公安警察省広域特殊犯罪対策課

槻木翔

第1話

 綾乃は緊張感と高揚感がないまぜになった紅潮した頬でキャビネットを降り、自動セキュリティエリアに足を進めた。

 まだ朝は早く、人影はまばらだ。とはいっても、今綾乃が立っている場所は民間人の立ち入る場所ではないので日中も人でごった返すことはない。

 今日も綾乃が載ってきたキャビネットのほかには車道を行きかう車両もなく、地下鉄の駅から人がまばらに出てくるだけだ。

 綾乃は知識でしか知らないが、一般民の使用する鉄道の駅の出口では正対認証のIDチェックが行われている。

 綾乃は生体認証に手間取っているから人がまばらなのだろうと考えているが、実際の生体認証は一瞬で済むので、人が少ない理由は朝が早いからである。

 公安警察省のセキュリティブースはキャピタルと一般民に分かれて設けてあり、キャピタルのほうが簡易的なボディチェックが行われる。綾乃が入ったのはキャピタルの検査ブースであった。

「巡査、今日も早いですね」

 目の周りに赤い縁取りをした白い仮面をかぶった検査官が声をかけてくる。

「新人ですから。覚えることも多くて」

 綾乃は無意識に周囲に他人の目がないことを確認しながらにこやかに答えた。

「出世街道まっしぐらなのも、それなりに苦労が多いってことでしょうかね。データ送信、承認を願います」

 検査官は世話話をしながらも、モニターを見つめながら検査項目を確認していた。

「あの、検査官はどのくらいこの仕事をされているのですか?」

 綾乃はただ、検査官にも出世はあるのか、あるとすればどのようなキャリアパスになるのかが気になっただけであった。

「さあ、オーナーは出世するかもしれませんが、私は別のオーナーの代理人になって検査官を続けると思いますよ。あ、この話は他言無用で。今のオーナーは代理人のログを確認しない人なんです。さっきの承認も自動ソフトとしか思えない速度でしたし」

「え?それって違法なんじゃ」

「さあ、遅刻してしまいますよ。余計な詮索は誰の幸せにもなりません」

 検査官は綾乃の返事を待たずに出口に通じるゲートを開いた。その表情は目に赤い縁取りをしたマスクに隠されてうかがうことができない。

 綾乃は十分時間に余裕をもって登庁していたので、遅刻などするはずがない。しかし、検査官の追立に逆らうことはできずに気が付いたら検査用の施設の出口に立っていた。


ーーオーナーが承認をしなかったら何かあったときに誰が責任を取るのかしら?


 綾乃の疑問は、半ば無意識に動いていた彼女の足が公安警察省本部ビルのエントランスまで歩みを進めることで霧散した。ここから先は、何かほかのことを考えながら歩いていい場所ではない。4日前に入省した綾乃は純朴な心でそう信じていた。


 綾乃は3日間の幹部候補研修を受け、今日から正式配属であった。配属先は、国家公安委員会直属広域特殊犯罪対策課。公安警察省は国内の治安維持に関わる全権を握る関係で、通常の省のように大臣は置かれず、国家公安委員会の5人の委員が権限を分掌する形をとっていた。国家公安委員会直属組織は、広域特殊犯罪対策課のほかにもいくつかあるが、組織の正式名称すら明らかになっていない部署も存在する。広域特殊犯罪対策課はそのなかにあってはオープンな性質を有し、公安警察省の花形部署と称されることも多いが、肝心の職務内容に関しては機密に抵触するの1点張りで研修中も教えられることはなかった。

 5階分を吹き抜けにして作った恐怖を覚えるほどの広さをもつエントランスホールのまっすぐと歩き、高レベルセキュリティエリア直通エレベータのコンソールにIDカードをかざす。

 エレベーターはすぐに来た。

 乗り込んだのは当然綾乃ひとりだけである。朝が早いとはいえ、当直職員を含めて活気があるとはいえないまでも、人気は多かったが、高レベルセキュリティエリア直通エレベーター用ホールから先は静まり返っていた。

 読み取られたIDカードから読み取った侵入許可エリアの階のボタンのみが点灯する。迷わず71階広域特殊犯罪対策課のボタンを押す。


ーーまだエレベーターに乗っただけだよ!私!この程度で緊張してどうするの?

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