第9話 外出

 カイルやノクスと手を繋ぎ玄関の前に立つ。いつもならここより外へ踏み出すことはない境界線だ。

 今からクリスは、初めて自分の意思で外に出る。ノクスに抱えられて移動したあの時とは違う緊張感や高揚感が胸の内に広がって鼓動が早くなる。思わず片手で胸元を押さえた。

 すると、それに気づいたカイルが小さな白い手を黒い手に重ねた。クリスの目線の先では、カイルが優しげな笑みを浮かべている。


「大丈夫だよクリス。僕がいるから安心して。僕が絶対守るから」

「う、うん」


 なんの迷いもなく言い切られた言葉に、少し安心感を抱いて、クリスは手を握り返した。

 ノクスが戸を開け、カイルと共にそれに続くと、扉の向こうの世界がクリスを出迎える。少し生ぬるい風に灰色の空と、決していい天気とは言えないものだったが、それでもクリスにはキラキラしているように見えた。窓越しに見ていた灰色の空は、やっぱり灰色だ。本で描かれる空は青色が多いが、この灰色も綺麗なものであると感じる。

 はぁ、と感嘆の溜息を吐きながらクリスは周りを見渡し、門扉手前の植木や地面の土に目を向け、翡翠の瞳を輝かせながら観察していく。そしてその先で、地面を這う小さな虫の列を見つけた。


「なんか、いる」

「ほんと? 何がいた?」

「これ、ほんで、みた。えっと、アリってやつ。いっぱいいる」

「そうだよ、よく覚えてるね、えらいよ!」


 クリスは、本で見た昆虫の話を思い返しながらアリの行進を眺める。その先を辿ると、虫の死骸に無数のアリがたかっていた。うぞうぞとうごめくそれらを、クリスは興味深そうに見つめる。


「……クモだ」

「そうだよ。クリスは虫の種類もわかってえらいね」

「へへ……」


 アリとクモを見つめるクリスの隣にしゃがみこんだカイルは、一瞬苦い顔つきでアリたちを眺めたあと、直ぐに表情を切り替えて晴れやかな笑みをクリスに向けた。嬉しそうに頬を緩めたクリスは、暫しアリを見た後満足げに立ち上がり、他の植物にも目を向ける。色鮮やかな花に興味を示したり、屋根の上に止まる鳥に手を伸ばしてみたりと、狭い庭の中でもクリスに新たな刺激を与えるには充分すぎる。余程楽しいらしく、カイルやノクスの心境など考えずに、生き物の観察や土いじりに没頭した。


「シン様、あまり土を触りすぎるのはよくないですよ。手が汚れてしまいますからね」

「あらったら、へいき?」

「えぇ。ちゃんと綺麗に洗ったら大丈夫ですよ」

「汚れた手で、口のあたりとか目の周りとか触っちゃだめだよ」

「うん、わかった」


 心配する二人の言葉に素直に頷いたクリスは、また土いじりを続けた。

 一頻り庭で遊んだ後は、手についた土を洗い流して敷地の外へと向かう。門の向こうは、それこそクリスにしてみれは未知の世界だ。楽しみと、怖さと、期待が混じり合い、改めて一歩足を踏み出した。


 門の向こうに行っただけで、すべてが変わるわけではない。相変わらず灰色の空の下、人通りの少ない道で、クリスはカイルやノクスと繋いだ手をきゅっと握る。

 以前感じた突き刺さるような痛さを覚悟していただけに、クリスにとっては拍子抜けともいえた。


「……あんまり、こわく、ないね」

「今はあまり人がいないみたいですね。もう少しお店がある場所に行くと人がいっぱいいますよ」

「そうなの?」


 意外そうな呟きに、ノクスがにこやかに返す。続けてのクリスの疑問にはカイルが少し間をおいて言葉を発する。


「でも、いきなり人が多いところに行くと疲れちゃうから、今日はこの周りの散歩だけでいいと思うよ。このあたりだと、誰かに会ってもノクスの知り合いが多いだろうし」

「えぇ。シン様にも酷いことはしないと思いますよ」

「……よかった」


 なんであれ怖くない方がいいに決まっている。クリスは安堵した様子で道を歩き、周りに視線を向ける。自分が住むレンガ調の家に似た建物がいくつか建ち並んでいる。外にはこんなにも建物があったのかと、それだけのことでも、クリスはいたく驚いた。

 途中でノクスの知人らしい人と出会ったが、そのすべてが濃い肌の人だった。どうやらこの辺りはノクスのような人たちが多く住んでいるらしい。クリスは、ノクス以外の黒い肌の人物に会うのは思えばこれが初めてであるため、見知らぬ者との対面に最初少し怯えたが、顔を合わせた者のほとんどは三人に分け隔てなく接してくれた。

