カウント6
季節も、はらりひらりと移り変わり
涼しい風が吹くようになりました
誰もいないトレーニングルーム。室内の温度を下げて、ランニングマシーンで走り込む。一定のリズムを刻みながら、体のバランスと筋肉の動きを入念にチェックする。
悪くない
しばらくすると表示が十キロになって、速度が落ちていった。
ふぅ
長椅子に横になって休憩する。静かな室内に響く、自分の荒い呼吸。
最新設備がずらりと並んだトレーニングルーム。室内の隅々まで掃除が行き届いているせいか、随分とひっそりとしているような印象を受ける。窓の外、隣接する運動公園には、犬を連れて散歩している人達が多い。
あれがゴールデンレトリバーで、その隣がヨークシャーテリアだな。
最近、娘の美弥が犬を飼いたいと言っているせいか、自分まで犬種を判別できるようになった。
とはいえ
「犬の散歩、誰がするのよ」と妻の由亜がひどく渋っているから、飼う許可が下りるかはわからない。今朝も、由亜と美弥はその件が引き金となって喧嘩をしていた。
やれやれだ
シーズンオフに入って一週間。
多くの選手は休暇中だが、どんな時であっても体を動かしておくことは重要だ。日々の弛まぬ鍛練によって、この肉体は構築されている。少しでも休ませてしまうと、筋肉の応答が鈍ってしまう。元の状態に戻そうとすると、最低でも二週間はかかる。実際の数値には表れない自分の感覚的なモノでしかないけれど。
なにより、自分の体を知るのにちょうど良い時期でもある。この手足がどのように動くのか。それぞれの筋肉がどこまで縮んで、どこまで伸びるのか。それらの応答速度と、駆動速度。どこの部分に負荷がかかりやすくて、疲労が蓄積しやすいのか。そういったことを一つ、一つ確認している。この時期じゃないとできないことだ。
プレシーズンに入ってしまったら、プレーすることに多くの時間を割かなければならない。一つ一つのプレーに対して、自分の体を順応させていく必要がある。その前に、こうして素の自分と向き合うこと。それが、自分が野球選手として長くやっていけている秘訣だと思っている。
それに
家にいるのも、なんだか落ち着かないしな。
近くの棚にあったチームマスコットのぬいぐるみ。手に取ってながめてみる。著名なデザイナーが、クマをモチーフにデザインしたというマスコット。愛嬌のある顔をしていて、子供達に人気がある。うちの美弥と翔も大好きだ。
そういえば
このチームに入ってから一度、球団名が変わったんだよな。その時、自分の去就も騒がれた。入団してからずっと弱小球団と呼ばれていて、自分が好成績を収めながらも、Bクラスがチームの定位置であったからだ。そんな状態だったのが、野里とか、重原とかが入ってきて、彼らの成長と呼応するようにチームは年々力をつけていき、今では毎年優勝争いをするまでになった。今シーズンも、最終的には優勝を逃してしまったが、チームとしても、個人としても悪くない成績だった。成田のような若手も育ってきたし、世代交代も順調に進んでいる。もう自分がいなくたって、みんなならきっとやってくれるはずだ。
そう
突然、俺がこの世界からいなくなっても…
そうして、自分のいない一年後のチームを想像している自分がいる。自分の名前のないスターティングメンバー。代わりにライトのポジションに入るのは大内だろうか。そんなことに少しばかりの寂しさを憶えるけど。でも、その時は必ずやってくるんだよな。
さて
今日は、これくらいで上がろうか。
やり過ぎると、トレーナーの太田さんから注意されるからな。
毎度のように、「あなたは練習し過ぎよ」なんて言ってくる、口うるさい人だ。だけど、彼女のおかげで、今シーズンも怪我はあったけど、それ以外では大きな不調もなく乗り切れた。感謝しないといけないよな。
「よぉ。澤田ちゃん。今日も来ていたのかい?」
鍵を返却しに管理室に行ったら、管理人の渋沢さんが声をかけてきた。
休日の今日も、管理室で一人パソコンに向かっていたようだ。
「はい」
「そっかぁ。偉いね、お前さんは」
「そうですかね」
「偉いよ。今の時期から怪我をしない体を作り上げているんだもん。やっぱり活躍するヤツは違うよね。誰もいないところで、ちゃんと努力しているんだからさ。二軍の若いヤツらに見せてやりたいよ。お前達に足りていないのは、こういったところなんだってね。
