第2話 計画

 名無しの子供であった彼に名が与えられ『クリス』となったその日は、彼にとっては衝撃的なことが連続した。

 今まで健全な生活を送れずまともに食事もとれていなかった彼に、カイルは少しずつ水や食べ物を与えた。更には体を清め、衣服や毛布まで用意してくれたのである。


「一気にたくさん食べて体壊しちゃうといけないから、ほんの少しずつね」


 にこやかにそう口にしながら、カイルは飲み水や程よい温かさのスープをクリスの口に運ぶ。そしてその後は固く絞った布で汚れた体を拭き、ぶかぶかではあるが衣服を羽織らせた。


「今度、ちゃんとサイズが合うもの作ってあげるからね」


 それまでボロボロの薄い布を身につけ、毛布を羽織っていただけの彼からすれば、サイズが合わずとも清潔な衣服を身につけられるというのはありがたかった。ただ、どこから用意しているのかという疑問はあったが、それでも喜ばしい気持ちがあることに変わりはない。カイルに礼を言うように口を動かせば、彼は嬉しそうに微笑む。それがクリスにとっても嬉しかった。

 ひょっとして、もう自分は痛みや恐怖に怯えることもないのかもしれない……なんて淡い期待をしたが、やはりそう簡単にはいかなかった。


 カイルと出会ってから数日が経過したある日のこと、激しい音と共に部屋の扉が勢いよく開く。クリスとカイルが思わず目を向けた先では、黒い髪の女性が信じられない物を目にしたように、呆然と立ち尽くしていた。


「……カイル、あなた、なにをやってるの」

「あ、これは……」

 

 カイルが弁明しようとしたその直後、一気に顔色を変えた女性は躊躇い無く部屋に踏み込み、長い髪を振り乱してカイルの頭を強く殴りつけたかと思うと、荒々しい声で責め立てる。


「服が足りないと思ってたら、あなたのせい!? しかもこんなことに使って……! なんてことをしてくれたの! こんなやつ、放っておけばいいのよ!」

「何をいうの! この子は、ぼくのだいじなかぞくだよ。お母さんも、この子をだいじにしてよ!」

「おかしなこと言わないで!」


 激しい怒りを若葉色の目に宿し強く言い返した女性は、どうやらカイルの母親らしい。彼女は再びカイルに手を上げる。その手がカイルの頬や頭に当たり呻き声が上がるが、彼女が落ち着くことはない。もちろんカイルも意見を変えることは無く、殴られても抵抗と反論を続ける。

 一方で、そんな様子を傍で目撃するクリスは、逃げ出すことも彼らを止めることも出来ず、呆然と座り込んで二人の姿を見つめていた。何もしようとしなかった訳ではない、できなかったのだ。

 寒くもないのにガタガタと体が震え、奥歯がカチカチと鳴る。殴られた時の痛みや恐怖を思い出し、ただ怯えるしかなかった。

 クリスの感情は混ざり合っていた。自分に暴力が向かないことを安堵する気持ちと、カイルではなく自分を罰してほしい気持ちと、目の前で繰り広げられる様相に恐怖する気持ちもあった。だけどもそれらに関する感情を何も口にできぬままだった。

 その時、女性の冷たい目がぎょろりとクリスの方を向いた。それは標的をクリスへと変えた証ともいえよう。


「あんたのせいよ」


 女性は低い声で確かにそう言い、掴んでいたカイルの空色の髪を離す。


「あんたのせいで私の人生めちゃくちゃになったのよ! それなのに、こんな、カイルに、なにをさせて――」


 血走った目でそんなことを呟きながら、女性は乱暴にクリスへと手を伸ばす。今度こそ殴られてしまう。そう身構えて思わず目をぎゅっと瞑ったが、いつまで経っても訪れる筈の痛みはやって来ない。

