08 ところで一体ここはどこなんだ

「大変だ!」

 ビジュアルデザイナーの鳴谷が白い顔をさらに白くして駆け込んできた。

 あの日、世の中的には文化の日で祝日でしかも三連休の初日だったが、そんなことは最後の追い込みの『シャトー・ドゥ・ファントーム』チームには関係なく、スタッフ全員が出社していた。

 もちろん胡桃名も最後の調整に追われていた。

 後、大きな作業としてはエンディングの制作が残っていた。

 あの「驚愕の結末」だ。

 もちろんすでに仕様は書き終わっている。

 ビジュアルデータもすでに制作済みだ。

 BGMももう上がっている。 

 後はこれをプログラミングして入れ込む作業だけだ。

 その打ち合わせでプログラムチーフの楓馬と話している時だった。

「大変だ! 胡桃奈さん! ネットのニュース、見ましたか」

 鳴谷のただならぬ様子に皆が一斉に振り向く。

「ネットのニュース?」

 胡桃奈は急いでスマートフォンを取り出すとニュースサイトを開いた。


『渋谷で無差別通り魔殺人事件』


 今日午後四時三〇分頃、渋谷駅前で包丁を持った男が通行人を次々に襲い、五人の死傷者が出る事件があった。そのうちの一人才島涼輔さん(四十七才)は首筋や背中などを刺され、救急車で運ばれたが、搬送先の病院で死亡が確認された。


 何度も目がある一文を繰り返し追ってしまう。

『才島涼輔』『死亡』


 誰かがテレビを点けた。

 ちょうど夕方のニュース番組で渋谷から中継が入っていた。

 現場は警察によって立ち入り禁止になっていて、警官や野次馬をバックに興奮気味の男性レポーターが叫んでいた。

「渋谷の事件現場から中継です。今日午後四時三〇分頃、こちら渋谷の駅前の路上で突然刃物を持った男が暴れだし、通行人を次々に襲うという事件が発生しました。目撃者の証言によりますと、男は淡々とアイスピックや出刃包丁のようなものを振り回して斬りつけ、逃げる通行人を追い回したり、倒れた人に馬乗りになって何度も刺すといった凶行を繰り返したとのことです。犯人は駆けつけた警察官に取り押さえられ、現行犯逮捕された模様です。死傷者は一〇数名に及んでおり、救急車で次々と近くの病院に搬送されています。その中のひとり、才島涼輔さんが首筋や背中などを複数刺され、先ほど搬送先の病院で死亡が確認されました。目撃者の証言に寄りますと、才島さんは同じく死亡が確認された足立区の主婦園田妙子さんの一人娘、舞ちゃんを守るような形で覆い被さって何度も何度も背中を刺されていたそうです。舞ちゃんは無事でした。才島さんはゲームメーカー、パレットの社長で、あの社会現象にまでなった『ドラゴンファンタジア』のディレクターを経て独立、パレットの社長となってからも『フェアリークロニクル』『怪盗ラムナと黄金の仮面』などのヒット作を手掛け、近年ではスマホ向けアプリの『ドラゴンズブロック』が人気となっています」

 画面には才島が『ドラゴンファンタジアⅡ』で記者団にインタビューを受けている時の映像やパレット設立時に番組出演した際の映像が流れていた。

 テレビの前にはスタッフが集まっていて、女性スタッフはみな肩を寄せ合って泣きじゃくっていた。

 電話で叫んでいる者、どすんと椅子に崩れ落ちて放心状態の者、どこかに駆け出していく者、社内は大混乱になっていた。

 胡桃名も机に手を突いて立ったまま、テレビの中で楽しそうにゲームのアイデアを語る才島の笑顔をじっと見つめていた。


 それからは目まぐるしく日々が過ぎた。


 死亡したのが一部上場企業で急成長の新進ゲームメーカーの社長ということがわかると週刊誌や新聞の記者、ワイドショーのレポーターなどのマスコミがどっと押し寄せて、連日会社の前に詰めかけた。

 ようやく騒ぎが収まったのは才島の通夜、告別式が終わり、十二月二十四日に四十九日の法要と共にグランドプリンスホテル新高輪の飛天の間で行なわれたお別れ会の後のことだった。


