第3話 夜
カイルが復讐という文字を頭に浮かべたあの日から数日が経過した頃、父親の書斎での調べものがカイルの日課になっていた。
目の前に並ぶ分厚い本たちは、小柄な体では手に取るのだって一苦労だ。それでも台に乗り手を伸ばし、なんとか読もうと必死になる。
棚の前に置いた台に一回り小さい台を重ねて、危なげながらも手を伸ばし目当ての本を取った。落ちる危険性を考慮すれば大人に取って貰うことが一番であるが、その選択肢は最初から彼の頭にはない。
それは、カイルが手にした本が法に関する書物であったからだ。こんなものをわざわざ読みたいと言ったところで『君にはまだ早い』なんて言って相手にされないのがオチだ。それは以前の経験から確信している。
少し前に父の書斎にお邪魔させてもらい、法に関する本を指さして『あれを読んでみたい』と父親に言ってみたことがあるが、その際の父親は前述のような反応だった。『これは難しい本なんだ。カイルにはまだ早いよ』――そう苦笑いされ、つい父親の顔面を殴りつけたくなったが、流石にこらえた。
そのため、誰にも頼ることなく一人で読み漁っているというわけだ。
そんなカイルは今、不当に扱われる人種であるクリスを真っ当に救う術と親への合法的な報復方法を探していた。この世に人種による不当な扱い――つまり人種差別が平然と蔓延っていることはカイルも知っているが、そんな中でもなにか出来ることを見つけ出したかった。
カイルにとっては、何故自分が難しい本を読み漁り、出会ったばかりのクリスを救おうとしているのかについて特に疑問はない。何故なら、クリスを助けることを自分の存在意義であると認識しているからである。
カイルは重い本を床に置いて、索引から関連するであろうページを探す。所々意味がわからない文があれば、辞書を開いてとにかく読み耽る。しかし幾ら探してもカイルが求めるようなものは法は見つからない。契約によりその相手を雇用し主として保護することはできるようだが、カイルはクリスと家族になりたいのであって、主従や雇用関係を結びたいわけではない。
――クリス達みたいな人達の権利なんかは、まだしっかりと保障されてないのかも。確か、女性の参政権の話だってまだ決着してないんだよね。……というかそもそも……。
本を閉じ、カイルは絨毯の上にゆっくりと倒れ込む。照明が吊り下げられた天井を眺めながら、ぼんやりと、非常に今更なことを思う。
「……たとえそんな法や権利が存在したとしても、今の僕にどうにかできるわけがないじゃないか」
遠い目で天井を見つめながらそんなことを思う。何度も言うがカイルはまだ4歳の幼子であり、本来親の保護にあたるべき無力な存在だ。自分だけでクリスを守れるわけもないし、主従関係も雇用関係も結べない。そもそも親に対する復讐など以ての外。なにより復讐に合法的も何もあるものか。
――冷静になろう、僕。
自らにそう言い聞かせて本を棚に戻す。得た知識は今後活かしていこうと決めて、カイルは別の本を探すことにした。そう、例えば……うまく言葉を話すことができない子供に、どう話し方を教えたらいいのか、といったことを。
クリスと出会ってから一月半ほど経過した頃のこと。発声練習を始めてから僅かな期間で、クリスは拙くも話せるようになってきた。これは通常有り得ぬ早さであり、カイル自身も非常に驚いた。何せ、カイルの見立てではぎこちなくも話せるようになるには半年から一年ほどかかると思っていたからだ。
クリスは、朝に会いに行けば『おはよう』とぎこちなくも言い、食事中には『おいしい』と言うこともある。僅か一月半でこれは驚くべき早さである。だが、ここでカイルが過度に調子に乗るのは良くない。何故クリスの言語習得がここまで早いのか見極めて、無理のない程度に勉強を進める必要がある。次のステップに進むにはまだ修練が必要だ。
カイルにとって、拙いながらも必死に言葉を伝えようとするクリスの姿は、実に愛おしく、庇護欲が掻き立てられる。
だからこそ、自分がクリスを守らなければ、救わなければと強く思う。そして、クリスを虐げた大人を許す訳にはいかないと。例えそれが――自らの親だとしても。
それからカイルは、計画の円滑な進行のために大人の協力者を探すことにした。
できれば成人……少なくとも十代後半以上で、異なる人種に対する差別意識を持たない者か当事者がいい。性別はどちらでも構わないが、諸々を考えると男性の方がいいかもしれない。
