6.出来ないね
二階自宅での夕食が終わり、英児はリビングのソファーで新聞を読んでいる。
キッチンには夕食後の片づけをしているエプロン姿の琴子。残業期間が終わったところで、今日は久しぶりに彼女の手料理が食べられた日だった。
新聞のスポーツ欄を眺めながら、英児はさりげなく呟く。
「琴子、無理しなくていいんだからな」
「え、なにを?」
さらに英児は新聞をみつめたまま。
「おまえだって朝から働いているんだからさ。残業が続いてやっと解放されたところなんだから、疲れていたら無理して家事を頑張らなくてもいいからな。夕飯だって、外で食べたっていいんだから。それに俺も一人暮らしが長かったからある程度は自分で出来るだろ。そこのところ、ちょっと頼ってくれても全然平気だから」
なんでも頑張ってしまう性分の琴子。それは出会って恋人として付き合うようになってから、いろいろと目の当たりにさせられたものだった。しかも同居を始めたばかり。彼女のこと、英児に気遣って頑張ってくれているところもあるに違いない。だからこちらから気にしておかねば――と、思っているところ。
彼女が気にしないよう、新聞を読んでいるついでに言ってみた――。だがキッチンにいる彼女からなんの反応もない。しばし二人の間に静けさ……。だからつい、英児は紙面から顔を上げてしまった。
「琴子?」
だがキッチンには、にっこり笑顔の彼女がちゃんとこちらを見てくれている。
「うん、ありがとう」
「お、おう……。琴子のメシ食えて嬉しかったけど」
「でも。私も疲れていたから簡単なご飯にしたつもりだから」
「いや、すげえ美味かったよ。牛丼と浅漬け、それにアサリの味噌汁。相変わらず、なんでも美味い。大内のお母さんがしっかり仕込んだもんだと、いつも思っているよ」
「それなら、良かった」
ふきん片手に彼女がリビングのテーブルにやってくる。インテリア感覚で置いていたローテーブルをとりあえずの食卓にしている。床に跪いて、低いテーブルを楚々と拭いている彼女の姿。
「こんな小さなテーブルじゃなくて、ダイニングテーブルでも揃えるか」
ふと思ったことを言ってみると、そこで彼女が嬉しそうな顔をした。
「ほんとに。私もそうしたい」
「このソファーセットを、前のベッドがあったあそこに移動させて、ダイニングはキッチン前のここに置こうぜ。よっし、明日は俺が事務所まで送り迎えしてやるから、帰りは家具屋へ直行だ」
そこまで言い切ると、エプロン姿の彼女が笑い出す。
「もう。英児さんって本当に思い立ったら直ぐよね。今のベッドもあっという間に買ったから、びっくりしたこと思い出しちゃった」
「なんだよ。出来ることなら直ぐやったほうが良いだろ」
「そうだけど……。迷いがないって、前から羨ましいと思っていたの」
「俺って、変か?」
それが当たり前と思っていたのが、確かに堅実で慎重な彼女から見ると無鉄砲に見えるのかもしれないとも英児も急にそう思った。
「変じゃないよ。そんな英児さんが私は好き。ずっとそんなところ素敵でかっこいいと思っていたわよ。出会った時から、あ、違った……」
そこで彼女がハッとなにかを思い出したように口元を塞ぎ、英児から目線を反らしてしまった。でも英児には判っている。
「初めて出会った時は、嫌な顔をされて逃げられたんだけどな」
「もう、それ言わないでよ」
容易く元ヤンキーと敬遠したことが今でも申し訳ないようで、琴子はさらっと流してキッチンへ戻っていく。
だが、片づけが終わったのか。琴子はその後すぐに、ソファーで新聞を読み続けている英児の隣へと座った。
「でもね……」
肩がすぐに触れあうほどそばに来たエプロン姿の彼女。ちょっと照れくさそうにして、何か考えあぐねている様子。
「なんだよ」
読んでいた新聞を手放し、英児はそばに来た彼女の肩をすぐさま抱き寄せた。男の腕にぐいっと抱き寄せられる彼女も、そのままくったりすべてを預けてくれるから、英児はさらに彼女を胸元まで抱き寄せてしまう。
英児の腕の中、胸元でやっと琴子が柔らかに微笑んでいる。
「でもね……。あの時はすごい車に乗って夜中に走りに行くような男の人は怖いと思って逃げちゃったんだけど。次の日にコートを届けてくれた英児さんのこと、私、忘れられなかったんだから」
え、そうだったのかよ。と、初めて聞く彼女の言葉に英児は驚いた。
「……あの時、言ってくれたでしょ。『力尽きるまで頑張った女の匂いは色っぽいんだ。その匂いがしたんだ』って。そう言ってくれたことがずっとずっと私の耳に残っていたの。エロティックな例えだったけど……一生懸命男と愛し合った女と、くたくたになるまで働いた女の『一生懸命』は一緒。だから、色っぽい匂いが身体からするよ、て……。英児さん、そう言ってくれた。あの時すごく嬉しかった。もう一度会いたいと思っていたけど、やっぱり二度と煙草屋では出会わなくて……」
