a cat 「葉介」

 休日の昼下がり。

 住宅が建ち並ぶ一角に広場がある。

 周囲を建物で囲まれた空間は、主に住人が自転車を停めるのに利用しているが、大通りから死角になっている事もあり、人が立ち入る事は稀だ。

 ほとんどの自転車は長い間放置されているように錆び付いている。

 中庭のような、表の通りから隔絶された広場の真ん中で、胡座あぐらをかいて地面に座る男がいた。

 膝の上には茶トラの猫が丸くなって目を閉じている。

 よく見ると周りにも数匹の猫がいた。

 思い思い寛ぐ猫の中で、男は何をするでもなく猫を撫でている。

「こんにちはー」

 そこへ若い女性の声がかかる。

 顔を上げた男の視線の先には声の主、栗色の髪に細身の体を洒落っ気のある服で包んだ村上真央がいた。

「餌ヤリさんですか?」

 男はやや訝し気に真央を見ると、いや……と短く答える。

「ああ。いきなり話し掛けられたら怪しいですよね。私こういう者です」

 と名刺を差し出す。

 尚も訝し気な男に、

「餌ヤリさんは皆咎められるんじゃないかって警戒するんですけど大丈夫ですよ。私達は猫を愛護する団体です。あなたの事は知らなくても猫の事なら分かります。その子、あなたにとても気を許してる」

 真央は膝の上でゴロゴロと喉を鳴らしている猫を指差す。

 それでも警戒心を解こうとしない男に、真央は「この人も猫みたいだ」と笑みをこぼした。

「私達は主にTNRを中心に活動しています。この猫ちゃん達って避妊去勢はお済みですか?」

 男は黙って首を縦に振る。

「実は、近隣の住人の方はみんな理解あるわけじゃなくて、迷惑がってる人もいるんですよ。だからここにいる子達、保護しようと思って」

「保護?」

「住人の方から、保健所に通報されて駆除されそうだから助けてほしいって連絡をもらったの」

 男はしばらく黙っていたが、そのまま目を落とす。

「確かに、オレはここの住人でもないし、オレにとやかく言う権利はないものな」

「とんでもない。世話をしてくれている人みんなの了承を得ないと。ま、ダメと言われても根気よく説得するだけなんだけど」

 真央は愛嬌のある笑みを見せる。

「その方がこの子達も絶対幸せだと思うわよ」

 外で暮らす猫は常に危険と隣り合わせだ。事故や人間による虐待だけでなく、猫同士の縄張り争いもある。

 姿を視なくなっても死んでしまったとは限らない。他の猫と折り合いが合わずに縄張りを追い出されただけ、誰かいい人に拾われただけ。

 そう自分に言い聞かせつつも不安に駆られる。それがノラとの付き合いだから仕方ないと思いつつも無力感に苛まれる。

 餌ヤリならば誰しもが経験している事だ。

 自分とはもう会えなくなるかもしれないが、どこかで幸せになってくれるのならば、いつ居なくなるかもしれない不安と共に世話をするよりもよいのではないか。

 男も例にもれずそんな考えをよぎらせているのか、しばし神妙な顔つきをしていたが、やがて心を決めたように保護を了承する。

「大丈夫。保護したからには私が責任を持って幸せにします」

 真央は自信たっぷりに言い、

「それにしても暑いわねぇ」

 と空を見上げ、汗を拭う仕草をする。

「水飲みます?」

 真央はカバンからペットボトルの水を取り出す。

 あ、いや……と逡巡する男に構わず強引に手渡す。

 真央はもう一本取り出すと乾いた音を立ててキャップを開ける。

 日の光を反射する透明な水を豪快に喉に流し込むと、ぷはぁーっと息を吐いた。

「これ、四万年前の水らしいんだけど。賞味期限が一年なんですよねぇ。おかしいと思わない?」

 真央はボトルのラベルを指して言う。

 確かに商品名の横にそんなような事が書いてある。

「四万年前の水なのに、賞味期限が一年って」

 ケラケラと笑う真央に、男はやや呆れたような視線を送っていると、数人の年配の女性がやってくる。

 男と同じくたまに猫達の面倒を見ている人達だ。

 真央は同じように自己紹介し、名刺を渡す。

 この中に真央に依頼した人はいないようだ。

「警戒心のない子って、返って虐待に遭ってしまう危険があるんです」

 人慣れしている猫は、虐待目的で捕獲しようとしている人間にとって格好の標的だ。

 餌ヤリでも触れないような警戒心の強い猫は心配ないが、中には時間をかけて慣らし、捕獲して日頃の憂さを晴らす為に虐待する輩もいる。

 過去にそういう例があると話す真央に、皆それなら仕方ないと納得する。

「保護した猫は私が責任をもって幸せにします。月に二度譲渡会をやっていますので、いつでもいらしてくださいね。警戒心の強い子は少し人慣れの訓練をするけど、この子ならすぐにでも譲渡会に出られますよ」

 真央は茶トラの猫を抱き上げる。茶トラはゴロゴロと喉を鳴らし、腕に頭を擦りつけてきた。

「来訪者が多いと少し待ってもらったりする事もあるんだけど、元々世話をしてくれていた人ならフリーパスよ。お名前を教えてもらってもいいかしら」

 男は『犬飼 葉介』と名乗った。

 真央は露骨に何かを言いたそうな顔をしたが、結局何も言わず、他の餌ヤリの人達の名前をメモしていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る