まずは身近な大人から該当者を探そうとカイルは友人の保護者を観察することにした。
世間には身分格差があり、近い階層のもの同士の関わりが深い傾向にあるが、下層以外に属する者が有色人種を目にしないという訳では無い。街には黒い肌や濃い褐色肌、黄色人種など様々な人が生活する。
そんな街で、子供が異なる人種の者に接した時、保護者はどうするか。もしくはそんな人の話をした時に子供や保護者はどう反応するか。その様子を見れば、クリスの協力者として相応しいかが分かるだろうと考えてのことだった。
結果はカイルの想定通りとも言えるし、芳しくなかったとも言える結果だった。
困っている人に子供が何か手伝おうと足を向けた時、先にいるのが例えば黒い肌の者であれば、保護者は引き止めたり叱責したりする者が大多数を超えていた。
保護者として、見知らぬ人物に子供が近づくことを忌避する気持ちはあるだろう。そのまま誘拐でもされてしまえば一巻の終わりだからだ。
ならば『知らない人に近づくな』でいい筈だ。それなのに、相手の人種により態度を変え罵るのはカイルからすれば遺憾である。
困っている相手が幼い子供でも、異なる人種のものであれば例外はない。子供が善意で手助けをしようとしても親がその気持ちを抑えつける。そのような光景を何度も目にした。
幼子にとっては絶対的な存在と言っても過言ではない保護者が、そのような反応をし続けたなら子はどうなるか。『そういうもの』だとして覚え、無自覚に差別的言動をするようになる可能性は大いにある。勿論全ての子供がそうなっていくとは言いきれないが、親の教えを信じ従う子は多くいるであろう。
ならば、引き留められ叱責された子供の前で、カイルが手を差し伸べる様を目にすれば、大人はどう思うのか。カイルはそれも試してみることにした。
ある雨の日のこと。街中にて多くの荷物を抱え急ぐ黒い肌の青年を見かけた。どこかに雇われている召使いだろう。主人の品物を運んでいるらしい彼はうっかり物を落としてしまい慌ててかき集め拾い上げる。主人に叱責され焦る青年を目にしたカイルは、足元に転がってきた箱を拾い上げ、手渡した。
『これ、あなたの? どうぞ』
無垢な子供のように聞いて小さな荷物を渡せば、青年は非常に驚いたあと謝罪をしそれを受け取った。そこまではよかった。
しかし、その後主人と思われる人物には『こんなやつ手伝う必要はない』と言われ、やけに嫌味を吐かれた。それだけでなく、周囲の通行人はカイルを異様なものを見る目をしていたり、くすくすと笑ったりしていた。
――なんてことだ。腐ってやがる。
少し困ったように眉を下げていたカイルは、内心では毒を吐き散らす。
周囲の大人がこれでは、クリスを救うことはできない。だが、そんな程度のことで諦めたくなかったカイルは、微かな希望を胸に協力者を探した。
それから数日後。霧の街というに相応しい空模様のある日、カイルはひとりで街にある大きな図書館を訪れた。
カイルは、そこで運命的ともいえる出会いを果たすことになるのだった。
静かな図書館の中、多く並び立つ高い本棚の間にて書物を開く。今回も法に関するものを読んでいるのだが、幼児が読むには当然違和感がある。それ故か時々職員に声をかけられることがあるのだが、それが非常に煩わしい。その煩わしさを回避するために、本を借りて家で読みたいと思ったが、子供の場合は保護者同伴でないとできないそうで、仕方なく諦める。
黙々と読んでいるとまた大人に声をかけられた。職員だろうかと内心うんざりしつつ振り向いた先にいたのは、予想とは大きく外れた見知らぬ――しかしどこかで会ったような気がする――妙な人物だった。
平均的な成人男性よりもずっと高い背に、がっしりとした体つき。それに似合わぬ菫色の長い髪を、後ろでひとつに纏めていた。黒色の肌に赤と緑の異なる双眸がよく映える。灰色を基調とした詰襟を身に纏う彼は、目線を合わせるために――いや、まるで王に
何故ここに黒人が? と疑問を抱く前に跪かれ、カイルも驚きに心臓を跳ねさせる。流石に見知らぬ人物に突然跪かれ冷静で居られる精神性は持ち合わせていない。思わず硬直したカイルに反して、目の前の青年は平然と心地よいテノールを響かせる。
「お久しゅうございます」
「……っ、あ……すみません……えっと、どちら様でしょう?」
