第10話 秘密

 名前に関してカイルと話し合った翌日、クリスはイアンにカイルの意志を伝えた。『クリス』という名前はカイルにとってはとても大切な名前であり、他人に軽々しく呼んで欲しくない。だからイアンたちは『シン』と呼ぶべきなのだ――そういった内容のことを拙い言葉で説明をした。

 珍しく晴れた空の下、広場の片隅でそれを聞いたイアンは、ほんの僅かに首を傾げて唸るような声を上げる。腕を組み眉間にシワを寄せたイアンが納得いっていないのは明らかでありクリスは不安に駆られたが、特に口を挟むことはなくイアンの返答を待った。

 それから数秒後、イアンは我に返ったように目を瞬かせると、クリスに目を向けて手をわたわたと動かす。


「あっ、ごめんね、考えこんじゃって……! 聞いてないとか、ムシしてるとかじゃないんだよ!」

「あ、うん、だいじょうぶ」


 太い眉を下げるイアンの様子に、クリスはほっと胸をなでおろし、黙っていた理由をイアンに聞いた。すると彼は周囲を見回しカイルが遠方にいることを確認してから、こっそりと耳打ちするようにクリスに話す。


「カイルくんのこと、こわいなとか、へんだなって、思っちゃったんだ」

「……え」


 イアンの潜めた声に、クリスは思わず目を丸くする。それはちょうど昨日クリスも感じたことだ。

 自分が抱いた『怖い』という感情は間違っていなかったのだろうか――幼い子供たちが遊んでいる声を背景に、そういったことを考え、体の前で組んだ手に思わず力を込める。

 その傍らで、イアンはうんうんと首をひねりながらたどたどしく言葉を続ける。


「クリス……じゃない、シンにこんなこと聞くのもよくないかなって思うんだけど……カイルくん、こわくない?」

「……えっと…………、こわく、ない、よ」

「ほんと?」

「……うん」


 イアンは、疑惑をもってクリスを見つめているように感じた。確かにカイルは変わった子供だ。やたら大人びた話し方をし、纏う雰囲気も奇妙であり、今だって、広場にいるのに何故かやたら難しい本を読んでいて、周りの遊びに混ざる様子はない。それに、本を読んでいるからだけではなく、明らかに浮いている。

 というのも、カイルは周りの子供に比べ身なりが非常にいい。つまり、ここで休息や娯楽を楽しんでいる子供たちと属する階層が大きく異なる証拠でもあった。貧困層寄りの者が多いこの周辺で、見るからに富裕層な子供が堂々と本を読んでいるのは、妙な光景であった。

 それは、イアンからしても変わって見えるのだろう。クリスだって、周りの子供と比較した上でそう思うし、昨日は怖いと感じてしまった。

 だけど、それは素直に言ってはいけない気がして、クリスは首を縦に振る。

 するとイアンはそっか、と短く相槌を打った。詰めていた距離を一歩分開け、イアンは困ったような笑みを浮かべてごめんね、と謝罪した。


「そりゃ、クリス……えっと、シンはお兄ちゃんだもんね、こわいなんて、言わないよね」

「……うん。カイルは、ぼくのだいじなひと、だから」

「そうだよね! ごめんねクリス、じゃない、シン! じゃあこの話はおしまいにして、あっちであそぼ! みんなにまぜてもらお!」


 口角を緩めたクリスにつられたように微笑んだイアンは、いつものように明るい表情に切り替えてクリスの手を引き、フットボールをする子供たちの元へ足を向けた。

 そんな彼等の様子を、カイルは冷めた目で広場の端から本越しにじっと見つめていた。



 それから数日後のある日の午後、クリスは部屋で一人留守番をしていた。カイルは、両親と外出せねばならず、ノクスは仕事のためここにはいない。その代わり、お守りとして渡された腕輪を左手につけていた。

『私やカイル様がいない時は、これをつけていてください。絶対に外してはいけませんよ』

 そんな言葉と共にノクスに渡されたそれは、丈夫そうなバングルにいくつもの輝石がはめ込まれた煌びやかなものだった。価値はよく分からないが、色とりどりの石が綺麗だなと時々見蕩れてしまう程だった。時々邪魔に思う時もあるが、言いつけ通りに外すことはなく、好きに読んでいいと言われている本を漁り、お気に入りのシリーズ本の世界に浸っていた。

