ひび割れたゴーグルと血色のマフラー
「――ジュ! エンジュ!」
自分の前を呼ぶ声がしてエンジュはゆっくり目を開ける。
「……う……ん」
目の前には母親の顔があった。よほど泣いていたのか目の淵が赤くはれている。
「母さん……?」
「……よかった。随分うなされていたようだから」
うなされていた……。
あれは夢だったのだろうか……。
帝国教団に襲われて殺されかけるなんて、何とも嫌な夢を見たものだ。
さて、今日も二人を誘って遊びに行こうかな……。
起き上がろうとして、ずきりと突き刺すような痛みが這い登ってくる。
「まだ寝てなさい。酷い怪我だったんだから」
「夢じゃ……ない……」
全身を稲妻のように駆け巡る痛みは夢なんかではなく、紛れもない本物の痛みだ。だとすればやはり、あの凄惨な光景も夢ではく、現実に起こった出来事だったのだ。
エンジュは意識を失う前の事を思い出そうとする。
川で釣りをしていたら……白い装束の集団に襲われて……洞窟に逃げ込んだ。それでも奴らはしつこく追ってきて……。しかも自分たちが帝国教団だと言っていた。ナナシとも知り合いのようだった。
エンジュはナナシとルーフを逃がすために、単身立ち向かった。そしてその結果、毒にやられて意識を失って……。
そうだ……二人はどうなったんだ?
はっとした顔でエンジュは母親に尋ねた。
「あいつらは!?」
エンジュの質問に母は顔を俯かせるだけで何も答えない。
「……起きたか、エンジュ」
「……親父」
父親の顔はひどく痩せこけている。
「親父、俺は洞窟に倒れていたはずだ。ルーフとナナシが俺をここまで引っ張ってきたんだろ?」
「……違う。私が傷ついたお前をここまで運んだのだ。びっくりしたよ。全身傷だらけで倒れていたんだ。助かったのは本当に奇跡だ」
「ルーフとナナシは? それに……帝国教会の奴らはどうしたんだ?」
「…………」
母親が両手で顔を覆いむせび泣く。父、レイモンドは体をぶるぶると震わせている。
「おい……何なんだよ……? 何とか言えよ!」
レイモンドは生気のこもっていない瞳のままつぶやいた。
「二人は……死んだ」
エンジュの中で何かがぽきりと音を立てて折れた。
「嘘……だろ……」
レイモンドが虚ろな表情で滔々と話す。
「私が村の者と駆け付けた時、洞窟の中はあちらこちらが血で赤くびっしり染まっていた。洞窟内にはお前一人だけが倒れていた。ルーフとナナシの姿はどこにもなかった」
「きっと……あいつらが連れて行ったんだ。早く追いかけないと!」
そう言ってベッドから起き上がろうとするエンジュを、レイモンドが抑え込む。そして沈痛の面持ちでゆっくりと首を横に振った。
「私も懸命に二人を探したさ。けど見つかったのは、大きな血だまりが二つだけだ。そのうちの一つにこれが落ちていた」
レイモンドは黄色のマフラーをエンジュに手渡す。マフラーの先は血で赤く染まってしまっている。
「これは……ナナシのマフラー……」
鎮痛の面持ちでレイモンドは言う。
「二人がどうなったのかは知る由もないが少なくとももう……」
死んだ。
ルーフも。
ナナシも。
二人ともいなくなってしまった。
エンジュはスイッチが切れたようにぼうっとした顔で虚空を見つめている。
「あいつら……どうして帝国教会なんかが……」
「すまん」
レイモンドが言った。
「村を守るため仕方が無かったんだ。教会の神官たちにナナシの場所を教えたのは私だ。本当にすまなかった」
「そう……」
エンジュは何も考えられなかった。血で赤く染まったマフラーを抱きかかえたまま、何も考えず、何も感じず、世界に心を閉ざす。
そうしてただ虚空を見上げて、どことも知れない場所をぼうっと見ていた。
◆ ◆ ◆
『――ねぇ……。ねぇってば!』
声が聞こえる。胸に沁み渡っていくような不思議な響きの声。
『――目を開けてよ、ルーフ……』
ルーフはゆっくりと目を開いた。
夢のように、感覚がはっきりしない。薄ぼんやりとした光景。鼻の上がむずむずする。
みょうちきりんな小人がルーフの鼻の上に立っていた。
大きさはルーフの人差し指くらい。緑色の髪の毛で、瞳は薄紫色。頭には小さな赤いリボンをつけている。背中には四枚の小さな翅が生えている。小人はルーフの鼻の上で翅を器用に動かしてぱたぱたと浮遊していた。
『良かった……。一時はどうなることかと思ったよぉ……』
「きみは……?」
ルーフが尋ねると、小人はえっへんと胸を張って不遜に答えた。
『私はシルフィー。あなたを迎えに来たの』
痛みと共に意識はだんだんはっきりしてくる。
ルーフは洞窟の、どろどろした血だまりの中に倒れていた。
ルーフははっとした顔で辺りに目を見張る。
「ナナシ……!」
