第2話

 綾乃の心臓は早鐘のように体中に血液を送り出していた。本来緊張して心拍数が上がるのは、外敵にそなえて身体能力を上げることであると頭では分かっており、公安警察省の内部ではどれほどの脅威に直面しようとも身体能力で乗り切ることはできないともわかっている。それでも、心拍数を下げることはできなかった。

 実をいうと、心拍数を下げる薬はあるのだが、綾乃はこの薬を好んでいなかった。子供の時から警察官を志した身からすれば薬を使って体をコントロールするのは憎むべき犯罪者と同じことをしているようで落ち着かなかったのである。事実、一部の国では心拍数コントロール薬は違法薬物として取り締まられている。


 エレベーターが71階に到着した。

「えっと」

 71階に広域特殊犯罪対策課があることは知っていたが、71階のどこにあるかは教えてもらっていなかった。機密保持のためにローカル位置情報サービスはオフラインになっている。

「どうしたんだい?見かけない顔だね」

 見ると、廊下の角から人影が出てきた。体格の良い男性で、スーツを着ているが、ジャケットの代わりに青い公安警察省のジャンパーを羽織っている。そして顔は緑色の仮面でおおわれていて分からなかった。声から判断すると40代半ばといったところだろうか。

「初めまして。本日より広域特殊犯罪対策課に配属になりました。西園寺綾乃です。よろしくお願いします」

「西園寺さんね、驚いた。まさか本人が来るとは。俺は天野美知恵の代理人だ。西園寺さんの部下になる。よろしくな」

 天野美知恵の代理人を名乗った男は近づいてきて右手を差し出したが、綾乃の右手は動かなかった。

「あ、すまんな。代理人と握手をすることはない」

「いえ、そうじゃないんです。よろしくお願いします! じゃなくてですね、そこじゃないんです。私の部下ってどういうことですか?私4日前に入省したばかりの新人ですよ!」

 勢いよく握手、というより掴まれた右手を引き気味に見ながら(仮面のため表情も目線も読み取れない)美知恵の代理人は笑った、ように綾乃には見えた。

「聞いていないんですか?西園寺係長。

 あなたは広域特殊犯罪対策課3係の係長ですよ」

 庁舎に入るときに固めたはずの決意は早くも揺らぎかけていた。いきなり花形部署に配属というだけでもくらくらしてしまうのに、まして係長、管理職とは。

「でも、私まだ巡査です」

「うちの課を含む特殊な部署は階級とか関係ないんだよ。外では偽装階級使うことも多いから知らないのかな」

 話をはぐらかされたと感じつつも、綾乃はどうしても聞かなくてはいけないことがあったことを思い出した。

「なるほど、ところであなたのことはなんと及びすればよろしいですか?」

「え?俺は天野美恵子女史の代理人だけど、天野じゃいけないの?それとも名前呼び派?」

「たしかに、代理人はオーナーの名前で呼ぶのが一般的ですが、やっぱり違和感があるので」

「じゃあ、それでいいでないの。天野って呼んでくれ。そういえば部署の場所わかる?」

「あ、そうでした!」

 天野に誤魔化されたことにも気づかずに、綾乃はあわただしく天野について行った。


「初めまして!本日付けで広域特殊犯罪対策課3係係長を拝命いたしました。西園寺綾乃です。どうかよろしくお願いいたします」

 綾乃は、朝礼で自己紹介をしていた。新人紹介ということで、最も広い捜査官用オフィスに主要職員が全員集まっており、窮屈であった。

「西園寺さんってもしかして、あの西園寺国防大臣の縁者?」

 そう尋ねてきたのは先頭で話を聞いていた青年だった。ラフな格好でマスクはつけていない。

「青木さん、不躾な質問はひかえてください」

 青木と呼ばれた青年をたしなめたのは声から判断して女性であろうか、マスク越しからでは判断できない。

「よろしいですよ。確かに西園寺国防大臣は私の父です。秘密にしているわけでもありませんし」

「こちらこそごめんね。おれは青木和也。1係だ」

 ここで綾乃は思い出したように気づいた。この場に集まっている人々の中でマスクを着けていないのは綾乃と和也の二人だけであることに。

「青木さんは代理人を立てられないんですね」

 普段なら絶対に言わないようなことを言ってしまったのも、マスクを着けていないという仲間意識のせいかもしれない。

「だって、警察官になりたくて頑張ったのに代理人なんて立てるわけないじゃん」

 慌てて口をつぐんだ綾乃に気づいていないように笑いながら和也は言った。


 自己紹介は続く。

「村井正課長の代理人です」

「亜鞍馬1係長の代理人です」

 永遠に続くと思える代理人のあいさつにさっそく綾乃は飽き始めていた。

ーー確かに、代理人制度のことは一通り知ってるけど。いざ目の前にするとな。

 大学までは代理人はほとんど見かけなかった。大学で代理人が使われていないというわけではないが、用途のほとんどが会議の代理出席や書類整理などであり、学生が直接目にする機会はないに等しかった。

 大学時代の思い出に逃避していた綾乃の意識を現実世界に戻したのは、オフィスの机に設置されたコンソールから流れ出したサイレン音だった。

「国家公安委員会からの出動要請。場所は第18地区。派遣は1係、3係、介入1班。ブリーフィングルームに集合せよ」

 おそらくマスクの内側にもコンソールと同じ情報が表示されているのだろう。課長の代理人が正面を向いたまま指示を伝えた。


「今回の標的は広域犯罪組織の摘発、主力は1係、3係は係長の研修を兼ねてバックアップだ」

 「以上だ」とでも言うようにブリーフィングルームを立ち去ろうとする課長の代理人を綾乃は呼び止めた。

「あの、これだけですか?」

「心配しなくても、作戦中は随時調整官からの戦術アドバイスが送られてくるから気にしなくていいよ」

 1係の1員としてブリーフィングルームにいた和也が背後からそういってきた。課長の代理人は綾乃が納得したと判断したのか、そのまま立ち去った。


 綾乃が連れていかれたのは同じ階にある倉庫のようなスペースだった。

「ここ、何ですか?」

「格納庫だよ。広域特殊犯罪対策課は日本全国どこへでも即応展開できなきゃいけないから、じゃあ1係のヘリはこっちだから。分からないことがあったら天野さんの代理人に聞くといいよ。彼詳しいから」

 そう言って和也は大型の輸送用VTOL機に乗り込んで行った。

「どのヘリに乗ればいいのかぐらい教えてくれればいいのに」

 段差というには大きすぎる高さを軽々と跳んでヘリコプターに乗り込む和也を見送りながら漏らした独り言は、しかし別の人物に聞かれていた。

「係長、俺たちはこっちです」

「ありがとうございます、天野さん」

 背後から声をかけてきたのは、今朝最初に話した綾乃の部下の天野美恵子の代理人だった。

 天野の代理人についていくと、仮面をかぶった人々が荷物を大型の輸送VTOL機に積み込んでいるところだった。

 落ち着いて見渡してみると、倉庫だと思っていた場所には大小さまざまなヘリやVTOL、小型の戦闘機まであった。格納庫というほうが適切かもしれない。

「天野先任、積み込み完了しました」

「おう、こっちもお嬢さんのエスコートは済ませた。空の散歩としゃれこもうじゃねえか」

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