15.寂しいって言えない
忙しい師走に入り、英児の店もやや慌ただしい。だが琴子はもっと。盆同様、年末商戦の時期で彼女の会社も忙しさを極めていた。当然、また毎晩のように残業責めになる。
それでも毎朝なんとか通っている琴子が、この朝はぐったりと寝込んでいた。
「英児さん。今日……会社、午後から出勤することにしたから」
朝の寝室で『大丈夫か』と案じて声をかけると、気怠そうな琴子がそう知らせてくれる。支度を終えた英児を見ると、琴子はふっと眠ってしまったのだ。
三好ジュニアにも連絡済みのようだったので、許しを得てのことなのだろうと英児もそっとして、その日は二階自宅に彼女を置いてそのまま店に出る。
「えー、琴子さん。今日は午後出勤なんだ」
いつも朝一番に事務所に出てくる武智は、毎朝、出勤するために一番にガレージを開ける琴子と挨拶をする。その時間に琴子が現れなかったので気になったようだった。
だが武智は少し不思議そうだった。
「でもさ。琴子さんって『頑張り屋』ではあるけど、なんていうんだろう……段取り上手いっていうか、ギリギリまで攻めてもコンディション管理ができる人だと思っていたんだよなあ」
なんだそれと、英児は眉をひそめた。
「管理能力があるっていうのかな。三好ジュニア社長がアシスタントに抜擢しただけあるなあって。俺の事務の手伝いをしてくれる時、いつもそう思っているよ」
「あ、それ。あるかもな。『お手伝いします』て言い出すけど、あれって『アシスト上手』ていうのかな。俺も土日の手伝いを思いきって任せる時あるけどよ。あんとき、どこをどう手伝えばいいかよーく見て、俺の指示なしでも自分で判断をして切り回しているもんな」
「そうそう。だから矢野じいが喜んで使うし、清家兄貴も兵藤兄貴も文句言わないで一緒に仕事をしているんだと思うよ。あれでもたもたしていたら、ここのオヤジに兄貴達は足手まといだと、きっぱり切り捨てるシビアさはあるからね」
だからこそ――と、武智が本題に戻る。
「だからこそ。寝込むっておかしくない? そうなる前に、ちゃんと調整できる人だと思うんだよ」
「でも。すげえ遅くまで残業するんだぜ。俺と初めて出会った時も、徹夜泊まり込みの上、翌日も残業になって夜遅くて二日ぶりの帰りだったらしいもんな。マジで疲れ切った顔をしていたんだからさ」
「で、くたくたに疲れ切った姿の彼女に一目惚れしちゃった人がいるしねえ」
意味深な笑みでにんまりからかわられたが、『いいたいのは、そういうことじゃないだろ』と突っ込んで英児は後輩を睨む。
「だから、疲れがでたんじゃねえの。だいたい、ここんとこ、ちょっと疲れた顔していたよ。すぐに寝ちまうし」
抱けない日が続いているし……と、心の中でそっと呟いてみるのだが、それは彼女と二人だけの秘密。
「寝込んでいるってさあ。風邪? それとも……」
「それとも?」
もったいぶられ、英児は再度、眉をひそめる。
「妊娠しているとか」
前触れもなく言われたので、英児はびくっとおののいた。
「あれ。やっぱ、身に覚えがあるんだ。だよねえ、タキさんが『我慢できる男』には見えないもんな」
「ま、まさか」
つい最近『母ちゃんになる前に、カミさんになるのが先。順番通りにいこーぜ』と、ベッドでのこともきちんとガードをするようになったものの、それ以前の『結果』はどうかというと微妙なところ。次の『月のもの』が来たら今月もダメだったと答が出る。
「妊娠をしようと思ったら、市販薬の服用も気遣うらしいからね。俺の妹も妊娠が分かった時、ちょっと前に知らないで頭痛薬を飲んじゃったと騒いだりしたもんな。実際には大丈夫だったんだけど。飲む時期によっては、受精した卵子が着床をしないで終わったり、流産したりとかあるらしいよ」
「そ、そうなのか」
「琴子さん、しっかりしているから、それを気にして『症状が出ても、風邪薬は控えた』とかあるかもしれない。あるいは本当に妊娠をしてぐったりしているのかも。あれって『うえ』て吐き気が来て知るばかりじゃないらしいよ。ある日突然がくっとだるくなるらしいんだよ」
それも出産経験済みの妹からの話らしい。
「……ちょっと、様子をみてくる」
途端に不安そうになった英児を、武智もうんうんと頷いて二階自宅に戻してくれた。
自宅に戻ると、眠ったはずの琴子が起きてダイニングテーブルでなにかをしていた。
パジャマの上に白い毛糸のカーディガンを羽織って、眼鏡をかけた顔で何かを探している。彼女の手元を見ると薬箱!