わかっていないヤツらが多いんだよ。自分には能力が足りていないって、嘆くヤツが多いけどさ。それじゃあ、その自分の能力とやらをフルに出したことがあるのかって言いたくなるんだよね。そこら辺なんだよな。活躍できるヤツと、できないヤツの差ってさ。ほんの、ちょっとの差でしかないんだ。でも、それを日々積み重ねていく内に、とんでもなく大きな差になっている。なぁ、そうだろ」
「まぁ、そんなモノなのかもしれませんね」
「そうだぜ。これまで色んなヤツを見てきたから間違いないさ。しかし、お前さんの場合はなぁ。ちょっと練習のし過ぎだと思うけどな。たまにはゆっくり休んでもいいんじゃないかね。もう良い歳なんだからさ」
「無理をしない程度に、休みは入れていますよ」
「そうか。まぁ、お前さんのことだから心配はしていないけどさ。でも、真面目過ぎるくらい、真面目な野球人間だよね。澤田ちゃんは。野球以外の趣味はないのかい?」
「それが、全然なくて」
「やっぱり、そうなんだね。でも、たまには息抜きも大切だよ。ずっーと野球だけだと、気が滅入っちゃうからね。まぁ、しかし、お前さんの場合は関係ないか。澤田ちゃん以上に野球好きな人間を見たことがないもんなぁ。それも大事な才能なんだろうね」
「ありがとうございます」
「でもさ、澤田ちゃん。いつまでやるつもりなの?」
渋沢さんが、ちらりと俺の目を覗き込んでくる。
「えっ」
「もうそろそろ考えるだろ。引退して、何しようかなって」
「ええ。まぁ…」
「そっかぁ。まだまだやるってか。たいしたもんだな」
そう言って、渋沢さんがニカッて笑ってみせる。
「いえ。俺自身、まだそういったことを全然意識できなくて」
「そうだよね。俺もそうだったもん。でも、いつかはやってくるモノだからね。考えておいた方がいいと思うよ。澤田ちゃんの場合は、特に」
「はい」
「俺の時は、シーズン終了一カ月前だったんだよね。当時、球団幹部だったケン兄から急に呼び出されてさ。会議室に入ったら、球団の幹部連中がズラッーと座っていたんだよね。そこで椅子にちょこんと座らされてさ。来年、君に給料を支払うことはできないと宣告されたんだよね。
もうさ、それを言われた瞬間、頭の中が真っ白になっちゃってさ。今、何を言ったんですかって、思わず聞き直しちゃったもん。それで、それから全身から力がスッーと抜けちまってさ。椅子から立ち上がるのもやっとだったんだよね。ほんと、廃人にでもなったような気分だったよ。
野球ができなくなるって、それまで考えたことがなかったからね。これから自分はどうしたらいいんだろうって、めっちゃ悩んだよ。野球以外のことをするにしたって、何をしたらいいのかもさっぱり思いつかなかったからね。この人生で、あの時ほど絶望的な気分にさせられたことはなかったよなぁ」
渋沢さんが、遠い目をして見せる。
渋沢さんは、かつて選手として、このチームで活躍していた。俺自身、子供時代に彼の活躍をテレビで目にしていたから、当時の話を聞くと感慨深いものがある。六番とか七番を打つことが多くて、バッティングであまり目立つことはなかったけど。華麗なショートの守備で、観客をよく沸かせていた。
そして引退後、球団に残り、球団職員として働いている。事務とか、広報とか、球団内の仕事を転々として、今は練習場の管理人として、ここで練習に励む選手達の姿を見守っている。もう六十過ぎだけど、やって来る選手、全員の顔を憶えていて、一人一人を名前で呼んでくれる。時間のある時は、優しい顔をしながら、黙って俺達のトレーニングを見ている。そんなせいか、渋沢さんの話を聞いていると、監督とか、コーチなんかよりも、選手達の状態を把握しているんじゃないかと思う時だってある。
「澤田ちゃん。今度、飲みにでも行こうや」
「はい。是非」
そんな社交辞令のような言葉を交わして、管理室を後にする。
でも
飲みに行かないといけないよな。
俺が新人で二軍にいた時、ずっと目をかけてくれた人だ。当時、技術的なことよりも心理的な部分について、色々とアドバイスをくれた。それが今の自分の糧となっている。
