乾いた音

 ルーフはナナシの手を引いて、ただ前へ、前へと走り続ける。エンジュはきっと無事だ。今までエンジュが喧嘩で負けたのなんか見たこと無い。そんな無敵のエンジュがやられるわけないんだ。ルーフはただひたすらエンジュの無事を信じて走り続けた。


「ルーフ、危ない!」


 ナナシが叫ぶや否や、後方から鉛弾が飛んでくる。飛来した弾はルーフの肩をかすめ、洞窟の壁にぽっかりとくぼみを作る。やがて大神官がゆらりと不気味に姿を現した。


「さて……そろそろ追いかけっこも終わりだ」


「……大神官フォズ! まさか……エンジュは……」


 その時、フォズの後ろから老紳士が駆けつける。


「スゲースか……思ったよりも早かったじゃないか」


「はっ! あの小僧についてですが――」


「――なるほどな。それは懸命な判断だ。よくやったぞスゲース」


「勿体無いお言葉にございます」


 フォズはナナシの方に視線を戻してつぶやく。


「あの小僧だが……我々の静止を聞き入れなかったため、やむなく殺してしまった。じつにあっけない死に様だったよ」




 ――エンジュが……死んだ――?




 知らされた事実はあまりにも衝撃的で、ナナシは愕然とする。


「私たちも出来ればお前を殺さずに連れ帰りたいのだよ。いい加減降伏して、大人しく我々に投降したらどうだ? ……自分でもわかっているんだろう?」


「…………」


 ナナシは何も答えなかった。足元をじっと見つめたまま動かない。


「ナナシ……」

 ルーフが声を掛けても返事は返ってこない。


「投降しろ!」


 フォズの言葉に、ナナシは握った拳をわなわなと震わせるばかりだった。


 業を煮やしたフォズは、懐から取り出した小型拳銃をルーフの蟀谷に押し付けた。銃口のひんやりした感じが肌を通して直接伝わる。


「……これでもまだ従わないつもりか?」


 フォズは静かに撃鉄を起こした。後は引き金を引くだけで銃弾がルーフの脳を貫通する。

 隙を見て距離を取ろうとするルーフだったが、スゲースが嬉々とした顔でつぶやく。


「おっとぉ! 気をつけろよ小僧。少しでも妙な動きをしたらズガン! だからな」


「くっ……」


「三秒間だけ待ってやる。これが最後の譲歩だ」


「……!」


 ナナシの顔が緊張で強張る。


 ルーフは蟀谷に当てられている銃口が目に入り、体中を蛞蝓が這いずり回るような感覚を覚えた。絶望的な状況の中、エンジュみたいに道場で稽古をつけてもらったらよかったのに、と後悔する。


 フォズは能面のような感情の篭っていない瞳でナナシを見つめ、ゆっくり数えはじめた。



「三……」



 ナナシは沈黙しながら、握った拳をわなわなと震わせる。どうすれば正解なのか判断がつかず、不安や絶望といった黒い感情が、ナナシの中で蠢いている。彼女を見つめるルーフの視線が、痛いほどに突き刺さる。



「二……」




 冷や汗が頬を伝っていく。心臓がかつてないほどの勢いで鼓動する。ナナシはぐっと奥歯を噛み締めたまま口を開かない。

 ルーフは唇をぎゅっと結んでナナシを見守っていた。

 スゲースは下卑た笑みを浮かべ、高笑いを始める。

 フォズはゴミを見るような目つきでナナシとルーフを交互に見た。




「一……ッ!」




 ルーフは覚悟を決めた。友を守って死ねるのなら本望だ。ナナシには自分の分まで、長く、そして幸せに生きて欲しい――本心から強く、そう思った。

 フォズの指が引き金を引こうとした瞬間、ナナシはカッと目を見開いて、思い切り叫ぶ。




「やめて!」




 すんでのところでフォズの指が止まる。

 震える声でナナシがつぶやく。


「……わかったわ。あなた達についていく。だから、ルーフを離して。お願い。ルーフは私とは関係ないから」


「ナナシ! ダメだ! そんなのダメだよ! ぼくのことはいいから早く逃げてよ!」


 だがルーフの思いを他所に、フォズはナナシの主張を受け入れ、銃口をルーフの蟀谷から外した。フォズは口角を上げ、不気味に微笑みながらつぶやく。


「いいだろう……私はこの小僧には手を出さない。……私は、な」


 直後、フォズの隣にいたスゲースが、隠し持っていた銃を取り出し、引き金を引く。

 乾いた銃声と共に、赤い鮮血がぱっと散って、ルーフはがくんと崩れ落ちた。


「ルーフ!」


 ナナシが金切り声で叫ぶ。断末魔のような悲鳴が洞窟内にこだまする。

 枝がぽきんと折れてしまうようにナナシは地面に手を着いた。

 崩れ落ちた彼女を見下し、邪悪に笑いながらスゲースは言った。


「ハァッハッハァ! いい気味だァ。権力に楯突く者が死に逝く様は、いつみても愉快なものだなぁ~! あいつらは何と言ったかなぁ。

 おお、そうだ。確かお前、ヴァラストとかいう連中とつるんでたことあったよなァ。あいつらも私に向かってきたぞ。だが、所詮は虫けら。全員残らずあの世送りにしてやったさ。ハハッハァ!」