武智に教えてもらったばかりだったので、英児は慌てて琴子の元へ駆け寄った。
「琴子、なんの薬だよ。それ」
見るととよくある鎮痛剤――。
「どこか痛むのか」
働きに出たはずの彼がいきなり戻ってきて問いただす勢いに、眼鏡の琴子がたじろいでいる。
でも英児はそんな眼鏡をかけている琴子の顔を見て、ハッとした。
「もしかして……琴子、おまえ熱あんの?」
ぼんやりとした眼差し、潤んだ瞳、そして頬が真っ赤だった。慌てて額に手を置くと。
「すげえ熱じゃねーかよ!」
「大丈夫……」
それでも消え入るような小さな声。でも彼女も英児の顔を見た途端ちょっと気が緩んだのか、そこにある椅子をひいてぐったりと座り込んでしまう。
そして英児にあるものを差し出した。『体温計』だった。英児もそれを受け取り眺めてびっくりする。
「大丈夫じゃねーだろ。三十八度六分てなんだよ」
「朝方、すごく身体中が痛くて。英児さんと一緒に毛布にくるまっているのに寒くて。もしかしてと思ってさっき計ったら、こんな熱……」
薬、飲めよ――。そう言いたくなって『そうだ、武智に言われたばかりだった』と英児は我に返る。
そして琴子も手にしたはずの薬の箱を放ってしまった。飲みたいけど飲めない、そんなもどかしさに英児には見えた。
「琴子、もしかして。子供のことを気にして、風邪をひきそうだと思った時、薬を飲まず我慢したりしたか」
彼女が驚いて英児を見上げた。
「英児さん。そういうの知っているの?」
武智が大正解。そしてそれを今の今まで知らなかった英児は情けなさでいっぱいになる。
「わりい。琴子。俺……なにも知らなくて。子持ちの妹がいる武智に『気をつけた方がいい』と教えてもらって、やっと」
だが琴子は気怠そうな眼差しでも、優しく微笑んで首を振った。
「ううん。だって。できるかどうかなんて判らないのに。私が一人で張り切っていた上に、そこまで気を回していたなんて、いちいち言えなかった」
だがそれは、琴子の『本気』とも言える。それだけ英児と『家族をつくろう』と真剣に考えてくれているということ。そこまで知ったら何も言えない。
「でも、そうしたらこんなになっちゃって。熱なんて滅多に出ないんだけど……」
「いつもなら、こんなになる前に、なんとか乗り切ってきたんだろ」
琴子がこくんと頷く。本当に頬が真っ赤で、見ているだけで吐いている息も苦しそうだった。
英児は即決断。
「よし。俺が病院に連れて行ってやる。簡単でいいから支度しな。医者に相談すれば『もし』の時でも大丈夫なもん処方してくれるんだろ。行こうぜ、すぐ!」
彼女が笑った。
「即決、英児さんらしい……。うん、お願いします。支度してくるね」
支度を終えた彼女をすぐに愛車のスカイラインに乗せ、英児は朝一番近所の産婦人科へと付き添った。
思わぬ形で『産婦人科初体験』をしてしまう。
無我夢中で彼女を連れて行ったもんだから、気がつけば待合室は妊婦ばかりで落ち着かなかった。しかも、車屋の作業着姿で男一人。なんだか目立っているようだったから。
だけど、帰ってきた彼女がすぐに英児に報告してくれる。『念のために調べたら妊娠はしていなかった』と。
安心したような、やっぱりがっかりしたような。いやいや、この前『おまえに一番似合うドレスで式を挙げて、嫁さんにもらうんだよ』と豪語したばかり。
これで良かったのだと思った。
―◆・◆・◆・◆・◆―
琴子は始終ぐったりしていて、足取りもふらっとしていた。そんな彼女を抱きかかえ、なんとか龍星轟自宅に戻し寝室に休ませる。結局、琴子は一日会社を休むことに。
事務所に戻ると、矢野じいも心配そうだった。
「琴子、大丈夫だったか」
「ああ、うん」
神妙に案じている矢野じいが、英児にふと言った。
「午後になって琴子が少し落ち着いて、おまえも仕事の途中でもいいからよ。母ちゃんのところに預けたほうがいいんじゃねえか。どんなにおまえとの同居が順調でもよ。やっぱ、家を出たばかりだからよ、こんな時は慣れている母ちゃんに任せたほうがいいかもしれないぞ」
