17.いつか同級生
幾日かが経ち、香世が車を取りに来る日がやってくる。
「今日、香世ちゃんが来る日だなあ……」
実家近所の幼馴染みだからこそ、気心知れたつもりで過去ある男性の結婚報告も平気でした武智だったが、あれから溜息が多い。
なんでもサバサバと笑顔で受け流す武智が、元気がないのは余程のこと。そして香世の名を聞いただけで、英児も顔をしかめてしまう。
「ったく。一緒に過ごす家族がずっと側にあるっていうのによー。なんかあれからずっとムカムカすんだよ、俺」
むすっとすると、武智は逆に事務デスクで頭を抱え項垂れてしまう。
「はあ、俺。矢野じいみたいに気がつかなかったからさあ。十五年も前のことじゃん。しかもふったのは香世ちゃんのほうだったのに。もう笑い話レベルだと思ってたんだよね。まさかのまさかだよ。もう。馬鹿みたいにタキ兄が結婚すること言わないほうが良かったかも」
いつもの『おふざけ』のはずだったのに、笑い話で終われなかったことを武智が悔いている。
「いや。お前は悪くないよ。矢野じいが言うように、笑い飛ばせないなら、ここに来ちゃいけなかったんだ」
気にしないように言ってみると、だからこそ、普段はムードメーカーとして冗談を上手く言えるはずの男が上手くできなかったことで、武智はしょんぼりしていた。彼が笑い飛ばさないほうが、英児は焦ってしまう。香世とは近所の幼馴染みで気易く付き合ってきた分、思いもよらない『女心』に触れショックだったようだ。
「まあ。気にすんなよ。俺からも、なんとかやっておくからよ」
いつものタキ兄として伝えると、彼がやっといつもの眼鏡の笑顔になってくれた。
「女ってわかんないねえ」
「武智でわかんないなら、俺はもっとわかんねえよ」
「琴子さんには、話していないんだよね」
「話すかよ。あっちが同級生の気分で笑い飛ばしてくれるなら、紹介するけどよ」
だよね。と武智も『女の気持ち』が表面化した以上、二人は会わせないほうが無難と同意してくれる。
「でもよ。たぶん、琴子、なんとなーく気がついてるぽいな」
「マジで? どーして。あ、タキ兄が見送る時、ちょっと雰囲気が暗かったのを二階から見ていたとか?」
「かもしれないし、そうじゃないかもしれない。でもよ『知り合いか』と聞かれたから、『同級生』とだけ答えておいたんだよな」
「うわーうわー。琴子さん、絶対に何か感じているはずっ」
英児もそう思っている。
「俺もだんだん解ってきた。琴子が黙ってなにかを感じ取って、でも、『話題にしないほうがいい』と様子を見て俺に気遣っている時の表情とか、仕草とか、態度ってやつ」
もっと聞かねえのかよ? と構えていると『そう。久しぶりに会えたの? 良かったね』と笑顔で流された時に、英児はそう感じてしまったのだ。
「へえー。やっぱり同居すると、そんなことがわかってくるんだ。だんだん夫妻らしくなってくるんだなあ」
「お。そうかな」
なんて。琴子と夫と妻ぽく見えると思うと、英児もなんだか照れるし嬉しかったりする。
「まあ、とにかく。どうせ今日、会うわけだから。その時な」
「いやー。香世ちゃんもいい歳した人妻なんだからさ。笑い飛ばしてお終いって気もする」
『そうだといいんだけれど』と武智が再びため息。
しかし英児も『笑い飛ばしてくれるといいんだけどな』と思っている。ただそれで流して終わって良いのかどうか――とも、思っている。
―◆・◆・◆・◆・◆―
昼下がり。ピットで顧客の車をチューンナップしているところ。
「英児君」
その声が聞こえ、タイヤ交換をしていた英児はその手を止め彼女を見る。
「おう、来たか。車、外にあっただろ。綺麗に磨いておいたからな」
「うん、見た。ありがとう。英児君が磨いてくれたの」
「ああ。水アカ取りもしておいた。これ、サービスな」
「ありがとう……」
「ちょっとかかるからよ。中で待ってろよ」
だが香世からピットに入って英児に近づいてきた。
「あれ。ボウズは」
今日は髪を束ねず、サラサラと肩先で黒髪がなびいている。綺麗にメイクをしていることにも、英児は気がついてしまう。そしてこの前より大人っぽい黒いフリルのブラウスをデニムパンツに合わせていた。
「実家に預けてきた。帰りに街に出てクリスマスの買い物をしようと思って」
「子供のプレゼントかよ」