 カチカチという時計の音とページをめくる音のみが響く中、突如部屋にノックの音が響く。はぁい、と小さく返事をしたクリスは、本に栞を挟んで机に置き、恐る恐る玄関ドア越しに声を上げた。


「どなた、ですか?」

「イアンだよ! シン! 広場に行こ!」

「イアン! あ、ちょっと、まってね」


 ドア越しに聞こえた溌剌とした声に、クリスはほっと安心したように表情を浮かべて、鍵を開けてドアを引く。その先にいたのは名乗り通りイアンだった。所々土で汚れたシャツを身に纏った彼は、興奮気味に目を輝かせる。


「シン! あのね、今日は広場に大道芸の人がきてるの! ぼくたちもみれるみたいだから、行こ!」

「だいどうげい? それって、あの、うたうたったり……ボールなげたりするあれ?」

「そう、それ! さっきはね、ジャグリングっていうのしてたの! だから、行こ!」

「え、あれ、イアン……がっこうは?」

「もう終わったよ! だからだいじょうぶ! お仕事のお手伝いまでもまだ時間あるから、ちょっとだけ、ね!」

「そ、そう、なんだ……! それで、だい、ど う、げい……だっけ」

「うん!」


 書物から得た知識を元に例を出すと、イアンは力強く頷いて、持て余すように握り拳をぶんぶんと振っている。大道芸は随分刺激的だったのだろう、高揚するままにクリスの手を掴んだイアンは、そのまま連れ出そうと手を引く。


「クリスもいこ! ぜったいおもしろいから! って、あれ、なんかきれいなのしてるね!」

「あ、うん、これ、ノーさんに、もらったの」

「そうなんだ、いいなぁ……。って、そうじゃなくて、広場行こ! 見に行こ!」

「え、でも、きょう、カイルもノーさんも、いないから……たのしそうだけど、いけない……」


 現在クリスはひとりで家の外に出ては行けないと言われている。それを理由にイアンの誘いをやんわりと断った。しかし、大道芸を見せたくて仕方がないらしいイアンはクリスの言葉に聞く耳をもたず「ちょっとだけだから」「すぐに帰ればへいき」と口にする。

 実際に目にしたことのない大道芸に対する興味はあるが、ひとりでの外出に対する不安は拭えない。


「でも、その、ひとりでそといったらダメって、言われてる、から……」

「ぼくがいるからひとりじゃないじゃん」


 静かな声でそう呟いたが、イアンのその返答にクリスは少し思い直す。確かに、イアンがいるなら一人ではないし、ほんの少しだけ見て帰ってきたらなにも問題は無いかもしれない。少しだけクリスの心が揺れ動き、悩んだ末に『少しだけならいいかもしれない』と考えて恐る恐るイアンと共に外に出た。

 不安と好奇心がまぜこぜになった不思議な心持ちで家を出たクリスの背後でドアが音もなく閉まり、長袖に隠れた腕輪が僅かに煌めいた。



 その頃、街中で両親と共に買い物をしていたカイルは、突如強烈な寒気のようなものを感じ、人混みの中足を止める。見つめるのはノクスの家がある方角だ。唐突に生じた感覚に、思わず苦々しく顔を歪めてその方へと歩みを進めた。

 今日は気温も高く、カイル本人の体調も良い。それなのに突然氷を当てられたような寒気を感じた。これは偶然ではない、きっとクリスに何かがあったに違いない――そう確信したカイルは焦燥に駆られるままに地面を蹴った。全力で走り何人もの人を追い抜き、ひとまずこの人混みから抜けようと考え移動を試みたが、それを何者かが阻害する。


「カイル! お前、どこに行くんだ! 言ってたお店はそっちじゃないぞ!」


 見上げた先に居たのはカイルの父親だった。息を切らし狼狽しながら細腕を掴んだ父親は、どうやら慌ててカイルを追いかけてきたらしい。息を整えながら額の汗を袖口で拭った父親は、カイルと手を繋ぐと、道の端に移動し、カイルの前にしゃがみこみ肩を掴んだ。ブラウンの瞳がじっとカイルを見据える。


