7.ここ、知らないだろ?
特に朝。空気が変わったと英児は思う。
今朝も晴天。買いそろえたばかりのダイニングテーブルで、彼女が作ってくれた朝食を目の前に朝刊を広げる。
もう見慣れた窓の風景はずっと同じなのに、タンカーが航行する瀬戸内の海や空の色が少し違うように思えるのも気のせいなのだろうかと、英児は一人自問する。
「見て見て、英児さん」
朝のゴミ捨てから帰ってきた彼女が、英児の目の前にやってきて手を開いた。そこには『ドングリ』が。
「お店の裏にドングリの木があるでしょう。地面にころころ落ちていたのを見つけたの。いつ落ちてくるか楽しみにしていたんだけど」
とっても嬉しそうな彼女をつい、英児は見上げてしまう。ずっと前から居着いている自分でも、そんなことはまったく気がつかなかったのに、彼女は見つけてきた。
「そういえば、ドングリ……あったよなあ」
「毎年、実は落ちていたんでしょ」
もう何年も前にこの土地に自宅兼の店を建て住んでいる貴方なら知っているのでしょう――と言いたげな彼女には申し訳ないが、英児は首をかしげる。
「落ちていた……んだろうな、毎年。あまり気にしなかったな」
案の定、彼女がちょっと残念な顔をする。
「あれは立派な木よ。元地主さんも土地を買った不動産屋さんもよく残したなあと思っていたんだけど」
自分が買った土地ながら、あまり気にしたことがなかった。だから、英児はドングリを握ってきた彼女の手のひらに触れてみる。秋も深まり、朝方の空気も冷たくなってきた。外へ出ていた琴子の手もひんやりしている。英児はさらにその手を握りしめ、ドングリごと包み込む。
「住み慣れているのに気がつかなかったこと。琴子と一緒だから気がつけるのかもしれないな」
琴子の目線もプラスされたから、今までの生活も新鮮。そう伝えると、彼女がにっこり笑顔を見せてくれる。
「これ、飾っておくね」
「おう」
どこから持ってきたのか。洒落た小皿に数個のドングリを置いた彼女が、テーブルにある花瓶のそばに置いた。
女らしい彼女のコーディネイトで、徐々に質素だった英児の二階自宅に彩りが生まれている。そして季節感も。
彼女らしい爽やかな色合いのテーブルクロスとランチョンマット。そして小さなフラワーベースには、ちょっとした季節の花もかかさずに。そして、今朝は小さな皿にドングリ。
だからだろうな、と英児はまた窓に煌めく瀬戸内の海を見る。その色合いが今まで違って見えるのはそのせいなのだと――。
―◆・◆・◆・◆・◆―
その後も、彼女だけが慌ただしく出勤の身支度。英児は自宅が職場なのでいつものんびりしているのが、やや申し訳ないほど。
寝室に入れた彼女専用のドレッサー。そこで琴子はメイクアップ中。英児も着替えながらそれを密かに眺めていた。こうしてそばに『女の子らしい日常』とやらを当たり前のように覗けるのも、なんだか新鮮。
最後に淡いピンクの口紅を塗ったところで、鏡に映っている英児を見ながら言った。
「今夜は、大学時代の友人達と食事をする日だから。夕食はないから、ごめんなさい」
「ああ、気にすんなよ。ゆっくりしてきな」
うん。と嬉しそうに鏡の中の彼女が頷く。この日、琴子は『婚約報告』として、大学時代の同級生や後輩に久しぶりに会うとのこと。
「みーんな、びっくりして。私が走り屋で車屋の男性と結婚すると教えたら、『どうやって出会ったの』て。今日はいろいろ聞かれそう」
「あはは。女子会らしいな」
「同級生の友達はもうみんな主婦で子供もいる子ばかりだから、二次会もなしですぐに終わると思うから」
「車で行っても大丈夫か? 一番町やら二番町あたりだと夜はすごい混むぞ。中心街なのに、城下町特有の古くて狭い道をタクシーやヤン車が何台も行き交う夜の街に変貌するからな。なんなら送り迎えしてもいいんだけど、俺」
でも琴子は首を振った。
「ううん。紹介がてら、英児さんの車をみてもらうの。それで無免許だった私が運転しているところも見せちゃう。みんな郊外電車で来る主婦なんだけど、一人だけお勤めしている後輩がいて。彼女は運転慣れているから今日は助手席に乗ってくれる約束なの。夕方、彼女の会社まで迎えに行って、食事が終わったら自宅まで送って。そうすれば、彼女もお酒が飲めるからちょうど良いねという話になったの」
それを聞いて英児もホッとする。
「あれか。地方新聞社でバリキャリになったとかいう後輩の子」
「うん。大学のサークルで、彼女が一番しっかり者のやり手だったから。それに、今日の食事会も彼女が提案してくれて幹事もしてくれたのよ」
おお、それは頼もしそうだと、英児も安心。なのだが。英児は着替えを始めた琴子を見届けて最後、顔をしかめる。
「今日、それ着ていくのか」
「え、うん。そうだけど、おかしい?」
「おかしくないけどよぅ……」
英児の目の前で彼女がさっと着たのは、シックで大人ぽい黒色ベルベットのワンピース。襟ぐりをキラキラとしたビーズの刺繍がさり気なく縁取っているのだが、その胸元がけっこう開いている。
琴子も自分で気がついたようで、そこをじいっと見つめている男の視線を気にするかのようにさっと手で隠してしまう。
