09 もはやどこにも居場所なんてなかった

「どこにいるの」

 ボクがこの質問をすると決まってママは不機嫌になった。

 ボクが五歳の時、小学校の入学式で他の子にはパパがいるのに、ボクん家にはいないのは何故なのかな? そう思って聞いたの。すると、

「結菜のパパはね、おまえが三歳の時に天国に行ったんだよ」

「天国? いつ帰ってくるの」

「あのね、天国に行った人はね、帰っては来ないんだよ。結菜ちゃんにはね、ママがいるでしょ。ママがパパの分まで結菜ちゃんのそばにいるんだから。それでいいでしょ」

「やだ、パパがほしい!」

 そう言ってママを困らせてたの。

 でもそれは嘘だった。


 それを知ったのは小学四年生になった時。

 ある日同級生の男子から知らされたの。

 帰ろうとしていたボクの行く手を遮って茶化して来たのは田畑たけしだった。

 あだ名はビート。

 よくビートたけしのモノマネをするけど、全く似てないの。

 そもそもモノマネ芸人のモノマネだから。

「おまえの父ちゃん、キャバレーの女と駆け落ちして家出したんだってなー。うちの母ちゃんが言ってたぞ」

「ウソ! パパは天国に行ったんだから」

「違げーよ。おまえ、父ちゃんに捨てられたんだろ」

 ボクがムキになればなるほど喜んでビートは調子付く。

「やーい、捨て子ぉ~。結菜の捨て子ぉ~」

 ボクは悔しくて泣きながらビートを追いかけた。

 でもビートは逃げ足だけは速かったのでゲンコツひとつ当てることもできなかった。

 だからその悔しさを抱えたまま家まで帰って来て、ママに泣きながら訴えたわ。

「パパ、結菜とママを捨てて女の人とカケオチしたんでしょ?」

 それを聞いたママの目はみるみる丸くなって、顔を真っ赤にして叫んだの。

「誰がそんなこと言ったの」

 それは思ってもみなかったほど大きな金切り声で、ボクはびっくりしてしまって、思わずボロボロと涙をこぼしながら叫んでいた。

「田畑たけしに言われたんだから。捨て子だって」

 するとわぁと廊下に泣き崩れるボクをおいて、ママは田畑たけしの家に裸足のまま駆け込んで行って怒鳴り散らした。

 それだけでは気が収まらなかったのか、その足で学校に行き、職員室まで乗り込んで行って、担任のタカハシを呼び出した。

「先生はウチの結菜が母子家庭だってことでいじめを受けているのを見て見ぬふりするんですか。教育委員会に訴えますよ」

 おっとりしたタカハシは、今にも殴り掛かる勢いのママに詰め寄られてすっかりびびってしまって、校長室に逃げ込んだので、さらに問題は大きくなり、校長が家まで謝りにくる事態にまで発展してしまったの。

 おかげでボクはただの捨て子から、クレーマーの母親を持つ捨て子へと格下げとなり、さらにあの母親では親父が家を出て行ったのも無理はない、あの母親の血を受け継いでいる娘も、怒らせると何されるかわからない、などといった噂が学校中に広まって、ボクの立場はますます悪くなるばかりだった。


