第8話 興味
見捨てられた子供がクリスという名を与えられ、ノクスの元で居を構えるようになってからおよそ三ヶ月。外の気温も高い日が多くなり、日没も随分と遅くなった。
最近のクリスはどれだけか背が伸び、だいぶ肉付きもよくなった。骨と皮だけだったような頃を思えば見違えるようである。ノクスのおかげできちんと三食食べることができ、規則正しい生活を送れるようになった。少し前から室内での簡単な運動も行うようになり、それもあってか少し華奢な子供に見える。
次第にひとりで食べるための練習も行い、いつの間にかスプーンだけでなくナイフやフォークの使い方も上達した。カイルは食べさせることができないことを少しだけ残念がっていたが、それはそれとしてクリスの成長を喜び、大層褒めちぎっていた。
『すごいよクリス! 君は本当に凄い子だ!』
親バカ、もとい弟バカ、いや保護者バカというべきか。クリスが気圧されるほどに褒めちぎったカイルは誰よりも嬉しそうであり、それを見ていたノクスもどこか満足気であった。
クリスは、何故自分の行動ひとつで二人がこんなにも喜んでくれるのか分からない。ナイフやフォークを使ってちゃんと食事ができるようになったとか、かなりしっかりと話せるようになってきたとか、どれをとってもカイルもノクスもとても嬉しそうにする。自分のことではないのに。
だけど、二人が嬉しそうにしているのを見るのはとても気分が暖かくなることをクリスは理解していた。だから、二人が喜んでくれるならと、クリスは少しずつ他のことにも意欲的になりつつあった。
例えば、クリスは文字や本に興味を持つようになっていた。
クリスが住むこの家は、部屋の至る所にたくさんの本がある。分厚い本、薄い本、文字が多い本少ない本と様々だ。その中から、ノクスやカイルは好きに選んで読んでいるが、クリスには経験がない事で、少なからず羨望の意を抱いていた。
ある時一冊の本を手に取った。本棚の下の方にあった薄い本。太字で書かれた文字をクリスは読むことができないけれど、この本にとても興味があった。
何故なら、それは以前カイルやノクスが読み聞かせてくれた時に彼等が持っていた本と似ていた気がしたから。
「ノーさん、これ、まえに、よんでくれた?」
ある日の夕食を終えた直後のこと。クリスはずっと気になっていた本を、台所にて皿を片付けていたノクスに見せた。
ノクスは、持っていた皿をシンクに置いて手を拭き、目線を合わせるようにクリスの前に膝をついて本を確かめる。
「えぇ、確かに前に読みましたね。これがどうかしましたか?」
「これね、ぼく、じぶんでよみたいの。だめかな」
「なんと……! もちろん構いませんよ! ではそのためにも様々な練習をいたしましょう」
恐る恐る訊ねたクリスの声をかき消すような勢いで発された声に、一瞬びくりと肩をいからせた。驚かせたことにノクスは慌てて謝罪し、少し待つようにと頼んで急いで片付けに戻る。
皿を洗って片して、手を洗い直したノクスは、一冊の本が置かれた食卓に向かい待っていたクリスの元に向かう。
「お待たせ致しました」
「うん、だいじょうぶ」
少し微笑んだクリスに同様に笑みを向けて、ノクスは本に目を移す。
モノトーン調で描かれた少年少女の姿が表紙にあるこの本は、ヨーロッパでは有名な作品だ。数百年前にこの国、ブリタニアで出版され人気を博した長編小説――を児童向けにしたもの。今まで何度かノクスがクリスに読み聞かせおり、内容もわかっていると思われる。となれば、アルファベットをきちんと読めるようになれば、文章を読む練習にはもってこいだろう。
クリスの傍らに膝をついたノクスは、相手を見上げて口を開く。
「シン様。貴方がこれを自分で読んでみたいと思うのは大変喜ばしいことです。ですが、今のままでは、読むことはできません。ですから、まずは、これを使ってアルファベットを読めるようになりましょう」
「……はい」
クリスは、直ぐに本を読めるわけではない事に少し残念な気持ちになり、つい悲しげに顔を曇らせた。思えば当たり前のことだが、直ぐに願望を叶えられないのは少しだけ悲しい。
