14.カミさんになるのが先

 本日の母娘の喧嘩はまさにそれだった。

 娘が選んだドレスを母親が『なんだか琴子らしくない』と否定し、母親らしく娘にとても似合うドレスを勧めると娘は『それはダメ』と拒否する。そこで母娘が通じ合えず衝突――という経緯。


 鈴子母はそんな娘と婿の婚前交渉など知らないから、どうして娘が母親として一番のアドバイスをしているのに受け入れてくれないのか、通じないのか。非常にもどかしく思っていたことだろう。

「うん。わかってる。私の好きなようにするね。でも、お母さんが選んでくれたようなドレスのことも考えてみるから」

 母娘がどうやら互いの真意を知って、仲直りをしたようだった。

 それでも。英児は寝室のドアの前で一人、複雑な思い。鈴子はきっと、娘が早く子供を授かろうとしている気持ちを知って理解してくれたのだろう。義母の声が聞こえる。『琴子の好きにしなさい。そんなことだったなら、貴女の好きなドレスにしなさい』。娘が本当に似合うドレスがどれかわかっていながら……。でも娘の気持ちを第一にして、母親として選んだドレスのことなど綺麗さっぱり忘れてしまうことだろう。

 そして琴子も。英児の為に早く賑やかな家族をつくってあげるんだというその気持ちもあるだろうが、もう一つ。『親が元気なうちに、孫の顔をみせてやらなくちゃ』と、それもあるのだろう。

 片親を、特に自分を案じてくれた母親を結婚のごたごたに巻き込んで傷つけたまま逝かせてしまった英児には痛いほど分かる。そんな母親だからこそ、英児も『孫の顔ぐらい見せたかったな』と思っている。救いは、亡母には既に孫がいたこと。しかし鈴子と琴子は違う。鈴子にとっては一人娘の琴子からしか孫を見ることが出来ない。それを琴子も良くわかっているのだろう。しかも彼女は父親を未婚で亡くしている。きっと父親にも見届けて欲しかったはず……。孫の顔を。その上、母親も生死をさまよい、後遺症を残しつつもなんとか娘の元に帰ってきてくれたのだから。両親を一度に失うような思いをしたことがある一人娘の琴子には、さぞかし怯えた日々だったに違いない。焦る気持ちは、夫になる英児のためだけじゃない。『親が元気なうちに。親はいついなくなってもおかしくない』。それを体験している琴子だからこその焦りが、英児には良くわかる。

 だからこその『早く授かりたい』。

 だが英児はそこで強く拳を握って決意する。息を深く吸って、電話を切った琴子が俯く寝室へとドアを開ける。

「英児さん。帰っていたの。お疲れ様」

「おう。なに、お母さんに電話したのか」

 手に握りしめたままのピンク色の電話。琴子もそれを見つめて、素直にこっくりと頷いた。

「英児さんも、ごめんなさい。あんなところで母と娘で喧嘩しちゃって、間に挟まれて嫌だったわよね。お母さんも英児さんに悪いことをしたと心配していた」

「俺は全然平気だよ。ただ琴子とお母さんが喧嘩するのを見るのは哀しいだけだよ」

 琴子が申し訳なさそうに小さく微笑む。

「お母さんが、英児さんに気にしないように言っておいてと……」

「気にしていない。お母さんにも今度、そう言っておくし。琴子からも言っておいてくれ」

「うん。週明け、仕事の帰りに実家に寄ってみるわね」

「じゃあ、俺もその日に店を閉めたら行くよ」

 それだけで、やっと琴子がいつも通りに柔らかな微笑みを見せてくれる。

 いつもの彼女に戻ったところで、英児は彼女が毎朝座っているドレッサーのスツールを引き寄せ、ベッドに腰をかけている琴子の目の前にどっかりと座り込んだ。

「英児さん?」

 訝しそうな彼女の目の前、彼女の目線に合わせ、英児は彼女の顔をじいっと真っ直ぐに見つめる。

 もしかすると、ちょっと怖く彼女には見えるかもしれない。ただ真剣に眼力を込めると相手には『ガンとばして』と言われやすい目つきになってしまうだけ。だが琴子も黙って、英児の視線を静かに受け入れてくれている。

