カウント5

 そして

 溜息に枯葉舞う季節でもあるわけです


 地べたに落ちていた枯葉が、風に吹かれ視界から消えていく。

 あぁ…

 今日も駄目だったか。

 喫茶店で三杯目の紅茶を飲む。

 疲れた頭を休めていると、隣の席の若い女の子達の会話が聞こえてきた。自分は最低な男にしか巡りあわないとか、あの子が誰々と付き合いだしたとか。そんな、どうでもいいような話で盛り上がっている。

 手元のポータブルデバイスに出力されている面談者のプロフィール。

 うぅん

 悩ましいな。

 実際に会ってみても、写真の通り、人の良さそうな夫婦だった。

 悪くはないんだけどね。でも、なんかパッとしないんだよな。どこか物足りないんだよね。それが何なのか、自分でもよくわからないんだけど。

 仕方ないよね

 意を決して、プロフィールシートをドラッグしてゴミ箱に捨てる。カサッという音がして、なんだか申し訳ないような気分になる。

 そんなつもりじゃないんですよ

 あなた達では親失格だとか、そういうわけではない。

 生身の人間と人間の相性の問題であって。それが、しっくりくるか、こないかの問題であって。それを判断する私自身、悩みに悩んでいるのだ。

 一呼吸置いて、紹介センターに断わりの連絡を入れる。担当者の藤沢さんに理由を告げて、電話を切る。藤沢さんから、「次に期待しましょう」なんて励ましの言葉を、またしても頂戴することになってしまった。

 どうしてだろう

 祐樹の親となってくれる人が、なかなか見つからない。

 自分の要求水準が高過ぎるのだろうか?

 でも、自分が安心できる人でないと不安だし、絶対に妥協だけはしたくない。

 今日面談した夫婦にしたって、特段の不満があるわけでもなかった。安定した仕事に就いていて、面倒見が良さそうな人達であった。だけど、そんな彼らに対して、私はどうしようもない違和感を抱いてしまったのだ。祐樹は、この家庭には合わないって、そんなことを強く感じてしまった。そんなこと、やってみなきゃわからないはずなのに。一緒に生活するのは祐樹であって、私ではないのに。

 でも、祐樹のこれからの人生を大きく左右することだから、私自身が十分に信頼を置けるような人達であって欲しい。だから、慎重に慎重を期して判断しているつもりだ。だけど一方で、タイムリミットが迫ってきてもいるから、流暢に構えているわけにもいかない。担当の藤沢さんが言っていたように、こういったことって巡り合わせの問題だから、焦っても仕方ないけど。でも、内心は凄く焦っている。

 携帯でメールチェック。特に重要なメールは来ていない。今後の手続きについて、いつ連絡が来るのだろうか。

 不安だ

 最後の最後まで、自分一人で全てのことができるのか。

 でも、やらなきゃいけないんだよね。

 スケジュール帳をパラパラとめくりながら、来週の予定を確認する。

 今日の練習試合。今頃、祐樹はバッターボックスに立っているだろうか。試合を見に行けなかったのが悔やまれる。少し大きめのヘルメットを被った祐樹の姿を見たかったのに。似合っていないところが、なかなか可愛いらしいのだ。本人に言ったら、拗ねるかもしれないけど。出場するにしたって、きっと今日も代打だろう。たまにはヒットを打ってくれるといいんだけどな。でも、活躍できなくたって全然構わない。仲間達と一緒に笑顔を浮かべてくれていたら、祐樹自身が楽しんでくれていたら、それだけでいい。


「ただいま」

 マンションの室内に、自分の声が空しく響く。祐樹はまだ帰ってきていないようだ。祐樹が帰ってくるまでに、洗濯物をしまって、掃除機をかけておかなきゃいけない。

 でも、疲れたな…

 全身からすぅーと力が抜けて、私はフローリングの床にぺたんと座り込んでいた。

 2LDKのマンション。住み始めてから、もう十年になる。駅に近い新築物件だったこともあってか、当時、五倍を超える入札があった。その当たりクジを私が見事に引き当てたのだ。あの時は、まるで宝くじにでも当選したかのような気分になって、その夜、浮かれた智樹と私は、二人でシャンパンを空けたんだよな。そうして、ここでの智樹と私と祐樹の、三人の生活が始まった。その十年分が、この空間にギュッと詰め込まれている。

