18.ここに、名前、書いてくれねえ?

 その日の夜。英児はいつも通り、残業で帰りが遅い琴子を二階自宅で待っている。

 琴子も風邪が治り、仕事に復帰。年末商戦の受注に追われていた。

「ただいま」

 ダイニングテーブルで中古車雑誌を眺めていた英児は、その声を聞き、すぐさま玄関に向かう。

「お疲れ、琴子」

「ただいま、英児さん。もしかして……。またご飯を食べないで待っていた?」

 残業が続くと琴子は目を使う業務が増えるとのことで、コンタクトをやめて眼鏡にしてしまう。今夜も眼鏡の笑顔で帰ってきた。

 だけれどもう。英児にとって『眼鏡のかわいい女の子』は琴子しか思いつかない。

 そんな琴子が靴を脱いであがるなり、英児はぎゅっと腕の中いっぱいに抱きしめてしまっていた。

「英児さん、どうしたの」

 琴子の声はとても落ち着いていた。そして、そんな時の英児の無言の気持ちを思いやるように、すぐに抱き返してくれる。

「メシ、食ってない」

「やっぱり……。今夜もお母さんに頼めば良かったかな」

「いいや。もう鈴子お母さんもここのところずっと俺達のメシを作ってくれていたからさ」

「そう思って……」

 琴子が両手になにかを持って、英児に見せた。

「簡単で申し訳ないけど。帰りに会社の近くで評判のお惣菜屋さんで見繕ってきちゃった」

「うん。それでもいい」

 そういいながら、もう一度琴子を抱きしめる。

「なにかあったの? 英児さん」

「うん。いいことがあった」

「本当にそれは、いいことなの?」

 ばれているなあと思う。本当はどこか胸が痛い。香世と真っ正面からやりあった痛い感覚が残っている。でも、それは……。

「俺。元ヤンで走り屋で、学歴無くて、いいとこのお嬢さんに相応しくない男だなんて――」

 いつもの卑下する元ヤンコンプレックスの男の呟きを聞いた琴子が、胸元から心配そうにして英児を見上げた。だが英児は言う。

「もう二度と思わないことにした」

 いつもと違う割り切りに、琴子が驚いた顔。

「やっぱり俺と琴子は出会うべくして出会ったんだ。きっと俺はおまえと出会うために、傷ついてきたんだ。琴子だってそうだろ」

 今日、英児は『初めての女』だった香世とやりあって思った。本当にそう思った。俺を二度も拒否した女が『いい男』として認めてくれていたことも、その女に拒否されて始まった『元ヤンコンプレックス』も。それはもう琴子という女にはなーんにも関係ないこと、故に、これからも英児が気にするほどのものではなくなったのだと、グッと実感することが出来た。

 それまでお互いに付き合ってきた異性もいた。結婚のチャンスもあった。でも、どれもこれも自分の存在を否定するかのように上手くいかず弾かれ続け……。でもその最後。互いに傷ついていたからこそ、引き合った。

 匂いだけじゃない。匂いに惹かれてその後は、互いが重ねてきた生き方を知って惹かれたんだ。引き合ったんだ。分かり合えたんだ。

 そこに、いいとこのお嬢さんも学歴なしの元ヤン男も関係ない。

「だから。私は最初から、英児さんがどんな男性でも好きよ――と、言ったよね。忘れちゃったの?」

「忘れていねえよ。でも……俺が俺自身が納得できた。もう琴子には俺だけ、俺には琴子だけ。琴子だったから俺のそばにいてくれるんだって。もう絶対に譲らない」

 今度の琴子は笑っていない。じっと英児を見つめ、真顔。怖いくらいの真顔。

 そんな琴子がぎゅっと英児の背を抱いた。

「そんなこと。もうずっと前からそうじゃない。忘れたなら、思い出させてあげる」

 ずっとずっと、英児さんが好き。これからも、これからも英児さんを愛している。

 今夜は彼女からのキス。くっと胸元から背伸びをする彼女に唇を塞がれていた。

 もう……それだけで、英児は目眩がして倒れそうだった。彼女に抱きついた時、それは彼女を逞しく抱く男ではなく、支えてくれる彼女にしがみつく寂しがり屋の男だった。

「琴子……。今夜も、俺と、眠ってくれよ」

 あったかい素肌で隣にいてくれ。柔らかい肌で俺を安心させてくれ。ぬくもりを、ずっと俺の隣に肌に――。

 やはりもう、俺のもの。これは俺のもの。待てない。

 彼女の頬を包み、くれた口づけを英児からも熱く返す。

 英児の中に強い衝動が生まれていた。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 その決意は、英児のポケットに忍ばせて。

