1章

第1話 計画

 名無しの子供であった彼に名が与えられたその日は、クリスにとっては衝撃的なことが連続した。

 今までまともな生活を送れずまともに食事もとれていなかった彼に、カイルは少量ずつ食事を与え、更には身を清め衣服や毛布まで用意してくれたのである。


「一気にたくさん食べて体壊しちゃうといけないから、少しずつね」


 そんなことを口にしながら程よい温かさのスープをクリスの口に運び、その後は固く絞った布で汚れた体を拭き、ぶかぶかの衣服を羽織らせる。


「今度、ちゃんとサイズが合うもの作ってあげるからね」


 任せてと言う彼に礼を述べれば、彼は嬉しそうに微笑む。それがクリスにとっても嬉しかった。

 ひょっとして、もう自分は痛みや恐怖に怯えることもないのかもしれない。烏滸がましくも淡い期待をしたが、やはりそう簡単にはいかなかった。


 カイルと出会ってから数日が経過したある日のこと、激しい音と共に部屋の扉が勢いよく開く。思わず目を向けた先では、ロングスカート姿の一人の女性が信じられない物を目にしたように、呆然と立ち尽くしていた。


「……カイル、あなた、なにをやってるの」

「あ、これは……」

 

 カイルが弁明しようとしたその直後、一気に顔色を変えた女性は躊躇い無く部屋に踏み込み、黒い髪を振り乱してカイルの頭を強く殴りつけたかと思うと、荒々しい声で責め立てる。


「服が足りないと思ってたら、あなたのせい!? しかもこんなことに使って……! こんなやつ放っておけばいいの!」

「嫌です。彼だって大事な僕の家族です。貴方も、この子を殺さずに生かしているというならもっと大事にすべきなんです」

「好き勝手いわない!」


 激しい怒りを若葉色の目に宿して強く言い返した女性は再びカイルをに手を上げる。その手がカイルの頬や頭に当たり痣になる度にカイルは呻き声を上げるが女性が落ち着くことはない。カイルも意見を変えることは無く、殴られても抵抗と反論を続ける。

 一方で、そんな様子を傍で目撃するクリスは、逃げ出すことも止めることも出来ず、呆然と座り込んで2人の姿を見つめていた。何もしようとしなかった訳ではない、できなかったのだ。

 寒くもないのにガタガタと体が震え、奥歯がカチカチと鳴る。殴られた時の痛みや恐怖を思い出し、ただ怯えるしかなかった。

 クリスの感情は混ざり合っていた。自分に暴力が向かないことを安堵する気持ちと、カイルではなく自分を罰してほしい気持ちとが相反する。だけどその気持ちのどちらも口にできぬまま静かに涙を零す。

 その時、女性の冷たい目がぎょろりとクリスの方を向いた。それは標的をクリスへと変えた証。


「あんたのせいよ」


 女性は低い声で確かにそう言い、空色の髪を手離す。


「あんたのせいで私の人生めちゃくちゃになったのよ。それなのに、こんな、カイルに、なにをさせて――」


 血走った目でそんなことを呟きながら、女性は乱暴にクリスへと手を伸ばす。今度こそ殴られてしまう。そう身構えて思わず目をぎゅっと瞑ったが、いつまで経っても訪れる筈の痛みはやって来ない。

