19.ホワイトレディ

 漁村のマスターは、かつてもう一つの姿を持っていた。

 バーテンダーという姿を。

「母親をね、どうしても面倒を見なくちゃいけなくなって。でもね、だからって夜の世界を泣く泣く諦めた訳じゃないんだよ。今度は海の太陽を浴びて、お客さんを待つ仕事もいいなあと思ってね」

 それでも、道具も材料も肝心の酒もなにもかもを手元に揃えて『いつでも作れる』体制にしていることを窺わせる手際よい準備。絶対に捨てていないと英児には感じられた。男が『これ』と思った仕事を捨てる。サバサバと未練はないというが、割り切るまでのマスターの苦悩が、それだけで英児には痛いほど伝わってくる。

「でもね。そんな僕の第二の人生を歩んできた店から、こうして夫妻が誕生してくれるなんて……。夜の仕事にも未練があったのも確かだけど、こんなことがあるなんて……。やってきて良かったと今日、嬉しくなっちゃったよ」

 だから。僕にお祝いの一杯を是非つくらせて。そんなマスターの気持ち。

 グラスも綺麗に磨かれている。カクテルグラスにひとまず、月色のカクテルができあがる。

 マスターがそれを琴子の前に差し出した。

「真っ白な花嫁さんへ。ホワイトレディです。おめでとうございます」

 琴子の感激の眼差し。

「ありがとうございます」

 そして間をおかず、英児にも。同じくレモン、そしてオレンジ。一滴二滴の香りづけのリキュールのみで、アルコールはなし。それをシェイクしてくれる。

「ビター・カクテル。ノンアルコールです」

「ありがとう。マスター」

「おめでとう。滝田君。良かったね、一緒に生きていける人とやっと巡り会えたね」

 長年の馴染みだけに。英児も涙ぐんでしまいそうだった。

「どうぞ。お幸せに。僕のお店で夫妻になったんだからずっと仲良くしてよ」

 それだけいうと、マスターもなにか気持ちが高ぶっているのかそのまますっとカウンターに消えてしまった。

「ここにくると。ううん、英児さんと出会ってから思いがけない嬉しいことがいっぱい。全部、英児さん繋がりなんだもの」

「いや。ここは矢野じいが……」

 そうして繋がっていくんだな。だから今日があるんだな。そう思えた。

「白い花嫁さんと言ってくれたけど、このレモンのカクテル。あの夜の月の光みたい」

「本当だな」

 また琴子にとって、この店は思い出深いものになっていくのだろう。そして、それは英児も。

 ――乾杯。

 婚姻届を挟み、二人は思いがけない祝いの一杯で乾杯をする。

「これ。酒は入っていないっていうけど、ちゃんとカクテルだ。名前の通り、ちょっと苦みがある」

「そうなの。私も飲みたい」

 琴子にも味見をさせてみたりする。そうして二人で味わっていると、マスターが戻ってくる。

「お供にどうぞ。今日、港市場で見つけた鯛で作ったカルパッチョ。そしてご注文のピザ。珈琲は食後に淹れ直しますからね」

 おまけのひと皿まで出てきて、二人でまた感激。そのカルパッチョがまた美味しいから、琴子が大喜び。

「マスターのお料理ってぜーんぶ美味しい」

 上機嫌の琴子が、そこで妙なことを口走った。

「こんなお店で、結婚パーティーとか出来たらいいのに」

 思わぬことを言い出したので、英児も、いや、マスターまでもが『え!』と驚き固まった。

「おい、琴子。それはいくらなんでも。食事はフルコースのレストランにするんじゃなかったのか」

「……そうだけど。私、マスターのお料理をみんなと一緒に食べたいって急に感じちゃって。そうよね。人数だって、内輪のみといってもマスター一人では大変だものね」

 するとマスターが小声で言った。

「……したことはあるよ」

 え。英児と琴子はテーブル側に立ちつくしているマスターを見上げた。

「結婚パーティーを引き受けたことはある。でも、この村民どうしの結婚で、」

 ぼそぼそとこぼしたマスターの言葉に、琴子の目がこれ以上ないってくらい輝いた。それを見てしまった英児に、ドキッとした奇妙な予感が!

「あの、では、もし、お願いしたら……」

 あの琴子がちょっと興奮しているので、英児はますますおののく。こいつ、まさかまさかここで? 本気?

