてきている。すれ違う時に軽く会釈をする。主義主張がかけ離れているせいか、私自身、彼から痛烈に批判されることがあるけど。でも、悪い人じゃない。彼の周囲の人達に話し掛ける姿は、真摯で、常に熱意に溢れているのだ。

 対立候補同士でなければ、彼と言い争うこともなかっただろう。彼にだって、この国の、この地域の人達の生活がより良いモノになるようにと願う心がある。その根底にある思いは、私と変わりないはずだ。だけど、政治家として政党が違えば、互いに手を取り合うことは許されない。相手を非難しなければ、軟弱だとか、政治理念がないとか批判を浴びることになる。そういった事に違和感を憶えてしまう私は、まだまだ政治家として未熟なのだろう。

 ふぅ

 メイン会場での挨拶を終えて、商店街を一人歩く。

 明日、ここで私の後援会がある。だから、今日は時間に追われることなく、こうして祭りを楽しむことができる。ありがたいことだ。

 事前に貰った、後援会の出席者リストには、地元の中小企業の代表者が多数、名を連ねていた。他にも、農産業団体、建設業界、保険金融団体、医療団体等の責任者達がやってくることになっている。今後の支持を広げていく上でも、重要な場となるだろう。私自身、心して臨まなければならない。そこで出てくる意見や要望にしっかりと答えて、誠意ある対応をしていかなければならない。

「よっ、谷口さん。楽しんでいるかい?」

 振り返ると、ピンクのハッピを着た広重さんがいた。私の後援会の会長であり、困った時に色々と相談に乗ってくれる人だ。

「楽しんでいますよ。こうして祭りの空気に浸っていると、小さい頃に戻れるような気がしますね」

「まぁね。何十年も昔から、ずっと変わらないからね。それが、この祭りの良いところでもあり、駄目なところでもあるわけだけど。変化が激しい時代だから余計、こうして変わらないモノがあるということに、ホッとさせられるよね」

「ええ」

「しかし、谷口さん。あんた、ちょっとお堅いんじゃないの。そんなんじゃ、誰も寄ってこないでしょ。まだ酒だって飲んでいないでしょ」

「はい」

「いけないなぁ。こういう時は思う存分呑まなきゃ。ちょっと待っていてよ」

 そう言うと、広重さんは知り合いの店に引っ込んで、日本酒を持ってきた。そして、日本酒を紙コップについで渡してくれる。

 酒は強くないんだけどなあ…

 でも、断るわけにもいかない。空き腹に酒を入れると、体がカッーと熱くなって、頭がクラクラとしてきた。

「おっ、いいね。やっぱ、それくらいじゃないとさ。祭りじゃないよ」

 広重さんが、私の肩をポンポンと叩いてくる。

 それから広重さんと二人で、商店街の人達に挨拶して回った。酒の力も手伝ってか、なんだか愉快な心地になっていた私は、店主などと随分話し込んでいたようだ。

 気づくと、祭りは終わりを迎えていた。日本料亭を営んでいる広重さんの家に招かれて、暫し休憩する。

「しかし、来年は頑張らないといけないね」

 お茶をズズズと啜ってから、広重さんが言う。

「来年ですか?」

「だって、ほら。選挙があるじゃない。また当選しなきゃ、駄目でしょ。そう考えると、明日の後援会は大事だよ」

「そうですよね。参加者リストを頂いてますので、想定される質問や意見にしっかり答えられるよう、事前準備はしてきました」

「頼むよ。俺も、できることはフォローするけど。でも、答えるのは全部、谷口さんだからね。わかっていると思うけど、そんなにウカウカもしていられない情勢なんだ。ここのところ、佐川陣営も業界団体に攻勢をかけてきているからね。まだウチが優勢とはいえ、こういったコトって世論の動きで一変するじゃない」

「ええ。地方経済が冷え切っているのに、政府は地方交付金や公共事業費を切り詰めていますからね。その上、住民税の制度改定により、低所得者層からも不満が出てきていることは認識しています。政権与党の人間として、私自身にも説明責任があると考えております。現在の国の財務状態から、今後の国民生活を考えた上で必要不可欠な施策であったことを十分に理解してもらって、皆さんの将来に対する不安を解消していかないといけません」

「そうだよね。谷口さんの口で、みんなが納得するまで説明するのが一番だろうね。そうやって有権者に対して、一つ一つ丁寧に応対していたら、わかってくれるはずさ。この人なら任せられるって、思ってくれるはずさ。そうやって、コツコツと地道にやっていくしかないんだよね。信頼関係の構築ってさ。だけど、選挙もあるからね。あまり悠長に構えているわけにはいかないんだけど」

