16.さよなら、メモリー

 同級生で『初恋、初めての女』だった香世が、車検にやってきた。 

 後部座席にはチャイルドシート。そこに小さな男の子がちょこんと座っている。

「末っ子だろ。でかくなったな」

 眼鏡の香世がにっこり笑う。

「うん、もうすぐ三歳なんだ。英児君がこのまえ見た時は、生まれたばっかりだったもんね」

 ママが運転席を降りたので『僕も僕も』と言わんばかりにジタバタしている。

「やんちゃそうだなー」

「もうね。お兄ちゃんがいる末っ子だから、なにもしなくてもなんでも覚えちゃって生意気なのよ」

 それを聞いて英児は顔をしかめる。

「デカイ兄貴がいる男三人の末っ子って。俺みてえじゃん」

「そうなの、そうなの! 私もそれに気がついて、そういえば、この子と英児君って重なるなあーーって思っていたの!」

 だがそこで、香世は暴れている息子を見て優しく笑う。

「でもさあ。どの子も可愛いのは確かだけど、年離れて生まれた末の男の子って、余裕を持って育てているせいか、やっぱ可愛いのよ。英児君のお母さんも、きっとそうだったと思うよー」

 母親と似た境遇で子育てをしている女性がそういうから、英児も久しぶりに死んだ母の優しい顔を思い出してしまう。

 だがそこで、後部座席にいる末っ子がついにぎゃーっと泣き出してしまう。

「あーあ。もう、可愛いと言っても、やっぱり二歳は反抗期で難しいんだよね。やれやれ。せっかく英児君に会えたのに邪魔してくれたな」

 なんて言いながらも、香世も笑って後部座席のチャイルドシートから泣き叫ぶ男の子を抱き上げる。

「じゃあよ。代車の後部座席にチャイルドシートを付け替えておくな」

「うん。ありがとう」

「寒いから中で待っていろよ。武智がコーヒー入れてくれると思うから。子供にもなんかあると思うよ。あいつ香世が来るからってジュースとか準備していたからさ」

 そこでちょうど良く、事務所のドアが開き矢野じいが出てきた。

「おう、香世。久しぶりだな。末っ子、でかくなったな」

 矢野じいも笑顔で手を振り迎える。

「矢野じい、久しぶりー。また今回もお世話になりますー」

「いつも、ありがとうな。うちを使ってくれて。おう、ボウズとこっちきな。寒いからよ、早く早く」

 矢野じいの気が良くなるのも、香世と英児が付き合っていた当時を知っていることもあるし、その後別れても二人が同級生としてつつがない縁を続けているのをずっと見守ってきたからでもあった。

 子供を抱いて事務所へ向かおうとしていた香世だったが、車のキーを預かり、運転席に乗り込んだ英児へと振り返る。

「結婚、するんだってね」

「ああ。やっとな」

「もう同居しているみたいね。いま……いないよね。彼女」

 香世の目が龍星轟を見渡し、最後に英児の二階自宅の窓へと向けられる。

「いつも仕事に出ている」

 熱を出して実家にいるまでは言わなくて良いだろうと、英児は普段の彼女のことを教えるだけ。

「歳、離れているの?」

「いや、同じ三十代だけど。四つ下かな」

「仕事、なにしているの」

「デザイン事務所社長のアシスタント。秘書みたいなもん」

「へえ。三十代まで働いてきたキャリアウーマンなんだ」

「そこまで粋がっていない。真面目にお勤めを続けてきたOLさんってかんじだよ」

 ふうん、と呟くと香世はさらっと子供と一緒に事務所に行ってしまった。

 なんだよ。あの詰問みたいなの。英児は眉をひそめた。

 

 香世。高校時代は目立たなくて大人しくて、眼鏡をかけた静かな女子高生。自分と違って、きちんとしていて真面目で静かで慎重で。そんな女の子に英児はずっと前から弱い。年頃になってそんなタイプにかっちりはまったのが香世だった。

 近所で顔見知りの武智や篠原、そして元ヤン仲間の同級生たちに背中を押され、やっと告白をしたら『私、髪を染めている不良みたいな人とはつきあえない』が香世の返事で、あえなく玉砕した青春。