「いや、その。店にあるような簡単な料理のみ。しかも村で結婚する若者もいなくなったし、するなら街中でするでしょう。僕が何件も引き受けていたのは十年とか十五年とかそんなずっと前で……」

「その時と同じで構いません。私、家族同士でわいわい出来るパーティーがしたいんです。かしこまらなくて、気取らないパーティー。でもなかなかそんなイメージが湧く、お店がみつからなくて」

 プランナーとの相談でも、どんなプランも気が乗らない様子で話を進めなかった琴子が、ものすごい食らいつく姿に英児は驚愕。

 そして……。そんな彼女が言い放った言葉を聞き、英児は琴子の本当の気持ちを知ってしまう。

 探していたんだ。とことんこだわっていたんだ。俺の家族と琴子の家族が緊張せずに賑やかにうち解けられる場所をと探していたと英児はやっと知る。

 それを知ったら、英児も琴子が『ここだ』と決めたがる気持ちが通じてくる。

「おっさん。俺からもお願いできないかな。琴子がそれでいいなら、俺もかしこまったレストランより、店の者もよく知っている美味い店がいいや」

「え、英児君まで」

 そして琴子が立ち上がる。いつものあの言葉をついに言い放った。

「私、パーティーを準備するお手伝いをしますから」

 でた。お手伝いします――。

 マスターも、迷いを見せている。でもマスター自らも、パーティー会場を探している花嫁に投げかけたのだ。それはつまり『それほどここを気に入ってくれているなら、僕のところでお祝いしてあげたいよ』という気持ちの表れだと英児は思った。

 だから英児も立ち上がって、マスターに笑顔で言う。

「俺も手伝う。俺もここで、おっさんが作る地物の美味い料理で、家族と楽しみたいと思う」

 夫になる英児も気持ちを一つにしてくれたので、琴子がとても嬉しそうな顔をみせてくれる。

 そしてマスターは。

「わかった。引き受けるよ」

 いつもの懐でっかい熊親父の笑みで、マスターが受け入れてくれた。

 

 ではまた後日、相談――。

 ということで、その日は漁村を後にした。

 海辺の帰り道、スカイラインの助手席で琴子は急にやる気に燃えていた。

 そのうえ、あんなに結婚式の計画を進めなかった琴子が次々と言い出す。

「私、教会をやめて神前にしようと思うの。ドレスはマスターのお店の披露宴で着ようかなって」

 え、神前? 教会が憧れだったんじゃないのか。琴子と市内の教会をこれでもかというくらい見学した英児は、その心境の変化に唖然とさせられる。

 だが……。ふと助手席の琴子を見ると、どこか寂しそうに俯いている。

「琴子?」

「ごめんね、勝手ばかり」

 英児は溜め息をつく。

「そんな、俺だって今さっき、勝手に婚姻届を突きつけたのに。琴子、気持ちよく受け取ってくれて。でもよ……、教会でするのが夢だったんじゃないのか。それでいいのか」

 そして英児は、何故、彼女が計画を進められなかったのか。その真相を知る。

「お父さんがいないから。お父さんとヴァージンロードを歩きたかったから。代役でもなくて一人で歩くのでもなくて、お父さんが良かったの。踏ん切りがつかなくて……。でもやっと諦めついた、かな」

 振りしぼるように微かに呟いた琴子の気持ちに、英児の胸は激しく貫かれる。

 スカイラインを晴れ渡る青い海辺の路肩へと英児は駐車する。

「琴子。おまえ……。なんだよ、そんなこと早く言えよ。なんだよ」

 助手席で俯いている琴子を、英児は胸元へぎゅっと抱きしめ黒髪を優しく撫でる。

 すると、やっと。琴子が声を詰まらせ涙を静かに流していた……。

「わりい、琴子。なんも気がついてやれなくて。だよな、それって女の子の夢、だったよな」

「……この歳になって、子供っぽいて……」

「言わねえよ、言うもんか。うん、わかった。そうしよう、俺と一緒に神さんの前に行こうな」

 胸元で涙に濡れる彼女がこっくりこっくり何度も頷く。

 そんな琴子を、英児は彼女の父親の分までと思いながら、強く何度も抱き返す。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 新年、あけましておめでとう。本年も龍星轟一同、この店を盛り立ていこう。社長の自分からもお願いします。えっと、最後に『琴子と入籍』しました。未熟な二人ですが、どうぞ今後もよろしくお願いします。