「いいお天気で、よかった」

 スカイラインの助手席でご機嫌の彼女を乗せ、今日は南部地方へと出かけた帰り。

 後部座席には『日吉村の田舎蕎麦』。彼女の父親が好きで良く買っていたという田舎の市場まで行ってきたところ。晴れ渡る海岸線を伝って、市街へ帰るところだった。

 英児も琴子も無事に仕事納めを終え、年末年始休暇にはいったところ。英児はいま、大内家の正月準備の手伝いをしている。

 大内家では英児がいるだけで『久しぶりに賑やかなお正月になりそう』と、母娘が言ってくれる。

 女二人だけでは手が届かない外回りの大掃除をすれば喜んでくれ、琴子と鈴子母と一緒に正月料理の買い物にでかけたりしている。

 そして明日はついに大晦日。その前に、日吉村へ年越しのための蕎麦を買いに出かけたところだった。

「お仏壇のお父さんにも、これで食べてもらえる。お婿さんからって、私から言っておくね」

「会いたかったな、琴子のお父さんに」

「そうね。私も、お父さんに英児さんを会わせてやりたかったな」

 そこで急に琴子が俯いて黙ってしまった。あんなに上機嫌だったのに。やはり、結婚するにあたり父親がいないことを今まで以上に強く感じているのかもしれない。

 そんな彼女の頭を、英児は運転席からそっと撫でてやる。すると彼女も直ぐに笑顔に戻る。

「年が明けたら、英児さんのお父さんに新年のご挨拶に行こうね」

「そうだな」

 いつもなら大晦日の夜にギリギリに帰って、正月の挨拶が一通り終わったら龍星轟に逃げ帰っていた英児だったが……。

「実家の親父から『琴子さんと一緒に来い』と、店に電話してきてびっくりしたもんなー」

「やっぱり英児さんのこと、気にしているのね。お父さん」

 それは琴子が間に入ってくれるようになったからだよ――。そう言いたい。きっと親父も意地を張って口悪く言う性分が止められなかったのだろう。以前ならそこに死んだ母が間に入ってくれていたから。

 今度はそれを琴子が……。

「もうすぐ、マスターのお店ね。さすがに今日は閉まっているのかな」

 長い海岸線を走っていると、いつのまにか漁村まで帰ってきていた。

「いや、毎年、大晦日でも開けている」

 なるべく家族を避けて一人で過ごしてきた英児はよく知っている。漁村の店にくれば開いているから、そこでマスターの穏やかな顔を見て、晴れた瀬戸内の海をかたわらにゆったりと食事をする。年末年始それが出来る数少ない場所だと知っている。

「閉まっているのは、正月二日ぐらいじゃねえかな。盆もやっているし」

「英児さんも運転疲れたでしょう。私もちょっとお腹空いちゃった」

「そうだな。寄ってみるか」

 冬の薄い空色の下、穏やかな海の側にある店へとスカイラインを向かわせる。

 

