3.前カレ、雇ってごめん
「英児さん――!」
婚約者の彼女が、英児の訪問に気がついた。
「滝田君、どうしたんだよ」
そして彼女の上司も、英児の訪問に驚きの顔。
「こんにちは、三好さん。仕事中に申し訳ありません。ちょっと手違いがあったので、お邪魔いたします」
だが。英児が一番気になった琴子の前カレは、ふいっと何ともなさそうな顔で別部屋へのドアを開け消えてしまった。
「どうしたの、なにかあったの?」
気にはなるが、目の前にはもう彼女が出迎えに来てくれている。婚約者の男がわざわざ職場に来たのだから『なにかあったの』と、とても案じる顔。
「いや。仕事中にごめんな。実は、今日の外回りでいつもの車に乗っていくつもりだったんで、必要な書類とか入れっぱなしにしていたんだよ」
そう言っただけで気の優しい彼女は『えー、そうだったの!』と驚き、申し訳ない顔に変貌する。だが、英児は彼女がなにかを言いそうなるその口を急いで制す。
「ああ、いいんだよ。俺もうっかりしていたんだ。琴子も車に乗ってでかけるんだという感覚が未だ身に付いていないのに『乗ってもいいぞ』と言ってそれっきりで」
すれ違った原因はきっと、それ。つい先日、二人で夜のドライブに出かけた時のこと。婚約したこと、同居を始めたこと、いつでも二人で出かけられること、夜のドライブも一人ではないこと。なによりも実生活だけじゃなく、助手席にかわいい相棒がいること。それが嬉しくなってしまい……。彼女がふいに『いつかスカイラインも運転してみたい』と言ったので、浮かれた気分のままつい『いいぞ。来週、乗ってもいいぞ』なんて言ってしまったのだ。
それでも『すぐに』なんてがっつくように飛びつかず、『彼の愛車だから』と遠慮をしてちょっと様子を見て……という慎重さが彼女らしい。なので、しばらくは『琴子ゼット』に乗って出勤をしていたので、彼女にとって『スカイラインに乗りたいのは、すぐではなくていつか』だと思いこんでしまっていたのだ。英児もそうは言っておきながらすっかり油断してしまい、今日ついに彼女が旦那からの特権を信じて、旦那の日常車に乗っていってしまったということに。
「ごめんな。俺も自分で言っておいて、うっかりしていた。明日はこの車に乗るから――と打ち合わせをしておく感覚がまだなかったからさ」
「やだ、私こそ。英児さんが『乗ってもいい』て言ってくれたから嬉しくなっちゃってつい……貴方がいつも乗っている車を選んでしまったの。許してくれても、毎日乗っているスカイラインだけはちゃんと聞くべきだったわね。気が利かなくて、ごめんなさい」
これからずっと共に生きていく約束をした相棒同士のはずなのに。それでも彼女がきちんと頭を下げて謝ってくるので、英児は今でもその丁寧さにびっくりしてしまう。
「もうさ、気にすんな。俺もうっかりだったんだから。ゼット持ってきたから、帰りはそれで頼むよ。外回り行くから、キーを交換してくんね」
「わかりました。待っていてね」
『わかりました』って、ほんときちんとしているお嬢さんだよなあと感心してしまう。でも英児は『そーいうとこ、すげえイイ。すげえお気に入り』とついつい口元が緩んでしまいそうになり必死に堪えた。
琴子は事務所奥にあるロッカーへと向かっていく。入れ替わりで三好ジュニア社長が、英児の目の前にやってきた。
「なあ。滝田君。琴子にあれはないだろ」
「え、彼女がなにか」
三好ジュニアの背中の向こう、事務所片隅のロッカーからお気に入りの洒落たバッグを取り出す彼女を、三好ジュニアがちらりと肩越しに見ながら喋り始める。
「ゼットに若葉とか、スカイラインに若葉とかさ。いきなり乗せるんだもんな。よく許したな」
いえ、それだけ彼女が運転できるようになって俺も嬉しいんです。なんて顧客先の二代目社長に浮かれて言えず、英児はただにっこりと返すだけに留める。
「それに、うちの印刷所の男共もすげえびっくりしているんだよ。みんな、琴子が慎ましく大人しい女の子だって知っているからさ。今朝だって琴子がぶっといマフラーふかしてスカイラインでやってきたもんだから、従業員が駐車場に集まる集まる」
あ~、そうなんですかあ。と、英児もそこは苦笑い。男達の気持ち、わからないでもない。英児のような車屋の男ではなく、運転席から降りてくるのはお洒落なOL姉ちゃん。この会社に長く勤めている彼女が走り屋な旦那の車で出勤してくる姿を目にして、工場にいる顔見知りの兄貴や親父達が黙っていられずに車を囲む様子が目に浮かぶ。
「上司の俺よりぶっとんだ車に乗ってくる若葉ちゃんってなんだよ。思わずセリカを出してしまっただろ」
ああ、やっぱり。と、英児は笑う。
「お子さんも大きくなられてきたようですし、大事にとっておいたほどの愛着なのですから、そろそろ乗られたほうが車にもいいかもしれないですよ」