今度は親父からの思わぬアドバイスに、そこまで考えつかなかった英児は戸惑う。
「でも。鈴子お母さんは、足と手先が……」
「娘に食わせる食事の準備を毎日していたんなら、娘のちょっとした看病ぐらい大丈夫だろ。つうか、気持ちの問題だ。琴子も母ちゃんにみてもらえば安心して休めるし、母ちゃんも娘が見えないところで熱にうなされていたら心配するだろ」
「それでも俺達はこれからどんなことがあっても二人でやっていかなくちゃいけないだろ。俺だって、看病ぐらいできるよ」
だが矢野じいは首を振って否定する。
「馬鹿野郎。結婚して直ぐに『夫妻でなんでも出来る』なんて自惚れんな。しかもお母さんがすぐに同居を許してくれたから既に新婚みたいに暮らしているけどよ。やっぱ、家を出てたった二ヶ月程度なら、こんな時は実家に帰したほうがいいぞ」
琴子にも聞いてみな――と、言われた。
「わかった。聞いてみる」
どこか釈然としないが、矢野じいがその顔で『こうしたほうがいいぞ』ということに反抗するとろくなことがなかったのがほとんど。若い時はそれで反抗をして失敗して反省もしたが、今は聞き入れて言われたことを試してみる柔軟さをもてるようになった。だからこそ、英児も飲み込んでみる。
午後になり、昼休み。寝室にいる琴子の様子を見に行ってみる。やっと服用できた薬が効いているのか、静かに眠っていて英児はホッとする。
そばに行きベッドの縁に腰をかけ、そっと彼女の額に触れてみる。まだ熱かった。
「英児さん?」
眠りが浅かったようで彼女が目を開けた。
「どうだ」
「うん……」
弱々しい返事。
「なにか食うか。俺、ろくなもん作れないけどよ。粥ぐらいは作れるから。他に欲しいもんあったら言ってくれ。すぐに買いに行くからさ」
「うん……。いまはなにも」
『そうか』と英児も答えるのだが、やはりそんな元気のない琴子は見ていると辛い。だから、つい。
「琴子、実家に帰るか。お母さんのところに」
やはり琴子も驚いた顔を見せる。そして何故か、毛布にくるまって英児に背を向けてしまった。
「ううん。大丈夫」
そう言ってくれて英児はホッとするのだが、その背中が意地を張っているようにも見えてしまう。今度は逆に『大丈夫』と言ってくれたからこそ、矢野じいが言ったことは『正しい』と強く感じてしまった瞬間。
「やっぱ、帰ろうぜ。俺じゃあ……たいした看病できないからよ」
背中を向けたままの琴子が黙っている。英児も無言で待っていると。
「……うん。そうする」
力無い返事があった。そして英児もがっくりと落ちていく感覚を知ってしまう。
「じゃあさ、いますぐ行こう。昼休みだから送っていく」
「いいよ。タクシーで帰るから」
「なんだよ。俺、おまえの夫になるんだぞ。そんな他人に気遣うようなことしないでくれよ」
「ごめんなさい、そんなつもりじゃなくて……。朝も病院に付き添ってくれたのにお昼休みまで……。それなら、お店を閉めてから連れて帰って。私もそれまでゆっくり眠っているから」
そこまで気遣ってくれたら何も言えない。『わかった』と英児も承知する。
その日の夜、英児は琴子を大内の実家へと帰した。
鈴子もびっくりはしていたが『でも。そろそろこんなことになるんじゃないかと、そんな気がしたのよね』なんて呟いたので、やはり矢野じいが言うとおり『まだ同居して二ヶ月だから』というのは、そんな『慣れていないからこその、疲れ』ということだったのだろう。
その日の夜。周辺の店も事業所の事務所も閉まると、本当にこのあたりは人気もなくなる。空港側の郊外はあまりにも静か。
そんな店兼自宅の龍星轟に住まう英児は、今夜は久しぶりに一人。
彼女とつきあい始めたからこそ手をかけた新しいベッドルームは、いまはもう二人がいちばん一緒に過ごす部屋。