 カリスマリーダーを欠いた会社は、年明けに取締役の中から銀行出身で経理担当重役の唐沢由之が選任され社長に就任し、新体制の元、継続されることになった。

 そして役員や部長たちの『復讐』が始まったのだった。


 まず開発部が、新規企画中心の第一開発本部と続編などシリーズ物中心の第二開発本部に分けられた。


 第一開発本部は胡桃名始め、創業以来才島に目を掛けられてきた生え抜きメンバーが集められていた。

 そして第二開発本部には役員や部長たちが他社から引き抜いて集めてきた人材や新入社員の時から取り込んだ、いわゆるおとなしく言う事を聞いてくれるメンバーが集められていた。

 表向きは第一開発本部が新規開拓部隊で、第二開発本部は収益部隊だったが、裏では第一潰しが狙いだった。


 第一開発本部の本部長は商社出身の藤堂雅一が、第二開発本部の本部長は広告代理店出身の田宮多津彦が任命された。

 これによって本部の下に位置する各部の独立性は失われ、すべてが本部長の承認を必要とする体制になったのである。


 それからというもの、企画審査は役員たちの総意に沿う必要があった。

 しかし才島という絶対神のおかげで何も責任を負わないでいられた彼らには、企画の善し悪しや市場の先読みなどは到底できなかった。

 だから彼らは常に新企画の穴を探し、指摘することで、企画内容が不十分であることを主張し、失敗した時の自分の責任の逃げ道を用意する必要があった。

 こうしていつしか通過する企画はどこかの会社で成功したものに似せた企画で、似たような売り方をするものばかりになっていった。


 胡桃奈は部下から愚痴にも似た相談を受けていたが、急に心にぽっかり開いた穴を埋められずに気が遠くなって、何もかもが遠い上空で起こっていることで、自分は深い縦穴の底から小さく丸く切り取られた空を眺めているような気がしていた。

 底では地上の音もくぐもってしまって良く聞き取れなかったし、自分の声も反響してしまって届かないのだった。


 年が明けて一月第二週が始まると、役員全員で集まって、現在進行中の全プロジェクトを見直す会というのが開かれるようになった。

 各部の担当するプロジェクトは順番に会議室に呼び出され、開発費、収益率、納期などを厳しくチェックされ、内容に関しても細部に渡って役員の意に沿わない部分を指摘され、修正を命じられるのだった。