「だよな。そう思ってさ。なんか、琴子が楽しそうに乗ってくるのを見ていたら、俺も学生時代に乗り始めた頃のわくわくした気持ちを思いだしてしまったもんな」
そんな言葉を聞くと、車屋の男としてはとっても嬉しい。しかも顧客の、自分が良く整備している車がまたオーナーの手によって走り出し、またオーナー自身が楽しんでくれることが。さらに、その気持ちを思い出させたのが、車屋の嫁さんになる彼女を見て……と知ると、本当に車屋冥利に尽きるというもの。
「自分もまさか。彼女がここまで車を好きになってくれるとは思っていなくて……」
英児自身もそれは予想外の宝物が手に落ちてきた気分でいる。
「でもさ。琴子、明るくなったわ。それに仕事をしていても判断力とか、思い切りがついてきたな。視野も広がっている。自分が知らない範囲へ自分から一歩出ていく思い切りも、やっていけるという自信がついたのもあるんだろうな。違う世界観を持っている滝田店長と出会った影響かな」
「はあ、いや。俺なんて。彼女は元々いいもん持っていましたよ」
自分はたいしたことないと謙遜したつもりが、惚れた女とのことを惚気ている言い方になってしまい、英児はハッとする。だが既に遅し。三好ジュニアがにったりとした笑みで英児を見ている。
「――『惚れているんです。俺に任せてくれませんか』だったよな~。ゼットで琴子を迎えに来た夜。あれは俺もガツンと来たなあ~」
うわー、あの時の。三好ジュニアに面と向かって言われ、英児はますます照れて顔が熱くなってどうしようもなくなってくる。
琴子と再会した初夏。それっきりにしたくなくて思い切って食事に誘ったら、彼女が残業期間中で上手く予定が合わなかった。だけれどその晩は『絶好の月夜』。どうしても彼女に見せたくて、会いたくて。その夜、英児はなりふりかまわずこの三好堂印刷まで彼女をゼットで迎えに行った。
あの時、本当に英児自身も必死だったと振り返る。女性と関係を持つのが面倒くさくなっていたのに、どうしてか琴子のことを想うと落ち着かなくて。勝手に身体が動いて車に乗っていた。
その時、この彼女の上司に言った言葉が『惚れているから任せてくれ』だった。思い返せば、彼女の上司に随分と大胆なことを告げていた。どれだけ必死だったことか。
それでも今度の三好社長は、微笑ましいと言わんばかりの穏やかな眼差しでデスクにいる琴子を見つめている。
「まあ、滝田君らしいよ。思った通りそのまんま。裏表なくて気持ちのまま、相方にぶつかっていけるから。大人しい琴子にはぴったりだったかもな」
いやいや――と、照れつつも、やはり今の英児はそう言われたなら、もう心よりの笑顔になってしまう。だがそこで三好社長が一転、ため息をこぼし英児に急に頭を下げた。
「ごめん。なのに、琴子の側に前の男……」
三好社長がぐっと言葉を飲み込むようにして、急に黙ってしまった。
「英児さん、これ。スカイラインの」
三好社長が黙ったのは、琴子がすぐ後ろに来たからだと英児には分かっていた。そして三好ジュニアがなにを英児に謝ったのかも……。
「おう、サンキュ。じゃあ、これゼットのキーな」
――琴子の側に前の男。雇ってごめんな。
そう言いたかったのだろう。分かったので、英児は琴子のしとやかな指先が差し出すキーを何気ない笑顔で交換した。
「琴子。見送ってやんな」
三好ジュニアの気遣い。
「ですけど。デジ版の色指定チェック……」
琴子が躊躇っている。
「見送りたって数分だろ。おまえ、トランクの若葉マークをゼットに貼り替えておけよ。滝田君が貼ったまま走ったら、それはそれで面白そうだけどさ」
「そんな、とんでもないです。若葉マークは店長の運転ではなくて、私が乗っている時だとお客さん達に教えておかなくちゃ!」
「だったら。乗ってきた琴子がちゃんと貼り直してこいよ」
そう言って三好社長は、躊躇う琴子を上手く英児と共に外に出そうとしている。
それも英児には伝わってきた。二人きりにして、前カレと共に働いていることちゃんと聞いておけ……とか、話しておけ……という気遣いなんだろうなと。
お邪魔いたしましたと、英児は琴子を伴って事務所前の駐車場に向かう。
「本当にごめんなさい。でも、スカイラインの運転も楽しかった」
秋らしい深紅のカットソーに、小花柄の黒いスカートの彼女がにっこりと英児を見上げている。優しく女らしいお気に入り匂いが、秋晴れのそよ風にのって英児の鼻先をかすめていく。
「スカイラインは、英児さんの匂いが他の車よりずっとずっとするの。一緒に乗っているみたいで、朝から『今日も琴子と一緒にいくぞ』と英児さんが言ってくれているようで、なんだか元気が出るかんじ」
「琴子……」
そんないじらしいこと言われたら、もう直ぐに抱きつきたいところ。だが彼女の職場だから、当然、英児はぐっと堪える。ここが車の中だったり、自宅だったら、もう抱きつくどころか彼女を胸の下に押し倒しているだろう?