「バッターボックスに立つ時ってさ、今度の休みにどこ行こうかなあって考えているくらいが丁度良いんだよね。温泉に入って、温泉饅頭でも食いながらのんびりしたいなぁって思いながら、相手ピッチャーのことを眺めてみるんだよ。すると、真剣な顔をしている相手が、なんだか間抜けに見えてくるんだ。別に、相手のことをおちょくれとか、そういったことを言っているわけじゃないよ。ただ、それくらい心にゆとりが必要だって言いたいわけさ。
ここで絶対に打たなきゃいけないって、変に気負っちゃ駄目なんだ。体が硬くなって、視野が狭くなってしまうんだよね。おまけに、相手ピッチャーが凄く見えちまうんだ。そういった心の持ちようで、打てるはずのボールも、とんでもなく速く感じてしまうモノなんだ。勿論、相手がいるスポーツだから、打てないボールは打てないけどさ。でも、打てる時に打てるか、それで決まっちゃうんだよね。プロ野球選手の評価ってさ。チャンスなんて、自分にそうそう巡ってくるモノじゃないからね。そこで、自分の力をフルに出せるかどうか。それが、ほんとに大事なんだよ」
そういった言葉が、今でも一語一語思い返せるくらい、この胸の奥深くに刻み込まれている。
外に出ると、空一面を厚い雲が覆っていた。吹き抜けていく風が、生温くて重たい。もう少ししたら雨が降るかもしれない。
このまま家に帰るのはなあ…
なんでか、居づらいんだよな。我が家は。由亜とか、美弥とか、翔とかと一緒にいて、息苦しさを感じることがある。野球以外のことで、何を話したらいいのかがわからないからなのかもしれない。それに、時間を持て余すのが苦手だということもある。そんなせいか、特に用もないのに帰りにゲーム屋とか、本屋とかに立ち寄っていたりする。渋沢さんの言うように、野球以外の趣味を見つけた方がいいのかもしれない。今の自分に、そんな時間が残されているのかはわからないけど。
気づくと、俺は管理室に戻っていた。
「渋沢さん」
「んっ? どうした。忘れ物かい?」
「いえ。これから、二人で飲みに行きませんか?」
そうして俺は、渋沢さんのことを誘っていた。
「おぉ。俺は構わないけど。お前さんは、いいのかい?」
「はい」
「よし。それじゃあ、この仕事をすぐに片付けるから。そこで、ちょっと待っていてくれるか」
パソコンと睨めっこしながら、渋沢さんが何やら作業を急ぎ始めた。
パソコンに向かう姿勢が猫背のせいか、その姿がいつもより小さく見える。本当は、野球の現場にいたいのだろう。この仕事は、彼の望むモノではないはずだ。しかし、そうではあっても、渋沢さんは、自らに課せられた仕事に手を抜くことはしない。そんな人だ。
二人で入ったのは、駅前の小さな居酒屋。
「やっぱ。芋焼酎だよなぁ」
渋沢さんは、いつも最初から芋焼酎を注文する。飲みたい物を飲むのが一番だと言いながら。そして、すぐに赤ら顔になって、饒舌になる。
そんな渋沢さんと話すのは、いつも野球の事だ。今のチームの課題、それぞれの選手の状態について。来シーズンに向けて、何をしなきゃいけないか。そういった事を話していて、この人は本当に野球が好きなんだなと再認識させられる。
「三島と荒川の調子はどうですか?」
高校の後輩達の様子をそれとなく聞いておく。
「んー。三島と荒川ねぇ。まぁ、彼らなりに精一杯やっていると思うよ。でも、まだまだモノ足りないかな。一軍に上がるにはね。
なんか、こうさ。ズバッと飛び抜けたモノがないんだよね、二人とも。長打をバンバン打てるとか、足が異常に速いとかさ、そういった特徴がないと生き残れない世界じゃない。それなのに、なんでかみんな、小さくまとまってしまうんだよね。このままだと、三島ちゃんは来年辺りに契約を切られてしまうかもしれないな」
「そうですか」
一軍に上がってきて活躍して欲しいけど。やはり簡単ではないようだ。この前、二人と会った時の表情が暗かったから気にはなっていたけど。
心配だな
このまま終わるような選手じゃないのに。
素質だって、俺なんかよりも、ずっとあると思うのに。何を、どこで踏み違えてしまったのだろうか。ちょっとしたキッカケとか、運が足りていなかったのかもしれない。そんな不確実なモノに、この人生を左右されたくはないけど。でも、活躍する選手には不思議とそういったモノが巡ってくる。