 まさか――嫌な予感と共に恐る恐る目を開ければ、痣だらけのカイルが自らの小さな体を呈してクリスの前に立ちはだかっていた。


「この子を殴るのは、絶対に駄目」


 幼児とは思えぬ真剣味溢れる目付きと声色でカイルは言い放つ。女性はその言葉に更に怒りを顕にしていたが、何度かの問答の後やけくそのようにカイルを殴り部屋を後にした。

 激しい音を立てて扉が閉まり、静寂が訪れる。

 バクバクと跳ねる心臓を落ち着かせるように胸に手を当てて、クリスはなんとか乱れた呼吸を落ち着かせようとする。

 まだクリスは恐怖から逃れられていない。だからあの女性が姿を消し静けさがやって来ても、指一本すらまともに動かすこともできずにいた。

 そんなクリスに、カイルは腫れた頬なんて一切気にする素振りを見せず慌てて駆け寄った。


「クリス、大丈夫? 怖かったよね、ごめんね、怖い思いさせて」

「……あ、っ……」

「もう大丈夫だよ、あの人はもういないから」


 優しく諭すような声がクリスの耳に届く。カイルが細い体を抱擁し、荒い呼吸を落ち着かせるようと導くように吸って吐いてを繰り返す。

 それに倣ってクリスも呼吸を繰り返せば、やがて冷静さを取り戻し、漸く緊張の糸が切れたのか脱力していく。


「本当に、ごめんねクリス。もっと僕が気をつけていれば……」

「……あ……」

「ん? なに?」


 何かを言いたげなクリスの意に気づいたカイルが、抱擁を解いて目を合わす。

 じっとこちらを向く美しい瞳に思わず見蕩れそうになったが、慌てて目を逸らし何とか言葉を紡ごうと口を動かす。

 クリスはカイルを安心させる言葉も気にかける言葉も何も知らず、カイルの真似をするとしてもうまく舌が回らない。そもそも彼は、お互いの名前すらまともに言えなかった。

 それでもクリスは必死に口にする。拙くまともな発音もできないが、なんとか伝えようと声を出す。


「……い」

「うん」

「……い……る」

「うん」

「……い、ょ……ぶ」

「うん。僕は平気だよ。大丈夫。頑張って言ってくれてありがとう」


 嬉しそうにカイルは顔を綻ばせ、何度目か分からないハグをする。どうやら伝わったらしい。その事実にクリスは安堵の息を吐いた。


「嬉しいなあ、クリスが僕の名前を呼んでくれるなんて」


 心底嬉しそうに笑うカイルの姿を見て、クリスも自然と暖かな気持ちになる。先程の恐怖なんて何処へやら。クリスは、カイルと居られることがとてもとても幸せだと確かに実感していた。



 あの日、カイルは身を呈してクリスを庇ったが、それだけで暴力が収束するかというと、決してそう易々とはいかなかった。

 あの時女性が身を引いたのは本当に偶然の事だったのだろう。そう思えるほどに大人達からの暴力は続いた。それを目にする度にカイルは盾となりクリスを庇う。自分の怪我などどうでもいい。クリスが傷つかない方が大事だと言わんばかりに大人達へ言い返し、時に反撃した。

 一時の気の迷いだと思っていたカイルの行為に、大人達は動揺した。


「どうしてそんなものを庇うの」

「僕はこの子が好きだからだよ。大事にしたいから庇うんだ」

「そんな肌や髪をしてる奴を庇う必要はないんだぞ。そんなやつは放っておいて、他の子と仲良くしなさい」

「肌や髪の色だけで人を虐めるようなこと、僕はしたくないんだ」


 幾ら大人達が諭そうともカイルは決して意見を曲げなかった。

 幼いながらも、カイルは世間に蔓延る差別がどのようなものか、理解していた。人種、性別、出身――様々な理由で差別される人達がいることを知っていた。そして、世の中ではカイルのような行動こそ奇妙なのだとも自覚していた。

 大人達からすれば、カイルが必死になって守るものは、庇うに値しない無価値で汚らしいもの。閉じ込めておいたってさほど問題にはならないだろう。

 それでもカイルは、せめて大切な家族であると考えるクリスのことだけは、守り通したかった。

 その為にはクリスのいるこの部屋を安全圏にしなくてはいけないと思い、カイルは鍵を用意するという考えに思い至る。

 そうは言えども、所詮ただの幼児であるカイルが簡単に用意できる代物でないことは明白だった。購入するにしろ製作を依頼するにしても、結局は親を通さねばならぬことも厄介であった。

 そこでカイルは丈夫な紐をドアノブや近くの取手に引っ掛け張り巡らせるなどして、ドアが開かないようにした。また、重石などを内側に置くことも考えたが、未だ健康体とは程遠いクリスに退けてもらう苦労を強いることは如何なものかと憂慮して、結局取りやめた。その代わり、クリスにも取り外しができる程度に内側に紐を掛け、簡易的な鍵としたのだ。 



 コンコン、と戸を叩く音が聞こえて、毛布に包まっていたクリスは徐に体を起こす。紐をはらはらと解き扉を開けると、そこには相変わらずマフラーを首に巻いたカイルがプレートを手に立っていた。


