カウント8
はてさて
そうしてヒーローが登場したわけです
ムシムシと暑い真夏の夜。満員のスタジアムは昼間の熱気を残したままで、ひどく息苦しい。そこに、ギラギラとした照明の明るさが混じってきていて、先程から頭がくらくらとしている。だけど、私は今、凄く愉快な気分だ。
ズンズン チャ
ズンズン チャ
祐樹と一緒に、周囲に合わせながらリズムを強く打ち鳴らす。そうやって、彼の登場を要求する。
私達の要求に屈したのか、監督が出てきて球審に選手交代を告げた。そして、場内に「バッター、澤田」とコールされた瞬間、まるで勝利したかのような歓喜が、ホームスタンド側から沸き上がった。
八回裏、ツーアウト満塁。三対四の一点差。絶好の逆転のチャンス。
ここで彼を呼ばずして、いつ呼ぶのか。
そんな場面だ。
そうして、私達の期待を一身に背負った男が、ゆっくりとバッターボックスに向かっていく。
「祐樹。やっぱり出てきたねー」
私の言葉に、祐樹からの返事はない。私の声など、まったく聞こえていないかのようだ。彼の視線は、ジッと遠くに立つ一人の男に向けられている。
自分と同じ名前のヒーロー
ウェイティングサークルで準備をする彼の姿に釘づけになっている。その真剣な眼差しに、思わず笑いが込み上げてくる。
そうだよね
祐樹、野球大好きだもんね。
スポーツがあまり得意じゃない野球少年だけど。それでも毎週、近所の少年野球チームで練習してきて、泥んこになって帰ってくる。練習がない日だって、日が暮れるまで素振りをしている。だけど、それだけ練習しても、打球がなかなか前に飛ばないらしく、レギュラーになるのは難しそうだ。
ごめんね。
きっと、運動音痴の私に似てしまったんだろう。
でも、悪くないことだと思う。
そうやって、必死に取り組めるモノがあるっていうことは。夢中になれるモノがあるっていうことは。別に、祐樹に一番になって欲しいとか、プロ選手になって欲しいとか、そういったことを期待しているわけではない。
そりゃあ、勿論、一番になってくれたら嬉しいけどさ。でも、祐樹に打ち込めるモノがあって、それを頑張っている佑樹の姿を隣で応援していられたら、それだけで私は十分幸せなんだよ。
本当に、本当に、それだけでさ。
しかし
今日、本当に澤田選手が出てきてくれるとは思わなかった。復帰間近とは言われていたけど、スタメンからは外れていたし、試合展開によっては出てこないんじゃないかと危惧していたのだ。そんな状況だったから、最初、祐樹は試合を見に行くことに乗り気でなかった。
「えっー。別に、今日は行かなくてもいいよ」
「でもさ、成田とか、重原とかは出てくるじゃん」
「澤田が出ないんだったら、僕、行かない」
「怪我から復帰するかもって、スポーツニュースには書いてあったよ。今日、出てくるかもしれないじゃない」
「それは、そうかもしれないけどさ。でも、やっぱり澤田は先発で出てこなきゃなぁ」
そんな風に、ぐずる祐樹を無理矢理連れてきたわけだけど。
運が良かったな
たまには、神様とやらに感謝しないといけないかもね。
祐樹にとって、澤田選手は特別な存在だ。物心ついた時から、ずっと印象に残る活躍をしていたし、智樹と一緒に応援していたというのもあるのだろう。
そして、何より、自分と同じ名前というのがある。まぁ、その点については、智樹が澤田選手のファンだったという安直な理由ではあるんだけどね。名前をつける時、私は猛反対したんだけどさ。最終的には、智樹に押し切られてしまった。
もっと爽やかな名前にしたかったんだけどなあ。
でも、祐樹が自分の名前を気に入ってくれているみたいだから、それはそれで良かったのかもしれない。
だけど…
祐樹と一緒にいられるのも、あと一年なんだよね
どうやら、私はあと一年で死ぬらしい。
私宛に通知が来たのだから、間違いはないのだろう。夫であった智樹も、告知された日、ピッタリに亡き人となった。科学の力って凄いなぁと思う。私達の死を、たった一日のズレもなく予測することができるのだから。きっと、物凄く頭の良い人達が色々と考えて、難しい数式なんかを使って答えを算出しているのだろう。科学技術の発展も相まって、通知を五年前にしようという話も出てきているみたいだけど。問題は、そんなところにないと思うんだよな。
だって
私にしたって心残りなんだよ
祐樹を、この世界に一人残してしまうことになるなんて。
祐樹が大人になって、結婚して、子供ができて。そういった我が子の有り触れた幸せを、そばで見守りたかったのに。
それなのに…
んっ?