俺の時だって、当時の主力選手が怪我をして、代わりとなる選手までもが故障中という苦しい台所事情ゆえの一軍昇格だったのだ。その時の延長戦で選手を使い果たして、最後に回ってきた自分の出番。そこで打ったサヨナラホームラン。結果的に、あれが自分の野球人生のターニングポイントであった。あの時、一軍に上がっていなかったら、試合が延長戦にもつれていなかったら、二軍でずっと燻ったまま、この世界を去っていたかもしれない。
「んー。難しいよなぁ。三島ちゃんの場合、練習し過ぎっていうのもあると思うんだよね。スランプの時でも、それまでと同じきついメニューを自らに課しているんだけど。それで、調子が上向くならいいんだけどさ。駄目なわけじゃない。それなら、やることを変えなきゃいけないと思うんだけどさ。頭が固いというか、なんというかでね。コーチに言われても、全然練習を休もうとしないし。焦る気持ちは、わからなくないけどさ」
そうなんだよな
一度焦りだすと、心に余裕がなくなって、今までできたはずのことが急にできなくなってしまう。もう自分は駄目なんじゃないかって、このまま選手生命が終わってしまうんじゃないかって、そういった恐怖がドッと襲いかかってくる。それを打破する為、アレコレと試行錯誤しているうちに自分の形を見失って、あれよ、あれよという間に成績が下降していく。プロ選手なら、誰しもが少なからず経験することだ。そして、そこから抜け出すことができずにこの世界から去っていく人達を、これまで大勢見てきた。
仕方ないことだ。勝負の世界なのだから。みんながみんな、呑気に笑っていられるようなところではない。結果を残せる者だけがスポットライトを浴びて、その他大勢は光ある場所を通ることなく立ち去っていく。だけど、そういった激しい競争があるからこそ、多くの名勝負が生まれ、ファンの心を掴むようなゲームができているんだと、自分は考えるようにしている。
「しかし、澤田ちゃんよぉ。家庭は大事にしないといけねぇよ」
何杯目かの焼酎を飲んで、だいぶ呂律が回らなくなった渋沢さんが言う。
「ええ。わかっています」
「ほんとか? ほんとにわかっているのかよぉ。俺みたいなことには、絶対になるなよ」
俺の肩を掴んで、ぐらぐらと揺らしてきた。
「はぁ…」
「いいか。俺みたいな男にはなるなよ。女に逃げられちまうような男にはな。野球に呆けてばかりで、それ以外のことが、なーんにもできなくてさ。頭もてんで悪くて、一般常識すらなくて。そんな人間だけにはなるなよ。
しかも、そのくせ、雑用みたいな仕事をしている自分を認めたくなくてさ。それで酒に逃げて。相手に暴言なんか吐いて、泣かせて。さすがに手は出さなかったけどさ。それで逃げられてから、気づいたんだよな。大切な人を失っちまったことに。取り返しのつかないことをしてしまったことに。ほんとに大馬鹿者だよ、俺は。大馬鹿者なんだよ。ほんとに悪いことをしたと思っているんだ。ほんとに申し訳ないことをしたと思っているんだ。彩香には」
「もう会ってはいないんですか?」
「時々、会っているよ。会ってさ。で、その度に謝っているよ。でも、駄目だよなぁ。口では、もういいよ、もう気にしていないよって言ってくれるんだけどさ。でも、一生、許しちゃあくれないだろうね。
だって、俺が彼女の人生を狂わせてしまったわけだからさ。俺なんかと結婚したせいで、こんなことになってしまったわけだからね。もっとまともな人と結婚していたら、今頃、幸せな生活を送っていたのかもしれないのにね。だから、謝らなきゃいけないんだ。こんな酷い男でごめんなさいって。俺なんかのせいで、君の人生を狂わせてしまって申し訳ありませんって。ほんとに申し訳ありませんでしたって」
それから渋沢さんはテーブルに頭をつけて、何度も、何度も謝った。そうしているうちに、いつの間にか、テーブルに突っ伏したまま寝入ってしまった。
野球を辞めた後、色々とあったのだろう。
その心中は痛いほどよくわかる。もっと野球に深く関わっていたかったに違いない。練習場の管理人なんかで終わるような人ではなかったと思う。もっと上に立つことができた人だ。
だけど、少し優し過ぎるのかもしれない。渋沢さんは。人に厳しく接することができない人だ。二軍でふて腐れている選手にも、声を掛けることを忘れない人だ。球団を去っていく選手、一人一人に温かい言葉を掛けて、赤い目をしながら見送る人だ。そんな人だから、みんなから慕われているし、彼の周囲にはいつも人がいて、笑いで満ちている。