「カイル、なんでいきなり走り出したりしたんだ? お父さんやお母さんのところから離れたらダメだろう」

「あ、その……はい、ごめんなさい。えっと…………しってるひとがいたから……」

「だとしても、黙って走り出したらダメだろう。はぐれたらどうするんだ」

「……ごめんなさい」


 本当はここで大人しくしている場合ではない。周囲を蹴散らしてでもクリスの元に向かわねばならないとカイルは考えたが、周囲の人間の多さがの安易な行使への妨げとなった。それを理解したカイルは、年相応の子供のようにしおらしく振る舞うことに努めた。

 悲しげに眉を下げたカイルの頭を父親が撫で、幼い息子の体をひょいと担ぐ。

 父親の逞しい腕に抱えられたカイルは、心を掻きむしるような焦りを胸に、複雑な面持ちでこちらを見つめる母親に手を振った。彼女はぎこちなく微笑んで、ゆっくりと手を振り返す。

 ふと、スカーフで覆われた白い首がズキリと痛んだ気がした。



 イアンに連れられ広場に向かったクリスは、何人もの大人や子供が集まっているその先で、数人の大人たちがパフォーマンスをしていた。何とか見やすい位置を探し出した二人は、注目の的である大人達に目を向けた。

 派手な服を着た男性が複数の棒を空中に投げたり取ったりを繰り返して、その隣で派手な服の女性が同じ様なパフォーマンスをする。男女が投げる棒の個数はどんどん増え、投げる速度も早くなる。ひゅんひゅんと宙を舞う棒を目で追いながら、今まで見たことの無い光景に胸を高鳴らせる。目を大きく見開いたクリスの表情は楽しげにキラキラと輝いており、自然と笑みが零れていた。

 演出の一区切りにポーズを決め一礼をした男女は、棒を片付けて雰囲気の異なる別のパフォーマンスを展開する。美しい流麗な舞やキレのある踊りが繰り広げられ、観客の目を奪う。

 その頃にはクリスも演出に目を奪われ周りに合わせて手を叩いたり声を上げたりして、すっかり夢中になっていた。『少しだけなら』と考えていたことなんて、記憶の片隅に追いやられていた。


 やがて大きな拍手に包まれて芸は無事終了した。男女が笑顔で観衆に手を振り礼を述べ、彼等の前に置かれた箱には何人かが金銭を入れていく。


「イアン。あれ、なに?」

「大道芸を見せてくれてありがとーっていうおれいかな。お金もってる人がいれてくの」

「そうなんだ……ぼく、おかねもってない……」

「じゃあ、かわりにお礼言いに行く? ほら、あんなかんじで」


 ほら、とイアンが指をさした先にいる女性の周りには、多くの子供たちが集まっていた。 口々にお礼を言い、中には菓子を渡す子供もいる。集まる少年少女の肌の色は様々だ。その光景に少なからず衝撃を覚えたクリスはイアンに目配せをした後、こくりと頷いた。


「じゃあいこ! ちょっとだけおれい言ってから帰ろ!」

「う、うん……!」


 芸を観ている時とはまた違う胸の高鳴りを感じながら、イアンと手を繋いで人だかりに向かい、集まった子供たちに笑顔を向ける女性を見上げた。

 声を上げるタイミングを窺っていると、その女性と目が合った。クリスを見た女性は、一瞬目を丸くしたあと、その目を細める。


「あ、お姉さん! さっきのおもしろかったよ! ありがとー!」

「かっこ、よかった、です……あ、ありが、と」

「楽しんでくれたんだ! こちらこそありがとう!」


 溌剌とした声と人好きのする笑顔でクリスとイアンに感謝を示した女性は躊躇なく二人に手を振る。その様子は他の子供たちへの対応と同じであった。また観に来てね、と微笑んでくれた女性及び近くでチップを集めていた男性に笑顔で手を振り返して2人はその場を離れる。


「ちゃんと言えたね!」

「うん、よかった! ……イアンも、つれてきてくれて、あ、ありが、と」

「べつにいいよぉ。それで、また来れたら来よう! こんどはカイルくんとか、ノクスさんもいっしょに、ね」

「うん……!」


 冷たい視線や態度でなく温かな笑顔や対応を受けたことから、クリスの心はじんわりと温かくなっていた。初めて外出した時の冷たい視線のことは今でもハッキリと覚えており、思い出すと身震いする程だが、友人との交流で、外の世界全てが冷たく苦しい訳では無いのだと理解しつつあった。それに加えて、肌の色が違う人でも優しい対応をしてくれる人はいるということは、クリスにとってはささやかながらも嬉しい発見だった。


