第11話
『シュレディンガーの猫』にとりあえず腰を落ち着けた四人は、ブラドの淹れたブラックなのに不思議と苦くないコーヒーを前にだんまりを決め込んでいた。
時刻は午後17時36分。
アキの手当てをして、コーヒーをドリップするまでの時間を考えると、かなり時間が過ぎた事になる。
ブラドはカウンターの向こうで、ネルドリップ用の布製フィルターを湯煎につけていて、レオはブラドの前のカウンター席で静かにカップの中の黒い液体を眺めていた。
問題はアキと有紗だ。
二人は窓際の三つあるテーブル席の真ん中に向かい合って座っていた。
アキは怪我のせいで座っているその体勢がキツかったけれど、とても身体を動かせる空気ではなかった。
原因は有紗がキュッと結んだ唇をピクリとも動かさないまま、アキの前のコーヒーカップを見つめていたからだ。
身動きした瞬間に、有紗が泣き出してしまいそうだったからだ。
「ゴホン!」
アキと有紗が跳び上がった。テーブルに足が当たって揺れたほどだ。
「あのさあ、あんたら何やってんの?石にでもなっちまったのか?なら営業の邪魔だから外に放り出すぜ」
「ブラドはデリカシーがないのか?」
「フン、レオみたいなガキにはわからんだろうがなあ、たまにはケツを蹴ってやるのも大人の仕事なんだぜ」
「あんたの場合はケツを蹴ってるんじゃなくて突き飛ばしているのまちがいだろ」
わざとらしくため息をついて言うレオ。ブラドがカウンター越しにレオに掴みかかった。ひょいっと避けたレオは無表情だ。
そんないつものやりとりも、今はただただ腹立たしい。
「アキ、何があったの?」
ほら、女王様が尻を蹴られてしまった。
「……」
アキは黙ってブラドを睨んだ。だけどニヤニヤされただけだった。
「その怪我は?ここの人たちとはどんな関係なの?」
「どんな、と言われましても…」
まるで刑事ドラマの取り調べのようだ。アンティークの木目がキレイなテーブルが、無機質なものへと変わっている気がして来る。
「またおばさんたちに迷惑かけるの?」
あれ?と思った。だって、アキは有紗が味方だと思っていたから。
「あの時あんたがやった事、あれのせいで、あんたの家族がどんな思いしたかわかる?夏来ちゃんが今学校でなんて言われてるか知ってる?」
目が回りそうだった。というか、実際にテーブルの木目が回っていた。喉がヒクヒクする。
「…ん、知ってる」
「じゃあなんでまた目立つような事するの!?」
バァン、と、有紗がテーブルを叩いた。
実際夏来は今、同級生から放火魔の妹なんで呼ばれているらしい。
「あんたでしょ!?アキを連れ出して、面倒を起こしたのって!!」
「オレ!?」
突然指を突き付けられて、ブラドは湯を捨てようと持っていた鍋を落としそうになる。
「とにかく、もうアキに関わらないで!!」
再度バァンと机を、今度は両手で叩いた有紗はそのまま店から出て行ってしまった。
呆然と閉まった扉を見るブラドとレオ。と、固まるアキ。
「…なんなんだあの女」
チッと舌打ちを漏らす。それからブラドはアキを見た。
アキは呆然と正面を見つめていて、その頬にスッと涙が流れ落ちた。
「アキ?」
驚いたのはブラドだけじゃなかった。レオも、まだ出会って二日しか経っていないのに、アキの変化に気付いた。
「なんだよ…ぼくだって好きでこんなんなったんじゃねぇよ…」
小さな小さな声だった。本当に傷付いた人間は、こんなにも弱々しいのかと思わされるような小さな声。
事情を知らないレオはブラドに視線を向けた。何がどうなってる?と視線で問う。
ブラドはそれに盛大に顔をしかめることで答えた。
それから静かに、ブラドにしては穏やかな声で言う。
「気にするなよ、アキ。あんたのツラさはあんたにしかわからん。あの女も別に傷つけようとして言ったんじゃないだろ。ほら、あれだ…言葉のアヤ?的なヤツだ」
