第三章   ―― 崩壊の先陣者 ――

ザダークの少年

  帝国暦 516年 ヘスの月 4日


 闇が支配する未開の地、人呼んで――ニヴルヘイム。異形の化け物が闊歩していると噂される、暗黒の地である。普通の人間には近づく事さえ禁忌とされており、踏み入ろうとする人間は誰一人としていない。


 それはなぜか。


 多くの人間は本能的に闇を恐れる。暗闇は生きていくうえでの障害であり、人々は暗闇から逃れるために、火を使うことを覚えたのである。

 それゆえニヴルヘイムに踏み入ろうとする人間はいないのだ。


 ただ一人――〝彼〟をのぞいて。





 ニヴルヘイムのザダークという街。闊歩するのは人外の者達が大半である。空は常闇に覆われていて、一筋の陽光も届かない。いたるところに不気味な青白い灯りがついており、太陽の代わりとなっている。


 街の中心に建立する闘技場では、二人の戦士が対峙していた。


 一人は人間の少年。ザダークで人間を見かけることは滅多にないが、少年は稀有な例であった。肩ほどまでに伸びたアッシュブロンドの長髪で、ぴょんと突き出した前髪が目を引く。額にはひどく傷ついたボロボロのゴーグルを身に着けており、ビロードで仕立てられた漆黒のマントを羽織っている。これから決闘に挑もうというのに、特に得物らしいものは見当たらない。まるで、これから始まる闘技を舐めているようにも見える。


 少年と対峙しているように向かい合っているのは人間ではない。トロウルである。黄土色の肌をした巨人族で、人間とはかけ放たれた筋力を生まれた時から持ち合わせている魔人だ。その体躯は少年の三倍ほどもあり、傍から見れば雀と鷹が向かい合っているみたいだ。


 トロウルは切れ味の尖そうな大斧を携え、うっかり近づいたら卒倒してしまう程の威圧感を放っていた。


 風が闘技場の砂利を巻き上げ運んでいく。


 トロウルは斧を持つ手にぐっと力を籠めて、少年を見据える。

 トロウルの頬に汗が垂れる。この闘技場に立つ者は皆、それなりの実力を備えている。油断ならない戦いを控え、闘技場の広間に立つ者は誰もが緊張に身を強張らせるものだ。


 しかし、目の前に立つ少年は違っていた。


 彼の顔には余裕の表情が見て取れた。緊張など微塵も感じさせない表情で、新緑色の瞳で対戦相手をじっと見つめている。


 広間をぐるりと取り囲むように誂えられた観戦席では、しゃがれた老人が真剣な眼差しで二人の戦いを見守る。老人の横では小さな妖精が微笑み顔で戦いをじっと見つめている。


 老人がすっくと立ち上がり手を挙げる。


「はじめ!」


 老人の掛け声とともに大銅鑼が打ち鳴らされ、戦いの火蓋が切って落とされる。

 始めに動いたのはトロウルだ。大斧を振りかざし、雄叫びをあげながら少年に突っ込む。

 少年はそれに反応して斧をかわす。

 空を切り地面に振り下ろされた斧の衝撃で地面が揺れ、辺りに濛々と砂煙が立ち込める。

 立籠る砂煙の中、トロウルが眼前の少年に向けて斧を横薙ぎにふるった。斧が少年に命中した確かな手ごたえに、トロウルの口元が喜びに緩む。一撃必殺の攻撃力が彼の持ち味であり、斧が命中することは、トロウルの勝利を意味していた。

 だが、トロウルは不可解な出来事に顔をはっとさせることになる。確かに斧が命中したはずだが、少年の体がどこにもないのだ。少年は霧か何かのように突然目の前からぱっと消えてしまった。