「そ、そんなふうに俺のこと……?」
俺だってもう一度会いたかったよ。でも……諦めて、なんとか割り切って忘れようとしたんだ。そう彼女に言いたいが、驚きで声にならなかった。まさかあの後、嫌われているだろうと思っていた琴子も、英児の姿を探してくれていただなんて。
「ねえ、そこに行ってもいい?」
もうこんなにそばにいるのに、俺の腕の中にがっちり抱いているのに。なのに琴子が英児の胸元を指さして『ここに行きたい』と言う。勿論答えは『いいぞ』。なのだが、琴子が『行きたい』のは英児の胸元ではなく、英児の膝の上。ソファーに座っている男の両足の上に、彼女からずっしり乗っかってきた。
「琴子……」
しかも彼女から、甘えるようにふわっと英児の首に両腕で抱きついてくる。
またあの甘酸っぱい匂い。そしてわずかなトワレの残り香。夕飯後の家事で動いた後だからなのか、琴子の首筋もうっすらと汗ばんでいる。とんでもなくあの匂いが英児の鼻先で広がっていく。ガレージで制したはずの、男の欲望がまた盛り上がってくる。だが、まだ我慢、我慢……。少しは堪えることもしないと、と英児は言い聞かせる。
「昨夜は、寝ちゃってごめんね」
昨夜の彼女は残業明けだったので、流石に相手にしてくれなかった。堪え性がない英児が彼女の肌を求めたのに、そんな謝られるとこちらが困ってしまう。
「いや。あれは俺が悪かった。残業明けだったのに……」
首元にぴったり抱きついている琴子が、ふっと英児の顔をのぞき込む。
「私だって我慢したのよ。すっごくすごく。だって英児さんの匂いをかぐと、私、ムラってするんだから」
平然とあられもないことを呟いた彼女の目を見つめ返す。大人しくてかわいらしい彼女だけれど、たまに妙に艶っぽい大人の女の顔になる。そんな時、彼女の黒目はしっとり濡れているし、頬はほのかに色づく。
「あの桜の夜は離れちゃったけど。その後、私を見つけてくれてありがとう。英児さん」
静かに重ねられた唇。彼女がそのままゆっくりと英児の唇を吸った。
「好きよ、愛してる」
あくまで彼女はゆったり静かに愛してくれる。英児なら、いつも素早く強引に彼女を奪うのに……。彼女は彼女らしく、ゆっくり穏やかに。でも英児の中に入ってくる舌先は、とても甘く優しい――。
これが彼女らしい。いつもそう思う。柔らかに琴子に愛されるひととき。男の膝の上に自分から座りたいとせがんでも、男からの愛をせがまない。そこから彼女は目の前の男を自ら愛してくれる。両手いっぱいに英児に抱きついて、柔らかいその女らしい肉体で英児を熱く包み込んでくれる。
そんな彼女の頬を英児からも包み込み、体温と汗でしんなりと湿った琴子の黒髪をかき上げ、自分からも彼女の唇を静かに吸う。
自分らしく『ぶっとばして愛したい』が、せっかく彼女が優しく愛撫してくれるから、英児も同じようにゆっくり静かに愛した。せっかちな男にはもどかしい、でも、だから余計に焦らされ胸焦がれる。
「俺も……琴子のキス、好きだよ。すごく……好きだ」
英児さんのキス、好き――。そう言ってくれた彼女と同じ。英児もこんなにも自分とは違う彼女に恋してる。
だったら。今度は『俺らしく』お返しをしてあげようと思った英児は、膝の上に乗る彼女の太股を掴んで、スカートへと手を忍ばせる。
「ここじゃ嫌……」
「わかった」
熱く湿るばかりの彼女の身体を抱き上げ、二人でつくったベッドルームへと向かった。
―◆・◆・◆・◆・◆―
彼女はいつもそう。普段は清楚な顔で『英児さん』と呼んでくれるのに、女の顔になると――。
「エイジ……」
男と愛しあう女になると、そう呼ぶ。
しかも素で彼女の中に入り込んでいた。もうここのところ、ずっとそうしている。結婚しようと約束してからずっと……。
時々、彼女が言う。『私、英児さんに抱いてもらって、やっと大人の女の身体になれたと思っているの』と――。そう言われると、英児も同じように思うことがある。
初めて抱いた入り江のモーテルでの夜。英児との始まりのキス、初めて触れる相手の肌を知るための探り合い。それだけで彼女は熱く濡れてくれたが、英児は不安だった。彼女自身も口では言わなかったが、それまでの数年で襲った不遇に疲れ切って、しかもどうしようもないことで男に捨てられてしまって。今は女として直ぐには熱くなれないのではないか。まだ出会ったばかりなのに、勢いだけでここに連れてきてしまった。このまま英児が思うままに彼女の身体を愛し抜いても、彼女も熱くなってくれるのだろうか? でも『英児を愛したい』という彼女の唇はとても大胆で情熱的で、黒目も綺麗でじっと離さず英児を見つめてくれていた……。
それでも急激にならないようにと、灯台の光が通る部屋で時間をかけてじっくり彼女の柔肌を愛してあげた。その時、英児は大人しそうな彼女に呪文を唱えるように囁いた。『男と愛しあう時。女も貪欲に望むことは恥ずかしいことじゃない』。静かな彼女のことだから、今までも男の顔色を窺って女の性を押し殺してきたのではないか? そう思ったから英児から強引にリードした。『ほんとうの女を剥き出しにして、俺と愛しあってくれよ』と。そうして存分に愛しあっている最中、彼女の目が潤んだ瞬間を英児は忘れない。それが嬉しくて目を濡らしたのか、今までの辛かった日々を思い返しての涙なのか、または燃え始めた女の歓喜の涙だったのか、今でもわからない。でも英児はいつも彼女を抱く時は、あの涙を思い出してしまう。
今夜もなにもかもを取り払って、彼女と素肌で愛しあう。それが男と女の野生の本分。彼女とのベッドはそういう野生にあるべき営み。その最後、彼女がふとつぶやいた。
「いつも、そう。とても原始的……よね」
意味わかんねーよ。と言いたくなりそうな呟きなのだが。でも今なら、なんとなく解る気がした。
いつも男と女、いや牡と牝として愛しあう。それは動物的で、原始的。でもここにいる二人は自然に従うように原始的に睦み合う。彼女の身体から広がる女の匂いも、生殖行為で放たれた男の匂いがベッドの上で混じり合うのも。それは原始的な現象。
湿った肌をくっつけあい、英児も琴子をぎゅっと腕の中に抱きしめる。
「こんなに愛しあっているのに、出来ないね」
近頃、彼女が気にしていることだった。
「そんな。こうするようになってまだ日が浅いだろ」
彼女と結婚を決めた時から見据えてること。それを彼女は気にしている。
「私……。こんなに愛しあっているんだから、貴方との赤ちゃんすぐに出来るんだって思っていた」
結婚を決めた時から、彼女とのセックスは最後までなにもつけないで愛しあうようになった。だがその後も何度も同じように愛しあってきたのに、彼女の『月のモノ』は規則正しくやってくる。
その度に、彼女が言うようになった。『こんなに愛しあっているのに、出来ないね』と。今夜もまったく同じ事を言いだした。
そんな彼女を今度は柔らかく抱きしめ、英児は黒髪を幾度も撫でてやる。
「あのさ。まだこうして琴子を独占していたいのも、俺の本音な」
「うん……。わかってる」
力無く呟く琴子。何故、そんな落ち込むのだろうか。まだ俺達の結婚生活は始まってもいないし、まだ夫妻として生きていくのもこれからだというのに。
「まずは琴子がそばにいれば、今はそれだけで俺は幸せだよ」
でも英児の胸元にいる彼女が納得できない怖い顔になってしまう。どうして。どうして、そんなに焦っているんだよ。問いただしたくなったのだが。
「私、英児さんには賑やかな家族をつくってあげたい。二度と『ひとりぼっちなんだ』なんて言わせたくない。『もうおまえら、うるさい』て怒るぐらいの家にしたいの」
怒ったような真顔の琴子。『それがすぐに叶いそうにないから、もどかしくて怒っている』と言いたそうに。そんな彼女の本気を目の当たりにした気になる。
『貴方の家族を作りたい』。そう願ってくれた彼女の気持ちに、英児は泣きたいほど感激してしまっていた。
一緒に寝そべっている彼女をさらに抱きしめる。そしてそっと口づける。
「ありがとうな、琴子。でも、今はおまえだけで充分だ。ゆっくり行こう」
やっと琴子も笑顔になってくれたのだが。
「四十歳までに、五人産めるかしら」
途端に英児は『ぶっ』と吹き出した。
「すげえ無茶なこと言うな、びっくりするだろ。俺に四十半ばまで、子作りに励めと?」
大人しい顔して、この子は時々大胆なこと言うし、やったりするし。もう英児は絶句。だが琴子はくすくすと、もう楽しそうだった。
だが英児は後で気がついた。琴子のあの焦りがなんなのか。
ああ、そっか。四十歳までに五人産みたいから、早く妊娠したかったのか……と。それはそれでまた感激したのだが。
『待て。あれだけマジでせっぱ詰まるように焦っていたのは。冗談じゃなく本気ってことかよ』――と、気がついて再び絶句していた。
五人の母ちゃんになるつもりなのか? あの可愛らしい楚々とした彼女が? 俺は五人の子供の父ちゃんに? 想像できねえ! せめて、二、三人かと……英児の想像範囲をかーるく上回っていてもうびっくり。
『もう本当に琴子さんには敵わない』。英児はこの頃、よくそう思うようになった。
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