「難しいですよね。選挙はすぐにやってきますし、その都度、その都度で有権者の関心は変わってきますからね。ですが、多くの支持を頂いて、前回の総選挙で選んでもらったわけですから、選挙前に一期目の総括はしたいと思っております。その中で至らなかった部分については反省し、今後、私が取り組むべき事について明示していく必要があると考えています」

「うん。そうしてもらえると助かるよ。しかし、谷口さん。やっぱり、あんたは川口さんに認められただけはあるね」

「そうですかね」

 意外だ

 私のどこを見て、広重さんはそんな風に思うのだろう。

「だって、ほら。真面目過ぎるくらい、真面目じゃない。それに、呼んだら、こうして祭りに来てくれるわけじゃない。盛り上がる為にはどうしたらいいか、一緒に考えてくれるわけじゃない。そういうのって、すごく有り難いことなんだよ。内輪で考えているとさ、どうしても頭が凝り固まってしまうからね。だから、ありきたりなアイデアしか出てこないんだよ。今回打った施策だって、どこの祭りでもやっているようなモノばっかりさ。そんなことをやったって、観光客がドーンと増えるとは、俺達だって思っちゃいないよ。どこだって、人を呼ぶのに苦労しているわけだからね。誰も思いつかないような斬新なモノでなきゃ、人は寄ってこないのさ」

「そうでしょうね」

 何気なく視線を向けた先の掲示板に、澤田祐樹のポスターが貼ってあった。その鋭い眼光。思わず見入ってしまう。

「あっ。まだあったんだ、コレ。谷口さんも、澤田のファンなのかい?」

「ええ」

「良い男だよね、澤田は。こういうヤツが、祭りに来てくれるといいんだけどなぁ。人気者を呼ぶには金がかかるんだよね」

 広重さんが、呟く。

 そうですよね

 この祭りを、終わらせてしまうわけにはいかないですもんね。

 みんな、それぞれの立場で、それぞれに悩みや問題を抱えている。

 そんなモノなのかもしれない。

 そんな考えが、この脳裏をスゥーと掠めていった。


 ふぁあ…

 三時間にも及ぶ党の閣僚級会議。

 正直、退屈だ。出そうになったあくびを堪えるのに必死になる。いつの間にか、有力議員達の主張が好き勝手に飛び交う場となっていて、収集のつかない事態となってしまっている。

「そんなわけで、五年ではなく、自由選択という選択肢だってあると私は思うんですよね。欧州では、ほとんどの国が自由選択を採用しているわけじゃないですか。それなのに、何故に、川口さん達は五年という年数にこだわっているのか。私には、それがどうしても理解できないんですよ。こういった形で一律に期限を設定してしまうことに違和感すら憶えますよ」

 水沢外務大臣の発言に、久野総理大臣が頷く。

「そうだね。自由選択にするというのも悪くない選択肢だと私も思うよ。他国での実施状況をもう一度、整理してみる必要がありそうだね。実際、向こうの実務者と話してみるのも良いと思うんだ。どういう考えや思想があって、自由選択を採用したのかってさ。川口さん、そういったことも含めて、もう一度、党内で再検討してみてくれないか?」

「自由選択は駄目です、総理。過去に何度もケーススタディして、五年という年数が最適という結論が導き出されたんですよ。そういった経緯を理解していない方が党内におられるというのは、非常に嘆かわしいことです。万一、自由選択を採用してしまったら、他国のように後戻りができない状況になってしまいますよ」

「他国で問題が出ているの? それは初耳だな。欧州でも問題なく運用されていると私は聞いているんだけど。そうではないのかね」

「確かに、運用面での問題は出ていません。ですが、実用面で問題が出ているのです。自由選択にすると、まず何よりも労働意欲の低下が引き起こされます。人は我儘な生き物なんですよ。自分は、あと何年の命だから、もう働かなくていいやと考えてしまうモノなんです。実際、自由選択の採用後、欧州では労働人口が十%以上も低下したという報告が出ています。それを、人口減少の歯止めがきかない我が国に適用してしまったら、どうなるか。火を見るより明らかではないですか。国の経済成長に甚大な影響が出てしまいますよ」