 冷たい目をノクスたちに向けるものも少なからずおり、体が冷えるような感覚はしたが、クリスには以前ほどの恐怖感はなかった。

 散歩の最中、長い髪を後ろで一つに纏めた壮年の女性と少し世間話をした。その女性はクリスとノクスを見比べて、疑問を零す。


「二人は親子か兄弟なの?」

「いえ、家族同然ではありますが、親子や兄弟では……」

「そうなの? 私たちみたいな人種でそんな髪色してるのって珍しいでしょう。だからそうかなと思ったのよ」

「それもあって引き取ることになったんです」


 それらしい理由を並べるノクスの隣で、クリスは、カイルと共に静かに大人たちの会話を聞いていた。

 壮年女性と別れたあとも周辺を散歩して気づいたのが、クリスと近い年の子供は殆ど見かけなかったということである。何気なしに聞いてみたら、クリスと歳の近い子供の多くは学校に行っているか働きに出ているかのどちらかだという返答がきた。


「がっこう、って、ほんでみた、べんきょう、する……とこ?」

「そうそう! クリスもいつか行けるようになるかもしれないね。今は、ちょっと、難しいから……もう少し我慢してね」

「……うん、わかった」


 優しく微笑んだカイルの言葉に素直に頷いて、その後も植物や昆虫を観察しながらの散歩を続けて帰宅した。時間にして3、40分程度の初めての外出は、クリスにとって実に楽しいものだった。本で見たものと違うところは多々あったが、それでも実際に自分の目で外の景色を目にし、植物などに触れたことは素晴らしい経験であった。恐れていたような冷たく痛い感覚も殆どなく、落ち着いた気持ちで散策できたのも、実に幸運だったろう。

 帰宅後、汚れた手を拭いていたクリスにカイルは訊ねる。


「クリス、今日のお散歩、楽しかった?」

「うん。……たのしかった」

「そっか、楽しかったんだね。また、お外行きたい?」

「うん……!」


 その問いに純粋な気持ちでクリスは頷いた。思ったより怖さもなく、新鮮な気持ちで外の空気を堪能できた。クリスの気持ちは高揚し、瞳は煌めいており、外への興味は深まる。

 そんなクリスの反応を受けて、カイルは考え込むように口元に手を添えた。悩ましげに瞼を閉じ発せられる呻きは、小さな声であるがクリスとノクスを緊張させるには充分であった。カイルが考え込む中、部屋は静まり返る。

 そして数秒後、小さく頷いたカイルは優しげな声をクリスに向ける。


「じゃあ、また今度、一緒に外に行ってみようか」

「! うん!」


 カイルの返答に、クリスは嬉しそうに口角をあげて元気よく返事をする。今回の外出で一番不安を抱いていたカイルが許容してくれたということはクリスにとって喜ばしいことであった。

 ノクスも意外そうな表情を浮かべた後、カイルのはたにしゃがみこみ、確認を取るように訊ねる。


「カイル様、よろしいのですか? いえ、勿論シン様にとっても喜ばしい事なのですけれど」

「いいよ。といっても、もちろんクリス一人ではだめだよ。僕かノクス、もしくは両者が同伴の上でなら外出は許可する。それならいいかなって。君にも色々言われたしね?」


 カイルの物言いと視線に、ノクスは一瞬怯み肩をすくめる。ノクスが思い出すのは外出前のやりとり。カイルに許しを得たとはいえ、無礼な事を言った自覚も罪悪感もある。その苦々しい感覚を思い起こして姿勢を正した。


「……その際は、とんだ御無礼を……」

「別に大丈夫。僕に対する意見は忌憚なく述べてって言ったのも、外出の話を許可したのも僕だからね。特に怒ってないよ」


 子供らしい指で長いもみあげをくるくると弄りながら笑みを浮かべたカイルの表情に、裏はないように見える。ノクスはふぅと胸を撫で下ろし、落ち着かない様子のクリスに目を向けた。


「良かったですね、シン様」

「う、うん……! あの、ノーさんも、また、いっしょに、おそといこ……!」

「えぇ、えぇ! 勿論です! またみんなで外に行きましょう!」


 クリスの言葉に喜色満面といった表情を浮かべたノクスは、小さな手を軽く握った。



 それから、クリスはカイル達と共に外出する回数が増え、近隣住民と顔を合わせることも多くなった。多くは壮年の女性や、年配の男女だったが、時たま近い年齢の子供とも話す機会があった。学校や働きに行っている者が多いことから、毎日のように会えるわけでなくとも、話せる人が増えたことは嬉しかった。

 だが、困ることもあった。それは相手に名前を聞かれた際のことだ。


「そういえばきみ、なんて名前なの?」

「ぼく? えっと、クリス、っていうの」

「クリス? わかった、ぼくは――」


 一緒に虫を観察していた男の子にそう聞かれて、クリスはゆっくりと答える。相手の子はクリス、と小さく復唱してから自分の名前を言おうとしていたのだが、それよりも前に近くで様子を見守っていたカイルの声が重なる。