 ここも売り払わなきゃいけないんだよね。

 まだローンだって残っているのに。売ったら、少しはプラスになるだろうか。借金だけは絶対に残したくない。

「ただいま」

 干していた洗濯物をたたんでいたら、祐樹が帰ってきた。汗をたっぷり掻いたユニフォームで。

「おかえり。今日は、どうだった?」

「んー。駄目だった。三振しちゃった」

 少ししょげた様子で祐樹が言う。

「そっか。相手ピッチャーの調子が良かったんだ」

「うん。西小の田辺くん。ボールがすっごく速くて、まったく手が出なかった。体も大人みたいに大きくてね、きっと中学に行っても活躍するんじゃないかな。有名な中学からスカウトされているって雄哉が言っていたし」

「それじゃあ、みんな打てなかったんじゃないの」

「そうだよ。だから、今日はヒット二本で完封負けしちゃった。出たヒットだってボテボテで、どれも真芯には当たっていなかったし。今日の試合は厳しかったなぁ。でもさ、僕、練習では絶好調だったんだよ。あんな化物みたいなヤツさえ出てこなかったら、カーンと左中間を破っていたはずだったんだけどなー」

「残念だったね。今度、ヒットが出るといいね」

「うん。あー、お腹減った」

 そう言って、椅子に座ろうとする。

「こら。汚いまま座らないの。早くシャワーを浴びてきなさい」

「はーい」

 バタバタと祐樹が浴室に向かっていく。

 素直で可愛らしいヤツだ。しかし、腹が減ったのか。そろそろ夕飯の準備を始めないといけないな。冷蔵庫には何が残っていただろうか。在り物でできるメニューを考える。

 風呂上り。上機嫌な祐樹。この前買ってやったゲームをやり始めた。たまには、自主的に勉強をして欲しいんだけどな。祐樹の成績を、相手方の親も見ることになる。過去の成績表を提出しているから、そんなに頭がよくないのはバレてしまっているけど。でも、本当に素直で良い子だし、成績だってちゃんと勉強すれば、これからぐんぐんと伸びていくと思うんだけどな。

 料理を作りながら、明日の予定を確認する。仕事を終えたら、富永さんのところに行かないといけない。一人暮らしの九十歳の老婦人で、近所の人達と輪番で食べ物や日用品を届けている。彼女と世間話をしていると、すぐに時間が経ってしまうから気をつけないといけない。

 おっと

 表面が少し焦げてしまった。火力を落として、焼き加減を調整する。

「わっ。ハンバーグ」

 食卓に夕飯を並べると、祐樹が嬉しそうな声を上げた。

 ほら、やっぱり

 ハンバーグとか、カレーとか、子供の好きな食べ物が、この子は大好きだ。そんな風にして、祐樹の喜ぶ表情を一々楽しみにしている自分がいる。

「いただきます」

 そうして、二人の夕飯が始まる。

 今では、祐樹は私と同じくらいの量を食べる。成長期なのだろう。身長も、体格も、日増しに大きくなっていくのがわかる。ついでに態度までもが大きくなってきていて、イラッとする時があるけど。でも、そういった部分も含めて、智樹に似てきたなと思う。目元と少し臆病なところは私譲りだけど、それ以外の部分は智樹にそっくりだ。そうやって、祐樹に、智樹と私の血が流れていることを認めては、ささやかな幸せを感じている。

 だから、今はまだできない

 祐樹に、自分の死について打ち明けることは

 そんなことをしてしまったら、彼から屈託ない笑みを奪うことになってしまう。大きな不安や悲しみを与えることになってしまう。だから、打ち明ける前に祐樹にかかる心理的な負担を少しでも軽くしておく必要がある。だけど、親になってくれる人は未だに見つからないし、私自身、心の整理もついていない。