残念だな。
もっと話したいことがあったのに。相談したいことがあったのに。こんな風に酔っぱらって寝られてしまったら、それもできないじゃないか。その寝顔に、そっと囁きかける。
渋沢さんさ
俺、あと九ヶ月で死ぬんだ
ごめんよ
先に逝くことになってしまって
でも、俺がここまで活躍できたのも、あなたのおかげなんだ
自分を見失いかけた時、相談に乗ってくれて、本当に心強かったんだよ
あなたの言葉に、どれほど勇気づけられたことか
だから、俺は、あなたのような人になりたいとずっと思っていたんだ
それも、もう叶うことはないけど
でも、残された時間だけは頑張ってみようと思うんだ
誰に対しても優しい言葉をかけられるように
みんなの未来が、素晴らしいモノになるようにと祈れるように
尊敬しているんだよ
あなたのことを
大好きなんだよ
あなたのことを
だから、これからも今までと変わらない渋沢さんでいてよね
これまで
本当に、ありがとうございました
タクシーを降りて、暗くなった我が家の前に立つ。
みんな、もう寝ているようだ。閑静な高級住宅街の一角にある二階建ての一軒家。門をくぐって、敷地の半分ほどを占める広い庭を横切る。
プロになって十二年目の時に思いきって買った家。翔が生まれる直前で、プックリと膨らんだお腹を抱えた由亜の手を引きながら、玄関のドアを開けたのを今でも憶えている。あの時は、身重な由亜の代わりに、三歳の美弥の面倒と、家の手続きをしなければならなくて、目が回るくらいに忙しかった。よく寝不足のまま、試合や練習に向かっていたものだ。だけど、当時は毎日が充実していたような気がする。由亜とはたくさん喧嘩をしたし、美弥のわがままや、翔の夜泣きには、毎度のようにウンザリとさせられたけど。でも、家中に笑顔が溢れていた。
玄関の扉をそっーと開ける。家の中は真っ暗で、足元にある非常灯が一つ、ポッと点いた。それと同時に、自分の家のにおいが、鼻の中にすぅーと入り込んでくる。それを嗅ぐと、肩から力が抜けていくような心地になる。シャワーを浴びて、寝室のベッドに潜り込むと、隣では由亜がぐっすりと寝ていた。彼女の邪魔にならないように自分のスペースを確保して、瞼を閉じる。
だけど、いつまで経っても寝つけない。
壁にかかっているカレンダーが気になるからだろうか。
そろそろ由亜に言わなければならない。自分の死期が迫ってきていることを。その時、彼女はどんな反応を示すだろうか。怒り出すだろうか、泣き出すだろうか、冷静に受け止めてくれるだろうか。今後のこともあるし、伝えるならできるだけ早い方が良いけど。俺自身、まだ心の準備ができていない。キャンプが始まる前くらいがいいだろうか。そんなことをぼんやりと考えている。
「ほら、祐樹。早く起きて。朝よ」
重い瞼を開くと、由亜の顔が目の前にあった。
「あぁ」
「もう。昨日、何時に帰ってきたの? 今日は、美弥の発表会なんだからさ。ちゃんとしてよね。ほら、さっさと起きて」
由亜に急かされて、ベッドから出て服を着る。
「ちょっと。そのままでいいと思っているの? その寝癖、なんとかしなさいよ。あと、髭も剃ってきて」
「はい」
いつの間にか、俺は二歳年下の由亜の尻に敷かれるようになっていた。
野球にしか頭がいかない俺とは違って、彼女は様々なところに目がいく、しっかり者だ。気が強過ぎるところが、少々玉にキズだが。
リビングに行くと、美弥と翔はもう食事を終えていたようで、ジュースを飲みながら漫画や本を読んでいた。
「おはよう」
「遅い。早くして」
子供達に挨拶したつもりだったのに、それよりも早く、由亜から厳しい言葉が飛んできた。髭を剃っていたせいで、時間がかかってしまったんだけどな。そんな言い訳が彼女に通用しないことは十分に認識しているが。
食卓には、俺の為に焼き魚とご飯と味噌汁が並べられている。それと、色鮮やかな山盛りのサラダ。必要な栄養素とカロリーがしっかりと計算されたメニュー。野球選手である俺の為に、由亜はわざわざ栄養士の免許まで取って、食事に人一倍、気を遣ってくれている。そんなせいか、由亜と暮らし始めてから変に太ったり、脂肪がついたりすることがなくなった。
「パパ。今日来てくれるんでしょ」
それまで読んでいた本を置いて、美弥が尋ねてきた。
