03 だけどシンディ、今君はどこにいるの

 電車は青白い薄曇りの空の下、昼過ぎに降りだした霧雨の中を走っていた。

 時折踏切に差し掛かるが二両編成なのであっという間に通過してしまう。

 窓からは田んぼや畑がちらほら見えはするが、田舎かというとそうでもなく、マッチ箱を縦に並べたように縦長の三階建ての建売住宅が並んでいる。

 そしてちょっとした商店街が駅周辺に集まっていた。

 しばらく走ると、今度は広い道路があって、その沿線には大型のスーパーやチェーン店のファミレスが軒を並べ、一大集客施設としての地域を形成しているのだった。


 それらの景色は次第に強まっていく雨脚で、青白く薄れていき、街はひっそりと息をひそめて沈黙する。

 そんな光景を胡桃奈裕司(くるみなゆうじ)はドアの横の手摺りにもたれかかってぼんやり眺めていた。

 いくつかローカル線を乗り継いで来たので、もはやここがどこなのかわからなくなってしまった。

 そもそもどこへ行くかは決まっていなかったし、とりあえずここではないどこかに行かなくてはならないことだけは確かだった。

 とにかく胡桃名はサキのことだけを考えていた。

 そして外の雨を見ながら、とても突然なサキとの出逢いを思い出していた。   


 株式会社パレットは中堅のゲームメーカーである。

 そこで企画課長兼プロデューサーを仕事としている胡桃名は、毎日プロジェクトのメンバーとどうしたらゲームがおもしろくなるか、どうなっていたらお客さんにわかってもらえるかを考えていた。

 そうしていい案がまとまるまで粘りに粘っていると、つい終電を乗り過ごしてしまうこともしばしばであった。

 そんな時は徹夜組のプロジェクトメンバーと近くのコンビニに買い出しに行って、一緒に夜食を食べながら温めているゲームの企画案の話をするのが常だった。


 その日も気が付くとすでに午前二時を回っていた。

 しかしその日は週末で、台風が接近する予報だったので、みな早々と帰宅してしまっていて、会社には胡桃名しか残っていなかった。

 こういう時は社用車を借りて自宅マンションまで帰ることにしていた。

 本当は社用車での帰宅は禁止されていたが、生え抜きのプロデューサーである胡桃名は暗黙の了解で許されていた。

 会社の地下駐車場から車を出すと、外はすでにかなり雨脚が強まっていて、ワイパーを最速にしてようやくフロントガラスが滲まないで見えるようになるほどだった。


 胡桃名のマンションは会社のある都心から車で三〇分程の高台の住宅街にある。

 急な坂を上りつめ、最後にある大きなカーブに差し掛かると三〇階建てのマンションが見えてくる。

 胡桃名はこのカーブが気に入っていた。

 上り坂の煽ったアングルでカーブを曲がり、次第に回り込んでいくと次々に街路樹が現れてきて、その後ろからマンションが生えてくるように伸びていくのが映画のカメラワークのようでワクワクする。

 だからそのカーブは一定の、そして絶妙のスピードとなめらかなハンドルワークで曲がる必要があるのである。

 そもそもここを買う決め手になったのも、たまたま当てもなくドライブしている時に建築中のマンションがこのカーブで姿を現してくるシーンに出くわして感動したからだった。


 しかし、その日は強い雨に煙って良く見えなかった。

 でも暗い中にぼんやりとマンションの灯りが霞んで見えるのも、それはそれで近未来的な映像のようで悪くない。

 胡桃名はカメラワークを意識して、絶妙のスピードになるようにアクセルを踏み込みながらカーブに差し掛かった。

 と、次の瞬間、対向車のアッパーライトが視界を覆った。

 かなりのスピードでカーブを膨らんでこちらの車線にはみ出してきている。

 咄嗟に胡桃名はハンドルを左に切る。

 すると今度は正面に真っ赤な傘が目に入った。


 人だ!

 このまま行ったら撥ねてしまう!