 しかし、主なターゲットは第一開発本部のプロジェクトであった。

 続編などのシリーズ物を中心とした第二開発本部のプロジェクトは、前作の正当進化であればすんなり承認された。

 だが、第一開発本部はチャレンジングなプロジェクトが多かったため格好の餌食となった。

「要はやつら、才島さんが自分たちの意見を聞かずに強引に進めたプロジェクトが気に入らねぇんですよ」

 楓馬は顔を真っ赤にして怒っていた。

 心の中がそのまま顔に出てしまう分かり易さが彼のいい所でもあり、才島や胡桃名が信頼している部分でもあった。

「これは今までの復讐ですよね」

 ビジュアルチーフの鳴谷も白い顔を赤らめながら静かに怒っていた。

「第一で新しくスタートしていた二つのプロジェクトが次々にペンディングになったそうじゃないですか」

 彼は常に冷静で、心の内を顔に出さないのが常だったが、この時ばかりは少し激しい部分が垣間見えて、胡桃名をはっとさせた。

 元々ペンディングとは保留という意味なのだが、保留になって再び再始動するプロジェクトはまずないので事実上中止を意味するのである。

「あれ、結構可能性感じてたのに」

 そういうと鳴谷はちょっと不安な表情を浮かべ、

「まさかとは思うけど、うちらのプロジェクトはペンディングになんてならないでしょうねぇ」と言った。

「ここまでできててさすがにそれはないだろうよ。後、エンディングとデバッグだけなんだからよ」

 楓馬が鼻で笑いながらそう言うと、

「どうかな。一番彼らが屈辱的な思いをしたプロジェクトなのはコレかもしれないからな」

 そう胡桃名が言った瞬間、内線が鳴った。

「はい、胡桃名です。………はい、……はい、わかりました、役員会議室ですね」

 楓馬、鳴谷始め、全スタッフの視線が胡桃名に注がれる中、電話を切って立ち上がった。

「いよいよ呼ばれたよ、行ってくる」


 会議室に入ると重々しい長い会議机の真ん中に社長の唐沢、その左に藤堂専務兼第一開発本部長、右に田宮常務兼第二開発本部長、その傍に彼らの腹心の部下が座っていた。

 その向かい側の席に胡桃名が座ると藤堂が薄ら笑いを浮かべて切り出した。

「えーっと? 次のプロジェクトは何だったっけ」

「あの『シャトー・ドゥ・ファントーム』ですよ」と田宮もほくそ笑んで答えた。

「あぁ、あれか。どうなんだ、進捗状況は」

 胡桃名の方に顎を向けて藤堂が言った。

「未制作の仕様はあとひとつだけで、二月末にはノータッチデバッグに入る予定です」

 胡桃名は至って冷静に答えた。すると唐沢社長が、ふん、と鼻で笑って言った。

「まだ作るものがあるのか。もうすでに五〇億も使ってるっていうのに。才島くんは採算性の根拠ってものを持たずに進めていたがね、会社というものはそれでは済まないんだよ。才島くんのやっていたことは博打だ。会社経営ってものはね、もっと安定的に運営しなくてはならないんだよ。個人経営なら自己責任でよかったかも知れないが、我が社は今や一流の株式会社だ。株式会社である以上、株主の利益を第一に考えなくてはならないんだよ。危険な投資は避けねばならないんだ」

 唐沢社長が元銀行マンらしく金の話を持ち出すと、それに勢いづいて藤堂の攻撃が続いた。

「今までは博打がたまたまうまくいっていただけですからね。そんなのは運が良かっただけなんですから」

「これからは厳しく収益性を検討して会社を安定的に成長させる必要がある。私が社長になったからには、必ず儲かるという根拠を求めるぞ。それが示せない計画はただの博打だ。認めるわけにはいかん。どうなんだ、儲かる根拠はあるのか」

「新規のチャレンジ企画で儲かる根拠と言われましても実績があるわけではないですし、他社の事例もないものなので難しいですが、仕様面でもプロモーション面でも考え得る手はすべて尽くしているつもりです」

 ここぞとばかりに藤堂が声を張り上げる。

「だからつもりじゃダメなんだよ、必ず儲かるって根拠がなくちゃあ。ねえ、社長。それに、そもそも私はこの企画のコンセプトが理解できなかったんだよ」

 それを受けて田宮が口を開いた。

「でもここまで金掛けちゃってるものを、このまま捨てるわけにはいかないんで、ここからは少しでも早くマスターアップできるようにするしかないでしょう」ここで胡桃名の方に顔を向けると「その未制作の仕様って何なんだね」と吐き出すように言う。

「エンディングです」

 田宮が苦々しい顔で舌打ちをして言った。

「あぁ、何か才島くんが自慢気に話していた『驚愕の結末』とか言う奴か。それを作るのに月末まで掛かるっていうのか?」

「このエンディングは、それまでのプレイヤーのプレイ体験のすべてが伏線になっていて、この作品の印象を非常に強いものにするためにどうしても必要なんです」

 それを聞いた田宮は鼻で笑って言った。

「それは君のエゴだろ? そもそもこれは金を儲けるための製品であって、君の作品じゃないんだからな、そこんところをはき違えるなよ」

 むしろそこまでこだわっているエンディングを変えさせる事は最大の復讐になると田宮は考えたのだろう。恰好の餌を与えてしまったのだ。

 その餌に唐沢社長も喰らいついて強い口調で言う。

「エンディングなんて普通にめでたしめでたしで終わればいいんだよ、ゲームなんだから。それなら明日で仕様フィックス、ノータッチデバッグに入れるだろ」

「いや、しかしそれでは……」

「これは社長命令だ、いいね。胡桃名くん」

「それからタイトル名ですがね」と田宮がにやにやしながら言う。「なんかフランス語らしいですけど、どうも私は気に入らないんですよね。前から良くないって思ってたんですよ」