「あぁ、行くよ。美弥の演奏、楽しみにしているよ」
「うん。頑張る」
俺の言葉に、美弥がニコッて笑ってみせる。そんな彼女の表情に、この胸がほんのりと温かくなる。
「今日は、どんな曲を弾くんだ?」
「んーとね。モーツァルトの…」
「ちょっと、祐樹。時間がないんだから、さっさと食べてよ。あと三十分で出掛けるんだよ。あんた、わかってんの?」
「はい」
やはり、俺は由亜には敵わない。
朝食後、家族四人、自動車でピアノ発表会の会場である市民ホールに向かった。由亜は美弥のリハーサルに付き添ったり、服の準備を手伝ったりしなければならないそうだ。演奏会が始まるまで暇な翔と俺は、近くのショッピングモールをぶらぶらすることにした。出店で売っていたソフトクリームを食べながら、服屋などが立ち並ぶモール街を歩いていると、人が寄ってきてサインを求められた。それに応じていると、いつの間にか周囲に人だかりができていて、全ての人達に応対するのに二十分ほどかかってしまった。待ちぼうけを食らった翔が、つまらなそうな顔をしている。
「ごめんな、翔。どこか行きたいところはあるか?」
「うん。あっち」
翔に手を引っぱられて、おもちゃ屋に入る。
人の動きを完璧に再現するとかいうロボット。一緒に日常会話を学んでいくという人形。実に様々な玩具が、棚に陳列されている。そんな中、ヒーロー戦隊モノの棚のところで立ち止まった翔が、ウズウズとし出した。
うぅむ
これは参ったな
「これが欲しい」
翔が、一番大きなロボットを指差して言う。
お前…
わからないのか。
こんなモノ買ったら、俺が由亜に怒鳴られるだろ。
「翔。これが本当に欲しいのか?」
「うん」
「家にも、似たようなロボットがあったじゃないか」
「あれは、前のヤツだよ。この前、新しいシリーズが始まったんだ」
「前のロボットのどこに不満があるんだよ」
「だって、もうテレビは終わっちゃったんだよ。時代遅れじゃん」
「時代遅れって。翔、お前なぁ。テレビ放送が終わったからって、全然時代遅れなんかじゃないぞ。お父さんなんかな、小さい頃、同じフィギュアを何年もずっと大事にしていたんだからな」
「えっー。なにそれ、カッコ悪いよ」
「全然、カッコ悪くなんかないぞ。モノを大事にできないことの方が、ずっとカッコ悪いことなんだぞ」
「でも…」
「でも、じゃない。俺なら、なんでも買ってくれるなんて思うなよ。そもそもコレを買うの、お母さんが許してくれると思うか?」
「んー」
形勢が劣勢になってきたのを察したのか、翔が泣き出しそうな顔をする。
おいおい
そんな顔をするなよ。
俺の身にもなってみろ。翔も、由亜に怒られるかもしれないけどさ。俺の方がよっぽど、こっぴどく怒られるんだぞ。次の日まで、まったく口をきいてもらえなくなるんだぞ。それに、これを買ってやっても、どうせ半年もすればまた飽きてしまうんだろ。それなら尚更、買う意味がないじゃないか。
「でもさ、お父さん。お姉ちゃんには、この前買っていたじゃん」
それは、まぁ、そうなんだけどさ
美弥のヤツもあくどいからな。
お願い、お願いなんて、おねだりすれば、俺だったら何でも買ってくれると思っていやがる。そんな簡単な人間だと思われるのは、非常に不本意だ。
だけど…
こうして翔と触れ合う機会も、そんなに残されているわけでもないんだよな。
「仕方ないな。そこら辺の小さいヤツなら買ってやってもいいぞ」
「やったー。じゃあ、これ」
翔が嬉しそうな声を出して、小さなフィギュアの入った箱を手に取る。何十分の一スケールかの精巧なフィギュアだ。
「それな。わかった。買ってやる。だけど、いいか、翔。お母さんには、絶対に内緒だぞ」
「うん。わかった」
俺の言葉に、コクリと頷いてみせる。
会計を済ませて店を出ると、翔は機嫌良さそうにフィギュアの入った袋をブンブンと振り回しながら歩き出した。「どこに飾ろっかなー」なんて、呑気な事を口にしている。
お前なぁ…
なんも、わかっていないだろ。
そんなんじゃ、由亜の敏感なセンサーを絶対に掻い潜れないぞ。すぐに見つからないように、俺の方でも気をつけないといけない。
会場に戻ると、開演時間が近づいているせいか、ホールには大勢の人がいた。俺の存在に気づいて、話しかけてくる人もいる。由亜に引っ張られて、美弥の親友のご両親に挨拶する。何度か会っているのだけれど、こういったところでしか会わないから、いつも名前を忘れてしまう。