 

 龍星轟仕事始め。今年最初のミーティングで報告すると、従業員一同が『なんだってー!』と驚きの顔と声を揃えた。

 だが矢野専務だけは落ち着いて驚かず。でもむすっとした顔。

「ったくよう。大晦日のクソ忙しい晩によ、『今日の昼、琴子と入籍した』なんて報告してきやがって。おまえ、大人になってもどんだけ鉄砲玉のままなんだよ。琴子はもうおめえの無鉄砲さに付き合うのはお手の物かもしれねえけどよ。琴子の母ちゃんとか滝田の親父さんを、あんまりびっくりさせてやるなよ」

 矢野じいにだけは電話で報告。勿論、驚いていたが『おまえらしいな。琴子も琴子らしいな。クソ英児のやることドンと受け止めてくれたんだろ』。見通されていてぐうの音も出ない。

 だがやっぱりこの師匠親父は、こんな時でも英児の気持ちを見過ごさない。

『滝田の親父さんと喧嘩にならなかったか』

 悪ガキ末っ子の無鉄砲。落ち着きのなさ。突拍子もない突っ走り。それを知ると実父が執拗に英児を責めて説教をすることを、矢野じいは良く知ってくれている。そして親子関係がこじれて、英児が実家に寄りつかなくなる。

 だが――。

『大丈夫だった。琴子が親父に、どうしてもいま入籍したいのでお願い致します――と、俺が言いだしたことなのに自分が言いだしたみたいに頭を下げてくれた』

 すると昔気質で石頭の父親が、それだけで『わかった』と笑顔で許してくれたのだ。

 もちろん英児自身も『俺が言いだしたことを、琴子が受け入れてくれただけで。彼女を巻き込んだのは俺だから』と説明した。

『そんなのわかってるわい。こんなこと琴子さんからは絶対に言いださんことやからな。おまえの仕業に決まっているだろ』

 いつもの嫌味くさい物言いに、やっぱり腹が立つ。だが、そこはやっぱり今までと違うのは彼女がいるから。

 とにかく。父親は『琴子はきちんとしているお嬢さん』だと分かっているので、琴子が間に入ればそれだけで機嫌が良くなる。『おまえにはもったいない、もったいない』と言って控えめな琴子を見ては、何が嬉しいのかにこにこになる。

 だが、同居している長男嫁の義姉は言う。

『おとうさん。英ちゃんがやっと、きちんとしたお嫁さんを連れてきたから、あれでも嬉しいのよ。相変わらず素直じゃないよね。お義母さんも、あの性格に苦労していたもんね』

 英ちゃん、琴子さん。おめでとう。お正月においでね。みんなでおめでとうのお祝いしよう。

 義姉の言葉に、琴子も嬉しそうだった。

 鈴子義母も『まったく。あなた達らしいったらねえ。いいわよ、いいわよ。好きにしなさい』と、最後にはもうけらけらと大笑いして許してくれた。

 

 ――晴れて夫妻になる。

 彼女はもう英児の妻。『滝田琴子』。そして、龍星轟のオカミさん。

 

「もうー、ほんっとびっくりすんな。新年早々、滝田社長の挨拶が『入籍しました』だもんなー。休み明けにどんな爆弾投下するんだって、もう」

 武智も呆れているが、最後には眼鏡の笑顔で『おめでとう』と言ってくれる。

「じゃあ、ついにあのゼットが琴子ちゃん名義になるってことだな」

「滝田琴子か。走り屋野郎共も、まだ見たことない男共は早く紹介しろと騒いでいたから、今度、ダム湖の集会に連れて行ってやれよ」

 『やっとだな。おめでとう』。兵藤兄貴に清家兄貴も落ち着いて祝福してくれる。

 英児もやっと実感、笑顔になれる。

 最後。専務と目が合う。

「しっかりやれよ、クソガキ」

 素直には祝ってくれない怖い目は、気合いを入れて嫁さんを守っていけよという……矢野じいだからこその激励だと英児は思う。

「ああ。ちゃんとするよ。クソ親父」

 そこでやっと矢野じいが微笑み、バシッと英児の背を叩いて終わり。

 言葉なんていらねえ。それが矢野じいの『おめでとう』だった。


 

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