「ちゃんと外せて偉いね。お待たせクリス、ご飯の時間だよ」


 部屋の中に入ったカイルがにこりと微笑む。それにクリスも嬉しくなって思わず顔を伏せた。

 その様子にクスクスと笑いながら、カイルは地べたにプレートを置き、扉に紐を掛け直した。


「今日は豆のスープとロールパンだよ」

「……ん」

「あとごめんね、いつも地べたで。なんとかプレートを置く台を見つけたいんだけどね」

「だい、じょ……」

「ありがとう。クリスは優しいね。さ、手を拭いて」


 カイルの言葉に頷いて、差し出された濡れタオルで手を拭き、木製のスプーンを手に取った。

 慣れない手つきで器の中の豆を掬い、温かなスープを口に運ぶが、思ったより熱かったそれについつい咳き込んでしまった。


「こらこら、ちゃんと冷ましてから食べないと! 火傷しちゃうかもしれないんだから」


 心配そうに眉を下げるカイルの言葉に、こくこくと首を振り、豆をもう一度掬い直した。

 今度はふうふうと息を吹きかけ冷まし、口に含んだ。ほんのり温かい豆を咀嚼して飲み下せば、優しい熟成された味わいが口に広がった。元々空腹だったのも関係しているだろう、更に美味しく感じ、ふわりと表情が綻ぶ。


「美味しかったんだね。よかった」


 柔らかく目元を緩ませたカイルは、心底嬉しそうに、愛おしそうに微笑む

 自分が食事をしている所など見て何が楽しいのだろう。そう思うが、なんであれカイルが楽しそうにしているところを見るのは、クリスも幸せであった。

 ただの食事も練習が必要なほどに拙くもたついているが、カイルは決して怒ることなく終始微笑ましげに見つめ、時折支え、食べ終わった彼の口元や手を拭き、そこからは訓練の時間になるのが常だった。

 クリスはまだまともに話すことすらできない。その為発声練習に ABC から始まる発音練習に、とやることは多くあった。

 見様見真似でカイルに続いて声を出して、カイルの発音に近くなるように練習した。

 幼児である彼の発音を真似したところで拙い言い方にしかならぬのではないか――大人であればそんな発想もあったかもしれない。しかし、なにも分からぬクリスにとっては教えて貰えると言うだけで幸運であったし、そもそも、そんなことを気にするまでもなく、彼の発音はやけに流暢であった。

 それも含めて普通ならば違和感を持つのだろう。しかし、やはりクリスにはそれを異常と思う思考すら持ち合わせていなかったのだ。

 だからクリスは、カイルから与えられるものをあるがままに受け入れていた。大人からの暴力に怯えることは多々あれど、それでも彼とこうして食事をして、訓練をして、用意された毛布に包まり眠りに落ちる。少し前なら考えられなかった幸福が自身の手にある。それがとても幸せであり、同時に、恐ろしくもあった。

 その理由を説明できるかと問われたら、クリスは否定する。暴力に対する恐怖はあるが、それだけではないということだけは断定できた。とにかく、正体不明かつ妙に薄ら寒い怖さが胸の内にあったのだ。

 カイルに伝えてみることを考えたが、原因の分からないものをうまく伝えられるわけもない。こんなことを言われても困るだろうと大人しく口を噤んだ。

 もう少し成長して、理解できるようになったら、その時にまた考えよう。そのように結論を出した。



 その一方で、カイルはクリスが何かしらの恐怖を抱いていることも、それをうまく伝えられず困惑していることも気づいていた。

――あの子の恐怖はきっと、大人達に暴行されるということだけでなく、今まで酷い扱いだったからこその恐怖があるんだろうな。


 整理整頓が行き届いた広い書斎。彼から見れば父親である男性がよく利用するその部屋。その片隅にてカイルは厚い本を広げながらそんなことを思う。

 クリスは今まで愛を与えられることなく、あの部屋に閉じ込められていた。それが当たり前であったからこそ、突然与えられた愛をすんなり受け取っていいのか悩み、恐怖になった可能性もある。もしくは――こんなに幸せな思いをしていれば、天罰が下るのではないか、というような恐怖か。

 分かっている情報から推測を立て、更に思考する。そのどちらであっても、カイルは対応できるつもりでいた。例えどれだけ困難な道のりであっても、時間をかけて心を解していく心構えであった。

――クリスは僕の大切な家族なんだから。


 そう思う傍らで、カイルは全く異なることを考え、計画していた。それは、長年クリスを虐げていた大人、もとい、自らの両親に対しての報復であった。

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