「田宮さん、前から言ってましたもんね。意味わかんないって。『シャトー・ドゥ・ファントーム』って何なんですかね」と藤堂。

「私には『社長が不安と思う』って聞こえますけどね」

 田宮がおどけて言うと、一同が爆笑した。そこで社長の唐沢が、

「確かに私はこの製品が儲かるかどうか、不安でたまらないよ」とおどけると一同がまた爆笑する。

「まぁ、タイトルは今から変えると商標取り直したり、宣伝物を作り直したりで余計な金がかかるからこのままで行くしか仕方がないんじゃないか」

 唐沢が口をへの字にしてそう投げ捨てるように言うと、すかさず藤堂が同調して、

「まぁ、そうですね。仰る通りです。仕方ないですよね」

「今後はタイトルも事前に役員会議で審査した方がよさそうだな」

 そう唐沢が言えば、確かに、ごもっとも、などと口々に同調の声が持ち上げる。

 役員たちが実に楽しそうに喜々として好き放題言っている間、じっと黙って聞いていた胡桃奈は、今にも泣き出したい気持ちになったが、涙は不思議と出てこなかった。

 むしろ眼球はカラカラに乾いて現実が霞んでいくような気がした。

 その後はどうでもいい馬鹿話が続いたが、胡桃名の耳には届いていなかった。


 開発ルームに胡桃名が戻ると、楓馬や鳴谷を始め、全スタッフが集まって来た。

「胡桃名さん、どうでした?」「何言われたんです?」

 皆が口々に聞いてきた。

 胡桃名は静かに顔を上げ、大きく息を吸って、ふぅと吐くと、

「明日で仕様フィックス、ノータッチに入れってよ」と投げ捨てるように言った。

 楓馬が驚いて叫んだ。

「明日までにエンディングが完成するとでも思ってるんですか」

「だからそれでできる簡単なエンディングに変更しろと言ってきた」

 鳴谷も泣きそうになって言う。

「今までいろいろなシーンで張って来た伏線が台無しじゃないですかぁ」

 胡桃名は黙っていた。

「胡桃名さん! 今からでも交渉できないんですか。ねぇ、胡桃名さん!」

 全スタッフの視線が目を上げなくても痛いほど感じられた。

 それは自分だって同じ気持ちだ。

 交渉できるものなら交渉して予定通りのエンディングを創りたい。

 でも状況はそれを許さないだろう。

 才島という後ろ盾が無くては信念を貫くことさえできない自分に胡桃名は苛立ちと怒りを覚え、同時に情けなさに締め付けられた。

 しかしこんな時こそ冷静に最善の道を探る行動を先導しなくてはと思い直すのだった。 

 それがリーダーとしての義務であり、責任であると。


「とにかく」

 胡桃名は長い沈黙を破ってゆっくり話し始めた。

「とにかく、今は明日までに何ができるか、どうすれば現時点で一番いい製品になるか、それだけを考えよう」

 かすれた声でそう絞り出すように言った胡桃名の言葉に、一同は息を飲んだ。

 胡桃名の気持ちと覚悟を、そこにいるすべての者が悟った。

 すると楓馬が、淀んだ空気を破るように、明るく言った。

「よし。どんなプログラムだって明日までに仕上げてみせるから、みんなで考えようぜ」

 これが切っ掛けになって、職種に関わらず参加するアイデア会議が始まった。

 それは夜中の一時まで続き、何とか不本意ながら辻褄は合うエンディング案がまとまり、各職種が手分けして急ピッチで制作に入ったのだった。

 完成予定は明けて朝九時のデバッグチームが出勤するまでだった。

 現場は各スタッフに任せて、胡桃名は一回家に戻って来ることにした。

「ちょっと家に戻って、明け方また来るから、それまでよろしく」

 きりっとした顔で片手を挙げてスタッフに挨拶する胡桃名に楓馬が、

「任せといてくださいよ。想像以上のものに仕上げときますから」

 そう元気に応え、スタッフたちも笑顔で手を振った。

 胡桃名が開発ルームから出ていくと、鳴谷がそっとつぶやいた。

「胡桃名さん、やっぱり相当参ってますよね」

「そりゃそうだよ、才島さんが死んで、役員に総攻撃に合って、形見のゲームのエンディングを不本意なままで作らなきゃならないんだから。家でゆっくり泣かせてやろうよ」

 それを聞いて鳴谷の目から大粒の涙が次々に溢れ出してきた。

「って、おまえが泣くなよ」


 胡桃名は心身ともに疲れ果てていた。

 ようやく帰宅できたのは深夜三時を回った頃だった。

 叩きつけるような強い雨がフロントガラスを曇らせていた。

 そしてあのカーブを上りきってマンションが見えてきたが、胡桃名の部屋の灯りは消えていた。

 サキはとっくに寝ているんだろう、そう思っていた。