 さて、大道芸を楽しみ小さな喜びを発見したあとは、早く家に帰らねばならない。すっかり忘れていたことだが、クリスはカイルにもノクスにも内緒でここまできている。彼等に心配をかけぬためにも、早く家に向かわなければならない。

 イアンも、仕事の手伝いの時間が迫ってきているようで、少し焦った様子を見せる。

 灰色が広がりつつある空の下、イアンに手を引かれ走り始めたその時、クリスは偶然誰かにぶつかり勢い余って転んでしまった。


「いたた……」

「あっ、シン、大丈夫? ケガしてない?」

「うん、だいじょうぶ。ちょっと、てとかひざとさ、すりむいちゃったけど……」


 心配そうな表情を浮かべるイアンを安心させるためにぎこちない笑みを浮かべて立ち上がる。手のひらと膝を擦りむいてしまい、そのせいで少し赤くなっていたが大して痛くはない。服に着いた土を払ったクリスはそこで気づく。

 手首に通してあったはずのお守り――腕輪がないことに。


「えっ、あれ、あれ?」

「どしたの?」

「おまもりが、ない」

「おまもり?」

「うん、ノーさんにもらったばかりの、おまもり。うでにつけてたの。いろんないろの、いしがついてて……キラキラしてるんだけど……」

「あ、あのうでわ、おまもりだったんだ? じゃあなくしたらだめだね、どこいったんだろ?」


 困り眉で説明したクリスの言葉を聞いて腕輪のことを思い出したイアンは周囲を見回す。すると、たまたま見上げた先で二人組の男性がクリスがつけていた腕輪を手にしていた。

 その様子に気づいたイアンが慌てて声をかけると、男性達は訝しげな目を向ける。その視線に僅かに怯むが、イアンは引くことなく言葉を続ける。


「あの、ひろってくれてありがと。……それ、シンのものなんだ。だから、かえして」

「シン? 誰?」

「あ、えっと、ぼくの、なんですけど……」

「ふーん? ……ほんとにあんたの?」

「……ぼくの、です。おまもりって、もらって……」


 男性たちの目付きに怯え、尻すぼみ気味に言葉を続けるが、相手の男性たちは相変わらず訝しげな目をクリスとイアンに向けている。そして、二人にとっては信じられないことを口にした。


「こんな高そうなものあんたみたいな子が持ってるわけないじゃん。ほんとにあんたの?」

「なっ……なんでそんなこというの! クリス、いや、シンのだよ!」

「名前間違えてやんなよ。つーか誰かから盗んでたりして」

「シンはそんなことしないよ!」

「ちゃんと、もらったもの、です」


 確かに、クリスがもらったおまもりは高価に見える。キラキラとした石がいくつも連なっており、クリスのような子供には不相応な物品だろう。それはクリス本人も何となく理解しているが、あらぬ疑いをかけられて黙っている訳にもいかない。二人で必死に抗議し、見かねた大人が仲裁に入るまでに発展した。しかし事態は収まらない。何故なら仲裁に入った大人までもがクリスとイアンを疑い始めたからだ。

 嘘をついてはダメだよ、とまで言われイアンは更に言葉を荒らげる。クリスも必死に弁明し返してもらおうと試みたが、結局腕輪は戻って来ることなく別の親子らしき相手に渡ってしまった。

 それでもイアンはクリスのものだと主張したが、周りからの呆れたような、可哀想なものを見るような視線に耐えられず、引き下がるしかなかった。

 

 広場からの帰り道、イアンは終始暗い表情で地面を見ながらとぼとぼと歩く。見るからに落ち込んでいる様子で、クリスもなんと声をかけていいのか悩んでしまうほどだった。

 ごめんね、ぼくのせいだ、と口にするイアンの言葉を必死に否定する。イアンと大道芸を観れたのはとても楽しかった。イアンにも、演者にちゃんとお礼を言えたのも嬉しかった。

 それなのに、まさかの終わりを迎えてしまいクリスも悲しくなる。せっかくの綺麗なお守りを失くしてしまったことも、落ち込んでいるイアンを見るのも、とても辛くて胸がシクシクと痛み、目に涙が滲む。

 結局半泣きのまま二人で道を歩き、顔面蒼白で大層慌てた様子のノクスとイアンの母親に出迎えられたのだった。

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