 まさか――嫌な予感と共に恐る恐る目を開けると、痣だらけのカイルが自らの小さな体を呈してクリスの前に立ちはだかっていた。


「この子をなぐるのは、ぜったいに、だめ」


 幼児とは思えぬ真剣味溢れる目付きと声色で、カイルは言い放つ。女性はその言葉に更に怒りを顕にしていたが、何度かの問答の後やけくそのようにカイルを殴り部屋を後にした。

 激しい音を立てて扉が閉まり、静寂が訪れる。

 バクバクと跳ねる心臓を落ち着かせるように胸に手を当てて、クリスはなんとか乱れた呼吸を整えようとする。

 クリスは未だ暴力や痛みの恐怖から逃れられていない。だからあの女性が姿を消し静けさがやって来ても、安心することもできないし、指一本まともに動かすこともできなかった。

 そんなクリスに、カイルは腫れた頬なんて一切気にする素振りを見せず慌てて駆け寄った。


「クリス、大丈夫? 怖かったよね、ごめんね、怖い思いさせて」

「……あ、っ……」

「もう大丈夫だよ、あの人はもういないから。ほら、ゆっくり息吸って吐いてして」


 優しく諭すような声がクリスの耳に届く。カイルが細い体を抱擁し、荒い呼吸を落ち着かせようと吸って吐いてを繰り返す。

 それに倣ってクリスもカイルを抱きしめて呼吸を繰り返せば、やがて冷静さを取り戻し、漸く緊張の糸が切れたのか全身から脱力していく。


「本当に、ごめんねクリス。もっと僕が気をつけていれば……」

「……あ……」

「ん? なに?」


 何かを言いたげなクリスの意に気づいたカイルが、抱擁を解いて目を合わす。

 クリスは、じっとこちらを見つめるカイルの美しい瞳に思わず見蕩れそうになったが、慌てて目を逸らし何とか言葉を紡ごうと口を動かす。

 クリスは、カイルを安心させる言葉も気にかける言葉も何も知らない。カイルの真似をするとしてもうまく舌が回らない。そもそもクリスは、自分の名前すらまともに言えなかった。

 それでもクリスは必死に口を開き声を発する。拙くまともな発音もできないが、なんとか伝えようと音を絞り出した。


「……い」

「うん」

「……い……る」

「うん」

「……い、ょ……ぶ……?」

「うん。僕は平気だよ。大丈夫。頑張って言ってくれてありがとう」


 嬉しそうにカイルは顔を綻ばせ、何度目か分からないハグをする。どうやら自分が言いたかった『カイル、だいじょうぶ?』の一言は伝わったらしく、クリスは安堵の息を吐いた。


「ふふ、嬉しいなあ、クリスが僕の名前を呼んでくれるなんて」


 心底嬉しそうに笑うカイルの姿を見て、クリスも自然と暖かな気持ちになる。先程の恐怖なんて何処へやら。クリスは、カイルと居られることがとても素敵で幸せなことだと確かに実感していた。



 さて、ここでカイルが何故クリスを庇うのかについて少し説明しておこう。

 元々カイルは、家の中に両親と自分以外の誰かがいることを認識していた。そして、同じ家にいるのに自分と大きく異なる境遇のその者の力になり、彼の現状を少しでも変えたいと考えていた。

 だからこそカイルはクリスに愛情を向け、優しく接し、暴力から身を挺して守ろうとするのである。

 そして、カイルはクリスの現状を変えることが非常に難しいということも理解していた。


 女性がクリスを殴ろうとしたあの日、カイルはクリスを庇ったが、それだけで暴力が収束するほど簡単ではない。実際、あの時女性が身を引いたのは本当に偶然の事だったのだろう。そう思えるほどに、その後も大人達からの暴力は続いた。それを目にする度にカイルは盾となりクリスを庇い、怪我を負った。殴られたら当然痛かったがそんなことカイルにとってはどうでもいい、クリスが傷つかない方が大事だと言わんばかりに大人達へ言い返し、時に反撃した。

