第10話


 アキは有紗からそっと弁当箱を遠ざけた。


 昼休み。


 いつものように有紗と広げた弁当を食べていると、有紗がアキの弁当箱を狙って箸を伸ばしてきた。


「ちょっと!卵焼き寄越しなさいよ!」

「なんでよ?」


 キッと睨んで来る有紗だが、そもそもアキの弁当だ。大事なおかずをなぜあげなければならないのか。


「おばさんの卵焼き美味しいんだもん。あたしのママなんてさあ…アキも知ってるでしょ?」


 知ってる。昔からめちゃくちゃ料理が下手だ。だから有紗は毎日自分で弁当を作って来ていた。


「それはそれはご愁傷さ、ブッ!?」


 顔をしかめて言うアキの口に、有紗が自分の卵焼きを突っ込んだ。


「はい、交換成立!」


 そう言ってアキの卵焼きを強奪してしまう。


 仕方なく口の中の卵焼きを飲み込む。あれ、意外とうまい、なんて思ったのが顔にでていたようで。


「フフン。気に入った?」


 してやったりと有紗が笑う。


「まあまあだな」


 だけど素直に美味いとは言ってやらない。


「なによう。今日は自信あったんだけど」

「拗ねんなよ。おいしかったよ」


 そう言うと有紗はニコリと笑って、


「最初から素直に言わない罰ね!」


 サッとアキの弁当箱からもうひとつ卵焼きを奪っていった。


「っあ!!お前なあ…」


 呆れて言葉も出ない。横暴な幼馴染に振り回されるのは幼い時から変わらない。


 要するに平和なお昼休みだ。


 しかし、その平和は長くは続かなかった。


 放課後。アキは今日もブラドのカフェに向かうつもりだった。


 あのチグハグな二人をほって置くなど恐ろしいと思ったからだった。


 それに自分が創造した設定やキャラクターが、この街に影響を及ぼしているのだからなんとかしなくてはならない、そう思っているからだ。


 一番良いのは時の女神サマに会うことだ。


 しかしそうなるとまず方法がわからない。もう一度死んだとして、じゃあ会えるのかと言われたら確信がない。


 時の女神サマはアキの創造したキャラクターではないし、アキの創造したキャラクターであるブラドやレオが現れた以上実在する存在という事になる。


 どうしたものか…


 と、悩んでいたため、完全に周りへの注意が薄れていた。


 校門を出た所で、そこにいた人にぶつかってしまった。


「っ!すみません…」


 相変わらず不意に誰かと話す事が苦手だから、相手が誰かも確認せずに謝る。


 だけど、相手はアキの思いもよらない反応をした。


「お!やっと出てきたか。待ってたぜ」


 ん?と思って、アキはその人をちゃんと見た。


 知らない男だ。


 他校の制服を着ている、多分先輩。そんな人に知り合いはいない。


「えっと、人違いじゃないですか?」


 あくまで常識的な質問のはずだ。しかし、その男はニヤリと笑みをこぼすと、左手でアキの腕を掴んだ。


「イタッ!?」


 掴まれた腕が痛い。体格が一回りほども違うため、力の差も歴然としている。


「ちょっと来いよ、な?」


 そう言って笑う男の顔に、アキは見覚えがあった。もちろん男自身に見覚えがあった訳ではない。その顔付きにだ。


 途端にアキの心臓が狂ったように鳴り始める。男が何を考えてるかがわかる。感覚が覚えている。


 急いで腕を振りほどこうとするが、男はそれを見越していて。


 右の拳をアキの鳩尾に叩き込む。


 カハッと口から空気が漏れる。突き刺すような痛みが腹部を支配した。


「暴れんなって」


 冷たい声が聞こえた。男は力の抜けたアキの身体を無理やり立たせると、引き摺るように歩き出す。


 ダメだ。怖いのに声が出ない。逃げたいのに足が動かない。


 最悪な事に、田舎のこの時間、誰ともすれ違うこともない。


 引き摺られて来た場所は、高校からほど近い川の橋の下だ。そういう場所は隠れて済ましたい事をするためにあるようなものだ。


 アキは背中を蹴られて突っ伏すように転んだ。河原の石が手に痛い。


「なあアキ、最近大人しいと思ってたけどよ。なんかおれの弟にちょっかい出してくれたみたいじゃねえか」

「…なんの話?」

「惚けてんじゃねえよ。お前と金髪野郎にやられたって聞いたぞ」


 やっとわかった。放課後にブラドと出かけた日の事だ。でもあの時、あの三人とは何もなかったはずだ。強いて言うならこちらは、というかブラドが相手の拳を受け止めた。それだけのはずだ。アキはヨロヨロ立ち上がり、ともすれば狂ってしまいそうな呼吸を整えようとした。