「大変失礼しました。私はレプロブス・ノクスといいます。大変お久しゅうございます。以前お会いしたことがあるのですが……」
「……レプロブス……ノクス……ですか……」
やや怖々とした態度ながらもその名を聞いて、カイルは思案する。
ノクスというその名は『夜』を意味する言葉であるが、この国で一般的に使われる言葉ではない。カイルが住むこの国は、ブリタニア連邦王国という島国で、エウロパと呼ばれる地域の北西部に位置している。この国で使われる言葉では『夜』を表す言葉は『“night"』であるし、人名としても珍しい名だ。
更にレプロブスという名は伝説的聖人に関係するものだろう。これまた珍しい名前である。おそらく本名ではないだろう。
奇妙だとは思ったが、カイルは、名前に対する違和感よりも、違う感覚を大きく抱いていた。
それは、既視感である。今、カイルはノクスと名乗った人物を初対面と判断した。少なくとも、名前は初耳である。しかし、『以前どこかであった気がする』という感覚があった。それなのに、どこで出会ったのかが、全く思い出せないのだ。
確かに随分前に彼とよく似た人物に出会った気がするが……それがどれくらい前なのかは見当もつかず、記憶を呼び起こすことができなかった。
非常に気まずい思いを抱えながら、カイルは正直に告白する。
「……申し訳ありませんノクスさん。貴方とお会いしたことがある気はするのですが、すみません、どうにも思い出せず……」
「そうでしたか。では、無理に思い出さずとも構いません。今後忘れずにいてくれたら、それで」
「……そもそも、何故、膝をついたのですか? それに貴方、僕のこと知ってるんですか? 名前とか……」
「えぇ、もちろん。貴方様の名は、クリストファー・カイル・ファーガソン様。貴方様は、私にとっては格上のお方。ならば、跪くのは当然でしょう」
「はぁ……では、あの、とりあえず……跪くじゃなくて、えっともうちょっと楽にしてもらっていただけますか?」
「わかりました」
カイルのぎこちない問いに簡潔に返答をして、ノクスはやや体勢を整える。カイルとしては、立ち上がってもらっても良かったのだが、そうなると目線が異なる為やりとりがしづらくなると考えたのだろう。
確かに彼はカイルが知るどの大人よりも体が大きく背が高いように見える。父親よりもすっとだ。だからこそ彼の目線を合わせたままという対応は間違っていないのだが、その程度で警戒心が消え失せる訳でもない。
これは体の大きさだけが問題ではない。ノクスは先ほどから怪しい言動しかしていないのだから、至極当然である。一応彼はカイルの名前はちゃんと知っているようだが、そんなものは調べたらどうにでもなることだ気を緩める理由にはならない。
そもそも、己が抱いた既視感は思い違いではないのか? カイルは懐疑心を強めながら本棚に目を向けた。
カイルの心を知ってか知らずか、ノクスはしゃがみ込んだまま本棚やカイルの手にある本を
「ファーガソン様は非常に勤勉であらせられる」
「……どうもありがとうございます。……ところで、声をかけて来ましたけど、どういったご用です?」
名字で呼ばれることはあまり慣れていない。違和感に一瞬眉根を寄せたカイルが疑問を呈すると、ノクスはにこりと目を細めて言葉を続けた。
「実は、私は貴方様にお力添えをすべく、声をかけさせていただきました」
「えっ」
予想だにしなかった言葉に、思わず瞠目し素で驚きの声を上げた。思ったより反響したその声につい口を押さえる。周囲を見回したがカイルの観測範囲に人は少なく、過剰に気にしている人もいないらしい。たまたま子供が声を上げてしまったとスルーされているのか。それならそれで良かったと、ほっと安堵の息をつく。
そして心を落ち着かせてから、改めて問いかける。
「失礼しました。……まさか、貴方は、僕のやりたいことを知っているのですか?」
小さな声で恐る恐る口にしたその問いをノクスは紳士的な面持ちで肯定する。
「はい。私はそのために、貴方の元に来ましたから」
「その、ために」
「はい。……私に、貴方様のご
ノクスの申し出にカイルは大層驚いた。何故そんな細かく知っているのかという疑問はあるが、大人の協力者としては貴重で、相応しい人物かもしれない。なんという僥倖かと心が震えさえした。