「なるほどね。そういった事情が背景があったのか。しかし、それにしたって、五年にするという意義については、私にも十分な根拠があるようには思えないんだよね。別に、三年とか、四年にしたっていいわけじゃないか。委員会の報告書も読ませてもらったんだけど、五年化ありきというような印象を受けてしまったんだよね。そこら辺については、十分に議論がなされたと川口さんは考えているの?」

「勿論です。そもそも、こういった議論を、私達は何十年前から繰り返してきたと思っているんですか。その度に結論を先送りにして、また一から議論を始めて。それで十分に議論がなされていないと指摘されることの方が、よっぽど違和感を憶えますがね。勿論、年数については、委員会でも再度勘案いたしましたよ。その結果、報告書にもありますように、労働人口の維持の観点からも、死の予測精度の観点からも、五年という年数には大きな意義があるという結論が導き出されたのです」

「そうか。しかし、本件の法制化について党内で意見が割れている現状について、川口さんはどう考えているのかな?」

「党内にも様々な意見があるのは、承知しています。ですが、国会への法案提出までには、皆さんの意見を五年化に統一できると私は確信しております」

「それなら、もう少し党内で法案について揉んだ方が良いと私は思うんだがね」

「そうですか。わかりました。それでは、もう少しお時間を頂いて、党内で再検討させてもらいます」

 そうして話が進展しないまま、会議は終了した。

 想定していたよりも、法案に対する支持が党内に浸透していないようだ。水沢外務大臣などは、公然と反対の意志を示しているし。法案化に向けて事態が好転する兆しは見えない。このまますんなりと国会に法案を提出することができるのだろうか。

 そこからは野党との協議が待っているわけで。世論にしたって、現行の一年の変更には賛成であっても、五年化法案に対して肯定的であるとは言い難い情勢だ。

 法制化に向けてのハードルは見上げるくらいに高く、そう易々と越えられるようなモノではないように思える。

 しかし、そんな状況下であっても、川口さんは余裕のある表情を崩さない。余程、自信があると伺える。何か、秘策でもあるのだろうか。

「そんなものはない」

 会議が終わって、二人だけになった時に尋ねてみると、そんな答えが返ってきた。

「ないんですか」

「そんなもの、あるわけがないんだ。こういった事は、正当な手順に則ってやらなければならないんだからな。党での信任を得て、国会での信任を得て、そうやって法律はできるんだ。近道なんか、絶対にないんだ」

「ですが、今日の感じだと、党内の支持を取りつけるのにも苦労しそうな印象を、私は受けたのですが」

「そうか? いつもあんなもんだよ。重要法案であればあるほど、ああいった感じになるんだ。今の党の上層部の連中は、どいつもこいつも、責任を被りたくないヤツらばかりだからな。

 気づいていたか?

 今日の会議で否定的な発言をしたヤツらはみんな、地盤が弱いんだ。谷口君、そういうことなんだよ。久野さんも、総理大臣のくせに周囲の意見に振り回され過ぎるんだよな。一国の統領なんだから、もっとドッシリ構えていなきゃならんのに」

「いつもこんな感じなんですか。それでは、説得するのにも、かなりの時間を要しそうですね」

「そうだ。だから、いいか。ここが踏ん張りどころだぞ。踏ん張って、踏ん張って、踏ん張りきるんだ。絶対に相手に対して引き下がってはいけないぞ。何を言われても、妥協なんかせず、粘って、粘って、粘りきるんだ。こちらが譲歩するような素振りを少しでも見せたら、相手に足元を見られるだけだからな。そうやって粘り強く交渉しているうちに、少しくらいは考えてもいいかなっていう気持ちが相手の中に芽生えてくるんだ。そういった心の隙をついていくことが重要なんだぞ」

「はぁ…」

 言っていることは、わからなくないけど。果たして、そんなやり方で本当にうまくいくのだろうか。

 議員控室に戻って、三十分後の地元の畜産業連合の代表者との面談に備える。少しの空いた時間を利用して、情報端末でメールチェックする。一日放っておくだけで千件以上もメールが溜まってしまうから、とても私一人では対処しきれない。だから、メールを共有化して、大部分を秘書の方達に処理してもらっているが。それでも、私自身が判断しなければならないメールも多くて、メール対応に追われる毎日になってしまっている。

