それでは、カウントダウンいたします
藻麩
カウント9
チック タック
チック タック
弛むことなく、時は刻まれてゆきます
ある瞬間に何かが始まって
またある瞬間に何かが終わるように
そんな非連続が幾重にも連なって
永遠と思えるような時を形成してゆきます
私達が触れる世界は
その連なりのほんの一部でしかありませんが
しかし、其処には幾多もの生命の営みがあり
数えきれないくらい多くの物語が存在します
それは
宇宙を旅する猿の話かもしれませんし
ただひたすら巣をつくっている蟻の話かもしれません
そうそう
あなたの人生の物語だって必要なんです
そのどれにも
それぞれの彩りがあり
それぞれの美しさがあります
そして
そのどれもが
此の世界には欠くことのできないモノなのです
此処にある一つの物語
これもまた
他にはない固有の輝きを放っています
それが、あなたの心に触れることがあれば
幸いなことです
さぁ
心の準備は整いましたか?
物語は舞台裏から始まりますよ
すぅーと一つ、深呼吸をする。
ゆっくりと瞼を開くと、鏡に映った自分の姿。綺麗な折り目の入った新品のユニフォームを着ている。
似合わないな
少しヨレているくらいが丁度良いのに。とはいえ、由亜が新品を着ろと言うのだから、仕方がない。
誰もいないトレーニングルーム。素振りをしていたせいで、体から噴き出てきた汗がにおいとなって、室内に充満している。壁を通じて響いてくる歓声と震動。それらが、ここが現実なのだと教えてくれる。心拍数はいつもと変わりない。手元にあるバットを握って、その感触を確かめる。
大丈夫だ
何も変わっちゃいない
試合は、三対四で負けたまま。八回裏ツーアウト、ランナー一、二塁。壁に掛かっているディスプレイ。バッターボックスに立つ成田の真剣な表情が映し出されている。
良いバッターになったな、成田も
ついこないだまでは、一軍と二軍を行き来しているようなヤツだったのに。いつの間にか、替えのきかない主軸にまで成長している。この後、俺に出番が回ってくるかはわからない。しかし、どんな時であっても、万全の準備をしておかなければならない。心を落ち着けて、静かにその時を待つ。
鏡に映っている自分の顔。そこに刻まれた皺。
年を取ったんだな、俺も
プロになったのが、ついこないだのような気がするのに。今じゃもう、ベテランと呼ばれる年齢だ。怪我とは無縁の野球人生だったはずが。つい二カ月前の試合中、左足の靭帯をやってしまった。一カ月のリハビリを経て、こうして戻ってきたわけだけだが。全力で走るのは、まだ恐い。体は、数年前から衰えを訴え出してきているし。思うように動かない部分だって増えた。ただ、がむしゃらにバットを振っていた二十代の頃のようにはいかない。だけど、その代わりに得たモノが、今の自分を支えている。
だから、わかる
俺は、まだまだできるって
バットを振る時の筋肉の動かし方、足腰の使い方。そういったことを細部まで徹底的に追及することで、無駄な力が減って、バットの振りに鋭さが増した。現に、以前よりもボールが遠くへ飛ぶようになった。相手バッテリーとの駆け引きにしたって、配球や状況に応じたバッティングができるにようになったおかげで、精神的に余裕を持ってバッターボックスに立てるようになった。
その結果、ここ数年、大きな波もなく安定した成績を残せている。今シーズンだって、怪我をするまでは、首位打者と本塁打王を狙える位置につけていたのだ。
それなのに…
一年後に、俺はこの世界にいないらしい。
本当なのだろうか?