しかし、カイルはまだ目の前の青年を信用した訳では無いのだ。『どこかで会ったような気がする』と言うだけで素性もさえ知らない相手の手を取るのは危険すぎる。もしかしたらその言葉でカイルを誘い、危害を加える可能性も当然ある。そう簡単に殺される気はさらさらないが、この体格差年齢差だ。万が一ということも充分にある。
――警戒を解くな。これは罠だ。
カイルは自らに言い聞かせる。そして、頷こうとした気持ちを抑えて冷静に言葉を続けた。
「それの返事をする前に、少し貴方と話がしたい。貴方は僕を知っていても、僕は貴方を覚えていませんでしたから」
「それもそうですね。……では、私の家にて話しませんか? 移動しようにも、町中には私には利用できない店も多いので。……当然、貴方様に危害を加えるつもりはありませんから、安心していただければ」
「お断りいたします。……貴方の家なんて、信用できません。もっと他の場所にしてください。それに、ここに入ってきているんですから何とでもなるのではありませんか?」
当然の答えにノクスは納得した様子ではあるが、少々焦った様子を見せながらもそれでも食い下がる。
「貴方様が警戒なさるのも分かります。でも、来ていただければ、全てがお分かりになられるかと。それに、私がここにいるのも、一時的に見逃してもらっているだけでして……」
「……ハァ、そんな馬鹿な」
「そう思われるのは自然なことですが、私は嘘は言っておりません。……それに、何故ここに、というのはおいておくとしても……そもそも、私はファーガソン様に危害を加えることができません。そうなっていますから」
――そう、なっている?
ノクスの言葉に引っ掛かりを覚える。しかし結局は戯言に決まっている。やけにこちらの事情に詳しいのも、きっと何かしらの方法で調べたに過ぎない。ならば不審者であることは確定したようなもの。早くここから去るべきだ。
そう思ったのに、本心とは裏腹にカイルは何かの後押しを受けたかのように頷いてしまった。
「……そうですね、わかりました。そうしましょう。……貴方を、信じます」
自分で口にしておきながら、何故そんなことを言ったのかと自分でも驚いた。
知り合って間もない者の家にひとりで行くなんて、危険すぎる。だから警戒を怠らないようにしていたのに、何に押されたのか。
その正体もなにもまるで分からないが、行くと言ってしまった以上『やっぱりナシで』と言うのも嫌で、ついて行くことにする。
カイルは上着の内側にある異物を今一度確かめた。
司書等に特に引き留められることもないまま図書館を出て、灰色の空の下を歩くこと十数分。二人は、ノクスの家だという赤煉瓦を用いた平屋の一軒家に辿り着いた。
てっきり小規模クラスの
「……意外、ですね」
「よく言われます。この家は、知り合いから借りているものなんですよ」
「……周囲の邸宅に比べ、随分立派ですね」
「……ありがとうございます」
ノクスは、カイルの言葉にニコリと目を細めて家の中へと案内した。其れに従い、恐る恐る足を踏み入れる。
室内は広すぎず狭すぎずといった具合で、書き物用の机と、沢山の本が収められた本棚、食事をするための場といったもので埋められていた。机の上には、エウロパの南東端に位置するエラスという国で開催された、大規模なスポーツの祭典を報せる記事が一面にある。
ふと目を向けると、玄関とは別の扉がある。その扉の向こうが、炊事洗濯のための場所に繋がるのだろう。
「狭くてすみません。なにぶん、独り身なもので。仕事が出来ればいいかという感じで……」
「……お仕事は、なにをなさっておいでで?」
「教育関係……と、いった感じですね」
「黒人の子供が通う学校の教師……とかでしょうか」
「そんな感じですね」
どこかハッキリしない物言いに違和感を覚えるが、ひとまず指示された席に着く。現状、身の危険に差し迫ることはないものの、心は落ち着かない。
茶の用意のためにノクスが席を外した。その隙に逃げ出してしまおうかと席を立つが、多くの本が揃えられた棚に興味が向く。目の前の本棚にはカイル好みの本も多そうだ。
上背のあるノクスが使用する本棚なだけあって、高さはある。その中に入れられているのは、確かに教育に関する本が多かった。
子供への接し方に始まり、わかりやすく教えるためのハウトゥー本、子供の問題行動についてなど。
他にも医学本、歴史書、法についての本とジャンルは様々で、どうあれ勉強熱心なことが伺い知れる。
――もしかして、警戒しすぎなだけで、本当に頼れる人なのかもしれない……。いや、でも、やっぱり、既視感はあると言えども、怪しいんだよな。職業もちゃんと言わないし。