 あと九ヶ月の命。

 その現実に打ちのめされ、日夜、大きく膨らんでくる不安と闘っている。誰か相談できるような人が近くにいるといいのだけど。いざという時に頼れる人が、私にはいない。

 だけど、祐樹にとっても、現実を受け入れる為に時間が必要だろう。

 この年なら、もうわかるはずだ

 私がいなくなるということの意味を。

 これから一人で生きていかなければならないということの重みを。

 勿論、彼が完全に一人きりにならないように、新しい親は探してくるけど。それでも、精神的には強い孤独感を味わうことになるはずだ。

 そんなことを勘案していると、私自身、どうしたらいいのかが、わからなくなる。今はまだ祐樹と二人で笑い合っていたい。そんな気持ちの強さに押し負けてしまって、なかなか言い出せずにいる。


「金村さん。これ、お願いします」

「はい」

 受け付け担当の山本さんから処方箋を受け取る。そして、処方箋に書かれた薬剤の名前と処方量をパソコンに打ち込む。すると、ロボットがA~Zの順に並べられた棚から薬を収集してきてくれる。ロボットが正しく動作しているか確認して、集められてきた薬のロット番号と製造日、消費期限が端末上にある情報と間違っていないか、一つ一つ照合していく。最後に端末上にある在庫管理表にチェックを入れて、薬を入れた小さなカゴを山本さんに受け渡す。

「お願いします」

 それを受け取った山本さんが間違っていないか再確認して、患者さんに薬の説明をする。その一連の作業を、私達は終業時間まで延々と繰り返すことになる。

 空調の効いている室内。でも、絶えず動いているせいか、少し汗ばむ。一日中、マスクをしながら作業するというのも、慣れているとはいえ結構しんどいものだ。

 ふぅ

 少し息をつく暇ができて、周囲を見渡す。

 調薬室から見える待合室の光景はいつも変わりない。八割ほどが高齢者で、顔馴染みの常連客ばかり。休日の午前のせいか、若い人も多少混じっているけど。たかだか数人程度だ。

 勤めている薬局は隣に大きな病院があるから、客に困ることはない。独立型の店舗は苦労しているところが多いと聞くから、恵まれた環境と言えるだろう。こんな時になって痛感する。学生時代に薬剤師の免許を取っておいて良かったと。智樹がいなくなっても、路頭に迷わず、こうして祐樹を養っていくだけの生活ができるわけだから。

「金村さん。金村さん」

 声のする方に意識を向けると、山本さんの苛立った顔があった。

「はい?」

「これ、お願いします」

 山本さんが、処方箋を私にグッと押しつけてくる。ボッーとしていないでよって、非難するように私を睨みつけながら。

「すみません」

 あぁ

 いけないな

 ここのところ集中力が切れて、気づくと、ぼっーとしていることが多い。

 処方箋に書かれた薬剤名を、頭にしっかりとインプットして機械に向かう。間違いだけは、絶対にしないように。そう自分に言い聞かせながら、作業に戻る。

 よいしょ、っと

 午前で仕事が終わって、ゴミ出しをする。

 以前よりも疲れが溜まりやすくなったような気がする。

 気のせいだろうか。

 体の節々などに痺れとか、麻痺があるわけでもないし。まだ病気の兆候が見られているわけでもない。それでも、この心から不安が消えていくことはない。

 自分は、いつまで働けるのだろうか?

 そんなことを、ふとした時に考えている自分がいる。動けるうちは可能な限り働いておきたい。少しでも多く貯金をしておく必要がある。これからの祐樹の為に。どうしてもお金が必要になった時、祐樹が困らないように。それが、今の自分にできる最低限のことだと思っている。

「おかえりなさい」

 家の玄関を開けたら、祐樹が部屋から出てきた。今日は、これから二人で地元の祭りに行く約束をしている。

「ただいま。宿題は終わった?」

「うん」

「どれどれ」

 祐樹の部屋に入って確認しようとすると、祐樹が机の上にある答案をサッと隠した。そうやって隠されると、なんだか意地悪をしたくなる。祐樹の脇腹をこちょこちょとくすぐって、答案を奪い取る。

「ちょっと、やめてよ。見ないでよ。まだ、復習していないんだからさ」

 ふむ

 どうやら算数に悪戦苦闘していたようだ。智樹も、私も、数学が苦手だったからな。残念ながら、そんなところまで祐樹に受け継がれてしまっているようだ。

「そうなんだ。でも、わからないところがあったら、お母さんが教えてあげるよ」

「いいよ。自分でなんとかするから」

 膨れっ面をしてみせる祐樹。

 本当にピュアだよな。私が祐樹くらい年の頃は、もう少しませていたのに。好きな女の子とか、いたりするのだろうか。今度聞いてみよう。楽しみだ。顔を真っ赤にするかもしれない。