ノクスは自身の机から取り出した紙と鉛筆を取り出して、アルファベット表をつくる。彼の手によって綴られる丁寧な字が紙面で鮮やかに踊った。
まずはここから、ということである。
それから数日。ノクスや、後ほど事情を知ったカイルと共に、クリスは文字を読む練習に励んだ。普段の話す練習や作法の練習、室内での簡単な運動等々意外とやることが多いが、クリスは非常に意欲的に取り組み、なかなかの速度で吸収していた。
「これがクリスの名前。
「うん、えっと、シー、エイチ、アール、アイ、エス……ク、リ、ス」
「そう、凄いよ! ちゃんと自分の名前読めるようになったね」
自分が呼ばれることが多い名前のひとつを読み上げると、カイルは大喜びしてクリスの頭を撫でる。もうひとつ、
元々の興味に加え、褒めて貰えることで楽しくなったクリスは、どんどん単語を覚え本を読むようになる。
「むかし、むかし……あ、ある、あるところに――」
「うん、うん」
「ちいさな、む……むら、で、うまれ、そだった、しょう、しょうねん、は……」
それから数日後には、クリスのお気に入りとなった本の音読の練習をする。所々読み間違いや詰まりを発生させながらも、真剣に読み進めるクリス。そんな彼をカイルは愛おしげに見つめていたが、時折悩ましげに眉を寄せた。
それに気づいたクリスは、心配を意で相手の翡翠の瞳を見つめるが、視線に気づいたカイルは慌てて晴れやかに表情を切り替える。
「なにか、あった?」
「ううん、なにもないよ。少し考えごとしてただけ。気にしないで」
「……そう? なら、いいの」
「うん。クリスは気にしなくていいんだよ」
そんなふうに言われてはクリスは引き下がる他ない。少し気になるところはあるが、カイルが喜んでくれるならと音読の練習に励むことにした。何度も読み込んだために内容は理解しているが、読むことはまだ達者とはいかない。だからこそ、いつもすらすらと読み上げるカイルやノクスを、凄いと心底思った。
自分も彼等のように上手く話せるようになろう。その一心で多くの本を読んだ。最初に触れた物語や童話だけでなく、最近出版された本も片っ端から読み漁った。ヤギと狼の話、小さなお姫様の話、今の世の学生の話――他にも多くの本を読み込みクリスはどんどん物語の世界に嵌っていた。
時には一日の殆どを読書にあて、カイルやノクスが見ていなくても勝手にひとりで読んでいることもあるほどだった。
クリスは、大きめの文字と可愛らしい挿絵で彩られた本を読んで、様々な本から新たな世界を知り、吸収していく中でこんなことを思うようになった。
――そとのせかいって、どんなかんじなんだろう。やっぱり、もういちどみてみたい。
それは、外に対する興味だ。
本から読み取る外の世界は自然に溢れていることが多かった。綺麗な空が広がり鮮やかな緑の木々が並んでいて、とても美しく見えた。実際の外の世界はどうなのだろう。そう考えるとなんだかワクワクする。窓から見える空は灰色なことが多いが、そんな色も実際に外に出て自分で見てみたい。本に出てくるような森は近くにあるのか、美しい鳥はいるのか。それを自分で確かめてみたい。
だが、そんな気持ちと同時に抱えるのが恐怖である。
クリスは二ヶ月ほど前にノクスに抱えられて外の空気を味わった。クリスにはよく分からない謎の痛さや寒さや恐ろしさといった感覚は未だに覚えている。思い返すと背筋がゾクゾクと震えるが、それでも、書物から得た情報により外に興味が沸く。
怖いけど、見てみたい。もしかするとあの時とは違うかもしれない。一人では無理でも、カイルやノクスがいたら平気かもしれない。そんな考えが胸の内からじわじわと沸き起こり溢れたため、クリスはカイルに自分の気持ちを伝えることに決めた。
その前に、自宅で仕事をしていたノクスに言ってみると、ノクスは少し驚いた表情を浮かべたが、決して悪い反応ではなかった。
「そうですよね、シン様も、少しくらいは外に出たいですよね」