そろそろ着席して下さいというアナウンスに従って、三人で見やすい席に腰を下ろす。ステージ上には立派なグランドピアノ。配られたパンフレットを見ると、美弥の出番は後ろから三番目のようだ。「後の方が上手ってことよ」なんて、由亜が言っていたけど。どの子も、似たりよったりのレベルに聞こえる。次第に眠くなってきて、ウトウトとしていたら、由亜に腕をギュッとつねられた。俺のことを思いっきり睨んできている。
おっと
怖い、怖い
気をつけないと。
昔から、こういった場所が苦手だ。座席が狭くて、じっとしていると、なんだかムズムズしてくるし。おまけに、息が詰まるから咳をしたくなるけど、演奏中は我慢しなければならない。段々と苦行でもさせられているかのような心地になってくる。
それに長いこと耐えていると、美弥の出番がやってきた。ステージ袖から、美弥がふわふわとした青のドレスで登場した。ピアノの脇に立って、少し硬い表情でお辞儀をしてみせる。随分と緊張しているようだ。心配になって、こちらまで緊張してくる。ピアノの前に座る美弥。その横顔は、由亜によく似ている。これから、どんな女性となっていくのだろうか。不意に、そんな思いが、この頭の中を駆け巡っていく。
トーン
澄んだピアノの音が、ホール全体に響いた。家で何度か耳にしたことがある曲。キラキラとした音の連なりが、淀みなく流れていく。
凄いな
こんなに弾けるようになっていたのか。音楽音痴の自分には、これが、どれ程のレベルかはよくわからないけど。でも、一杯練習をして、ここまで弾けるようになったことはわかる。あとで褒めてやらないといけない。立派なことだよって。どんなことでも、そうやって努力できることは、きっと、これからの美弥の為になるよって。
演奏を終えて、ペコリとお辞儀をしてみせた美弥に拍手を送る。
「あんなに弾けるようになっていたんだな」
「頑張って練習したんだよ。今日の発表会の為にね。お父さんが来てくれるからって、美弥、張り切っていたんだから」
「そうなんだ」
「うん。美弥は、お父さんっ子だからね。まぁ、あなたが、あの子を甘やかしているのが大きいと私は思っているんだけどさ」
「そうかな」
「そうでしょ。だって、あなた、美弥がねだったら、なんでも買ってあげているじゃない。ちょっと甘やかし過ぎよ。おかげで、私は天敵扱いなんだからさ。ほんと、あの子、そういったところが全然、可愛くないんだよね」
「でも、美弥、お前に似てきたな」
「そうかな。祐樹もそう思う? 母も最近、よくそう言うのよね」
そうして笑った由亜は美弥にそっくりで。やはり美弥の母親なのだと認識させられた。
演奏会が終わって、久々に家族四人で外食することにした。ファミレスに入って、各自、好きなモノを注文する。
「お父さん。僕もピアノやる」
ハンバーグを食べながら翔が言った。
「翔がピアノを?」
「うん」
おい
ちょっと待て
翔までもが、そんな方向に進むのは反対だぞ。
「翔、他に興味があることはないのか?」
「んー。ない」
「だって。お父さん、残念ですねー」
由亜が茶化すように言ってくる。
コイツめ
まったく可愛くない。そもそも美弥がピアノを始めたのは、由亜の意向によるものだったじゃないか。
「女の子だったら、ピアノくらい弾けなきゃ駄目でしょ」なんて、由亜が言い出したわけで。
確かに、今日の美弥の演奏は素晴らしかったけどさ。でも、翔はピアノに向かないと思うぞ。俺に似て、運動向きの体つきをしているからな。ああいった細かいことは苦手に違いない。
家に帰りつくと、美弥と翔は疲れきったのか、風呂に入るとすぐに寝ついてしまった。
「二人とも、まだ子供なんだな」
「そりゃあ、そうだよ。文句だけは一人前に言うけどさ。エネルギーが切れちゃうと、すぐにバタンキューだからね」
時刻はまだ九時過ぎ。寝るには早い。
由亜と二人で、ワインを飲むことにした。ワインの味なんて、詳しくはわからないけど。それでも、良いと言われるワインを飲むと、おいしいというのはわかる。グラスに注がれた白ワイン。それが時間と共に酸化して、味が深くなっていくのを楽しむ。こうして二人でゆっくりするのも、久々かもしれない。
「由亜」
