4.龍の女

 少し前。あの男は結婚をダシにして、自分から切り捨てたはずの元恋人である琴子に近づいてきた。しかも琴子がたった一人で英児を待ってくれている、女心も心許ない時期に。元恋人である琴子の上司、三好社長とのコンタクトを計るためのプロポーズという作戦。一人で寂しく過ごしているだろう琴子の心根を利用するように、うまくいっていない仕事の窮地から抜け出そうとしていた。勿論、彼女はそんな別れた男の思うところなど既にお見通しではね除けてそれっきり。だが最後に彼女は言ったのだ。『私は貴方とは結婚しない。結婚しても事務所は辞めない。それでもいいなら……別れた女がいても平気なら、いつでも三好社長に取り次いでもいい』と。

 あの男。やはり、琴子に甘えてきたのだろうか。そう思うと、密かに腹立たしくなる。気の優しい彼女を傷つけるような接触を試みて、断られて高価な結婚指輪を無駄にして男としてのプライドも砕かれたはずなのに。それでも琴子を頼ったのかと。

「彼ね。自分から三好社長に交渉しに来たの」

「え、そうなんだ」

 琴子もそこはきちんと婚約者の英児に言っておこうと気にしていたのか。先ほどまで愛らしい笑顔だったのに、とても思い詰めたものに変わっていると英児は感じる。

「いいんじゃねえの。仕事するために、瀬戸際で踏ん張ろうとしたんだろ」

 おまえのこと、信じている。あの男がいたって、どうってことねえよ。そう言いたいから、平気な顔を英児から見せた。するとやっと彼女がホッとした顔になる。

「……なんかね。彼、変わったみたい。無愛想なのは相変わらずなんだけれど。変なプライドがなくなったみたいで」

 『本物の男』ならば、そうなるはず。英児は思う。別れた女を利用しようとしたが、逆に彼女から強烈なカウンタアタックを喰らって撃沈した男。それでもKO負けした別れた女がいる事務所に敢えて、自分から挑んだ。もうその時点で、自分を雁字搦めにしていた変なプライドを捨ててゼロからスタートをしたのだろう。英児はそう感じた。

 案外、男じゃねえかよ。

 本気でそう思った。それと同時に、やっぱり英児が惚れた女がずっと前に惚れて選んだ男だったのではないかと認めたくなってくる。

「三好社長も以前の契約を平気で断ってきたのも彼自身だから、最初から信用していなかったんだけど。プライドが高い雅彦君が何度も頭を下げたから、試しに一ヶ月ほど外注の仕事をさせてみたのよね。そうしたらクライアントからとてもいい反応が続いたり、リピート受注があったりしたものだから。社長も彼の変わりように驚いたみたい。『ずっと前の波に乗っていた時のあいつに戻っている』と判断して、フリーランスじゃなくて正社員でどうだと社長から――」

「……そうだったんだ」

 ああ、それで。先ほど『ごめん』とジュニア社長自ら頭を下げてくれたんだと、やっと理解した。琴子じゃない、三好社長がビジネスとして判断したことだったのだ。英児だって経営者のはしくれ。三好ジュニアの判断と感覚に共感を持ってしまったから、それが解れば何も言えない。

「いい仕事をする男を、経営者は放っておかないもんだよ。それでこの事務所のプラスになるなら琴子にもプラスだろ」

 でもまだ彼女がしょんぼりしている。

「正式に雇用する前に、社長が私に『別れた男が側に来ても大丈夫か』と聞いてきたの。私『大丈夫です』と答えた……」

 だから三好ジュニアが雇ってしまったとでも言いたそうだった。秋風に切りそろえたばかりの柔らかい毛先を揺らす彼女が眼差しを伏せる。だが運転席に座っている英児は笑って、目の前ある彼女の白い指先をそっと握った。

「当然の返答だろ。おまえ、間違ってねえよ」

 陰っていた瞳がそっと開いて、静かに英児を見つめてくれる。

「もうどうってことない男だろ。仕事だろ。彼も、社長も琴子も、仕事だったら互いに上手くいくと思ったんだろ。それに社長を甘く見るなよ。部下である姉ちゃんの一存だけで判断なんてしねえよ。琴子に尋ねた時点で、三好社長は既に雇おうと腹を決めていたんじゃないか。だから琴子の様子も確かめておいたんだろ。じゃなきゃ、琴子になにも聞かずに不採用にしているよ」

 琴子の意志で決まったんじゃない。三好社長が部下の異性関係を抜きに決めたこと。だから気にするなと伝えると、やっと彼女が少しだけ口元を緩めた。それを見て、英児はさらに彼女に微笑んだ。