 だが武智がいちいち『香世ちゃん、香世ちゃん』と英児に言うのは、それから後にあった彼女との関係にある。

 二十歳になり成人式をキッカケとした同窓会で彼女と再会した時。大人しくて目立たない彼女は相変わらずの真面目な眼鏡っ子のまま。そんな彼女だから恋人もなかなかできないようだった。それでも年頃。そんな彼女から英児に近づいてきて『滝田君、いま彼女いるの』という問いかけから、今度は男女の関係に一気に発展。互いに『初めての相手』となったという馴れ初めがある。

 だが、そこは年頃の複雑な女心。当時もまだ茶髪に赤いメッシュを入れて粋がったヤンキースタイルだった英児は、既に矢野じいの店で働いていて常に薄汚れた作業着で油まみれ、その上、峠をがんがん攻める生粋の走り屋で車に夢中だった。勿論、香世も助手席に乗せてあちこち連れては、野郎共に紹介をした。だが、どの男も英児同様、粋がったスタイルの男ばかり。そんな男の世界が香世には馴染めなかったようだった。

 破局はすぐだった。半年ぐらいだったと思う。やはり彼女から『英児君みたいな男性はダメみたい』と断ってきた。英児も彼女の煮え切らない様子をひしひしと感じていたし、二度目のお断りだったので納得した。

 要は。とにかく男と付き合ってみたかったのだろう。年頃の女の子故の焦りだったのではと思い返す。目立たないから地味だから、華やかな女の子達のように思いっきり前に出られないから、なかなか男性から声をかけてもらえないし、自分から声もかけられない。思うように彼氏ができない。それなら、私を好きになってくれた滝田君なら……と思ったのだろう。そうしてヴァージンを卒業して、彼女は英児の元から去って、本当の女として歩み始める。

 そんな懐かしい関係。以後、彼女とは『同窓生』という間柄以外なにもない。だけれど、どうしたことか。妙に腐れ縁で、英児のことを思い出しては連絡をくれたり、店の客になってくれたり、連れてきてくれたり。『良き友人』になっている。

 いま、彼女は三児の母。希望通り、黒髪の真面目なサラリーマンと早々に結婚して、もう長男も中学生になったと聞いている。

 

 事務所に戻ると、香世は武智と矢野じいと一緒に楽しそうに談笑していた。

「香世。代車、外に準備できたから」

「ありがとう。じゃあ、検査終わったらまた来るね」

 必要書類も武智が既に記入させているようで、小さな子供がぐずる前にと香世もバッグ片手にもう帰ろうとしていた。

「矢野じいと武智君からいろいろ聞いちゃったー。英児君からがんがんアタックしたんだってねー」

「もうなんだよ。ほんっとにオマエらお喋りだな!」

 怒ったところで毎度のこと。矢野じいに武智がそうして英児のことをからかうのも、香世もそのからかいの笑いの中に自然に溶け込んでいる。

「彼女に会えなくて、ざんねーん。車を取りに来た時に会えるかなあ」

 末っ子の手を引いている香世は、照れるのを必死で我慢している英児を見ておもしろがっている。

「できあがりは平日。彼女、仕事だから。会いたいなら土日に来いよ。紹介するからよ」

 堂々と突きつけた途端だった。あんなに余裕で笑っていた香世の表情がちょっとだけ静止した……気がした?

 英児をからかう笑いで溢れていた事務室だったが、そんな中、急に矢野じいが笑みを消して外を見据えていることに英児は気がついた。

「おい、英児。あれ……」

 その目線を追うと。事務所のガラスの向こう、龍星轟の店先に白いコートに水色の鮮やかなマフラーをしている女性が現れる。しかもその女性、こちらに当たり前のようにすたすた歩いて近づいてくる。

 マスクをしている、眼鏡の……。

 ――琴子!

 英児がそう気がついた時には、外を歩いている彼女も気がつき目があった。

 完全防寒姿で、眼鏡にマスク顔の彼女がにっこり微笑んだのが英児にはわかった。そして琴子はそこで『客』がいることに気がついたのか、子供を抱いている香世に一礼をしてくれる。そのまま夫になる英児がいる事務所には近寄ってこず、事務所の裏口勝手口へと姿を消してしまった。

 しかし、英児達がいる事務所のすぐそこは二階自宅へ向かう通路。そこから琴子の足音が聞こえてきた。二階自宅に、当たり前のように戻ってきたようだが、何故?