「いらっしゃい」

 どんな時もいつも通り。カウンターにどっしりとエプロン姿のマスターがいた。

 そして、いつも通り。にこやかに迎えてくれるが、揃ってきた二人にあれこれと話しかけては来ない。

 初めて琴子を連れて来た時のように、英児は奥のフロアにある海辺の席へと向かう。琴子もそれが当たり前のようについてくる。

 もうそこは二人にとっても『いつものテーブル』だった。同居を始めてからも、幾度か来た。マスターにも結婚は報告済み。『おめでとう』の言葉ももらっている。

 店も静かだった。いつもは二組、三組くらいはいるのだが。やはり年の瀬か。この日は英児と琴子の一組だけ。

 マスターがオーダーを取りに来る。

「俺、コーヒー。ホットで」

「私も。同じものをお願いします」

「琴子、ピザでいいよな」

「うん」

 慣れたやり取りをマスターも微笑ましく見守ってくれている。

「今日はシラスの釜揚げ。今朝の獲れたて、茹でたて。ガーリック醤油仕立て」

「美味しそう」

 琴子のお気に入りだった。なにがトッピングされるかその日によって違うところが楽しみだという。

 いつもの和やかさに包まれ、オーダーも終了。大きな身体の白髪マスターがのっそりとカウンターに消えていく。

 ほっと一息のテーブル。冬でも瀬戸内の海はどこまでも青く静か。そんな穏やかさに包まれるひととき。二人は黙って海を眺めていた。

 だがここで英児は密かに胸をドキドキさせていた――。

 静かな青い海を見つめて優しく微笑む琴子を目の前に。この前から『いつ言おう、いつ』と思っていたこと。それはもしかして『今』なのではないかと。

「こ、琴子」

 いつかの大人っぽい黒いワンピースの上に、白いふわふわのカーディガンを羽織っている琴子。そんなふんわり優しい彼女の眼差しが英児と合う。

「これ」

 英児はシャツの胸ポケットから、ここ数日ずっと忍ばせていたものを彼女に差し出した。

 茶色の罫線で整えられている白い用紙。それをテーブルに広げると、琴子が驚き英児を見上げた。

「ここに、おまえの名前、書いてくれねえ?」

 一番上の枠を英児は指さす。もう琴子は絶句していた。

「ど、どうしたの、英児さん。これ……婚姻届」

 テーブルに広げた用紙は、数日前に英児が市役所まで取りに行った『婚姻届』。

 突然だとわかっている。『何故、急に』と驚かれても仕方がないとわかっている。でも!

「とことん、俺の感覚で悪い。きっと『今』なんだと思う。これから式をしてその時にサインしてとか、その日に市役所に持っていくとか……。それは確実にやってくる瞬間だと俺もわかっている。でも、なんか。『今』、おまえと一緒になりてえって俺が叫んでいるんだよ。感覚つうか、その……」

 どう説明すればいいのだろう。『俺なんか』と思っていたものがなくなった。この女と出会うべくして出会った。それをグッと感じた今だからこそ、すべてを委ね、彼女を俺の妻に、そして俺は胸を張って夫になりたい。

「だからよ……。その、グッと来ちゃったんだよ」

「グッと、来たの?」

 琴子も訝しそうだった。『待っていれば、いずれその日は来るのに? 急にどうしたの』とか言いたいのだろう?

 しかし、琴子がじっと。微笑まずにじっと英児を見ている。そして。

「うん。わかりました」

 午後の日も傾いてきた海の窓辺。やんわりとした冬の日が射しこむテーブルの上、琴子はバッグからペンを取り出すと、その用紙の上にすらすらと名前を書き始めた。

 今度は英児が唖然としている。唐突な申し込み、彼女の気持ちも聞かず、自分の感覚だけで説明も上手く言えなかったのに。琴子のほうが決断早くすらすらと……。

 英児が愛している優しい眼差しと柔らかい微笑みで、しとやかな指先で、遠いさざ波の中、彼女が妻になる誓いを綴っている。

「はい」

 彼女らしく丁寧に、英児が書ける向きに用紙を反転してペンも差し出してくれている。英児もそれを受け取る。

 でも茫然としていた。

「あのさ。『どうしていきなり』とかさ。『どうして今なんだ』とかさ。『なんでそっちの勝手で』とかさ。反論はないのかよ」

 慎重な性格の彼女だから『まだ早い』と戸惑うのではないかと構えていたのに。こんなあっさり……?

 でも琴子は目の前で、おかしそうに笑い出す。

「だって。英児さんは理屈もなにも関係なくて『感覚』が多いんだもの。本当に動物みたい。その時に『キラ』とか『ピカ』とか『ビリ』と感じたら、それが英児さんを迷わず動かして、そしてそれがあなたにとっては『大事な今』。そしてその時の英児さんは、いつも誠実で間違っていない。これも、そんな感覚なのでしょう」