「わかった。でも、困ったら言ってよね」

「うん」

 祐樹と二人で、電車に乗って祭り会場へと向かう。

 降りた駅の駅前の大通りが歩行者天国になっていて、そこを大勢の人々が行き交っていた。それを縫うように歩いていると、太鼓やら、笛やらの音が遠くから聞こえてきた。

 隣にいる祐樹がソワソワしているのがわかる。わかりやすいヤツだ。だけど、私も変わらないのかもしれない。先程から日常から抜け出たという解放感から、なんだか愉快な心地になっている。

 この地方都市で一番大きなイベント。毎年、全国から大勢の観光客がやってくる。神社へと続くメインストリートには、屋台やら、出し物やらが、ずらりと並んでいて、人でごった返している。人混みに紛れないように、祐樹の手を取って歩く。

 丁度、道路脇のステージで和太鼓のパフォーマンスをやっていた。声を出しながら、十人程で太鼓を打ち鳴らしている。その迫力に釘づけになって、私達は思わず立ち止まっていた。胸にズンズンと響いてくるリズム。それが掛け声と共に、ドンドンとスピードを上げていく。体の奥がビリビリと震えて、体全体が揺さぶられているような感覚に襲われる。それに浸っているうちに、あっという間に演目は終わりを迎えていた。なんだか二人共、陽気な気分になっていて、手をブンブンと振りながら歩き出していた。

 それから神社を参って、出店を見て回った。祐樹は射的と輪投げをやって、手に入れた景品に満足したようだ。屋台で売っていた焼きそばとたこ焼きを買って、石段になっているところに腰を下ろす。

「こういうのって、たまに食べるとおいしいよね」

「うん」

 熱心に焼きそばを食べる祐樹。こういったB級グルメが大好きだ。

 気候もちょうど良いし、行き交う人達、みんなの表情も柔らかい。

 やっぱり、祭りだね

 楽しまなきゃ、損だよね

 そんな中、周囲に堅苦しさを撒き散らすかのように、スーツ姿の集団が現れた。

 その中心に若々しい青年がいる。近くの人達の話によると、この地域の国会議員みたいだ。まだ新人のせいか、その風貌には頼りなさを感じる。あんな人に国政を任せていて、本当に大丈夫だろうか。そんな青年が、後援者や地方の議員をぞろぞろと引き連れながら歩いている。

 いい身分だね

 選挙に当選したくらいで、そんな風に偉そうに振る舞えてさ。おまけに、それでたくさんのお金を貰えて。私達の苦しみや痛みにも気づけないくせに。

「ねぇ、お母さん」

 祐樹の声に、我に返る。

「なに? どうしたの?」

「あれ、食べたい」

 祐樹が林檎飴の屋台を指差す。

「あれって、林檎飴じゃない。祐樹、あんなモノ、本当に食べたいの?」

「うん」

「そう。わかったよ」

 まったく、この子は…

 渋々、祐樹にお金を渡す。

 林檎にわざわざ飴なんかかけて、どこがおいしいのだろう。そのまま食べた方が、絶対おいしいに決まっているのに。屋台のお兄さんから林檎飴を受け取って、祐樹が嬉しそうな顔で戻ってくる。周囲に人が増えてきて、私達は場所を変えた。

 しばらく歩くと、街全体が見渡せる高台に出た。

 いつの間にか、私達の影がぐーんと数メートル先にまで伸びている。吹き抜けていく風が強いせいか、少し肌寒さを感じる。眼下には、小さい頃から住んでいる街がギュッと敷き詰められている。

 変わっていないな

 少しずつ新しい建物が増えて、昔ながらの店が減ったけど。若い人が減って、寂れているような印象もあるけど。でも、そういったコトですら、この街の良さではないかとも思えてくる。どことなく人の情が感じられる、ゴミゴミとした繁華街。歩いていると、私達に声をかけてくる温かい人達。それぞれの家庭から漂ってくる夕飯のにおい。そういった空気を持つこの街を歩いているだけで、自然と心にゆとりが生まれてくるような気がする。

