Fergus

不知火白夜

1章

第1話 光

  寒くて、痛くて、とてもとてもお腹が空いていた。今いる場所も、時間も、何もわからないけれど、その感覚だけは確かに彼に存在していた。

 何故自分はこんなところにいるのかは、一切なにも理解していなかったのだけれど。


 黒い肌の子供は、生まれた時から壁に囲まれた狭い場所にいた。冷たくてとても静かで、汚くて、何も無い場所だったが、物心ついた頃からそこにいるため、彼はおかしいと言うことに気づかなかった。

 子供が目にしていたものの多くは自らを囲う土色の壁や床。そして時々やってくる何者か。自分よりもずっと体が大きくて、いつもつり上がった目で子供を睨む。とても恐ろしい顔をしていて、憂さ晴らしをするように殴る蹴るといった暴力を奮うのだ。

 痛い、痛い、苦しい。怖い、苦しい、怖い、痛い。

 そんな気持ちが働くままに声を吐き出せば、黙らせるかのように痛さがやってくる。そんな日々が数え切れないほどに続いていた。

 子供には日付の感覚もなにもない。正に永遠とも思える日々で、何故自分が生きのびているのか、ここはなんなのか、その全てが分からない中――ある日突然現れた幼い子供をひとつの特異点として、その子供の日常が大きく変わる。


 キィ、と部屋に小さな音が響いたのを、床に力なく横たわる子供は耳にした。また痛い思いをしなくてはいけないのかとぼんやりと考えながら、光のない翡翠の目を動かした。

 しかし子供が捉えた影は、予想とは大きく異なっており、驚きをもって無意識に目を見開く。

 その影はとても小さかった。いつもやってくる恐ろしい大人よりも、ずっとずっと小さくて細くて、優しげだった。

 ライトグリーンの丸い双眸そうぼうが、横たわる子供の細い体をじっと見つめる。その瞳の主は、愛らしく丸い翠の瞳に空色のふわふわとした柔らかそうな髪を持ち、髪よりは濃い色合いの青いマフラーを巻いた幼い子供だった。

 男児か女児か、一見するとそれすらも分からない中性的な風貌だったが、一般的な大人がその者を見たら、半ズボンを穿いていることから男児と判断するだろう。

 何をしにここに来たのだろう。床に横たわる子供がそんなことを考えていると、彼はぱあっと花が咲いたように綻んで、可愛らしい声を響かせる。


「初めまして。僕はクリストファー・カイル・ファーガソン。カイルって呼んで。僕は多分、君の弟なんだけど……ねぇ、君の名前は? 君、なんて名前なの?」


 暗く重い世界に凛とした声が満ちた。

 子供は、虚ろな瞳を動かして自らを弟のカイルだと名乗った男児の姿をとらえる。いきなり『弟』と言われても意味が分からないが、いつもの怖い顔の大人たちとは違うということは、何となく理解した。

 数秒ぼんやりとカイルを見つめておもむろに目を瞬かせて、子供は渇いた唇を動かした。声は出たのか分からなかったが、カイルは僅かに目をみはったのち、眉根を寄せて悲し気に頷く。


「そっか、君は名前もないのか。……つまり、君があの大人が言っていた子なんだね」


 カイルは、この子供を既に知っているかのような物言いをしてから頷き、ゆっくりと歩み寄る。


「一緒に住んでる大人達の様子から、この家に僕が知らない誰かがいることは分かってた。ずっと前からね。ただ、見つけるのにとても時間がかかっちゃった。ごめんね」


 陰りのある表情を浮かべたカイルは、子供の傍らに膝をつく。すると、骨と皮だけのように細くなった子供のその手を取って、優しく握る。カイルの手はとても温かかった。


「……冷たい」


 そう一言零したカイルは、彼の手を優しくさすったかと思うと、冷たさと悲しみを混ぜた目つきで子供を見やる。


「……酷いよね、こんな酷いことをするなんて信じられない。きちんと愛するでもなく、かといっていっそのこと殺すでもなく、死なない程度に生かしているという所業がおぞましい。あいつ等の性根の悪さがよく分かるよ」

「……?」

「あぁ、ごめんね、君にはあんまり関係ない話だし、君にいきなり聞かせる言葉じゃなかった。本当、ごめん」


 悲しさから一転、愛情が深い瞳を向けたカイルは小さく柔らかい手で労るように子供の頬と髪を撫でた。

 途端に、子供はこれまで手をあげられてきた経験からか、怯えた目でビクリと体を震わせた。しかし、カイルの手つきは非常に優しく全く痛くない。その事実に子供は驚き、困惑気味に表情を歪める。

 子供にとっては、今までに経験のない穏やかで優し気な手つきは信じがたいものであった。自分自身がここにいることに気づいてから、彼が与えられてきたものは痛みと苦しみと恐怖ばかりだった。そのため、今自分に触れているカイルが何故こんなことをするのかこれっぽっちも考えが及ばず、混乱し怯えるのみだった。

 暴力や暴言に対する恐怖とはまた異なる恐ろしさに背筋がすうっと冷たくなるが、カイルからの抱擁により、その感覚がかき消されていく。

 触れた肌の温かさ、慈しむような彼の言動。それらは子供にとっては初めて知った人の『愛』でもある。その『愛』は優しく、温かく、そして神々しいものだと無意識に受け止めてた子供は、この淡い光に縋った。

 枯れた喉と乾いた唇で声を上げる。しかしろくに話すことすらできない子供が一体どんな言葉を紡げるというのだろう。それでもカイルは微笑んで子供の固い髪を撫でる。


「これからは、僕が君の面倒みてあげる。だから安心して、クリス」


 この瞬間、名無しも同然だった彼は他者より名前という贈り物を受け取った。みすぼらしい子供だった彼は『クリス』となりカイルの庇護を受けることとなる。

 これは、成暦せいれき1908年4月21日のことであった。

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