 そうして三ヶ月が過ぎた頃のことだ。

 忘れもしないあの日も町中の蝉が一斉に鳴いて、誰もが頭を混乱させずにはいられない、とても蒸し暑い日だった。

 小学四年生だったボクだって、その日図工の時間に使うことになっていたコラージュの素材を忘れたぐらいだから。

 あ、コラージュっていうのはいろいろな写真とかイラストとかの画像素材を切り抜いて、それらを組み合わせて貼り合わせ、別の意味を表現するっていう美術の手法のことね。

 一週間前に出された宿題が、コラージュに使う写真などを集めて来週の図工の時間に持ってくることというものだったらしいの。

 そんなのすっかり忘れちゃって。

 ってゆーか聞いてなかったんだけどね。

 だって蝉がうるさいんだもん。

 それで先生に、持ってくるのを忘れました、って言ったら、用意はしてあったのか、って聞かれたから、はい、って嘘言っちゃった。

 そしたらおまえん家、学校から近いんだから、走って取って来いって言うんだよ。

 マジ、ヤバいって、嘘バレちゃうじゃん。

 仕方ないから家までダッシュで帰って、自分の部屋にある雑誌の巻頭グラビアページを片っ端から破り取ってたの。

 アクセサリーの写真、恐竜のグラビア、いろいろな乗り物やロケット、宇宙飛行士の写真、オレンジやパイナップルなんかのフルーツの写真……。

 選別なしで、もう手当たり次第に破ってた。


 すると部屋にママが入って来て、びっくりして言ったの。

「結菜ちゃん、何してるの。学校はどうしたの。また何かあったのね、そうなのね、結菜ちゃん!」

 確かにママから見たら、学校をサボってヒステリックに雑誌に八つ当たりをしているように見えたのかも知れない。

 でも両肩を掴まれて前後にガクガクと揺すられて、ボクはうんざりしたんだ。

「もう、いい加減にして! ボクのことはほっといて」

「結菜ちゃん、何てこと言うの。ママ、結菜ちゃんのこと心配して……」

「もうっ! 余計なことしないでよ」

「学校で何かあったのね。ママがあれほど言っておいたのに、学校は何やってるのかしら。これからママが学校に行って……」

「バッカじゃないの。それが余計だって言ってんの! ママのせいでボクがどれだけ迷惑してると思ってんの?」

「ママのせいだって言うの? ママは結菜ちゃんがいじめられないように守ってあげてるんじゃないの」

「なんっにもわかってない! ママがめちゃくちゃにしたんだよ。もういい加減、うんざり! 出てってよぉ、出てって!」

 ママを部屋から締め出すと、ベッドに突っ伏して大泣きした。

 アンタの行為がどんだけボクを追い詰めてるかわかってないんだから。

 どんなに学校で嫌なことがあったって、それをアンタに言ったら余計に悪いことになるのはわかってるんだから。

 だから言えるワケないじゃん。

 そのまま枕に顔をうずめて泣き続けた。

 それからどれ位時間が経ったのかな。

 いつの間にかボクは眠ってしまっていたの。

 夕陽に照らされて真っ赤に染まった部屋で、ボクは目覚めた。

 ボクは薄っすら目を開けて、うつ伏せのまま窓の外の夕陽を見てた。

 蝉が鳴き散らしていた。

 そっと目を瞑る。

 瞼の裏が真っ赤に染まって見える。

 頭の中に蝉の泣き声が木霊する。

 朦朧としてくる。

 苦しい。

 苦しいよ。

 ……

 はっ!

 ……

 息が……

 息が苦しい……

 首……

 首に手が……。

 誰かがボクの首を絞めてる。

 次第に強く、深くなってくる。

 何とか首を傾けて振り返り、目を開ける。

 え? ……ママ?

 それはママだった。

 ママがボクの首を絞めているんだ。

 目が合った瞬間、夕陽で真っ赤に染まったママの形相が鬼のように一変し、その手の力を振り絞って首に指を食い込ませてくる。

 ボクはうつ伏せのままだったのでそれを跳ね除けることもできず、ママの指を掴むのが精一杯だった。

 ママの指の骨の感触。

 やめて……

 苦しい……

 マ……マ……。

 気が遠くなってくる。

 手に力が入らない。

 ボク、いまここで死ぬんだ、そう思った瞬間、電話が鳴った。

 その音を合図に、ママは我に返り、あわてて手を緩めた。

 ボクは振り払うとベッドの端まで這いつくばって逃げて行って、向き直りながら思い切り息を吸い込んで、反動でむせてしまう。

「結菜ちゃん、ごめんなさい、ごめんなさい、結菜ちゃん」

 ママは泣き喚きながらベッドの上をにじり寄り、ボクにしがみ付いて、そして強く抱き締めた。

 ママの涙がボクの頬を伝う。

 ボクはただ腹話術の人形のようにママに抱き締められながら、沈みゆく夕陽をじっと見つめていた。

 電話は留守番電話のメッセージが流れ、録音が始まる。

『誰もいないみたいです……あー、こちら緑ヶ丘小学校の担任の高橋です。実は結菜さんが忘れ物を取りに家に帰ったっきり、そのまままだ戻っていないのですが……えー、そうですねぇ、……また、電話します。失礼しまぁす』

 電話は切れた。

 それを聞いたママは、電話に向かって駆け出して行って、急いで学校に電話をかけた。

 担任のタカハシを呼び出し、実は家に帰って来てから体調が悪くなったのでこのままお休みにします、と伝えて電話を切った。


 しばらくして部屋に入って来たママは柔らかな声でこう言ったの。

「結菜ちゃん、そろそろお夕飯の時間ですからね、手を洗ってらっしゃい」

 何事もなかったように。

 さっきのは何だったの。

 まるでボクが悪い夢を見ていたようだ。

 そうか、夢なのかも知れないな。

 いや、そんなはずはない。

 まだ首の辺りが痛い。

 この痛みが夢じゃない、気をつけろ、とボクに警告していた。

 もう陽は沈んで、部屋には闇が満ち始めていた。

 ママの顔も暗くてよく見えなかった。

 でも虫歯が一本もないという自慢の歯だけが白く光って見えた。

 その歯は静かに微笑んでいたわ。

 ソレは得体の知れない、黒い顔に白い歯の怪物。

 だからその日からボクは常にソレに細心の注意を払うようになった。

 家にいる間、常にソレの動向を見逃さず、部屋に入ったらソレが不意に入って来ることがないように、三重に鍵を掛けた。


 あれから二年半経って中学に進学すると、噂は収まった。

 あの田畑たけしは私立中学に進学したから、もう会うこともなかったし。

 相変わらず、家ではソレに神経を尖らせながらも、平静を装う生活が続いていたけど、学校に行きさえすれば、ボクの魂は緊張しないで済んだんだ。

 でもそれももうおしまいだね。

 ハルカの生贄に捧げられたボクは、学校でも気が抜けなくなったんだ。

 大きく息を吸い込むと怪物に気付かれてしまうから、いつも小さく、か細く呼吸する癖がついてしまった。

 それまでは朝家を出た瞬間、大きく息を吸って、闇を落としてから学校に行っていたものだ。

 それが今では、家を出ても大きく息を吸えないんだ。

 いつも頭の中がピリピリ鳴っていた。

 そんなボクが唯一落ち着ける場所といったら、ゲーム機の中だけだった。

 そして人生の最後に届いたゲーム『シャトー・ドゥ・ファントーム』はボクが見込んだだけあって最高のゲームだった。

 まさに十四年間の人生の最後にいる場所に相応しいゲームだ。

 ファントメアというゲーム世界には相棒のヒューポーや育ての親のじっちゃんを始め、ボクの味方がたくさんいた。

 もちろん敵もたくさんいるけど、そこではボクは敵と戦う力と勇気を与えられていた。

 イヤホンを着けてボリュームをいっぱいに上げ、電源をオンにする。

 画面の中にはファントメアの青い空と草原と気持ちのいい風が吹き抜ける森があった。

 ボクはそこで初めてゆっくりと大きく息を吸い、もっとゆっくり吐き出した。

 そうすると胸につかえたものがするりと出ていく気がした。

 ボクはもうここにいるしかなかった。

 だって現実の世界には、もはやどこにも居場所なんてなかったのだから。

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