 クリスを庇う行為をなにかの気の迷いだと思っていた大人達は、カイルの行動に動揺した。


「どうしてそんなものを庇うの」

「ぼくはこの子がすきだからだよ。だいじにしたいんだ」

「そんな肌や髪の色をしてる奴を庇う必要はないんだぞ。そんなやつは放っておいて、他の子と仲良くしなさい」

「ほうっておくなんてやだよ」


 幾ら大人達が諭そうともカイルは決して意見を曲げなかった。大人達の言い分をきちんと理解した上で、それでも、カイルは反抗したのである。

 カイルは、4歳という幼さでありながら、クリスが何故嫌われて嫌悪され『放っておけ』などと言われているか理解していた。世間には人種、性別、出身、職業……そういったものに纏わるマイナスイメージを元に不当に扱うという行為が往々にして存在する。それらは一筋縄ではいかない問題であり、その扱い方を『悪いこと』と考えていない人物も多くいる。そのコミュニティ内で『当然』『常識』とされていることが『不当に扱う』ということなら、少なくとも『悪いこと』ではなくなるだろう。

 クリスも黒い肌や、黒人にもかかわらず青い髪であるというような外見のせいで、冷遇され嫌悪される側の人種であった。しかしカイルは外見などどうでも良く、クリスを家族として愛し、守りたいと思っていた。

 しかし、大人達からすればカイルのその行動は異様で常識外れだ。

 そもそも、白人家庭における彼らは、奴隷や召使いであり、所有者が支配し、労働を強制させるものである。家族でも友人でもない。だからこそ、周囲の大人からすれば、カイルが必死になって守るものは、庇うに値しないもの。罰として閉じ込めておいたって、上手く隠蔽すればさほど問題にはならないだろう。仮に露呈しても召使いに罰を与えていたと言えば許容されるかもしれないが。


 こういった事情は知っているが、それでもカイルは、大切な家族であると考えるクリスのことだけは、なんとしても守り通したかった。

 その為の手段として、カイルはクリスがいるこの小屋をある程度安全な場所にしなくてはいけないと考え、鍵を用意することにした。

 元々、この小屋の戸には鍵穴がある。本来ならばそれで鍵をかければ良いだけの話なのだが、何故か鍵そのものが見つからなかったのだ。不思議に思ったが見つからないなら仕方ない。

 そこでカイルは丈夫な紐をドアノブや近くの取手に引っ掛け張り巡らせるなどして、ドアが開かないようにした。ちなみに、重石などを内側に置くことも考えたが、健康体とは程遠いクリスに苦労を強いることは如何なものかと憂慮して、結局取りやめた。その代わり、クリスにも取り外しができる程度に内側に紐を掛け、簡易的な鍵としたのだ。大人には破られてしまうかもしれないが、ないよりはマシだろうと考えた。 

 そんなわけで、クリスは安全な空間を手にしたのだった。



 最初の出会いからおよそ一月が経過したある日の昼頃のこと。コンコン、と戸を叩く音が聞こえて、毛布に包まっていたクリスは徐に体を起こす。教えてもらったように紐をはらはらと解き扉を開けると、そこにはマフラーを首に巻いたカイルが食事が乗せられたプレートを手にして立っていた。


「ちゃんと鍵外せて偉いね。お待たせクリス、ご飯の時間だよ」


 部屋の中に入ったカイルがにこりと微笑む。それにクリスも嬉しくなって同じようにぎこちなく微笑んだ。その様子を微笑ましく思うように目を細めながら、カイルは地べたにプレートを置き、扉に紐を掛け直した。