 やっぱり

 ここが、私の故郷なんだよね


 だけど

 この祭りに来ることも、もうないのか

 秋という季節を感じることも、もうないんだよね

 夕暮れ時の光景をこの目にしっかりと焼きつけておく。こういった思い出を一つ、一つ大切にしていかないといけない。

 九ヶ月なんて、あっという間だ。

 林檎飴を食べ終えて満足した様子の祐樹。呑気な顔をしながら、べたついている口を服の袖で拭おうとする。

「ちょっとやめなさい。駄目でしょ。服が汚れるじゃない」

 祐樹の手を止めて、ウェットティッシュで口の辺りを拭いてやる。

 まったく、もう

 こういったところが、まだまだ子供なんだよね。もうちょっとしっかりして欲しいのに。メインストリートに戻って、もう一度、祭りの賑わいを味わって、私達は家に帰った。

 暗い我が家。

 明かりを点けると、急に現実に引き戻されたような心地になる。

 明日は、親探しセンターに行って、担当の藤沢さんと面談する予定になっている。ただ祐樹と性格が合って、優しくて、思いやりのある人達であって欲しいと思っているだけなんだけどな。それが、藤沢にもなかなか伝わらない。

 祐樹がそそくさとリビングに向かっていく。見たいテレビ番組があるようだ。そういえば、この時間、いつも見ているテレビ番組があったっけ。テレビに齧りついている祐樹を横目に、お茶を入れて暫し休憩する。

 はぁ…

 体がぐったりと重い。

 足だけじゃなく、体のあちこちに疲労が蓄積しているのがわかる。

 もう何もかも、全て投げ出したい。

 そんな気分だ。

 そんなせいかもしれない。

「ねぇ。祐樹」

「ん? なに?」

 テレビから視線を逸らさない祐樹。

「私さ、あと九ヶ月で死ぬんだ」

 あっけなく

 何の心の準備もなく

 自分からそんな言葉が出ていた。

「お母さん。なに、冗談言っているの?」

 振り返って、私に嘘でしょって、祐樹が確認してくる。その訴えかけるような眼差しに、すぐに返答できない。

 どうしよう

 どうしたらいいんだろう

 何かフォローしなきゃと心が急くけど。焦っているせいか、適切な言葉が頭に浮かんでこない。

「冗談なんかじゃないよ。私は本当にあと九ヶ月で死ぬんだよ」

「嘘」

「嘘じゃない」

 そんな言い合いの後、祐樹は怒ったような顔でリビングから出て行ってしまった。

「ちょっと待ちなさい、祐樹」

 慌てて追いかけたけど、祐樹は部屋に鍵をかけて閉じこもってしまった。

「祐樹。ねぇ、祐樹。ちゃんと話を聞いてよ」

 そう何度呼んでも、部屋の中から返答はない。

 あぁ、もう

 何をやっているんだろう、私は

 やっぱり、こんなことになってしまったじゃないか

 肝心のタイミングを、私は間違えてしまった。二度と取り返しのつかないことをしてしまった。これから、あの子とどう接していけばいいのだろう。

 ねぇ、智樹

 私じゃ駄目みたい。あなたみたいに冷静になれないよ。落ち着いて、祐樹と話し合うことなんかできないよ。

 いくら待っても、祐樹が部屋から出てくる気配はない。

 諦めて、リビングに戻る。点きっぱなしのテレビでは、お笑い番組がやっている。テレビを消すと、急にリビングが静かになった。シャワーを浴びたいけど、そんな気力も湧かない。寝室のベッドに、体を横たえる。目を閉じても、まったく眠れる気がしないけど。

 ふと、箪笥の上に置いてある智樹の遺影に視線がいった。こちらの気も知らず、ニッコリと笑っていやがる。

 この大バカ野郎

 こんな時に、なに笑っているんだよ

 そう呟いて、その顔をジッと睨みつける。しかし、いつまで経っても、その表情は変わらない。

 卑怯者め

 お前がいなくなって、私はもうボロボロなんだよ。残された人の気持ちも知らないで、勝手に一人で死んでいくなんてさ。

 ズルいよ。ズル過ぎるよ。ちょっとは、私の相談に乗ってくれたっていいじゃない。一緒に悩んでくれたっていいじゃない。

 ねぇ、そうでしょ?