 英児の身体はもう彼女へと向かっていた。裏通路への事務所ドアを開けると、琴子がちょうど階段を上ろうとしているところ。

「琴子!」

 水色のマフラーに埋もれている顔がこちらをちらっと見た。よく知っている眼鏡に、あのかわいい目。まだ熱で潤んでいる……。

「お、おまえ。どうしてここに」

 眼鏡の奥の眼差しがにっこり微笑んだ。

「熱が下がったから、会社に行って少しだけ手伝ってきたの」

 はあ? おまえ。そんな身体なのに毎度の『私、お手伝いします』根性でなにやってんだよ!と怒鳴りそうになってしまう。

「実は本多君から連絡があったのよ。どこに保存してあるかわからないデジタル版下があって、琴子なしで社長が探しているけど見つからないから、どこにあるか思い出してくれないかと。社長が『琴子がいなくても俺一人で出来る』とデザイナー達に意地を張ったらしいの。でも、それではデザイナー側のスケジュールが噛み合わなくなるロスタイムにしかならないから、なんとかしてほしいという連絡だったの」

 あの前カレめ。仕事さえうまく廻れば、琴子が熱で寝込んでいてもたたき起こすのかあーと、一瞬頭に血がのぼりかけた。

「保存場所さえ教えてくれたら本多君が探すと言ってくれたんだけど。私が出向いたほうが確実だろうからと、熱も下がったからタクシーで事務所に行ったの。すぐ見つかったから、帰ろうとしたんだけど……」

 問題の事務処理だけをして事務所を出てきた。でも……と、琴子が潤んだ目で英児を見つめる。

「……一度、外に出たら。もうここに帰れるような気がして」

 家に帰ってまた静かに横になるより、英児のところまで帰ってきてしまったということらしい。

「だって。朝起きたら、私……慣れている自分の部屋なのに『英児さん』て声に出して隣を探していたんだもの。はっきり目が覚めてそうだ私の部屋だったんだと、ちょっと驚いてがっかりしたりして」

 空色のマフラーとマスクに覆われてくぐもった声だったが、英児にははっきりと聞こえた。しかも英児が落ち込んでいたのに、琴子が涙ぐんでいる。

「お母さんがそばにいて安心して眠れたけど。でも、やっぱりもう、私の気持ちは龍星轟にあったみたい」

 片割れがいなくて落ち着かなくて寂しかったのは英児だけじゃなかった。琴子はもっと? こんな、すっとんで来るみたいに帰ってきてくれるだなんて。

「琴子」

 階段を少し上ったところにいる彼女を英児はそっと抱きしめていた。そして水色のマフラーを指先でのけマスクをのけ、唇を探した。熱のせいか、すこしぷっくり腫れたようにみえる唇が、なんだかいつもより艶っぽい。それを今すぐ吸ってしまいたい。

 だが英児の熱い視線がどこに注がれているか、琴子に気がつかれてしまう。

「ダメ、店長に移っちゃうから。キスもダメ」

 琴子の手が英児の頭を押しのけた。

「そんな我慢できねえよ。俺も、寂しかったんだよ……マジだよ。昨夜、ひさしぶりにビールを飲んじまっただろ」

「え、そうなの」

 走り屋は夜は滅多に飲まない。なのに飲んだ。その意味を琴子はもうよく知ってくれている。

 今度は琴子が英児を包むように抱きついてきてくれた。

「ごめんね。また一人にしちゃって」

「おまえが大変な時まで、そばいてくれなんていわねえよ」

 でも英児はもう帰したくないとばかりに琴子を抱きしめていた。そして、唇がダメなら……と。いつものように耳元の黒髪をかき上げ、黒くて小さい印を探し、そこに吸いつくキスをした。