 ナナシの耳には何も入ってこなかった。ナナシの顔は亡者のようにすっかり生気を失くしており、墓場に転がる朽ち果てた屍のようだった。

 銃弾はルーフの肩口を貫通していた。どくっ、どくっ、と血があふれ出ている。

 奇跡的に急所は外していたようだが、あまりにも出血が多い。このままでは……。

 ルーフは虚ろな瞳でナナシを見つめ、枯れそうな声でつぶやいた。


「ナ……ナシは……わるく……ない……よ……」


 ルーフが言葉を絞り出そうとした時、ナナシはそっと、ルーフの額に口づけした。


「ナナシ……?」


 ナナシは泣いていた。何処にこんなに溜めておけるのか分からないくらいの涙を流す。

そんな彼女を見て、ルーフは何も言葉にできなかった。

 ナナシを一瞥して、フォズが銃口をかざす。





 瞬間、ルーフとナナシの視線がぴったり重なった。





 すると不思議なことに、ルーフは自分が真っ白な場所にいるように感じた。

 そこにはナナシとルーフの他には何もない。そんな……不思議な場所。

 真っ白な場所で、ナナシはルーフに歩み寄って、彼の手を握る。

 雪のように綺麗な彼女の手は不思議な温もりに包まれていた。

 ナナシはルーフの頭を優しく撫でる。

 ルーフは彼女に言いたいことが山程あったが、どうやっても声が出ない。

 やがて、ナナシはすっくと立ち上がると、ルーフから離れていく。

 ルーフはナナシに手を伸ばす。このまま彼女がどこか遠いところへ行ってしまうような気がした。しかし伸ばした手は届かずに、ナナシはどんどん遠ざかっていく。


 ルーフの頬を冷たいものがつー、と撫で落ちる。



 ……涙だ。



 気づけばとめどなく涙が流れていた。

 薄れゆく意識の中でその瞬間が永遠のように感じられた。

 ナナシが振り返ってルーフの方を見た。

 そして、小さくにこりと微笑んだ。




 途端にナナシと暮らした日常の様々が走馬灯のようにぐるぐるとルーフの前で浮かぶ。


 ナナシと初めて会ったのは……レイリークだ。奴隷商人から助けてくれたんだっけ。

 ナナシはとっても強いんだ。喧嘩でルーフが勝ったことはただの一度も無い。


 彼女と一緒に暮らすことになってからは、夢のように楽しい毎日だった……。寝坊助のルーフは毎日、ナナシに布団を引っぺがされたものだ。彼女の作る料理はいつもほっぺが落ちるくらい美味しかった。いつも優しく、根気よく勉強を教えてくれた。風邪を引いた時は、ちょっと大げさなくらい看病してくれたっけ……。


 エンジュも一緒になって三人でいつも遊んだ。野山を駆け回って追いかけっこしたり、川でのんびり泳いだり。ナナシはいつも消極的だったけど、気づくと一緒になって遊んでたもんな。エンジュのイタズラのせいで三人一緒に、村長に怒られたりもした。そんな時は、捲し立てるようにナナシが小言を言うんだ。さしものエンジュも、ナナシには逆らえないんだ。


 ナナシはルーフにとって、かけがえのない友達であり、家族だった。


 小言が多いし口うるさいけど、本当はとってもとっても優しくて、誰よりもルーフの事を気にかけてくれるお姉ちゃん。それがナナシだった。



 浮かんでは消え、浮かんでは消えていく思い出のシャボン玉。



 ありふれた日々の一つ一つが、実に鮮やかに紅の少女を映し出す。



 言葉で言い表せないくらい優しくて、強くて、あったかくて、綺麗で……そんな穏やかな微笑。その笑顔は、ナナシという少女の全てを体現していた。




 にっこり微笑んだままナナシが口を動かした。

 微かに、けれど、確かにはっきりとルーフには、ナナシの声が聞こえた。


















 ――ルーフ、私はあなたに出会えて本当に良かった。ありがとう――















 少女の頬から雫が一滴零れ落ちた。

 空気を裂くような乾いた音。

 赤い液体が飛び散った。

 下劣な笑い声が聞こえてきた。

 少女は棒切れか何かのようにぱたりと倒れて、そのまま動かなくなった。

 乾いた音は止まなかった。

 何度も、何度も、乾いた音がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る