 うぅ…

 軽い眩暈がするな。

 頭を軽く左右に振って、こめかみを親指でぐっと押さえる。

「谷口さん。お疲れですか?」

 公設秘書の菅原さんが、にこやかな表情で私に話し掛けてきた。どんな時であっても、笑顔を絶やさない人だ。

「ええ。少し」

「それでは、温かいコーヒーでも淹れましょうか?」

「はい。お願いできますか」

「わかりました」

 そんな感じで、三十歳近く年下の私にも丁寧に接してくれて、さり気ない心配りで仕事をサポートしてくれる人だ。

「どうぞ」

「ありがとうございます。助かります」

 コーヒーの芳ばしい香りに眠気が薄れて、頭が少しばかり明瞭になる。それから何通かのメールに返信していたら、地元の畜産業連合の代表者が部屋に案内されてきた。

「あっ、どうも。はじめまして。五時から面談予定の藤原です」

 やってきたのは、スーツ姿が似合わない、人の良さそうなおじさんだった。

 きっと、長いこと畜産業を生業にしてきた人なのだろう。握手する為に差し出された手はゴツゴツと硬かった。

「あまりこういったことが得意じゃないんですよね」と言いながら、藤原さんがカバンから書類とパソコンを取り出した。

 そして、ディスプレイに自分の牧場の写真を表示させて、牧場の紹介をしてくれた。広大な敷地に牛や、山羊、馬などの家畜を放牧させているそうだ。

 牧場の紹介を終えて、陳情書を私に手渡してきた藤原さん。それを元に、現在の畜産業が置かれている厳しい状況について、たどたどしい口調で説明してくれる。

 昨今の人手不足。それに伴う生産量の低下と原価の上昇。それらが影響して、どの業者も利益を捻出するのにかなり苦労しているようだ。

 利益が上がらないから、新規の設備投資が進まない。それ故、老朽化した設備を使わざるを得なくて、品質を維持するので精一杯という実情。その一方で、輸入品の品質が上がってきており、製品の差別化が難しくなってきているという現実。そういった悪循環が起きていることは耳にしていたけど。実際に現場にいる人から話を聞くと厳しい現実が、この身にヒシヒシと伝わってくる。このままでは、この国から畜産業が消えてしまうのではないかと多くの関係者が危惧しているというのも頷ける話だ。

 輸入規制や補助金といった支援が今こそ必要なんですと藤原さんが訴えかけてくる。いつの間にか、藤原さんの顔が紅潮していた。

 藤原さんにお茶をすすめて、一呼吸置いてから口を開く。

 藤原さん達が置かれた状況を理解できたこと、今回の要望について、私自身、最大限努力していきたい旨を、誠心誠意伝える。このような案件だと、全国規模で訴えていかないと国を動かすことはできないから、私の方から全国の畜産業連合へと働きかけていくことを約束する。

 その上で、藤原さんに、農産物の輸出入規制の現状について理解してもらう。食料品の輸出入規制が広く緩和されている状況下にあって、規制を逆に強化するというのは、他国との関係に悪影響が及ぶ懸念があるということ。それを実行するには、全国規模での働きかけが必要であり、それなりの労力と時間がかかるということ。

 そういった現実を伝えると、藤原さんはガックリと意気消沈してしまった。色々と私なりにフォローしたつもりだったが。肩を落としたままの状態で藤原さんを帰すことになってしまった。

 申し訳ない

 すぐに力になれるようなことがなくて。

 後で、しっかりとフォローしないといけない。私が頼りにならないヤツだと、地元の人達に思われるのは不本意だ。しかし、だからといって、国会議員という立場であっても、できることはそんなに多くない。所詮、国民の代表者の一人に過ぎないわけで。大勢の国民の支持という後ろ盾がなければ、やりたいこともできない。

 それに、他の業界団体とのしがらみだってある。この案件ばかりを優先して進めていたら、他から批判だって出てくる。

 そういったことに、毎度のようにうんざりとさせられるけど。

 気が重たくなるけど。

 でも、自らが動かないことには何も始まらない。待っていても、他の誰かがやってくれるわけでもないし、助けてくれるわけでもないのだ。

 川口さんが言っていたように、こういったことに近道などないのかもしれない。

 デスクで思い耽っていると、脇から温かいお茶が出てきた。

「そろそろ八時ですよ」

 菅原さんが、そっと教えてくれる。

「ありがとうございます。もうそんな時間ですか」

「ええ。もうそろそろしたら、私は帰らせてもらいます」

「お疲れ様です。いつもありがとうございます」

 私の言葉に軽く微笑んで、菅原さんが片付けを始める。

 テキパキとした動作で、私が出しっぱなしにしていた資料を棚にしまっていく。次に調べる時、すぐにわかるように付箋紙を挟んでおいてくれる。それを終えると、明日面談予定になっている教育委員会関係者との打ち合わせ資料を、手際よく揃えていく。