ぼんやりと思いながら眺めていると、ふと奇妙な本が目に止まった。
棚の端に鎮座する厚い本。それは背表紙になにも刻まれていない真っ白な本だった。
中にはそんな本もあるだろうと片付ければよかったが、不思議な力が働いたかのようにやけに惹き付けられる。考える間もなく、カイルは自然と手を伸ばしていた。まるで、ノクスの提案を受け入れた時のように。
小さな手で本を掴み引っ張り出したそれは、ずっしりとした重みがあり、外観の全てが真っ白だった。タイトルも作者名もなく、なんの本だかさっぱり分からないという不気味な本だが、やはり引き寄せられる何かを感じ中を検めることにした。
中を目にし、書かれていた奇妙な文字を読み込んだ直後、カイルはまるで殴られたような衝撃に頭が揺れた。同時に脳裏に浮かんだのは、クリスによく似た顔つきの子供と、東洋風の龍。そして、ノクスによく似た男が弓を携えている光景と、カイルによく似た神秘的な雰囲気の子供の姿だった。
カイルをひとりにしてから十数分が経過した頃。台所にいたノクスは、漸く完成した紅茶の色合いを確かめる。美しい色合いと豊かな香りに、これならばカイルも満足してくれるだろうと頷いた。
簡素な炊事場の片隅で、ノクスはプレートに二人分の茶と菓子、そしてミルクポットを用意し、それを手に部屋へ戻る。
器用に片手でプレートを支えながら扉を開けた先に目を向けると、食事用のテーブルにカイルの姿はなかった。だが慌てることはない。それはノクスの予想通りだったからだ。
出会いを忘れられていることも、警戒されることも、ここまで、ほぼ全てノクスの予想通りだった。何故なら、自分が奇妙なことを言っているのは自覚していたからである。
ノクスには、自分のものであって自分のものでないような、妙な記憶がある。それはまるで前世の記憶のようなもので、それを基準にしてカイルに話しかけた。そんなだから警戒されたのは何もおかしなものではない。寧ろ、警察を呼ばれずになんとかここに連れてこられて良かったと安堵した。
あとはもう特に心配していなかった。カイルはきっと部屋を探索するだろうし、その中で本を読んでいるはずである。それできっと、ノクスのことも思い出してくれるはずだ。読んでいなければ、促せばいいだけのこと。
ノクスは、テーブルにプレートを置き、本棚に目を向ける。そこには、やはり白い本を手にしたカイルが呆然と座り込んでいた。
静かに近づいたノクスは、敬意を込めて声をかける。
「……カイル様、ご無事ですか」
「…………思い出した」
「何を、思い出されましたか?」
「君と、いつ、どこで出会ったのか、だよ。……こんなの、そりゃ覚えてないわけだよ。君と出会ったのって、なんていうか、その、僕であって僕じゃないじゃん。なにこれ、こんな、芝居か物語みたいなことあるの?」
「それが、有り得るのです、カイル様」
カイルが呆れたように緩く首を振ったその様に、ノクスは緩く口角を上げ、傍に跪く。カイルももう驚くことはない。
カイルは、ずっと昔にノクスに会っていた。それはここ数年の話ではなく、何百年も前であり、まるで前世に出会ったというのが近いような、摩訶不思議なものではあるが。
同時にカイルは、ノクスが同じ主に仕える者だったのだと理解した。
「では、私のことも、信用していただけますか?」
「勿論だよ。君が味方になってくれるなんて最高だ。百人力って言ってもいいかもしれない。寧ろ、あんなに警戒してごめんね」
「いえ、貴方は私のことは忘れてしまっていたのだから、致し方ありませんよ」
「ありがとう、君なら、そう言ってくれると思ったよ」
高揚した声を上げて立ち上がり振り向いたカイルの瞳は、宝石のように煌めく。その輝きを目にして、ノクスは、心の底から安堵した。『この御方が彼と共にいるならば、安心だ』と。
胸を撫で下ろしたノクスの前に、白い手が差し出される。不思議に思い顔を上げたノクスに、カイルは口を開いた。
「嘗ての仲間として、同じ主様に仕えるものとして、力を合わせよう。……改めて、これから宜しくね、ノクス」
「――はい。こちらこそ、宜しくお願い致します。カイル様」
ノクスは清々しい気持ちでその手をとり、固い握手を交わした。
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