「そんなところ」
ちょっと寂しそうな顔に見えるので、困ってしまう。
「なんだよ。言いたいことあるなら、言っておけよ。……この前みたいに」
整備の手を止め、英児は持っていたスパナを道具箱に置いた。
香世も英児の目の前で、俯いている。眼鏡の奥の目が見えないほどに。
「この前。勝手なことばっかり口走っちゃって、ごめんね。あの後、すごく後悔した」
それだけ言うと、香世が黙り込む。まだなにか言いたいことはないのか、英児もじっと待ってみた。だが、もうないようだった。
どうやら『案外、笑い飛ばすだろ』という武智と英児の期待も、見事に砕け散ったようだった。もう香世の中から溢れ出た女の気持ちは『無かったことに』とは出来ないよう……。それなら英児も受け止めねばならぬだろう。
英児は、香世に向けあからさまに溜息をついてから、彼女の正面に向かう。
「あのな。おまえも子育てをしている母ちゃんでカミさんで、だからこその『大変さ』があると思うけどよ。俺のことをいい逃げ道にするのは、これっきりにしておけよ」
「うん。逃げ道……だったね。でも、だからこそ逃げ場所があったから我慢できていたこともいっぱいあるんだよ」
「それなら。俺じゃなくてもいいだろ、もう……。言っておくけどよ。おまえ、やっぱり俺のことなーんにもわかってないわ」
香世は黙っていたが、しばらくしてやっと口を開く。
「……だよね。一年に一度会えるか会えないか。ただの同級生だというだけで、毎日の英児君を知っている訳じゃないしね」
「つーかよ。おまえ、俺のこと、これっぽっちも見ようとしなかったじゃねえかよ。なのに後になって、てめえの都合のいいように『英児君』を書き換えて、勝手に文句を言って本人の前で泣くってなんだよ。はあ? 俺はおまえに二度も拒否られたんだぜ。その後の俺の気持ち、どれだけ長く引きずったか知らねえだろ。だよな。とっとと黒髪の真面目なリーマンと結婚したんだからよ」
英児の口も止まらなかった。いや、英児も今日は覚悟していた。香世が本心でぶつかってきたなら、俺も酷い男と言われても嫌われても、こっちも本心でぶつかってやろうと。
そこにはある種の『賭け』もある。男と女でこれっきりで終わるのか。それとも……。今日まで英児がそう信じていた『終わったから、同級生として友人でいられる』のか。
しかし。だめなのか。目の前で眼鏡の女性がフレームの下から涙をぽろぽろこぼしている。
「わ、わかってる、よ……。ただ、それに、気付きながらも気付かないふりの、そういうの……。たった一人だけの秘密の楽しみぐらい……」
ぐずぐず泣き出した女には弱い、困り果てる。だが英児もここは『けじめ』だ。自分にとっても『けじめ』。心を鬼にして言い返す。
「だったら、口に出すな。永遠にてめえの中に閉じこめておけば良かっただろ。俺が知らないとこで、俺にも俺の彼女にも旦那にも知られずにずっと……! 勝手な夢を作っちまったなら、墓まで持っていくぐらいの想いにしておけ。二度も俺を拒否しておいて、今更、『どうして私じゃないの』なんて気分悪いだろ」
言いたいだけ言ってしまった。やっぱり彼女がわっと泣き出してしまう。
「なにも知らないくせに。結婚して、旦那が好きでも家族が一番でも、女の気持ちがどうなるか何も知らないくせに。英児君の彼女だって、きっとなるんだから」
いや。英児は眼力を込め、そこは立ち向かう。
「ならねえよ。琴子はならねえ」
香世の前で、はっきり嫁になる女の名前を口にしたので、涙の顔がさらに歪んだ。
「新婚でなにもかもが素敵に見えるから、そう言えるのよ」
結婚の現実も知らないくせにと、言いたいらしい。それは英児も経験者に言われると何も言い返せない。だけれど、言い切るには信じているのには揺るがない訳がある。
「おまえは俺とつきあっても拒否したけどよ。カミさんになる琴子は、最初は元ヤンの俺にビビっていたけど、すぐに真っ直ぐに俺のことを受け入れてくれたよ」
「だって、もう大人じゃない。金髪じゃないし、茶髪じゃないし。社長で経済力も人脈もある。女の子が欲しいものいっぱい持ってる」
「バレるまで、隠していたんだよ。それ。社長たって小さな事業所、それをとっちまった本当の俺は、ただの整備士で元ヤンキーで走り屋。それで付き合ってくれるかどうか、というのが俺にとっては重要だったからよ。でも彼女は、それだけの男だとしか知らなくても充分に俺を受け入れてくれたよ」