「俺達、結婚するんだ。どんなことよりも最強だろ」

 いま握っている指先、薬指。そこに少し前、英児が自らはめてあげた婚約指輪がある。彼女の趣味に似つかない、龍の彫り物が施してあるハードなデザインのもの。それをいま琴子は喜んで指にはめてくれている。そして英児の指にもお揃いの指輪がある。『結婚まで待てねえよ』と、自分用の『ペア婚約指輪』を作ってしまった。だから、すっかり英児の趣味。整備仕事中は外さなくてはならないが、それ以外では英児も忘れずに指にはめている。そんな男の趣味独りよがりの指輪なのに、琴子は嫌がるどころか笑って指にはめてくれた。『ここだけ私らしくない英児さんらしいものがあって、如何にも龍星轟店長の女ってかんじ』。自分の趣味じゃない指輪なのに、琴子はそこに英児を伴っているようだと喜んでくれた。

 揃いの婚約指輪をしている指と指が静かな青い空の下、絡み合う。

「そう思ったから。私も『大丈夫です』と答えたの。……でも、どう報告していいか分からなくて。今日になって」

「そのうちに話してくれるつもりだったんだろ。気にすんなよ。な、」

 そう言うと彼女がこっくり頷いてくれたが、自分が決意しない内に婚約者の英児に思いがけない形で知らせることになったので気に病んでいるようだった。

「時間ないからさ、俺もう行くな」

 夜、帰宅したらちゃんと抱きしめてあげようと思った。そんなに気にするな。俺達、こんなに愛し合っているだろうと。俺はこんなにお前を愛しているから平気だよと。そうすれば……。

 だが英児から握った彼女の指を離そうとしたのに。今度は琴子から握り返してきて離してくれなくなった。

「琴子……」

 いや。離したくない。そんな泣きそうな顔をしていたので、英児は驚く。

「私も、午後の仕事なんてクソくらえ……」

 一緒にスカイラインに乗って行ってしまいたい。貴方の隣にいたい。

 英児の指先をぎゅっと握りしめたままの琴子が、小さな声でそう言った。

「ばっか。おまえ、いいとこのお嬢ちゃんが『クソくらえ』なんて真似すんなよ」

「また、いいとこのお嬢ちゃんじゃないもの」

「大内のお母さんに俺が叱られるよ。『英児君、ちゃんとしっかり琴子を見てやってくれなきゃダメじゃないの』って俺が言われるんだからな」

「お母さん。英児さんのこと、私の面倒を見るお兄さんみたいに思っているから」

「お兄さんじゃねーよ。旦那になるんだよ」

 英児から笑い飛ばすと、やっと琴子も笑顔になる。

「いってらっしゃい」

「おう。行ってくる」

 ドアを閉めハンドルを握り、手を振る彼女に見送られながらスカイラインのアクセルを踏んだ。

 大丈夫。俺達は出会ってまだ一年も経っていないけれど、ひと夏中、離れている間が惜しいほどに愛し合った。この女、絶対に手放したくない。だから自然に『この子と生きていこう。結婚しよう』と思えた。あんなに、恋人を持つことや結婚を恐れていたのに――。

 握るハンドル。左手に龍の指輪。一方的に選んだデザインの意図は、彼女が言うとおり。『そんな趣味の男がこの女を捕まえている』と示したい独りよがり。でもそれをすんなり受け取ってくれた彼女。今度、結婚指輪は彼女と選ぼうと思っている。

 バックミラーを見ると、深紅のカットソー姿の琴子がまだ見送ってくれていた。青空の下、秋のそよ風の中。まだこちらを見て……。

 だが。その横にふいっと洒落たあの男が並んだのを英児は見た。

 一言二言、言葉を交わし二人が肩を並べて事務所へと去っていく。バックミラーから二人並んだ姿で消えてしまった。

 いつかあっただろう彼等の並ぶ姿を英児は完全に否定することが出来なかった。

「だから、どうした。もう俺の女房になる女だぞ」

 仕事の話に決まっているだろ。いつまでも外にいるから、彼が呼び戻しに来たんだろ。それだけのことだろ。英児は一人自分に言い聞かせる。

 龍の指輪をはめさせた男。あの印刷会社の誰もが『信じられない』と言うぐらい、不似合いな車に乗ってくるようになった彼女。それぐらい英児と琴子のそれまでは、あまりにも馴染んでいた空気感が異なる世界にいた。

 それまでの琴子は……。あの洒落た男と同じ世界にいた。誰が見ても、同じ世界にいる男女。

 買ったこともない深紅の服を一発でお洒落に着こなす彼女と、如何にもデザイナーというに相応しい洒落た男が並ぶと確かに『お似合い』だった。

 わかっているが。英児には未だに琴子という婚約者は『高嶺の花』。そんな女をやっと手に入れた気分でいる。

  

 たぶん、今夜は帰宅してきた彼女を見たら直ぐに抱きついてしまうだろう。あの真っ赤な服を直ぐに剥ぎ取って……。龍の指輪ひとつだけ身につけさせて、腕の中に抱いて気が済むまで離さないだろう。

 

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