この俺が死ぬなんて
信じられない。この体のどこにも異常がないのに。今年受けた健康診断だって、全ての項目で『所見なし』だった。
何かの間違いではないのだろうか。そう思って、担当窓口に問い合わせてみたが。どうやら間違いではないようだ。
苦しいリハビリにも耐えて、こうして表舞台に戻ってきたんだけどな。多くのファンが、俺の復活を待ち望んでくれているんだけどな。それなのに、自分に残された時間はあと一年しかない。この二週間、悩みに悩んだ。このまま野球を続けるべきか、辞めるべきか。
バットをグッと握りしめる。
でもな
俺には、これしかないんだよ。
この人生の全てを、野球に捧げてきた。このバットで数多くのヒットを打って、得点を叩き出して、チームを勝利に導いてきた。
そうして積み重ねた結果の一つ一つが、澤田祐樹というベースボールプレイヤーを構築している。チャンスに打てなくて批判を浴びることは山ほどあったし、チャンスをモノにして賞賛を受けることだってたくさんあった。今では、そういった批判ですら有り難いと感じてしまう。それは、期待の裏返しであるわけだから。俺ならもっとできるはずだって認めてくれているわけだから。
んっ
不意に、わぁーと大きな歓声が聞こえてきた。ディスプレイに視線を戻すと、一塁に立つ成田の姿が映し出されている。どうやら三対四のスコアのまま、ツーアウト満塁になったようだ。
ここで、俺の出番だろうか
ヘルメットを被って、コールを待つ。復帰戦を飾る舞台としては悪くない。
ズンズン チャ
ズンズン チャ
聞き馴染んだリズムが壁を通して聞こえてきた。
クイーンのウィーウィルロックユー。俺がいつも使っている入場曲。それを今、観客が打ち鳴らしている。そうやって、俺の登場を要求してくれている。
そんなことだけで、この胸が一杯になる。
ありがとう
俺のことなんかを、待ち望んでいてくれて。
「おい、澤田。お前の出番だぞ」
東コーチが俺を呼びに来た。ニカッと笑った東さんに頷いてみせる。
「最高のお前を見せてやれ、澤田。ここで一発かましてやれよ!」
東さんの言葉を背に受けて、トレーニングルームを後にする。
わかっている
この場面で、自分に何が期待されているのかなんて。
何が求められているのかなんて。
何故なら、俺は澤田祐樹だ。
これまで幾つもの球界の記録を塗り替えてきた。打率、打点、本塁打、盗塁、得点、…。挙げればキリがない。勿論、記録だけじゃなく、数々の重要な試合で、試合を決める一打も放ってきた。
ドンドンと大きく膨らんでいく、周囲からの期待。それがこの体にズッシリと圧し掛かってきて、潰されてしまいそうになることだってある。逃げ出したくなることだってある。胃がキリキリと痛むことだってある。だけど、同時に、凄く幸せなことだとも感じている。こういった場面に立たせてもらえることが。俺ならって、任せてもらえることが。
感謝しないといけない。
こうして自分に活躍の機会を与えてくれる人達に。応援してくれる人達に。だから、そういった人達に少しでも恩返しができたらと思う。
このバットで
ダッグアウトに繋がる階段を上がる。差し込んでくる照明の光が眩しい。大きな歓声が上がる地上に顔を出すと、チームメイト達が声をかけてきた。
「頼むぞ」とか、「やってやれ」とか言ってくる。
だけど、そういった言葉は、今の俺には必要ない。
俺が今、やるべきことは…
自分の持てる力を全て出しきるだけ
そう
ただ、それだけに集中すればいい。
グラウンドに視線を向ける。丁度、マウンドに集まっていた相手チームの選手たちが守備位置に戻っていくところだった。
ズンズン チャ
ズンズン チャ
打ち鳴らされるリズムが地鳴りとなって、スタジアム全体を揺らしている。その響きに、体中がぞわぞわとしてきて鳥肌が立った。自分の名前がコールされて、ゆっくりとバッターボックスに向かう。
また野球ができる
この最高の舞台で
これ以上ない名誉なことだ。
これ以上ない幸福なことだ。
だから、俺はここで、今の自分にできる最高のプレーをしてみせなければならない。
自分が、澤田祐樹であることを証明してみせなければならない。
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