やっと、香世が黙った。涙も止まったようだ。
「俺が持っている寂しさがどんなものなのか、おまえは知らなかっただろ。俺がそんな寂しがり屋で、家族に飢えているだなんて。そんな惨めな男だなんて思っていなかっただろ。『いっぱい持っている』じゃない、俺の中では『持っていない』だ! それを知らずに、俺と別れて、旦那と子供と笑って暮らして、それでも小さな隙間に勝手に書き換えた俺をはめ込んで不満を凌いでいたんだろ。俺のことなんて、どこにもないじゃねえか。最初から」
涙も止まった濡れた目が、黙って英児を見つめている。茫然とした香世の顔には、もう、香世なりの答が出ているように英児には見えた。
「琴子は。すぐに俺の欠けている心を知ってくれて、常に俺のそばにいようと心がけてくれたんだよ。今でも、この前だって熱が出て実家に帰したのに。俺が一人で寂しくしているんじゃないかと、帰ってきてくれた。甘えているのは、手放せないのは、俺のほう。俺が琴子を選んだんだ。誰でもない、琴子を。他の女は俺を置いてどこかに行っちまったから『忘れた』よ」
「そっか。私は、そんな英児君を二度も捨てたってことなんだね。気がつかなかったということなんだね。昔も今も自分のことばっかり……なんだね……」
「おまえは、とにかく俺じゃなくて、理想の男と結婚したかったんだろ。俺なんかとはどうあっても、結ばれなかったと言うことだよ。それを考えると『どうして私じゃないの』なんて言葉はぜってえ出てこねえと俺は思うけどな」
「……うん、そうだね。そうだった」
また香世の目から、涙が溢れていた。
「みっともないね、私。醜い秘密を英児君に叩きつけたりして……」
そんな香世に。もうこれで終わりかもしれない香世に、英児は最後に言っておきたいことを伝えようと思う。
「慣れちまったのかもしれないけどよ。もう一度、旦那と向き合えよ。子供、ちょっとだけでも預けて二人きりになってみたらどうなんだよ」
きっとそんなことなのだろう。結婚十年以上。男と女ではなくなって、彼女の頭の中にちょっとだけ生々しい匂いが漂う身近な男にトキメキ役を任せていただけ――。
「うん……。そうだね」
やっと香世が涙を拭いた。頭の中にいた英児が知らない『英児君』が出て行ってしまったのだろう。そうすれば、彼女には夫しかいないのだから。
「なあ、香世。マジで独り身は寂しいぜ、侘びしいもんだぜ。家族がいるならなおさら。もう一人にはなれないぜ。だから……なあなあにしないで大事にしろよ」
また、香世の頬に涙が流れた。でも今度は一筋だけ。でも溢れた涙より、そのたった一筋の涙が香世の本当の想いからこぼれた涙に見えた。
「ありがとう、英児君。帰るね」
「おう。気をつけてな」
車まで見送らなかった。そのまま作業を続けようとした。そして香世もそのまま背を向けて去っていこうとしている。
もう、この店にはこないかもしれない。やはり男と女だった関係は、ただの同級生にはもどれないのかもしれない。
だが。香世がピットを出る前に、英児に振り返る。
「次、このお店に来た時。その時に奥さんを紹介してもらうね。その時に離婚していたら大笑いしてあげる」
眼鏡の彼女が笑った顔はもう。英児が恋した大人しい可愛い女の子ではなく、どこか逞しい主婦になった腐れ縁の同窓生。
「うっさいな。おまえも今日ぐらい小綺麗になれるなら、普段も頑張って旦那に振り向いてもらえよ」
「うるさいなー。普段もこれぐらいお洒落しているよっ」
『じゃあ、またな』
『うん、またね。結婚おめでとう』
『ありがとうな、香世』
『バイバイ』
――終わった。と、英児は思った。
香世がピットを出て、マーチに乗り込んで出て行ったかどうかは見えなくても。終わった。俺の胸に刻みつけられていた初恋も失恋も。そして変に残っていた男と女も。もうからっぽ。
次、本当に来てくれるのかは解らない。でも、もし来てくれたら……。その時は本当に、腐れ縁の同級生になれるのだろう。英児はそう思う。
その答はまた数年後――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます