5.香世ちゃん?

 三好デザイン事務所を訪問した夕。龍星轟、閉店まであと三十分。これぐらいになると、店頭に銀色のフェアレディZが現れる。

「ただいまー」

 運転席のウィンドウが開くと、そこには店長の婚約者。店先で顧客の車を磨いていた矢野じいが途端に笑顔になる。

「おう、琴子。おかえり」

「お疲れ様。矢野さん」

 挨拶を交わす二人を英児は事務所の社長デスクから眺める。そんな彼女が運転席から龍星轟全体をきょろきょろ見渡している。最後、彼女が視線を留めたのは事務所、社長デスクにいる英児だった。

「ただいまー、店長」

 運転席から探してくれていたのは、夫になる男だったらしい。見つけて手を振ってくれ、英児も思わずにっこり振り返してしまう。

 すると。社長デスク前のいる経理担当の後輩がニンマリにやにやしている顔。

「本当に良かったね~、タキさん~。今度、昔の仲間で『結婚祝い』してやりますからね。シノと打ち合わせ中だから」

「うっさいな。んな大袈裟にしなくていいんだよ。いつもの飲み会でいいんだよ」

「もうね。俺とシノのところに、『タキ兄がついにタイプの女の子を捕まえたって聞いたけど本当か』という問い合わせがバンバン」

 眼鏡の後輩が携帯電話を片手に持って指さした。

「琴子さんを知っているのは、俺とシノだけだからね。俺達二人で『すっげえタキさんタイプ、ど真ん中』と触れ回っておいたから」

「余計なことすんなよっ」

 だが高校時代の後輩である武智がさらに意味深な笑みを浮かべた。

「香世ちゃんにも言っておこうか?」

「お、おまえ。そんなことしたら、ぶっとばす!」

 本当にやりそうな後輩に詰め寄ろうとしたら、そんな英児のわかりやすい行動など分かり切っている武智が急に事務所外を指さして叫んだ。

「あ、琴子さんが車庫入れするよ!」

 それを聞いて英児もハッとして事務所を飛び出した。

『そうそう、琴子ちゃん。あー、もうちょっと左だったかなー。あ、ストップ!』

『そのままじゃ、シルビアにぶつかっちまうよ。もう一度、前に出て修正した方がいいな』

 ガレージから整備士の兵藤兄貴と清家兄貴のひやひやする声が聞こえ、英児は急ぐ。

「わ、琴子。待て!」

「あ、店長来た来た」

「大丈夫、ちゃんとやってるよ」

 だがゼットのトランクが、隣に駐車しているシルビアと接触寸前だった。

 それを見て、英児はすぐさま彼女が運転しているフェアレディZの助手席へと乗り込む。

「もう一度、前に出て」

「はい」

 彼女が素直にギアをチェンジさせ前に出る。そして英児もハンドルに片手を添え、少しだけ手伝う。

「ここでちょっとだけ左に切って前に出すんだ。それでハンドル戻して……」

「はい」

 添えていた手を離すと、その通りにきちんと琴子一人でハンドルを切る姿。

 こうして毎日、彼女が苦手な車庫入れは英児が監督している。

 そう広くはないガレージに何台も詰め込んでいるので、初心者の琴子には難関の車庫入れ。毎日、英児が面倒を見ている内に、だいぶ上達してきた。

「よし、上出来」

「はあ、今日も無事に帰ってこられたー」

 エンジンを切った琴子が、ぐったりとハンドルに突っ伏した。

 英児は思わず笑ってしまう。

「なんだよ。好きで運転を始めたんだろ」

「だって。まだ緊張することばっかり。今日だって信号が青になったと安心しても、赤で停まるはずの右折車が交差点に突っ込んでくるし……」

「まあ、たちの悪い車も多いからな。用心深くしておけば大丈夫だって」

 運転そのものはまだ不器用だが、注意力に周囲への配慮、そして慎重さは琴子らしく抜群。なのでそこは英児も安心はしている。

 それでも琴子はシートに背を預け、額を手の甲で拭っている。

「運転って確かに運動と一緒かも。いっつも汗かいちゃう」

 あの深紅のカットソーの上に、キャメル色の秋物ジャケット。それを琴子が運転席でさっと脱いだ。

 その途端。あの女の匂いが車内にいっぱいに広がった。夕になってこなれた愛用トワレのラストノート、そして英児が愛して止まない『彼女特有の身体の匂い』。一気に英児の性的な中枢にスイッチが入りそうになる。

 初めて出会った春の夜。英児が一発でノックアウトされた一目惚れの『女の匂い』、いや、牝の匂い? なにもつけていなくても、少し汗をかけば肌からたち上る甘酸っぱい匂い。その匂いがした時、女の身体と肌がしっとり柔らかくなる。それを彷彿とさせる女の匂いは、英児の男としての本能を猛烈に揺さぶってくる。

 もう安心した整備士の兄貴二人は英児にあとを任せたとばかりにガレージを出て行ってしまい、駐車したゼットの中で二人きりになる。だがジャケットを脱いだ琴子は早速、車を降りようとしていた。

「琴子」

 その腕を掴かみ、英児は彼女を車内へととどめる。琴子も不思議そうに振り返った。

「なに。英児さん」

 ドアを開けようとしたその手が離れたのを見た英児は、そのまま戻ってきた彼女の肩を運転席のシートに押さえつける。そんなことをする英児が目指すのは、彼女の小さい唇……。

『え』

 彼女が驚いた時にはもう……。英児の両腕は助手席から運転席にいる彼女を囲い、彼女の鼻先がもう目の前。直ぐそこに黒髪のかわいい顔。それでも一瞬、我慢する。帰ってきた彼女の黒い瞳を見つめて……、彼女のためにひと呼吸置く。

「おかえり、琴子」

 そう囁く英児の唇は『おかえり』と動かすと、琴子の唇に触れてしまっていた。

「た、ただいま」

 戸惑った返答だったが、でも次には彼女もじっと英児を見つめ返してくれる。そしてその唇がそっと微笑んだので、ついに英児はそこに吸い寄せられるようにして塞いでしまう。

 ん……。彼女の柔らかな呻き。それだけで英児は男全開にエンジンがかかりそうになるが、必死に堪える。それでも彼女の唇をこじ開けて、無理矢理中に押し込んでいた。

 侵入してきた男が強引に絡まるのに。でも、彼女もそっと柔らかく素直に捕まってくれる。あの匂いと芳醇濃密な女体の匂いが混ざりに混ざり合い、取り巻かれる英児の理性がどんどん麻痺していく。英児の頭の中ではもう、琴子は素っ裸だ。最後にはいつもそうなのだが、彼女が着ている服をめくろうとしていた。

 これはいつもの流れであって二人には当たり前の睦み合い。しかしすぐそこに従業員がいる営業中のこんな場所。

「て、店長さん……まだ、営業中……」

 すぐに野生化してしまう英児を止めるのは真面目でしっかり者の彼女。いつものようにすぐさま彼女の服をめくろうとする手を、そっと掴んで止めてくれる。

 夢中になって熱愛を押しつける英児も、それでやっと我に返る。

「そうだった。すっかり……」

 おまえの匂いに囚われて、なにもかもぶっとびそうになった――と言いたくなるほど。我を忘れている自分に英児自身がびっくりしてしまう。

「えっと……。先に二階にあがって、お夕食の準備しているから」

「お、おう。ご、ごめん」

 いつも襲うようにおまえに飛びついて。そして、そんな俺を上手に止めてくれて。そんな意味の『ごめん』。

「ううん。英児さんのキス、大好き」

 でも琴子はにっこり笑って、しとやかに運転席を降りていく。

 後部座席にある買い物袋とバッグを取り出して、先にガレージを出て行ってしまった。

 英児を置いていったのも『そこで店長の顔に戻ってね』と冷静になる時間をくれたのだろう……? そう感じた。それを言わずに、彼女はいつだってにっこり笑ってさり気なくそう仕向けてくれることが多い。

「やばい、だめだ。俺……」

 ゼットの助手席で暫く、野獣から理性ある滝田店長に戻るには少し時間がかかった。


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