 今度は英児が絶句する。説明なんていらなかった。……言えば、この嫁さんになる彼女は、直ぐに通じてくれる。忘れていたのは英児のほう。

「私、英児さんのそんな動物的なところが大好き。だから。今日がその『グッと来た時』なら、私も一緒に連れていって」

 だって。妻になるのだから。

 瀬戸内の青い海の側で、彼女が笑っている。

 たったいま、この瞬間。本当に彼女と通じて結ばれた気になる。

「よし。俺も書くぞ」

 彼女の花柄のペンを手に取り、『滝田英児』と力強く記す。書きながら英児は言う。

「明日、市役所に持っていくぞ」

 大晦日なのに。

「はい。英児さん」

 俺達には関係ない。グッと来た時、ビリッとした時、彼女とピタッとした時。その瞬間を逃がさず、一緒に行こう。

 明日、俺達は『夫と妻』になる――。

 書き終えると、マスターがひとまずお先の珈琲を運んできた。カップを乗せたソーサーを手に取り、まず琴子の前に置こうとテーブルに視線を落とし……。彼も気がついた。

「え、それ。婚姻届じゃないか」

 白髪のマスターが面食らった顔。書き込みほやほやの、人生の上で大事な紙切れが客のテーブルに。

「明日。彼女と持っていって入籍するんだ」

 告げると、マスターが仰天する。

「ちょ、ちょっと。うちの店に来て、そんな大事なものを二人で書いていたのかい」

 今度は琴子が笑って告げる。

「英児さんが急に言いだして。でも、彼らしいから私も書きました。それに……」

 そのまま彼女の優しい目線が窓の外の海へと馳せる。

「私、このお店にすごく思い入れがあるんです。英児さんが初めてこのお店に連れてきてくれた夜から、私はそれまでの小さな囲いにいた重い毎日から解き放たれたようで……。このお店で、大事なことを二人で決められたこともまた、ずっと心に残って、支えになっていくと思います」

 彼女を連れてきた夜は、この店は月明かりで溢れていて、まだ出会ったばかりの英児と琴子を優しく包み込んでくれた。その夜、この漁村で結ばれた。英児にもその思い入れはある。

 そこまで言われたせいか、マスターは一時茫然としていたのだが、やっといつもの穏やかな熊親父の笑みを見せてくれた。

「ありがとう。僕のお店をそんなふうに思ってくれて。嬉しいよ。そして、おめでとう。お幸せに」

 琴子はここのマスターが大好きだ。熊親父からの祝福に頬を染めてとても嬉しそう。だが、英児も思う。きっと琴子の亡くなった親父さんは、ここのマスターのように静かで穏やかで懐のでっかい男だったのだろうと感じている。

「そういうことなら。お二人さん、ちょっと待っていて」

 珈琲を頼んだのに、マスターはそのまま持って帰ってしまった。

 何事かと、英児は琴子と顔を見合わせる。しばらく待っていると、マスターがキャスター付きのワゴンを押して戻ってきた。ワゴン台の上には、喫茶店とは思えないものが乗っている。

 そこには銀色のシェイカー。他には柄がとても長いマドラス(バー・スプーン)に、ガラスの容器(ミキシンググラス)が並べられている。つまり『カクテル』を作る道具がそこにある。

「今日はどっちが運転しているのかな。やはり英児君?」

 マスターの言葉に、英児もただ頷く。

「じゃあ。琴子さんにはアルコールを飲ませてもいいね。英児君にはちゃんとノンアルコールで作るから」

 そういってマスターはナイフ片手にレモンをスライス。琴子もどうしてマスターがそんな道具を急に出してきたのかと目をしばしばはためかせ戸惑っている。

 不思議そうな二人を傍目に、マスターはとても手慣れた綺麗な仕草でリキュールをメジャーカップで計り、シェイカーに注ぐ。搾ったレモンの果汁も混ぜると、シェイカーを肩先で軽やかに降り始める。

 その手つきを見て、英児は思い切って尋ねた。

「おっさん……。もしかして、それ本職だったんじゃ」

 シェイカーを振る白髪の親父さんがふっと緩く笑った。

「この店を始めるまではね。若い時、数年だけ東京で頑張って、あとは阪神をうろうろ。最後はここ、お城山が目の前に見える一番町ホテルのラウンジでやらせてもらって早々に引退。故郷のこの漁村に戻ってこの店をつくったんだ」

 思わぬ経歴に、英児は琴子と共に驚きの顔を揃えた。


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る