「今日は豆のスープとロールパンだよ」

「……ん」

「あとごめんね、いつも地べたで。なんとかプレートを置く台を見つけたいんだけどね」

「だい、じょ……」

「ありがとう。クリスは優しいね。さ、手を拭いて」


 カイルの言葉に頷いて、差し出された濡れタオルで手を拭き、木製のスプーンを手に取った。

 慣れない手つきで器の中の豆を掬い、温かなスープを口に運ぶが、思ったより熱かったそれについつい咳き込んでしまった。


「こらこら、ちゃんと冷ましてから食べないといけないよ。火傷しちゃうかもしれないんだから」


 心配そうに眉を下げるカイルの言葉に、こくこくと首を振り、豆をもう一度掬い直す。今度はふうふうと息を吹きかけ冷まし、口に含んだ。ほんのり温かい豆を咀嚼して飲み下せば、優しい味わいが口に広がった。元々空腹だったのも関係しているだろう、更に美味しく感じ、ふわりと表情が綻ぶ。


「美味しかったんだね。よかった」


 柔らかく目元を緩ませたカイルは、心底嬉しそうに、愛おしそうに微笑む。

 クリスは『自分が食事をしている所を見て何が楽しいのだろう』ということ考えたが、どのような理由でもカイルが楽しそうにしているところを見るのは幸せであった。

 彼にとっては、ただの食事も練習が必要なほどに拙くもたついているが、カイルは決して怒ることなく終始微笑ましげに見つめ、時折支え、食べ終わった彼の口元や手を拭いた。そして食事を終えて片付けたあとは、訓練の時間になるのが常だった。

 クリスはまだまともに話すことすらできない。その為の純粋な発声練習に加え、 ABC から始まる発音練習……やることは多くあった。

 カイルが手取り足取り懇切丁寧に教えてくれるものだから、クリスは見様見真似で声を出して、相手の発音に近くなるように練習した。

 幼児である彼の発音を真似したところで拙い言い方にしかならぬのではないか――大人であればそんな発想もあったかもしれない。しかし、なにも分からぬクリスにとっては教えて貰えると言うだけで幸運であったし、そもそも、カイルの発音は不相応に流暢であった。普通ならばそこに違和感を持つのだろうが、やはりクリスにはそれを異常と考える思考すら持ち合わせていなかった。

 だからクリスは、カイルから与えられるものをあるがままに受け入れていた。大人からの暴力に怯えることは多々あれど、それでも彼とこうして食事をして、話す訓練をして、用意された毛布に包まり眠りに落ちる。少し前なら考えられなかった暖かな幸福が自身の手にある。それがとても幸せであり、同時に、恐ろしくもあった。

 その理由を説明できるかと問われたら、クリスは当然否定するが、とにかく、正体不明かつ妙に薄ら寒い怖さが胸の内にあったのだ。

 カイルに伝えてみることを考えたが、原因の分からないものをうまく伝えられるわけもないし、具体的な何かを伝えられるほどの言葉をまだ持ち合わせていなかった。それに、もし伝わったとしても困るだろうと大人しく口を噤んだ。

 もう少し経って、この感覚が理解できるようになったら、その時にまた考えよう。そのように結論を出した。



 その一方で、カイルはクリスが何かしらの恐怖を抱いていることも、それをうまく伝えられず困惑していることにも気づいていた。

――あの子が抱いてる恐怖は、暴力だけでなく、今まで酷い扱いを受けていたからこそだろうな。


 整理整頓が行き届いた広い書斎。父親がよく利用するその部屋の片隅にて、カイルは厚い本を広げながらそんなことを思う。

 クリスは今まで愛を与えられることなく、あの部屋に閉じ込められていた。それが当たり前であったからこそ、突然与えられた愛をすんなり受け取っていいのか悩み、恐怖になった可能性もある。もしくは――こんなに幸せな思いをしていれば、天罰が下るのではないか、というような恐怖か。

 分かっている情報から推測を立て、更に思考する。そのどちらであっても、カイルは対応できるつもりでいた。例えどれだけ困難な道のりであっても、時間をかけて心をほぐし彼を育てていく心構えであった。

――クリスは僕の大切な家族なんだから。


 そう思う傍らで、カイルは全く異なることを計画していた。それは、長年クリスを虐げていた大人――もとい、自らの両親に対しての復讐計画であった。

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