「すっごく気に入ったから買ったんだけど。でも、私もちょっと胸元が開いているかなーと気にはしてるの……。でも今日は女の子ばかりだからいいかなって。あ、仕事中は胸元が隠れるカーディガン着ているから」
だが、英児はグッと彼女の目の前に詰め寄る。琴子もまだ胸元から強い目線を外さない英児にたじろぎながら、クローゼットへと後ずさった。
琴子の背中がクローゼットの扉にこつんと当たるのと同時に、英児は両腕で彼女を囲って迫った。
「あのな、琴子。おまえってさ……」
「な、なに」
開いた胸元を英児の目線から見下ろすと、わずかに谷間が見えるから困る。
「おまえってさ。見た目より、けっこう胸あるんだよな」
いわゆる着やせするタイプ。いつもお嬢さん風でしっかりきっちり肌や身体のラインをあまり見せない服装をしているので、彼女が脱ぐと急に艶ぽい女になることを誰よりもこの英児が知っている。それを今日は、そんなドレス風のワンピースで夜の街へ行くというのだから。そりゃ婚約者として心配になるのは当然のところ。
「こう覗くと谷間がみえる」
上から見下ろされている琴子がまたハッと胸元を手のひらで隠す。
「そ、そんな近くに寄ってくる男の人なんて、英児さん以外いないわよ」
「わかんねーよ。すれ違う時に、こうやって覗く男がいるかもしれないだろー」
英児の目線から胸の真上でじろじろ見下ろしてみた。許している男でもさすがに琴子も恥じ入るのか、今度は両手で隠して英児の腕の中で背を向けてしまった。
間近でふっと背を向けた彼女の黒髪が英児のあご先をくすぐる。クローゼットの扉で胸元を隠して俯いている琴子が『着替える』とノブに手をかけてしまう。
「冗談だよ。すげえ色っぽいからさ、心配しただけだよ」
その手を止め、英児は背中から琴子を抱きしめる。
「あの、もうすぐ出かける時間……」
腰をがっしり抱きしめて緩めてくれない男の力を、琴子が気にしている。だが英児はさらに両腕に力を込め、背中から抱きしめる彼女を解放しない。
「ちょっとだけな。あとちょっとだけ、琴子の匂いをかいでおく」
後ろ姿も程よく肌を見せる黒いワンピース。麗しい大人の後ろ姿を英児も見下ろし堪能する。いつものフレッシュな朝の匂いも髪や首筋から……。その首筋を隠す黒髪を英児は指先でのけ、琴子の白い肌を露わにする。
黒髪に白い首筋。さらに英児はあるものを探す。『あった』。そこに静かに唇を押しあてると、琴子が腕の中で小さく震えた。
英児が探していたのは、首筋、耳の少し後ろにある『小さな黒子』。そこは英児が必ずキスをする場所。彼女と初めて抱き合った時に見つけ、それからずっと彼女を愛す時の印にしている。
「く、くすぐったいんだけど……」
だが英児は『いつも通り』に愛撫する。琴子はここに黒子があると知っているだろうか? 自分だったら気がつかないかもしれないと英児は思う。そんな場所。こんな耳たぶをめくらないとわからないような首筋の小さな黒子なんて、本人が一番わからないところではないだろうか。
「ん、そこ……いつも、」
しかし琴子も、英児がここを好んでいることをもう気がついている。だけれど、どうして好んでいるのかは、まだ判っていないようだった。
その黒子を目印に彼女の首筋にキスをして、ちょっとだけチュッと吸う。そこからいつも彼女の濃厚な匂いがする英児お気に入りの場所。そして彼女を見つけた夜、英児が色香を感じた白い首筋。だから初めて抱いた時も、その首筋を愛したいと黒髪をかき上げたら耳元にこの印を見つけた。
「もう……。い、いかなくちゃ」
「あと少しな」
「あの、英児さん……いつもそこ、どうして」
彼女と挨拶代わりのキスをする時も、二人でただたわむれる時も、そしてベッドタイムでも。英児が必ずそこをしつこく愛撫するので、琴子も気になるようだった。だが英児はまだ言わない。
「んー、ここ好きなんだよ。琴子の匂いがするから」
「そ、そんなに?」
本当の意味はもう暫く秘密にしておく。これは英児のマーキング。他の男に獲られないよう、俺の女に残しておく男の跡。
「気をつけて行ってこいよ。何かあったらすぐに連絡しろよ。俺、すっとんでいくから」
背中から抱きしめている琴子の顎に触れ、強引に肩越し上へと振り向かせる。そして最後はこちらにもキッチリ刻印しておく。琴子が『んっ……』と漏らした声も唇の奥に英児は閉じこめてしまう。
女らしい黒い彼女を抱きしめ、強いキスをして……。
「く、くちべに……ついちゃ……」
英児の口に塗ったばかりの口紅が付いてしまう――と言いたいようだった。
「琴子の口紅、淡い色ばかりだからついたってどうってことねえよ」
さらに儚くこぼす琴子の唇を強く吸う。
きっと今夜も。こんなかわいい彼女が帰ってきたら好きなように襲ってしまうんだろうな……なんて。既に頭の中で黒い服を脱がして白い裸にしようとしている邪な妄想をしながら、彼女の淡いピンクの唇をご馳走になっているのも男の秘密。
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