ナナシの姿はどこにも見当たらなかった。
辺りに突き出した石筍は血に赤く染まっており、地面にはおびただしい血痕が残されている。一際大きな血だまりの中に先がひしゃげた銀色の銃が落ちている。そのすぐ脇にはひび割れたゴーグルと、ズタズタに引き裂かれた黄色のマフラーが落ちている。それらの物品はここで何が起きていたのかを明確に物語っていた。
堪えがたい衝動がルーフの胸の奥底で渦巻く。ルーフは嗚咽を吐きながら、壊れたゴーグルを胸に埋めて慟哭する。
シルフィーが静かにルーフの肩の上に降り立った。
『ルーフ……あの子は、もう……』
「……シルフィー、きみはぼくを迎えにきた。そう言ったね。どうして?」
『ルーフ……あなたには世界を導き、そして変革させる才がある』
「世界を……変える……?」
『ずっとあなたを陰から見守ってきた。気づいてないかもしれないけどあなたは世界の希望なのよ。ずっとずっと前から、そう――決まっていた。だから私はあなたを迎えに来たの』
「だったらどうして――」
ルーフはむせび泣きながら、声を荒げて言った。シルフィーは刺すような彼の眼光に気圧されてしまう。
「どうしてナナシを助けてくれなかったのさ!」
『それは……』
ルーフは虚ろな目でひび割れたゴーグルを見つめ、ぐっと力を込めて握りしめる。
「ぼくはあいつらを許さない」
だが、握った拳はすぐに解けて、ルーフは力なくつぶやいた。
「でも……ぼくには力が無い」
脳裏にナナシの微笑とフォズの汚い笑顔がよぎった。
ルーフはしばらく沈黙した後、ぽつりとつぶやいた。
「ぼくは……力が欲しい……。あいつらにナナシの痛みを教えてやらなきゃいけないんだ」
虚ろな瞳で漏れ出すようにつぶやいたルーフの言葉を聞いて、シルフィーが言った。
『……あなたはこちら側にいるべきではないのかもしれない』
シルフィーはゆっくりと、しかし饒舌に話し始めた。
『ルーフ……あなたは純粋すぎる。どんなことでも受け入れられるけど、そのせいで何色にも染まってしまう。こんなところにいたら、あなたはきっと……いくつもの色が混ざり合って、喧嘩して……想像できない化け物になってしまう』
ルーフは何も言わず、ただじっとシルフィーを見つめていた。
そんなルーフを見て、シルフィーの口元が一瞬だけ笑う。
『……もしもあなたが望むのなら。私はあなたを知らない世界へ連れて行ってあげる』
「ぼくの……知らない世界……」
『そう。そこは至純に満ちた、混じりっ気のない場所。もしも、あなたが自分を変えたいのなら……私についてきて。あなたのことを待っている人がいる』
そう言うと、シルフィーはルーフの肩から颯爽と飛び立つ。
混じり気のない場所。その言葉がルーフの心を捉えて離さない。混じり気のない場所ってどんな場所なんだろう……。
不意に、ルーフは目の前に小高い木を見つける。シルベ山の頂上に生えていた、あの木である。洞窟の中に樹が生えているわけがない。目の前の木は幻に違いない。
しかし、その木を見ていると、なぜか涙が止まらなくなった。
エンジュとナナシがそこにいるような気がして、ルーフが踏み出そうとする。すると、突然劈くような不気味な悲鳴が聞こえてきて、二人の姿が掻き消えてしまう。やがて聞こえてきたのは、大神官の嘲笑うような下卑た笑い声だった。
――自分はここにいるべきではない。シルフィーの言葉が頭の中で反芻する。
断じて許すことは出来ない。奴らには痛みを思い知らせてやらなければならないのだ。ルーフが抱いてしまった考えは間違いなのかもしれない。それでも構わない。たとえ全世界を敵に回してもやり遂げる。そうして初めて、自分は前に進むことができる。
――シルフィーについていこう。強くなり、胸に抱いた思いを遂げるために。
やがて、ルーフは軋む体を押さえながらよろよろと立ち上がった。
ひび割れたゴーグルを頭に着けると、不思議な小妖精シルフィーを追いかけて、霧の立ち込める洞窟の中を歩き出した――。
◆ ◆ ◆
一筋の風が吹きすさび、世界樹の葉がざわめいた。
この風は何を運んでくるのだろうか。
安寧か……、はたまた、滅びか……。それは誰にもわからない。
けれど、一つ確かなことがある。
大いなるうねりがこの世界に近づきつつあった。
うねりは二人の少年を巻き込んで、この世界全体に広がってゆく。
カチ……カチ……カチ……。
長い間動かなかった歯車が今ようやく回りはじめる。
一つの歯車が動き出すと、他の全ての歯車がそれに連動して動き出す。
ゆっくりと……着実に回ってゆく。
――今、世界中を巻き込んだ歯車が動き始めた。
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