 私達、夫婦だったんだからさ


 あれっ

 顔を上げると、眼前に智樹の顔があった。

 目の下にクマが浮いていて、彼が酷く疲れているのがわかる。家族の為に、毎晩遅くまで働いているからだろう。

 あぁ、そうか

 これは夢なのか

 それが感覚でわかる。智樹から、彼に迫ってきている死を告げられた日。そういえば、智樹から打ち明けられたのも、ちょうど九ヶ月前だった。祐樹が寝た後、私達は二人でビールを飲みながら、テレビドラマを見ていた。

「沙耶」

 そう言った彼。

「なに?」

「言わなきゃいけないことがあるんだ」

 いつになく真剣な顔をした智樹。滅多に見かけない、その表情。なんだか間抜けな気がして、私は思わず笑ってしまっていた。

「沙耶、冗談なんかじゃないんだよ」

「ごめん、ごめん。なあに?」

「僕さ、あと九ヶ月で死ぬんだ」

 智樹がゆっくりと、一語、一語、確かめるようにそう言った。

「えっ」

 彼の言葉が耳に触れた途端、この頭の中が真っ白になった。

「僕さ、あと九ヶ月で死ぬんだ。ごめんよ。沙耶に、なかなか言い出せなくて」

「それは、本当のことなの?」

 私の言葉に、智樹がゆっくりと頷いてみせる。

「本当に?」

 智樹がもう一度、頷く。

「残念ながら、本当のことみたいなんだ」

「そっか」

 それ以外の言葉が出てこない。

 急に、視界に映るモノ、全てが遠くに行ってしまったかのように感じられる。

 私だって、わかっていた

 智樹が最近、悩んでいたことくらい。私に話し掛けるタイミングを探していたことくらい。

 だけど、それが、こんなことだとは想像すらしていなかった。

「ねぇ、なんでよ。なんで、智樹なの?」

 そんなことを口にしている自分。

「そうだよね。僕だって、信じられないよ。自分が、病魔に冒されていたなんて」

「医者には行ったの?」

「うん。行ったよ。でも、告知が来たということは、もう病気の進行を止められないということでしょうと先生から言われてしまってね」

「そうなんだ」

「まぁね。告知の連絡が来たときは、僕自身、絶望に駆られて、これからどうしたらいいんだろうって途方に暮れたけどさ。でも、最近になってようやっと、自分の死について少しずつ受け入れられるようになってきて。それで、沙耶に言わなきゃって、思って。それで…。

 まだね、九ヶ月後に自分がこの世からいなくなっているという現実感は全然なくてさ。未だに半信半疑なんだよね。まず何よりも、沙耶と祐樹を残してしまうことになってしまって、本当に申し訳ないと思っている。僕自身、二人と別れることは、すごく辛いことだし、できることなら、もっと、もっと二人と一緒にいたいって思うけど。でも、残された時間は限られているからね。これからは、二人といる時間の一つ、一つを大切にしていきたいと思うんだ。あと、二人がこれから苦労しないように、色々と考えているんだけど」

「やめてよ。そんなこと、今、言わないでよ」

「ごめん」

「アホ」

 智樹を責めている自分。

 とんでもない阿呆だ

 わかっている。

 智樹のせいじゃないってことくらい。

 彼だって、苦しんでいるってことくらい。

 そんな彼を責めている自分は、最悪な人間だっていうことくらい。

 だけど、このどうしようもなく苦しくて、やり場のない思いをどこに向けたらいいのか、私にはわからない。

 思わず、私は智樹の体にぎゅっと抱きついていた。智樹の細身の体は頼りなくて、骨ばって痛かったけど。でも、ずっと身を委ねていたくなるような不思議な安心感がそこにはあった。