「んっ」

 それだけで琴子が悩ましい声を漏らした。すぐに英児の愛撫を感じてくれ、それだけで心が満たされていく。

「あの、お客さんだったんでしょ」

「あ、そうだった」

「私、二階で休んでいるね。夜は英児さんと一緒に大内の家に帰るからと、お母さんにも連絡してあるから」

「わかった。じゃあ、一緒に実家に帰るんだな」

「うん。もう一晩だけ、向こうで休むね」

 英児も納得して頷く。もう充分だ。病み上がりの彼女が外に出た弾みで英児の元に飛んで帰ってきてくれただけで――。

 白いコート姿の彼女が、ゆっくりとした足取りで二階自宅の玄関へと向かっていく。それを見届けて、英児は事務所に戻った。

 ドアを開けると、矢野じいと武智も心配そうな顔を揃えている。

「琴子さん、どうして」

 武智は尋ねてきたが、矢野じいはもどかしそうに口を閉じている。師匠のそんな難しそうな顔が、何故か香世へと視線を流し英児に合図を送っているように見えた。

 そこにはぐずる息子を抱いたまま、先ほどの明るさもどこへやら。笑顔をなくしてしまった香世が店の外を見つめていた。

「えっと……。ん、まあ……帰ってきちまったみたいだな」

「あの、私。もう行くね。車、お願い」

 急に笑顔になった香世が息子を抱いて、さっと事務所を出て行ってしまった。

 そんな香世を見て矢野じいがため息をつく。

「今更なんだよな。とことん笑い飛ばして欲しかったな」

 矢野じいが残念そうに口元を曲げ、香世の背を見送っている。

 その時、武智がハッとした顔になる。

「え、矢野じい。それってそういうこと?」

「はあ? おまえも、わかっていたんじゃねーのかよ」

 二人の会話に――。英児も武智同様『なんのことか知ってしまう』。だがそれは『当の本人』からすれば、ちょっとした、いやかなりの衝撃だった。

 英児は事務所を出て、代車に子供を乗せている香世へと駆け寄った。

「おい」

 香世が振り返る。

「英児君が好きそうな人だったね。優しそうで上品そうで、いいとこのお嬢さんって感じ」

 あきらかに不機嫌そうな香世の声。どうしてそんな顔なのか。それに気がついてしまったので、英児は容易く返答ができなかった。かける言葉がみつからない。

「おめでとう。お幸せに」

「ありがとな。気をつけて、帰れよ」

 運転席のドアを開けた香世がこっくりと頷く。だけれど……。しばらくそのままで乗り込もうとしない。

 冬の青空、龍星轟の真上に東京行きの旅客機が近づいてきた。響く轟音の中、香世が言った。

「なんで、私じゃないのかな。彼女は私だったかもしれないのに。どうして」

 英児が知ったことは確信へと変わってしまう。若い男二人は気がついていなかったが、流石の矢野じいはもうずっと前から気がついていたようだった。

 だが。やはりそれは『今更』だ。それをいま言ってくれるなら、英児だって言い返したいことがある。

「なんだよ。だって香世、おまえ、俺のことなんか」

 すべてが言えない。それは英児の傷でもあるのだから。

 それでも香世が空を見て言う。あろうことか、彼女の目尻に涙が浮かんでいて、英児はさらに吃驚。

「ずるいよね、私。英児君をふったのを若さのせいにして、大人のイイ男になってからこんなこと言うなんて」

 いつからだよ。おまえ、いつから、俺のこと――。そう言いたいけどやっぱり言えずにいる。

「結婚したくせになんでと、思うかもしれないけど。結婚してなにもないからこそ……楽しみだったのよ。私にとって、英児君は自慢の同級生なんだよね。一生懸命働いてお店を持って人気店にしちゃって。ずっと車が好きでその信念を曲げないで、仲間もいっぱいいて。茶髪もやめて黒髪にしてどんどん大人のイイ男になっちゃって。英児君がずっと前から持っていたもの、私が若さだけで拒否したこと、今なら英児君のあの情熱的な勢いも、全部がすごく素敵なことだったって良くわかる。旦那はなにも知らないけど、同級生はみんな英児君が私のことを好きでいてくれたこと知っているから『もったいないことしたね』ってよく言われるよ。それでも一時でもそんな英児君に愛してもらえたことが、今は私の……」

 ついに香世の頬に涙が落ちていくのを英児は見てしまう。

「英児君が結婚しちゃうなんて、やっぱり寂しい。これで完全にあの彼女だけの男だもんね」

 それだけ言うと、香世はさっと運転席に乗ってしまう。

 英児も何も言えず、ただ見送ることしかできなかった。

 なんでだよ。今更。それになんでだよ。

 俺を二度もふったくせに。

 冬の潮風が吹き込む龍星轟。急にずっと前の苦い思いがこみ上げてきた。

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