2.逃げられた!②
翌日の営業時間も立ち直れなかった。
「タキさん、なんかあったの」
高校時代の後輩で店の事務を任せている武智も、英児の異変に気がついた。
それもそのはずで。社長デスクに座ったままガレージに行かない英児を訝しく見守っていたようだが、昼過ぎてもぼんやりとただノートパソコンに向き合っているので、黙って見ていた武智も業を煮やしたようだった。
「今日はガレージは無理。俺、散漫しているんだ。いま車を触っても、いいことない」
「そういう日が店長にもあるのはわかっているから、まだ皆黙っているけど――。矢野じいが苛つく前に、なんとかしておいて欲しいな」
武智はいつも店の雰囲気を重視していて、従業員のコンディションには敏感。でもだからこそ、上手くムードを作ってくれる。そんな男だったから、英児の落ち込みようが『すぐに切り替えられないほど落ち込んでいるようで、心配』だったようだ。
後輩と二人きりの、午後の事務室。親父と兄貴達がいないこの時。英児は、店長ではなく『昔馴染みの先輩と後輩』として昨夜の出来事を武智に話してしまう。『俺のタイプの子だった~』は話したが、彼女を裸にした妄想で失敗したことは勿論省略で。
すると武智がすぐさま笑った。
「やだな。タキさんらしくない。仕事も手につかず、うだうだしているってことは、彼女にどうしてあげたいかもう心に決めてるんでしょ。昔からそう。タイプの女の子には臆病。それ以外はすごく決断早いのにさ」
高校時代から英児を知っているだけあって、武智は『どうしたいのか』既に見抜いてくれる。
「……だな。そうだな! 俺、行ってくる。店、頼むな」
「了解でーす。いってらっしゃい」
ついにその日の午後。英児は店を任せて龍星轟を飛び出していた。
向かったのはデパート。彼女に似合うコートを探しに行って、ダメモトでそれを届ける!! 嫌な顔をされても、届ける。
そうでもしなくちゃ、気が済まない。受け取ってもらえなくても、せめて嫌な思いをさせたことだけでも謝っておこう。彼女も嫌な思いのまま一夜を過ごしたに違いないから。
何日でも待つつもりだった。でも。翌日の夕、彼女に会えた。
やっぱり英児を窺って、距離を置いて向き合う彼女。それだけで『やっぱ、俺みたいな男じゃダメなんだな』と諦めがついた。
せめてコートだけでも、否が応でも強引に手渡して帰ろうと決めた。
案の定。あんなにお洒落に着こなしていたコートは羽織っていなかった。着古したようなコート姿で、英児はそれだけで本当に心が痛んだ。あんなに似合っていたのに。俺が台無しにしてしまったんだと。
戸惑う彼女が最後に『ありがとう』とやっと受け取ってくれた。間近に来ると、昨夜の匂いがする。でも英児は振り切るようにスカイラインへ乗り込む。
絶対に俺のような男は対象外だろう。俺がどんなに彼女のことを『いいな』と思っても――。
たった一度会っただけの女性。ただそれだけのこと。桜満開の夜、英児はそう何度も割り切って、『琴子』のことは忘れることにした。
忘れた頃に、また会えるとは思わず。でも近寄れずに遠巻きに眺めていたら……。彼女が不自由な母親の世話をしていることを知った。
それで、彼女がどうして疲れ切った顔をしていたかも理解できた。そして母親に手を添えて根気強く耐えているその姿が『思った通り一生懸命で、そして耐え忍んでしまう子』だと感じた。でもそれで決定打……惚れたんだと思う。
だから再会した時、手放したくないと思ったから……。あとは彼女と彼女の母親のために、『なにか手伝えないか』と一生懸命になっていた。
その彼女も、彼女のお母さんも。いまはもう、英児の家族になろうとしていた。
―◆・◆・◆・◆・◆―
いまはすっかり『俺の女』として寄り添ってくれる夜桜の彼女。
思った通りの女で、彼女に優しく暖かく愛されると英児はまだ夢ではないかと思ってしまう。しかもすっかり車好きになってくれて。
高く透き通る青空。銀色のゼットはついにその事務所に到着する。
それなりの大きさの工場を併設している印刷所と製版会社。その駐車場を隔て、敷地内の片隅、公道側にモダンなレンガ造りの小さな事務所がある。数台が駐車できるそこに、確かに黒いスカイラインが停まっていた。