 私は、あなたのことが大好きなんだよ

 本当に、本当に、大好きなんだよ

 保育園の頃からの幼馴染。親がいない同士ということもあってか、二人でいることが多かった。同じ小学、中学に通っている時も、部活でどちらかが遅くなることがない限り、二人で帰ることが当たり前だった。そんな日常だったから、智樹と一緒にいないということが、私には考えられないことだった。お前ら付き合っているんだろと同級生達からはよく茶化されて、全力で否定していたけど。その度に二人共、顔が赤くなるものだから、付き合っているんだとみんなに勘違いされていた。そんなこともあってか、二人でいる時、互いの関係がギクシャクすることもあったけど。でも、そんな時間も、私は大好きだった。だって、智樹が、私のことを異性として意識しているんだって感じ取ることができたから。

 そして、高校に入った春、智樹から告白されて、私達は付き合い始めた。それから、いっぱいデートをして、たくさん愛を交わして。勿論、山ほど喧嘩もして、二人の仲が険悪になって、別れ話が出たりもした。だけど、別れ話が出ている時だって、私には、智樹以外の人と付き合っている自分が想像できなかった。そうして同じ大学を出て、就職をして、社会人四年目に海の見えるレストランで食事をした後、ありきたりなプロポーズをされて。それから彼の妻になって、三年が経って祐樹が生まれて…

 そう

 忘れもしない。祐樹がお腹から出てくるときは、この世が終わるんじゃないかと思えるくらい痛かったんだよな。だけど、あの瞬間のことは、今でもハッキリと憶えている。自分の体から、新たな命が生まれてくるという感動。あの経験は何物にも代えがたい。祐樹を看護婦さんから受け取って胸に抱かせてもらった時の喜び。幸せというモノが、目の前に形となって現れたことを実感した瞬間でもあった。それからの子育ては大変だったけど。でも、智樹も協力してくれて、私達三人の生活は順風満帆に、祐樹の成長と共に、一年、一年と歳月を積み重ねていった。それが、これからも、ずっと、ずっと続いていくモノだと、私は思い込んでいた。こんな風に、脆くも崩れ去っていくモノだとは微塵も思っていなかった。

 なんで、私達はこんな運命なんだろう。

 神様とやらを恨んでみたくもなる。

「迷惑をかけるね。沙耶にも、祐樹にも」

 智樹が、私の頭を優しく撫でてくる。

「わかっているなら、迷惑なんかかけないでよ」

「そうだよね。ごめん」

「私一人だけじゃ、やっていけないよ」

「大丈夫だよ、きっと。沙耶は、僕なんかよりも、ずっと、ずっと強いから」

「そんなことはないよ」

「そんなことはあるさ」

 口元を少し上げて笑ってみせる智樹。

 私の一番好きな表情を、こんな時にしてみせる。思わず、馬鹿野郎と言いたくなる。そんなことをされたら、この心がボロボロに崩れていってしまうじゃないか。涙がポロポロと零れ出てきてしまうじゃないか。それを悟られないように、彼の胸に顔を埋める。そうしてジッとしているうちに、段々と意識が曖昧になっていった。

 んっ?

 瞼を開けると、自分がベッドにうつ伏せになっていることに気づかされた。

 どうやら私は寝ていたみたいだ。だけど、この体には智樹の温もりがまだじんわりと残っている。彼の言葉だって、まだこの内側に残響している。

 そうだよね

 わかっているよ

 これから、祐樹としっかり話をしていかなければならないんだよね。

 あの子も、もうそれぐらいのこと、理解できる年だもんね。私が死ぬことも、親になってくれる人を探していることも、その人達とこれから生活していかなければならないことも。祐樹に理解してもらわないといけない。そして、納得してもらわないといけない。そういった現実を受け入れる為に、彼にだって時間が必要だ。

 最後に「沙耶、愛しているよ」と言った智樹の顔が、頭に浮かんでくる。ひどく苦しいはずなのに、無理して笑顔を作ってみせた智樹。私も、最後に祐樹にそう言えたらいいなと思う。だって、あなたは、私達二人が生きた証なんだから。

 その為にも今、私は自分にでき得る限りのことをしなければならない。

 ねぇ、そうでしょ

 視線の先の智樹は、まだ笑ったままだ。

 もう少しで、そっちに行くことになるよ。その時は、思いっきり文句を言わせてもらうからね。覚悟しておいてよ。

 その遺影に、私は語りかけていた。

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