不意に、小さくなった応援の音。
どうやら試合が再開したようだ。スタジアムを見渡すと、みんなが息を飲んで、この局面を見入っているのがわかる。
これから、どんなドラマが待ち受けているのだろうかって
澤田選手なら、きっとやってくれるんじゃないかって
そんな期待を抱きながら、バットを構えている彼に熱い眼差しを向けている。
一球目。ボール。ストライクゾーンからボールが大きく外れたようだ。この状況に、ピッチャーは少し臆しているのかもしれない。キャッチャーが肩をほぐすようにと、ピッチャーにジェスチャーしてみせる。
二球目。ストライク。待っていた球種と違ったのか、澤田選手はピクリとも動かなかった。「おぉ」という声が、どこからともなく聞こえてくる。
三球目。ボール。2ボール、1ストライク。悪くないカウントだ。額から汗がじんわりと滲んでくる。次の投球モーションに入るピッチャー。
四球目。白いボールが大きな放物線を描きながら、夜空にポーンと浮かび上がった。
「わぁ」
思わず、そう叫んでいる私。
ボールが、重力に抗うかのようにグングンと高度を上げていく。私達の思いも一緒に乗せて。外野席、目掛けて飛んでいく。この軌道だと、入るかどうかギリギリだ。
入ってよ
お願いだから
そんな祈りが通じたのかはわからないが、スコアボード近くの外野スタンドにボールがすぅーと吸い込まれていった。その瞬間、割れんばかりの歓声がスタジアム中に響き渡った。ベースをゆっくりと回る澤田選手が、小さくガッツポーズしてみせる。
凄い
やっぱり凄いよ、あなたは
こんな場面でホームランを打つなんて
ダッグアウトでハイタッチした後、澤田選手が再びグラウンドへと戻ってきた。満員の観客席に向かって、ヘルメットを取って一礼してみせる。
ありがとう
そんな風に、彼の口が動いたような気がした。「こちらこそ」って言葉が口から出てきそうになる。
だって、ほら
祐樹の、この輝いた目を見てよ。この子にこんな表情をさせるなんて、やっぱり、あなたは最高にスーパーな人だ。
「お母さん。やっぱり、澤田はヒーローなんだよ」
試合後、メガホンを手にした祐樹が上機嫌に言う。まるで、自分が試合で活躍したかのような口ぶりで。
「本当だね。カッコ良かったね」
「でしょー。僕も、あんな風にホームランを打つんだ」
「そっか。期待しているよ」
「まかせて。今度の試合では、かっとばしてやるんだから」
祐樹がメガホンをブンッと一つ振ってみせる。
少し頼りないスイングだけど。でも、ちょっとだけ期待してしまう。次の試合では、打球が前に飛んでくれるんじゃないかって。
「でも、なんか違うんだよなぁ。澤田のとは」
真剣な顔つきで、首を傾げてみせる祐樹。その表情が、学生時代の智樹にそっくりな気がして、この心がぐらりと大きく揺れた。気を抜くと、目から涙が零れ出てきてしまいそうなくらいに大きく。
駄目だな、こんな時に
強くならないと
「そろそろ帰ろうか」
「うん」
祐樹の手を取って、駅へと向かう。
柔らかくて、温かくて、少し汗ばんだ小さな手。
それが、私の手をギュッと握り返してくる。
この手も、やがて大人になって、多くの人達の優しさや温かさに触れて、愛する人に触れて。きっと多くのことを経験していくのだろう。
祐樹のこれからが、どうか素晴らしいモノとなりますように
そんなことをひっそりと願いながら、空を見上げる。
スタジアムの照明に隠れていた星々がそろり、そろりと顔を出してきている。これからの私達を待ち受けている困難。それを思うと、胃の下辺りがジクジクとしてくる。だけど、今日という日のことは、絶対に忘れることはないだろう。だって、こんなにたくさんの勇気を貰ったんだから。
二人の祐樹から
だから、私も頑張らないといけない
明日、私は祐樹の親となってくれる人を探しに行かなければならない。
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