「うん。でも、ひとりだとこわいから、ノーさんか、カイルといっしょに、いきたい」
「それなら大丈夫ですね。なら、カイル様にお願いしてみましょう」
「……カイルにいわなきゃ、だめ?」
「そりゃもちろん。外は危険です。ちゃんとカイル様にもお伝えして、相談をしなくては」
「そっか」
この時、クリスは何かが変だと思ったのだが、何を変と思ったのかそういったことはなにも理解できぬままだった。
翌日の夕方。ささやかな土産を手に家を訪れたカイルに、クリスはすぐに願望を伝えた。
「カイル。ぼく、またそとにでてみたい。カイルや、ノーさんと、おでかけしたい。……だめかな」
素直なお願いを、カイルはすぐに快諾してくれるだろう。そう思っていたが、彼の反応は予想を大きく裏切った。
エメラルドの瞳を一瞬丸くしたカイルは、ぽかんと開けていた唇を閉じて数秒考え込む。続けて彼は少し冷たく口にした。
「それはダメ」
「……えっ、ど、どうして……」
いいよ、とばかり言ってくれると思っていただけに、クリスは驚いて硬直した。拒絶されたことを理解し眉を下げ、か細い声でどうして、と問うと、手土産の菓子をノクスに預けたカイルは、戸惑うクリスに体を向けて諭すように言葉を発する。
「クリス、外は危ないよ。前にノクスとここに来るとき、怖かったでしょ」
「……うん、こわかった」
「それなのに、外に行きたいの?」
「うん。いってみたい。でも、こわいから、ひとりじゃなくて……カイルも……ノーさんも、いっしょに。それなら、きっと、こわくないよ」
クリスは胸の前で手を組みながら、ゆっくりと言葉を続けたが、カイルは不満げに首を振って否定する。そうじゃないと、呆れたように言い話を逸らす。
「そういうことじゃないの。外は怖いの。君には危ない。ほら、だから今日も本を読もうよ。君が好きそうな本を持ってきたんだ」
「……カイル」
「君は僕が思ってたよりずっと早く文字を読めるようになってる。とても凄いよ。だから、それを伸ばそう。……ね?」
手にしていた鞄から一冊の書物を取り出したカイルは、クリスの気持ちを拒むように言葉を押し付ける。彼が出した本は、表紙に沢山の動物が描かれており、興味をひくものではある。だが、自分の思いをカイルにまともに聞いてもらえないのは初めてで、どうしたらいいのか分からないままに静かに頷き本を手にした。
その時、二人のやり取りを見守っていたノクスが、不思議そうにとんでもないこと言った。
「カイル様は、シン様を閉じ込めておきたいのですか?」
「……は?」
何気なく、という様子で発された言葉は、その場の空気を一瞬で冷ややかに変えていく。同時に心を乱されたカイルが間抜けな声を漏らした。
そしてノクスは、カイルの様子に謝罪をする訳でもなく、相手を見おろしたまま話を続ける。
「恐れながら、そういったことは現実的に考えてやめておくべきかと」
「……ノクス、別に僕、閉じ込めるなんて言ってないけど?」
「えぇ、そうですね。ですが、折角のシン様のお願いを交渉もなく却下するなんて、いかがなものかと思いまして」
「……随分はっきり言うね」
「自分の意見は
「……いや、別に謝らなくていいけど」
淡々と述べるノクスと、表情を曇らせるカイル。クリスの目の前で繰り広げられる光景はどこか妙だ。
クリス自身、夜中に目が覚めた時などにこの二人がやたら真面目な面持ちで難しい話をしている様子を見たことがあるが、その光景とは違って見える。謎の緊張感にクリスは持っていた本をぎゅっと抱きしめた。
冷や汗を浮かべるカイルは、クリスを庇うようにノクスとの間に立ち、彼を見上げる。
「とりあえず、僕が何故ダメだと言ったか。それを言おうか。……それは、とにかく外は危ないから。このまま外に出して、クリスにもしものことがあったらどうするの? それに、クリス自身も怖いって言った。なら、まだ外出すべきじゃないよ」
「貴方の言いたいことは分かります。ですが、なにもシン様はひとりで出ると言っているわけではありません。カイル様や私と共に、と言っています。……そうですよね、シン様」