「ぼくはなにもしてない。あっちが絡んで来たんだ」


 だけど、相手は聞く耳を持ってはいない。


 うるせえ!と叫ぶと、男は拳を振り上げてアキの腹を殴りつける。


「また火でもつけるか?そんな事される前によぉ、釘さしに来てやったんだよ!」


 よろけて尻餅をつくアキに、男はさらに蹴りを入れてくる。


 たったひとりの相手に、しかも鉄パイプやバッドも持っていない相手になすすべもなかった。立て続けに一方的な暴力を振るわれてアキの頭の中はパニック状態だった。


 酷く辛いいじめを受けて来た記憶が自然と脳内に蘇ってくる。どうしたって敵わないからと諦めてしまうようになって。込み上げてくる吐き気とめまいで抵抗する気も起きなくなってしまった。


「ウッ、オェエエ」

「汚ねえなオイ!」


 我慢できなくなって吐いてしまう。そんなアキに、男はそう言ってまた腹に蹴りを入れてくる。


 いじめの嫌な所は、相手が絶対に顔を狙わない事だ。身体ならまだ隠せてしまうから。親にだってバレないように隠せてしまう。アキはずっとそうして来た。いっそ頭を狙ってくれたら気を失う事が出来たかもしれない。その方がいっそ楽だっただろう。こんな惨めさを、いつまでもいつまでも感じることはなかったかもしれない。


 何分たったかもうわからない。全身が痛かった。


 男はまるでサッカーでもしているように蹴り続け、アキは出来るだけ小さくなって耐えるしかなかった。


「クソ!オラ、やり返してみろよ!?」


 男が叫ぶ。


「あーあ、なにしてくれてんだよぉ」


 突然、心底呆れたような、それでいて静かな怒りを湛えたような声が橋の下に響いた。


「弱いものいじめというやつか」


 違う声が静かに言う。


「誰だぁ?」


 男がアキを蹴るのをやめて振り返った。


「んなんどうでもいいわ!そいつになにしてんの?あんた死にたいの?」

「この程度で殺しはよくない」

「うっせぇよ!マジで殺したりしねぇから!」


 アキは涙が出る思いだった。いや、ちょっとだけ本当に涙が出た。ブラドとレオだ。


「わかっている。冗談だ」

「ああそうか、そこのクソ野郎より先にあんたを殺そうかなあ」

「できもしない事を言うな」

「出来るから言ってんだよこのタコ!」


 二人の相変わらずのやりとりに、完全に毒気を抜かれた男がたじろぐ。


「なんなんだよお前ら…」

「うるせえな!とりあえずそこのクソガキを返せ」


 そう言うとブラドが一瞬で男の前に出る。約5メートルほど離れていたが、男もアキもブラドを視認できなかった。


「っ!!」


 男がすぐさま半歩後ずさる。でも、ブラドの方が圧倒的に速い。


 ブラドの拳が男のアゴに入った。倒れているアキからは、ブラドの拳が男のアゴに突き刺さったように見えた。


「弱っ…」


 速攻で昏倒する男を見下ろしてブラドは呟く。


「アキ、立てるか?」


 レオが差し伸ばした手を掴んだ。でも立ち上がる事ができないでいると、レオが肩を貸してくれた。


「待って。ちょっと目がまわる」


 ぎゅっと目を瞑ると、それは次第に収まってきて。同時にそれまで感じていた不快なものが、スーッと胸の内から引いていく。


 初めて感じた感覚だった。


 助けてくれる人がいることが、こんなに心強いなんて知らなかった。


「ん、もう大丈夫だ」

「ツライならオレが背負ってやろうか?」


 ブラドがニヤニヤしながら言った。


「絶対ヤだ」

「フン、強がりな奴め」


 全く強がりでもなんでもないけれど、あんな勝ち誇ったようなニヤニヤ顔の人には絶対に頼りたくないというのが本音だ。


 アキはレオの肩を借りて土手を登る。ブラドがその後を続くように歩き、時たま後ろから支えてくれる。


 道に上がると、アキを呼ぶ声がした。三人はそちらに視線を向ける。


「アキ!ってどうしたの!?」


 有紗だ。涙目で駆け寄ってくる。そしてアキの身体を撫で回すように見つめて、あろうことかペタペタ触りだした。


「い、イタッ!?ちょっと、なにすんだよ!」

「あんたこれ大丈夫なの?なにがあったのよ?」

「大丈夫!大丈夫だから触らないで!」


 やっと気が済んだ有紗が手を引っ込めた。


「ちゃんと説明してね。またあんたになにかあったらって思うと…」


 有紗は視線を落とす。多分、本気で心配してくれているのだと思う。


「なあ、人が来る前に移動しないか?」

「そうだな」


 ブラドとレオが冷静な声で言ったので、とりあえず移動することになった。

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