「違うよ。その子の名前はシンだよ」

「え? でも、今この子がクリスって……」

「クリスも間違いじゃない。でも、君はクリスのことシンって呼んで」

「…………わかった。じゃあ、シンくん?」

「あ、うん……」


 カイルに気圧され、男の子は不満げながらも頷き、呼び方に気をつけながらクリスと虫の観察を続けてくれた。

 クリス本人は、別に『クリス』と呼ばれようが構わないし、その方がわかりやすい。そもそも、ノクス以外に『シン』と呼ばれるのは慣れず、更には時々自分のことと気づけないことすらあるのだ。

 そんな疑問から、クリスは仲良くなった同い年の子にこのことを話してみることにした。クリスの話を一通り聞き終えた少年は、うーん、と悩む素振りを見せる。


「聞こえなかったーとかじゃなくて、じぶんのことってわかんないときがあるんだよね? だったら『シン』じゃなくて『クリス』でいいんじゃないの? だめなの?」

「えっと……それは……そうかもしれない……けど……」

「だよね? それに、きみがいうよびかたとちがうをよびかたにしなさい! って言ってくるのって、なんだかヘンじゃない? カイルくん、なんか、かわってるよね?」


 黒い短髪とたれ目が特徴男の子――イアンにそう言われて、クリスは少し混乱した。彼は最近よく話すようになった子だ。もちろん、同じような濃い肌の色である。

 思い起こせば、他の人はみんな最初に言った名前そのままで呼ばれている。今一緒に話しているイアンだって、最初に「イアンってよんで」と言われたからそう呼んでいるのだ。他の子供たちだってそうだ。大体言われたように呼んでいて、敢えて他の名前で呼んでいる子は見かけない。

 そう思うと、自分の名前は『クリス』なのに、何故『シン』と呼ばせねばならないのか、不思議に思えてきた。


 だからある日の夕方、ノクスの家から自宅へ帰ろうとするカイルにその疑問をぶつけてみることにした。


「どうして、みんなにぼくのこと『シン』ってよばせるの?」


 クリスの小さな声にカイルは僅かに目を丸くしたあと、にこりと微笑む。


「クリスっていう名前は、大事な名前だからね。簡単に他人に呼ばせず、大事にしないと」

「でも、ときどき、『シン』ってよばれても、ぼくってわかんなくなる……」

「それはまだ慣れてないだけだよ。ノクスが君のことをシンって呼ぶのには、慣れたじゃないか」

「そうだけど……えっと……」


 カイルの返答にクリスは口ごもる。言いたいことがちゃんと口にできていないとは思うのだが、なんと言えばいいのかわからずに、手を体の前でもじもじと動かした。

 ノクスは後方で眉間に皺を寄せながら2人の様子を眺めており、口を挟む気はないらしい。彼のそんな様子を確かめたクリスは再び優しげに微笑むカイルに顔を向けた。イアンが言っていたことを思い出しながら、必死に口を動かした。


「でも、ぼくは、クリスってよんでほしいのに、シンってよばせるのは、へんって、イアンが……」

「そう、イアンが」


 イアンという名前に反応したカイルはその名前を復唱した。その声は少し冷たいように感じられたが、クリスは何も言わずにただそれを聞いており、ノクスは一瞬呆れたような表情を浮かべた。

 数秒後、普段通りの穏やかな声色でカイルは続ける。

 

「イアンがそんなこと言ってたとしても、駄目。君はあの子達にクリスって呼ばれちゃ駄目だよ」

「……どうして?」

「大事な名前だから。……というより、僕がつけた大事な名前を、他人にあんまり簡単に口にしてほしくないんだよね」

「…………どういうこと?」

「分からなくていいよ。とにかく、他の人にクリスって呼ばせたらダメだよ、わかった?」


 首を傾げたクリスに、カイルが接近する。大きな丸い瞳で相手を見上げた彼が、念を押すように問いかけ、目を細めた。

 正直、クリスにはカイルが言っていることがよく分からない。何故他の人が言ったらダメなのだろう、自分にとっては大事な名前だから、色んな人に呼んでほしいのに、なんでだろう。それに、『クリス』が大事な名前だから呼ばせなくないなら、『シン』は大事な名前じゃないということなのだろうか? そういったことを考え口にしようとしたが、カイルにこれ以上聞いてはいけない気がして、つい言葉を飲み込んだ。反射的に一歩後ずさり、クリスは口を開く。


「…………わかった、ごめん、なさい」

「謝らなくていいんだよ! 確かに、慣れない呼ばれ方って困っちゃうよね。でも、ごめんね、ここだけは、分かってほしいんだ」

「……うん」


 俯いたクリスを、カイルが抱きしめて背をさする。密着する体は温かいのに心は落ち着かない。いつもは、カイルに撫でられたり抱きしめられたりすると、もっと気持ちも温かくなるのに、今はそれとは全く違った。

 クリスは、おそらく初めてカイルのことを少しだけ怖いと思った。

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