しかも。そのスカイラインの隣には見覚えある白いトヨタ車も停車しているのをみて、英児は思わず笑ってしまう。
「あはは。若葉の琴子がゼットに乗って通勤してくるようになって、さては三好さんも負けまいと愛蔵のセリカを動かすようになったのか」
三好ジュニア社長の愛蔵車、トヨタのセリカ6代目、T200。大事にガレージに保管してあるだけで、ファミリーカー優先になってしまい乗らなくなってしまったとのこと。だけれど、独身時代の思い入れがあり手放せず愛蔵。たまにメンテナンスに持ってきてくれ、英児が整備する。そのトヨタ車がスカイラインの隣に停車している。
運転も出来なかった女の子が、フェアレディZだのスカイラインGTRだのひょいひょい乗ってくるので、元の車好きの血が蘇ってしまったよう。でも英児は嬉しかった。愛蔵にて大事にされているのも嬉しいが、やはり走らせた方が良いに決まっているから……。
事務所の駐車場は小さいので、来客があってはと、英児は路肩にゼットを停車し運転席からおりた。
彼女の職場、事務所を訪ねるのは二度目? 婚約が決まり、龍星轟の顧客でもある彼女の上司、三好ジュニア社長に挨拶に来た時以来か。
でも……。仕事中の彼女を訪ねるのは、緊張した。小さな事務所だが、ジュニアの趣味なのかモダンで洒落ているいまどきのオフィスだった。そこで彼女が、英児が大好きなOLさんのお洒落をして働いている。
そんな女とは縁がないか、あっても向こうから切られたりしていたので、英児的には『お洒落なオフィス』は実際のところかなりコンプレックス?
深呼吸をしながら、三好デザイン事務所の入り口に立つ。ドアを開けて『こんにちは。お邪魔いたします』と挨拶をしようとしたのだが……。ドアを少し開けたところで英児のその手と足が止まる。
その玄関ドアから見える事務所のデスク。三好社長デスクの目の前に、ノートパソコンと向き合ってキーボードを叩いている彼女を見つけた。
「琴子、これもな」
側にいる三好ジュニア社長から書類を渡され、彼女が『はい』と笑顔で受け取っている。だが。モニターに向かった途端、真剣な眼差し……。
「このデジタル版下の色指定パーセンテージ。デザイナー指定の色と間違っていないかチェックしておいてくれ」
また三好社長から。画用紙のような原稿とファイルを差し出され、それも彼女が笑顔で『はい』と受け取る。
「社長。どちらが急ぎですか」
「うーん。どっちなら早く終わる?」
「色指定チェックなら、十五分いただければ」
「じゃあ。そっち先にして俺に返して」
「はい」
そうして彼女と三好社長はまた黙々と仕事に集中。
初めて見たな。あんな琴子。でも、彼女らしいな――。英児はそう思った。
目の前にあること、なんでも真剣に取り組んでくれる。三好ジュニア社長がそこを買っているのがよくわかる。英児の店でも『やる』と決めたら、彼女はまっしぐらになって取り組む。その姿が従業員に認められ、彼女はもうすぐ『龍星轟のオカミさん』だ。
でも、この仕事も好きなんだろうな。と、英児は思っている。それに龍星轟では、あんな綺麗な格好をして仕事が出来なくなる。側にいて車屋で一緒に頑張ってみたいと思うこともあるが、毎朝、女らしさ満載に綺麗な姿を見せてくれる彼女もたまらなく好きで、それが英児を元気にさせてくれる。
しかも。ずっと憧れていたOLさん。俺の嫁さんになる女は、本当にオフィスに溶け込む働き者でお洒落で……可愛くて……。気がつけば、その玄関ドアのガラスにはまたにやけた男の顔。そしてその背後に、さらに男の顔??
「あの、琴子に会いに来たんですか」
にやけていたところ、後ろから声をかけられて英児は驚き振り返る。
「そ、そ。そうですが……」
焦って答えたのだが。その背後にいた男性を確かめ、英児は絶句する。
「呼んできますね」
洒落た男が無表情にそう言って、事務所の玄関を開けた。
「大内さん。車屋の旦那が来ているんだけど」
って。なんでアイツがここにいるんだよ?
当たり前のように三好デザイン事務所に入っていった洒落た男は、あの『雅彦くん』!
どうして。あれっきりじゃなかったのか?
彼女の事務所に、なんで前カレがいるんだよ?
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