それにしても。琴子も英児と同じように、相棒の車の匂いを感じてくれていたなんて……。
「俺も。ゼットに乗って来る途中、車の中がすっかり琴子の匂いになっていて、もったいなくて煙草が吸えなかったんだよ。俺のゼットだったのに、もうすっかり琴子の愛車になっていて、琴子が一緒に乗っているような感覚だった」
「本当に! 同じ感覚、嬉しい」
「うん、俺も」
真っ青な空の昼下がり。ほんの一瞬、英児と琴子の眼差しが熱く交わる。その時、英児の脳裏にはあの月夜。入り江と灯台が見えた部屋で、こんなに生きてきた道が異なる女性と今までにない一体感を得た夜。あの時の熱っぽさが瞬時に蘇ってしまうから、大好きな彼女との視線の交わりだけでも熱愛に囚われてしまう。だから、その指先がついに。彼女の頬に触れていた。
「琴子。いま二人きりじゃないのが残念」
「私も……」
英児には分かる。彼女もきっと同じようにこの眼差しの交わりだけで、裸で抱き合っているような熱愛を感じ取ってくれていると――。
彼女らしくない、ビビットな赤い服。でもとても似合っている。彼女の白い肌の色をとても際だたせ、許されるなら今すぐ、その頬に、首筋や胸元に吸い付いて激しく愛してあげたくなる。
「はあ。参ったな。昼間の仕事中だなんて『クソくらえ』って投げ出したい気分だ、今の俺」
だけど彼女が笑う。
「でも。滝田店長は今日も格好良くスカイラインに乗って、車が大好きな人のところへ飛んでいくんでしょう」
「いま乗りたいのは琴子の身体の上だけどな。ぐいぐい運転したい衝動に駆られています、俺」
平然として言うと、流石に琴子が面食らった。
「やだ、もうっ。英児さんったら。本当に、もうっ。いつも急に平気で言い出すんだから」
彼女に背中をばしばし叩かれる。それでも英児は、そんな照れる琴子をからかうのが楽しくてにたにたしてしまうだけ。
「待ってて。若葉マークを外してくるから」
「おう」
スカイラインの運転席に乗り込み、交換したキーを差し込む。バックミラーに若葉マーク片手の彼女が映っている。そんな琴子を眺めながら英児は思う。
――前カレ、なんでいるんだよ。
そう思うが。せっかくいい雰囲気で彼女が笑顔で見送ってくれるので、その一言を英児は胸の奥にしまい込んだ。
「貼り替えたわよ。じゃあ、ゼットに乗って帰ってくるわね」
「だんだん日が短くなってきたからよ。早めにライトを点けるのを忘れるなよ。夕方の薄暗い交差点は要注意だからな。運転、気をつけて帰って来いよ」
初心者の彼女を案じて、ついつい口うるさくなってしまうこの頃。でも彼女はやっぱり優しい笑みでうんうんと、かわいらしく頷いて聞いてくれている。
「英児さんも、外回り気をつけて」
「ああ」
シートベルトをしてエンジンをかけ、見送ってくれるドアを閉めようとした時だった。
「彼……。先週から、この事務所の正社員になったの。フリーランスで仕事をするのはやめたみたい」
琴子から急に言いだした……。英児は琴子を見上げる。ちょっとばかり申し訳ない顔をしていた。
「そうなんだ」
先ほどまで、英児が大好きな微笑みをみせてくれていた琴子だが。英児同様、琴子自身も『いま言うべきかどうか』を思いあぐねていたようだった。
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