「どうかしましたか?」

 私の視線に気づいて、菅原さんが聞いてきた。

「いえ。仕事が丁寧だなって、ついつい見惚れてしまって」

「そんな、見惚れるようなコトじゃありませんよ。単なる雑用ですから」

「すみません。いつも散らかしっぱなしで。おかげで、明日もすぐに仕事に取りかかれます」

「いえいえ。こういったことをするのが私の仕事ですからね。苦にもなりませんよ。それに、もっと酷いところは、たくさんありますからね。一時間、議員さんを一人、部屋に残しておいただけで、泥棒に入られたみたいに部屋が散らかっていたなんてこともありましたし」

「色んな人がいますからね。ここには。長く秘書をやっていらっしゃると、そういった方とも一緒になるんですね」

「ええ。三十年以上も勤めさせてもらいましたからね。月日が過ぎるのは、早いものです。おかげさまで、あと三年ほどで定年です」

「そうでしたか。本当に、あともう少しなんですね」

「はい。こうして、最後に谷口さんの秘書をやれて、本当に良かったですよ」

「そんな。私なんか、まだ何も世間の役に立っていませんし。菅原さんにはいつも迷惑をかけてばかりで…」

「そんな風に謙遜することはありませんよ。だって、手を抜くことなく、日々の仕事をキッチリとこなしているじゃないですか。様々な人達の意見に真剣に耳を傾けて、最善の策がないかと、常に模索しているじゃないですか。立派なことだと私は思いますよ」

「ですが、それを政策として実現してこその政治家じゃないですか。それが、私にはできていないんですよ」

「それは簡単なことではないですよね。政策として実現させようとすると、どうしても時間がかかってしまいますからね。実際、そうして目に見える形で何かを残せた人って、ほんの一握りじゃないですか。ほとんどの議員は、法案に対して自分の意見を言うだけ言って、賛成や反対の票を投じるだけで、その役割を終えてしまいます。それだけで満足してしまいます。ですから、そういった気持ちをずっと持ち続けていれば、きっと、思いは実を結ぶはずだと私は信じていますよ。まぁ、所詮、素人の戯言に過ぎませんが」

「そんなことはありませんよ。菅原さんの方が、私なんかよりもずっと、この世界に長くいるじゃないですか」

 私の言葉に、菅原さんがふふっと笑ってみせる。

「この世界が長いとはいっても、単に秘書としての実務経験が長いだけですからね。政治に関する知識や経験は、残念ながらそれほどあるわけではありません。ですから、悩んでいる谷口さんに対して適切なアドバイスをすることができないんです。できることといえば、こうしてささやかながらの励ましの言葉をかけることぐらいです」

「それだけでも、凄く助かっています。うまくいかない時に、こうして愚痴を聞いてくれるだけで」

「本当に大変ですよね、議員さんは。様々な立場の人達から、色々な要望を受けて、批判を浴びて。皆さん、苦労していますもんね。悩んでいますもんね。自分のやっていることは、本当に多くの人の為になっているのだろうかって。川口さんなんかも、そうでしたし」

「えっ。あの人が?」

 意外だ

 どこからどう見ても、悩みとは無縁といったような顔をしているのに。

 そういえば、菅原さんは川口さんの秘書を長く勤めていたんだっけ。

「ええ。本当に、人は見かけによらないですよね。知っていました? 川口さんって、人の気持ちに気づいて、色々と心配りができる人なんですよ。困っている人を見かけたら声をかけたり、周囲に悩んでいる人がいたら、その人の相談に気軽に乗ってあげたりするような人なんです。それだけじゃなく、後援会に来てくれる人達、全員の顔と名前を憶えていて、一人、一人に声をかけるのを忘れない人なんですよ。そうして、自分の周りの人達が何を感じて、何を考えているのか、いつも凄く気にしているんです。見た目の印象とは違って、非常に繊細な心を持った方なんですよ」

 菅原さんが悪戯な顔つきで、私にこっそりと教えてくれる。

 川口さんか…

 日頃接していると、そんな人だとは、まったく思えないけど。私には見せない姿が、他にもあるのだろう。今回の五年化法案にしても、これほどまで率先して推進してくれるとは思わなかったし。勿論、私としてはありがたいことではあるけれど。きっと、川口さんにも、何かしらの思いがあるのだろう。

 そんなモノなのかもしれないな

 菅原さんと話をしているうちに、この心が少し軽くなったような気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る