 落ち着いて聞いてくれそうだと判断した英児は、そのまま琴子に告げる。

「俺な。はっきり言うと、鈴子お母さんの意見に賛成だ」

 『え』と、琴子が目を見開いた。なんの話が始まるのだという戸惑い。だが英児はそんな彼女の反応もねじ伏せる。

「ファッションなんかわかんねー。どれもきっと琴子に似合うとか本気で思っていたけどよ。今日、琴子が選ぼうとしていたドレスより、お母さんが選んだドレスの方がめちゃくちゃ似合っていたもんな。さすがお母さん、娘に何が似合うか、娘が何が好きか、よく知っているとびっくりしたんだよ」

「そ、そうなの。そんなふうに見えたの?」

「ああ。あんなに違いがあるんだな。お母さんが選んだドレス。本当は琴子も好みだっただろ。着たいと思っただろ」

 そこでやっと。琴子が英児から目を逸らした。図星だったらしい。

「俺も思った。俺、お母さんが選んでいたようなあんなドレスを着た琴子が見たい。これ以上ねえっていうくらい綺麗な花嫁をもらいたいもんな」

 ついに。琴子が黙り込み俯いてしまった。微かに見える黒いまつげにぽつんと小さな透明な雫が見えた。

「……もしかして。私、また……ひとりで張り切りすぎていた?」

「いや。俺は嬉しかったよ。五人も産みたいなんて。そこまで言ってくれて」

「お店のお手伝いを始めた時も、みんなに少しは休んで欲しいって心配かけちゃったこともあったし。ワックスがけを覚えたい時も、英児さんの気持ちを無視して愛車に手を出しちゃったし……」

「それは『よくしてくれる』ということがあった上で、『ちょっと頑張りすぎだから、ブレーキをかけろよ』と心配するだけのことで……。でも、まあ、うん。それって琴子らしいと思うから、俺は気にしていないんだけど」

 それでも琴子は急に何かに目が覚めたかのように、悔いるように涙をこぼしている。そんなふうに女の子に泣かれると英児はとても弱い。

「あのな、そんなところ惚れたんだからさ。琴子のさ、そんなところが俺を助けてくれたんだからさ。そこまで頑張ってくれたから、一人でいることに平気になっても、その、その……本当は寂しかった俺のことよく見てくれて知ってくれて、俺のそばにいてくれるようになったんだろ。俺、琴子には感謝しているんだよ」

 だが琴子はますます涙をこぼし、詰まるような声で言った。

「……違う。英児さんが、息苦しく暮らしていた私とお母さんを、ここまで明るくしてくれたの」

 感謝しているのは、私達、母娘だ――と琴子が言い切ってくれる。

「俺だって、琴子とお母さんがあったかいところに、すげえ癒されているんだからな」

 俯いている黒髪の小さな頭を英児は胸元に抱き寄せた。

 その身体を抱き寄せただけで、とても温かかった。この時期になるとピットでの仕事は身体が冷える。そこから帰ってきて汚れた指を洗うと、手はさらに冷たくなる。だから琴子がとても温かい。その身体をさらにぎゅっとそばに抱き寄せた。

「琴子。だから、さ。おまえさえいてくれたらそれでいいんだから。子供はまだ急ぐことないだろ」

 鼻先と鼻先をくっつけて話し合う。でも、琴子はすぐには諦められない戸惑いをその瞳に見せていた。

「やっぱ母ちゃんになる前に、俺のカミさんになってくれなくちゃな。いちばん似合うドレスで綺麗になって、俺のところに嫁に来い」

 また英児は眼に力を込め、琴子を見下ろした。だが、琴子がそこで神妙にこっくりと頷いてくれる。

「はい。英児さん」


 ――しかし、英児の脳裏に少しだけ不安が残っている。

 夏からずっと。幾度も彼女の中に生々しい男の熱愛を注ぎ込んでも子供ができないのは何故か。

 いままでの、琴子以前の『彼女達』にも同様のことを幾度かしたことがある。だが、やはりそんなことにはならなかった。

 それって。もしかすると『俺が原因なのでは』と微かに思っている。

 それは流石にまだ。琴子にも言えずにいた。


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