「う、うん。そうだよ」
ノクスは体を屈めてクリスに問いかけると、彼は徐に頷いて、カイルに伝える。怖いのは確かであるが、カイルやノクスが一緒にいるならきっと怖くないと、初めに言ったことを重ねる。
それでも納得いかない様子のカイルは、腕を組んで悩む素振りを見せた。表情は相変わらず苦々しいままだ。そんなカイルに、フ、と息を零したノクスが冷静に言う。
「カイル様。確かに私やシン様のような人間には、外は安全ではありません。家の中にいるのがいいに決まっています」
「…………そうだよね」
「ですが、それはほかの方も同じこと。特に女性や子供は、常に気を張っていて丁度良いくらいと言ってもいいですが、だからって、外に出るなというのはおかしな話でしょう。それと同じことですよ」
「……それは、そう、だけど……でも心配だよ。だって何もしてないのに、蔑んだ目を向けられたり、暴言を吐かれたりする。それは、おかしい。それは僕の権能で対処できるものじゃない」
「えぇ、できたら驚きです。そんなことできるのは神様めいたあの方くらいのものです。……それは置いといて、危険性は重々承知していますが、シン様のためにも、可能な範囲で外の世界を見せるべきです」
「……それは……そうだけどさぁ」
クリスの前で難しい話しが行われている。カイルがとにかくクリスを心配をしているというのは理解したが、ケンノウだとかなんだとか、意味を推測しづらい単語が混ざり意味が分からなくなる。聞いていたクリスは思わず首を傾げたくなったが、余計な口をはさむのはやめておくことにした。
「クリスの身に何かあったらどうするの? ついこの間、君も危害を加える相手を軒並み始末するのは良くないって言ってたよね?」
「それは言いました。ですが、だから外に出さなければいいのだというわけではないかと」
「……クリスは、君にとっては神様なんでしょ? 神様が傷ついてもいいの?」
「よくありません。ですが、その分私たちでお守りし、シン様自身にも傷つかないための術を学んでいただきます。私と貴方でお教えしましょう」
「具体的には何を? 勉強だけでなく、体を鍛えさせるってこと?」
「それは――」
その後も暫く、クリスの前で話し合いがなされる。外での対応はどうするとか、頭に疑問符を浮かべながら2人の会話を眺めること数分。ようやく話の落とし所が見つかったのか、悩ましげな固い表情をほんの僅かに和らげる。
「……わかった、君の言う通りだよ」
そう呟いたカイルは、自嘲気味にほくそ笑んでクリスに視線を向けた。そして、少し沈黙したあと、静かに謝罪する。
「ごめんね、クリス。……僕は、どうしても君が心配だったんだ」
「……え、うん、だい、じょうぶ」
「ノクスもごめんね。あと、ありがとう。言ってくれて」
「いえ、こちらこそ無礼な物言いをして申し訳ございません」
「ううん、いいよ。寧ろ僕を正してくれてありがとう。君と話してちょっと冷静になった気がする」
「……こちらこそ、受け入れていただきありがとうございます」
瞳を優しく細めて礼を述べると、ノクスは安堵したように表情を和らげてスッと立ち上がった。
続けてカイルはクリスに体を向けて、表情を正す。
「正直、君を外に出すのは不安だよ。でも、ノクスは君の保護者としてぴったりだし、僕達といるなら、少しくらい外に出るのはいいのかもしれないね」
「……ってことは、そと、いっても、いいの?」
クリスは自然と目を輝かせていた。一度駄目だと言われたが、深い興味を抱いていたこの建物の外に出られるかもしれない。そう思うと、怖さや不安も当然あるが、俄然楽しみが勝っていた。
本を片手で持って、右の手でカイルの気持ちを確かめるように服の裾を掴んだ。カイルは、困ったように微笑んだ。
「いいよ。まずはこの近くから、とりあえず試してみようか」
「……! うん!」
クリスはきらきらとした笑顔で、力強く頷いた。
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