そうに違いないと自分で自分の言葉に頷くブラド。レオが、はあ?という顔でブラドを見て、それからアキを見た。
「ああそうだ。ぼくが悪いんだ…こんなことなら、あの時ちゃんと死んでいたらよかった」
レオはブラドを見た。無表情ながらも、その顔には怒りが見える。
「え、オレのせいか?って、ちょ、待て待て待て!」
アキがバッと立ち上がると、その勢いのまま店の扉を乱暴に開けて出て行ってしまう。
「あれは重症だな。だれのせいだ?」
「オレじゃねえだろ!?あの女が最初に一撃ノックアウトしたんだ!!」
レオの呆れたようなため息が静かな店内に妙に響く。
「なんだ!?オレは知らんぞ!」
はいはいと言うようにレオが首を左右に振る。ブラドは誰にもぶつけられない憤りを、布製のコーヒーフィルターにぶつけるしかなかった。
☆
家に着くとアキは、出来るだけ音を立てないように玄関を開けた。けど、誰にも見つからないなんて事はあり得なかった。
「アキ?心配したのよ!?どこでなにしてたの!?」
母親が速攻でリビングから出てきた。表情を伺う勇気は、今のアキにはない。
「友達のとこに行ってた」
ブラドを友達だと言うならばこれはほとんど真実だ。でもアキの母親はそうは受け取らない。なぜなら以前は、アキが友達のところに行ってたという理由で帰宅が遅くなるのは、大抵どこかで誰かに暴行を受けていたと今なら知っているからだ。
「アキ!それは本当なの?」
玄関で靴を脱ぐアキの背中に向けられている母親の視線は、多分純粋な疑惑だ。
「ほんとだよ」
普通の親なら、遅いから心配した、だの、こんな時間までなにしていたの、という話になるのだろう。
でもアキの母親はそうではないのだ。
悲しい、といえば、そうなのかもしれない。
母親だけじゃない。家族というこの集団は、アキを腫れ物扱いする事に決めていて。
アキの帰りが遅い、アキがこんなことした、アキがアキがアキが。
そうやって自分を爆弾のように扱って。
いじめた方が悪いだけではない。
いじめられた方も、なにか人間としてなくてはならないものを落っことしてしまった、いつ壊れてもおかしくない危ないヤツとして認定されてしまうのだ。
「あんたがまたなんかしたら、わたしたちはもう耐えられないのよ」
母親がトドメを刺すように言った。
耐えられないのはアキだって同じだ。
「大丈夫だよ。ぼくはもうなにもしないから」
母親の顔を見ないようにしながら、アキは二階へ上がる階段へ向かう。
「母さん、今日はもう寝るわ」
それ以上感情を抑えられなくて、アキは母親の返事も待たずに自室へ急いだ。
幸いそれ以上なにも言われなくて、自室に飛び込む事に成功した。
閉めた扉を背にへたり込む。
立てた両足に顔を埋めて、ともすれば流れ出しそうな涙を堪える。だけど次第に荒くなってくる呼吸は止められなくて、身体は酸素を欲しているのに出ていくばかりで。
いっそこのまま死ねたら、なんて考える頭だけは冷静だった。
時の女神サマはなんで自分を生き返らせたんだろう。
こんななんの価値もない自分なんて死なせてくれればよかったのに。
異世界に転生、だなんて、自分のような人間はどこに行ったって同じだ。
生き返ったからってなにか変わるわけでもない。
非日常を体験したい?
アキにとっての非日常は、自分がいじめられずに、ほかの誰かみたいに普通の人間になる事だった。
そんな事実がまるでなかったかのように、普通に生きたかった。
あの放火の日、アキに何があったかなんて、未だに目を覚まさない同級生に比べたら些細なものなのだ。
あの時に死ねたら。
その後にあった事故で死ねたら。
今感じているこの苦しさなんて知らなずに済んだのに。
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