「何? 急に名前で呼ぶなんて」
口元にゆったりとした笑みを浮かべてみせる彼女。
綺麗だなと思う。自分には勿体ないくらい美しい女性だ。彼女の目尻のところにできた皺に視線がいく。歳を取ったんだな、彼女も。思い返してみれば、これまで色々なことがあったもんな。
十五年にもなる夫婦生活の全てが順調というわけでもなかった。同棲を始めたばかりの頃は、互いの生活スタイルが合わなくて喧嘩ばかりしていたし。シーズン中、不調で苛立っていた時に子供のことで揉めて、別居したことだってある。離婚という話だって、何度か出た。だけど、そういった事も今にして思えば、良い思い出だ。
「話があるんだ」
そう言った俺に、首を少し傾げてみせる由亜。
「何?」
彼女と二人だけの静かな空間。緊張のせいか、喉がカサカサに渇く。
そういえば
プロポーズの時も、こんな感じだったっけ。不意に、そんなことが頭を過る。
「由亜。実は俺、あと九か月で死ぬんだ」
「そう、なんだ」
そう口にした彼女は、普段と変わらない様子で落ち着きを払っている。予想外のあっさりとした反応に、意表を突かれる。
「黙っていてすまなかった」
「知っていたよ」
彼女の目が、まっすぐ俺のことを見てきている。その射抜くような視線が、この身に深く突き刺さってくる。
「知っていたのか。それなら尚更、申し訳なかった。なかなか言い出せなくて」
「ううん。ありがとう。言ってくれて。あと九ヶ月か…。本当に、あともう少しなんだね」
「ああ」
そうして由亜との間に沈黙が訪れる。
色々と話さなければならないことがあるはずなのに。いつの間にやら、そういったことの全てが、この頭から抜け落ちてしまっている。
「私の方こそ、ごめんね。祐樹が電話しているところを聞いちゃったの。それで知ったんだけど」
「そうか」
「だから、そういう時が来るんだなって覚悟はしていたよ。仕方がないよね。こういったことって、早いか、遅いかの違いはあっても、誰しもに必ず訪れるモノなんだからさ」
「そうだな」
「それで。祐樹は、最後まで野球をしていたいの?」
由亜の言葉に、ゆっくりと頷く。
「そうだよね。最後までやっていたいよね。だって、あなたは澤田祐樹だもんね。みんなが、あなたのことを待っているもんね」
「すまない。由亜」
「全然、謝ることなんかないよ。だって、わかっているもん。祐樹は野球が大好きで、大好きで。それに懸けていたいっていう気持ちがあるってことくらい。だから、いいよ。最後までやりたいことをやっていて」
「ありがとう」
「でもさ。たまには私とか、美弥とか、翔のことも気にかけてくれると嬉しいかな」
目にうっすらと涙を浮かべてみせる由亜。
「そうだよな。バカだよな、俺は」
「そんなことはないよ。だって、祐樹は人に親切にしてもらったことを決して忘れることがない人じゃない。ファンの人達、一人一人に丁寧に接して、笑顔を絶やすことがない人じゃない。そんな人だから、私はあなたのことが好きになったんだよ」
急に、この胸が一杯になる。
思わず、俺は目の前にいる彼女のことを思いきり抱き締めていた。
「バカ、痛いっ」
「あっ、悪い」
慌てて力を緩める。そして、もう一度、彼女の体をそっと優しく抱き寄せる。こんなに細くて頼りない体なのに。その芯の強さに驚かされる。
愚かだよな、俺は
こんなに身近にいる大切な人の存在に気づけないなんて。
愛する人の存在に気づけないなんて。
自分の死について知っていても、日頃から何事もなかったように接してくれていたというのに。これまでと変わらず、野球漬けの俺の生活をサポートしてくれていたというのに。
まったくもって、至らないことばかりだ
野球だけじゃないんだよな。自分には。家族という大切な存在だってある。本当に、このまま野球を続けるべきなのだろうか。残りの時間、家族と一緒にいた方がいいんじゃないだろうか。そんな考えが再び浮かび上がってきて、この頭の中をグルグルと掻き乱してきた。
わからない
まったくもって、わからない
「だからさ、好きなことをやっていていいんだよ。そうしている祐樹が、私は大好きなんだからさ」
耳元から発せられた彼女の言葉が、何故だか導きの声のように聞こえた。
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