そこで英児は滅多に飲まない缶ビールを片手に、暗がりの中でラリー鑑賞。
前はそれが当たり前だったのに。前はそんな時間もリラックスできる楽しい時間だったのに。
『英児さん。コーヒー飲む?』
そろそろ声をかけてくれる時間なのに。
隣で眼鏡をかけて、ノートパソコンで持ち帰りの事務仕事をしたり、ネットサーフィンをしている彼女がいない。
眼鏡の横顔、かわいらしい目と唇の。手を伸ばせばすぐそこにいた琴子がいない。
毎日が二人になると、一人というものをこんなに強く感じるだなんて思わなかった。
―◆・◆・◆・◆・◆―
翌朝一番に鈴子義母から連絡があった。
熱は下がったがまだ微熱で、今日も会社を休ませることにした――とのこと。
「英児君。今夜、こっちにおいでよ。お母さん、お夕食を用意して待っているから。琴子も英児君を一人にしたって気にしていてねえ……」
『英児さんを一人にしちゃった』と、また琴子が気にしてくれている――。それを聞いただけで、英児はしゃっきり背筋が伸びる。
「俺は大丈夫です。うん、でも、琴子が心配なんで夜はそちらに行きますね」
義母の『待っているよ』に、英児もほっとして電話を切った。
本日も業務開始。ピットで一台チューニングを片づけて、武智と事務仕事。昼下がり、事務仕事もだいぶ片づいたころ、外でワックスがけをしていた矢野じいが事務所に戻ってくる。
「さっびー。こんな日はあったけえ鍋焼きうどんが食いてえなあ」
矢野じいも休憩所に備えているヒーターへまっしぐら。まずは冷えた身体を温めている。そして何気ない一言。
「うー。この前の琴子の鍋焼き、うまかったなあ。あれ食いてえ」
そして武智も。
「あれ、美味かったよな。お母さんに教わったと言っていたから、琴子さんのお母さんは料理上手なんだね」
勿論、こんな時。いつもなら英児もこぞって話題に参加するのだが、本日は無言。
「タキさん、どうしたの」
気怠く顔をあげると、向こうにいる矢野じいが呆れた顔を見せた。
「おめえよお。母ちゃんに捨てられたガキみたいな顔してんなよ。琴子が実家に帰ったぐらいで」
「んなんじゃねーよ」
いえ、その通りなんですが。でも本心を親父には見せまいと必死に隠す。
「旦那になる自分より、母ちゃんを頼られたんでショックなんだよ。このガキは」
矢野じいの口悪に、武智がちょっと笑う。
「女同士だからさあ。喧嘩同様に、困った時も男は割って入れないもんがあるよ。今回みたいに……。しかも琴子さんのところは、母娘で支えあって暮らしてきたんだから」
「そうだ、そうだ。母ちゃんは、最後まで味方。最強なんだよ。おまえ、一生勝てねえと決定しているんだから、いい加減諦めろ」
「うるさいな。そんなあったり前のことわかっているって」
ただ、寂しいだけなんだよ。独り寝があんなに侘びしいだなんて、独りの時以上に染みいったんだよ! 家の中が静かで、彼女の匂いだけが残っていて、そばに触れたい安心できる体温がなくて。こんな、独りの時より寂しかったことが、ショックだったんだよ!――とは言えず、ただぶすっとしているだけなのに。ここの男共はお節介みたいにいちいち勘ぐって……と文句を言いたくなる。
でも、まあ。今夜は彼女の家に行けるからいいかと、口うるさい親父に生意気後輩の目線から解放された時だった。
「おー、客が来たぞ」
龍星轟の店先に、水色の日産車が入ってきた。その車を見て、武智が呟く。
「あ、香世ちゃんだ」
英児もハッと我に返って、手元にある『本日の顧客シート』をパラパラとめくる。
「わ、今日だったのかよ」
どんだけ琴子のこと頭いっぱいにして、仕事に身が入っていないか思い知る。
日産マーチが事務所の入り口前に駐車した。運転席から女性が現れる。
「英児君ー」
黒髪を束ねている眼鏡の女性が手を振っていた。
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