 玄関の鍵を開けて部屋に入る。

 そして部屋の灯りを点けた瞬間、全てが直感的に伝わったのだ。


「え……」


 部屋はまるでモデルルームのように綺麗に片付いていて生活感がなかった。

 いや、正確に言うと生活感がないのではなかった。

 胡桃名の脱ぎっぱなしのシャツはソファの上に放ってあったし、届いたまま開封していない映画のブルーレイソフトが入ったアマゾンの封筒もテーブルにあった。

 キッチンには朝食で使った皿やマグカップが洗い物の桶に溜まっていた。

 ただ、サキの使っていたものだけが綺麗に取り除かれてきっちりと欠落していた。


 どこへ行ったんだ。いつ帰ってくるんだ。

 はっと思いつき、サキの部屋のドアを開けて、呆然とした。

 そこにあったはずのタンスも姿見の鏡もアクセサリーを入れていた飾り棚も写真集や詩集や評論集が詰まった本棚も何もかもが消えていた。

 消えていたというより、まるで元々そこに存在していなかったかのようだった。

 彼女のタンスがあった場所には胡桃名のお気に入りの画家の絵が飾られていたし、姿見の鏡があった場所には、CDを横に挿して見せる収納が売りのCDタワーがあった。

 飾り棚にはアクセサリーやバッグではなく、胡桃名が創った数々のゲームが表彰された時のトロフィーや盾などが飾られ、本棚にも胡桃名の蔵書だけが並べられていた。

 帰ってこない。

 それらはそう告げていた。

 なぜだ、なぜこのタイミングなんだ。

 サキがいてくれるだけで胡桃奈は生きていけると思えるのだった。

 今日は人生で一番サキにそばにいてほしい、そんな日だったというのに。

 それなのに。

「探さなきゃ……」

 胡桃名はそうつぶやいて、行動を起こそうとしてすぐに立ち止まってしまった。

 一体どこを探せばいいんだろう。


 こういう時、まずは彼女の親しい友人に聞いてみるのが先決だ。

 しかし彼女の友人を胡桃名は一人として思いつけなかった。

 それどころか彼女が家の外で誰と知り合いなのかすら知らなかった。

 次に実家とか故郷の親戚とかに問い合わせてみるだろう。

 しかしそれもわからなかった。

 生まれはどこなのかが話題になって、どこから来たの? と聞いてみたことはあるけれど、そういう時、彼女は決まってこう言うのだ。

「うーん、青い空がはじまるところ、かな」

「なんだよ、それ。どこなんだよ、そこ」

「ふふふ」

 ちょっと上目遣いのいたずらな仕草でそう笑う。

「じゃあ、どこへ行く気なの」と冗談めかして言うと、

「そうね、白い雲が辿り着くところ」


――そうだ。

 確かにそう言っていた。

 どこなんだ、それは。

 そうして胡桃名は愕然とした。

 出逢ってから三年間、ずっと一緒に過ごしてきたというのにサキのことを何一つ知らなかったのだ。

 今一緒にいることだけで、十分幸せだったから本気で知ろうとしなかったし、知る必要もなかった。

 そしてこのタイミングで消えなくてはならない理由もまったく見当もつかない。

 自分の知らないサキが知らない人と、何か知らない事情で知らない問題に直面し、知らないところに行かなくてはならなかったのかもしれない。

 とにかく雨の中で出逢ったシンディは、再び雨の中に消えてしまったのだ。

 この時、胡桃名の中で何かが壊れた。

 シンディはその存在自体がピートの支えだった。

 シンディの失踪はピートでいられなくなるということだ。もはや会社もスタッフも作品も、胡桃名にとって何の意味も持たない気がした。

 だからとりあえずサキのいない家を出た。


 そのまま会社には戻らず、雨の中を彷徨い歩き、気が付くと始発前でシャッターの閉まった駅の前で座り込んでいた。

 ガラガラとシャッターが開いて、駅員が準備を始める。

 胡桃名はそれを見て、ゆっくりと立ち上がるとポケットの財布ごとSUICAを自動改札機に当て、ホームに入った。

 そしてそのままホームに入って来た一番列車に吸い込まれるように乗り込んだのだった。

 なぜか気の向くままに行くとサキに引き寄せられるような気がしていた。

 しかしサキのところに向かっているはずの自分は一体どこにいるというのだろう。

 自分のいる場所を確かめられないまま、胡桃名は抜け殻のようにふらり彷徨っていた。

 そして誰もいない車内のシートに座り、ぼそりと自分に問いかけた。


「ところで一体ここはどこなんだ」

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