 その時、背後から少年の声がした。

 すでにトロウルの背後に回っていた少年は巨人に向けて手をかざして小さくつぶやく。


《――falke-to-engitate》


 すると、少年の手が強い輝きに包まれる。そして次の瞬間、轟々と滾る火球が少年の手から放たれた。火球はトロウルに直撃して爆発し、凄まじい衝撃が巻き起こった。


 濛々と立ちこめる煙の中で少年はすっくと立ち上がる。


「……もう終わりか?」


 トロウルはつらそうな表情で、斧に縋りながらよろよろと立ち上がる。彼の体力はもはや限界を超えていた。いつ倒れてしまってもおかしくはなかった。


 少年は怜悧な目つきで足元で蹲る巨人を見下ろすと、彼の眼前に手をかざした。

 ぼそりと短い文言をつぶやくと、トロウルにかざした少年の手が不思議な色の光を帯びはじめた。それは先程、火球が放たれる寸前に出現した光と同じ赤色をしている。

 赤い光はどんどん輝きをまし、少年がにやりと不敵な笑みをこぼす。トロウルは少年の表情に戦慄し、死にかけの虫か何かのように体を小刻みに震わせる。


「やめ!」


 号令が広間に響き渡って、少年は手を引っ込めた。鋭い目で壇上の老人を睨み付ける。

 老人もまた少年に怜悧な視線を向ける。


 少年は涼しい顔をして、


「……他愛もない」


 そう一言吐き捨てると、彼は決闘場を去って行った。





 欠伸を漏らしながら、銀髪の少年――ルーフ・ノートは闘技場の廊下を歩いていた。


 すれ違う者が皆、ルーフに頭を下げていく。よそよそしい態度が気持ち悪い事この上ない。もっと自然体で接してくれればいいのに、とルーフは思う。


 聞き慣れた羽音が聞こえてきて、ルーフは後ろを振り返った。


 人差し指位の大きさの小人がルーフを見てにんまり微笑んでいた。背中の翅で器用に宙を飛んでいる彼女の名はシルフィー。ルーフに付きまとう小妖精である。


 シルフィーはにこにこ笑顔でルーフに話しかけた。

『さっきの戦い、見事だったわよ。お疲れ様』


 ルーフは不遜な態度でつぶやいた。

「あんなの……ただの退屈な試合だよ」


『ずいぶん生意気言うようになって。あなたも変わったわねぇ……』


 ルーフは少しむっとした顔で言う。

「君の小言にはもう飽きた」


『ほんとにもう……。王様が呼んでたわよ』


「……わかった。すぐ行くよ」


 ルーフはシルフィーの後について、王宮へと向かった。


 城では豪勢なしゃれた円卓にしゃがれた老人が座っていた。闘技場の観戦席からルーフの戦いを見守っていた老人である。この老人こそ、ザダークを、ひいては常闇の地ニヴルヘイムを統治する妖精王デインその人である。


 ルーフは老人に気さくに挨拶する。


「やあ、相変わらず疲れた顔してるね」


 老人は咳払いをすると、低く、堂々とした声でルーフに言った。


「……貴様、わしは仮にも妖精王だぞ。なんじゃ、その舐めた態度は」


「知らないよそんなの。妖精王って言われても、僕には何も関係ないし」


「ふん……まあよい。座れ」


 言われるまま、ルーフは老人――妖精王に向かいあうように座った。


「それで、僕に何の用?」


 妖精王デインはルーフをちらと一目見ると、虚空を仰ぎつぶやいた。


「……お前が修業を始めてもうすぐ八年だ。だいぶ様になったようじゃな。わしも教えた甲斐があるってものだ。今日の試合も見事だったぞ。伝説にも語られている、巨人族の英雄を相手によくやったものじゃ」


「あんなの、ただのでくの坊さ」


 言うや否や、デインがルーフの脳天をぱしん、と叩く。


「愚か者めが! 相手には礼節をもって接せ、といつも言っておろうが!」


「うるさいな~。んで、なんなの用って」


「お前に渡したいものがあってな……」


 デインは一振りの杖をルーフに手渡す。不思議な杖だ。木製だが、質感は金属のそれに似ている。


「これは……?」


「それは『レーヴァテイン』。災いの杖と呼ばれておる」


「そんな大層な杖を何故僕に?」


「親心だと思って素直に受け取れ。その杖には尋常ならざる魔力が封じられておるが、お前なら使いこなせるじゃろうて」


「災いの杖……か。ありがたくもらっておくよ」


 ルーフは早速杖を腰の辺りに吊った。


 デインは遠い空を見るような瞳でルーフを見つめ、つぶやいた。


「……お前がここに来て八年。シルフィーが傷ついたお前を連れてきた時の日のことは今でもすっかり思い出せる」


 ルーフは遠くを見つめるような瞳でつぶやいた。

「……あれからもう、八年か……」


 ナナシが殺されたあの日のことを忘れたことなんて一度もなかった。眠った時に見るのはいつも、あの時の惨状だった。そして、全身汗びっしょりになって最悪の気分で目が覚めるのだ。

あの日の出来事は消えない傷となって、ルーフの脳裏に深く刻み込まれていた。

デインはルーフに言った。


「……今でもお前の気持ちは変わらないのか?」


 ルーフは意志を感じさせる瞳で妖精王をじっと見る。


「変わらないよ。変わるわけがない。変わるとしたら……それは僕が死ぬ時だ」


 デインは目を閉じて首を横に振る。


「その行為がお前に利益を生むとは思えん。空虚な気持ちに支配されるだけじゃ」


「それでもいい。覚悟はできてる」


 デインは残念そうにため息をつくと、ルーフをしっかり見てつぶやいた。


「そうか……。そこまでの覚悟があるのなら、わしももう何も言わんよ。だがな、わしがお前に力を貸したのはな……ルーフ。お前に興味があるからじゃ。純粋な心を持つお前の人生にな。生き急ぐんじゃないぞ。力を得ても、お前自身が変わるわけではない。お前はどこまでいってもお前だ。それを肝に銘じておけ」


「……わかったよ」


「ならよい。もう、好きにするがいい」


 妖精王デインはすっくと立ち上がり天蓋の奥に消えた。

 去り際に一言、「バカたれが」と言い残して。


「さてと」


 ルーフは立ち上がり窓の向こうに目をやる。常闇の地ニヴルヘイムと言っても、ずっと夜なわけではない。ただ、昼間も夜のように暗いだけ。窓の向こうでは月が傾き始めている。外の世界では間もなく夜明けが訪れる頃なのだろう。


 シルフィーがルーフの肩に降り立ってつぶやいた。

『とうとう行くのね、王都エルデンテに』


 ルーフが頷き応じた。

「ああ。あれから八年も経ったが、奴らは相変わらず、平和な世界でのうのうと生きている。誰かが教えてやらなきゃいけない」


『王様も言ってたけど……こんなことをしてどうするつもり? だって、彼女はもう……』


「そんなの関係ない。僕は僕の心に従って行動する。ただそれだけだ」


 ルーフはマントを翻し歩き出す。


『ま、待ってよ! 私もついていく!』


「……勝手にしろ」


 かくして、ルーフは小さな妖精シルフィーと共にザダークを旅立った。亡き友ナナシの無念を晴らすために。

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