 反射的に逆にハンドルを切ってブレーキを踏んでいた。

 車はスリップし、尻を振り回して逆向きになり、反対車線上で止まった。

 ぎりぎりの所で赤い傘の人にも対向車にも当たらないで済んだようだ。

 対向車はちょっとスピードを落としかけたが、ブオンと加速して走り去っていくのが見えた。

 そしてちょっと視線を右に移すと真っ赤な傘に目が釘付けになった。


 地面に真っ赤な傘が転がっている。

 それは車のヘッドライトに照らされて真っ赤に燃え上がるようだ。

 その表面に雨が強く叩きつけて撥ねているのが見える。

 撥ねてしまったのか?

 いや、ぶつかってはいないはずだ。衝撃はなかったから。

 でも驚いて転んでしまったのだろうか。

 打ち所が悪ければ大ケガをしているかもしれない。 

 とにかく降りて助けなくては。


 我に返った胡桃名は、車を飛び出すと赤い傘に駆け寄りながら叫んだ。

「大丈夫ですかぁ」

 強い雨が地面を叩きつける音で声はかき消されてしまう。

 傘の影になって人の姿は見えない。

 もっと近寄っていくと次第に傘に隠れていた部分が見えてくる。

 そして傘の手前まで来て中を覗き込むと、そこには膝を抱えて小さくうずくまっている女性がいた。傘にすっぽり隠れて見えなかったのだ。

「大丈夫? ケガは? ケガしてない?」

 彼女はずぶ濡れになってこちらを見上げた。

「大丈夫……みたい……」

 ちょっと放心したように目を丸くして、肩まで伸びた髪は濡れて体にぴったりと張りついていた。

「とりあえず……とりあえず、さ。車に乗って。僕の家すぐそこだから」

「大丈夫、歩いて帰れるから」

 そう言いながら立ち上がろうとするとガクッと足首から崩れて倒れ込んできた。

 あわてて胡桃名が手を差し伸べて抱きかかえる。

「あれ、やっぱりどこかケガしてるんじゃないの?」

「ちょっと足首を挫いちゃったかな」

「やっぱりとりあえず家に、ね」

 そうして彼女を二十九階にある部屋に招き入れた。


 部屋はデザイナーズマンションに似つかわしいシックな家具で統一され、間接照明が落ち着いた雰囲気を演出していた。

「あ、そこのソファに座ってて、今湿布持ってくるから。あと、これタオル」

 バスタオルを渡し、奥の部屋に入っていった。

 彼女はバスタオルで頭を拭きながらソファに腰かけて、周りを見回した。

 壁一面に大きな書棚があり、そこには映画のDVDやブルーレイのソフトがジャンル別に分類されて並んでいた。

 胡桃名は救急箱を持って戻ってくると中から湿布を取り出した。

「ちょっと見せて」

 足元に跪いて彼女の足首を見ると、くるぶしの下あたりがちょっと痣になって腫れていた。

「やっぱりちょっと捻挫してるね。ごめんね、俺の不注意でこんなことに」

「あ、いや、私もちょっとぼんやりしてたから……」

 患部に湿布を貼り終わって、上を見上げると彼女と目が合った。

 澄んだ吸い込まれそうな目だった。

 一瞬時が止まったが、その視線はさっと外されて、書棚に向けられた。

「映画。……」

「え?」

「好きなのね、映画」

「ああ、映画。そうだね。えっと、あー、名前、なんだっけ……」

「あ、私サキ。立花サキ」

「立花さん、あぁ、立花さんも映画好きなの?」

「まぁ、好きな方かな」

「どんなの観るの?」

「一応話題になってる映画は一通り。後はミニシアター系とかも、ちょっと」

「へぇー」

「そこの棚ので言ったら『フィッツカラルド』とかは観たな」

「ヴェルナー・ヘルツォーク! いいよね、あれ。船を引っ張り上げてジャングルの山を越えるんだよね」

「そうそう。もうびっくりしちゃって」

「あの当時はCGなんてなかったから、本当にやってるんだよな。奇跡だよね」


 サキは映画通というわけではないが、多少は映画や監督、俳優についての知識を持ち合わせていて、いろいろとネタ振りをして胡桃奈から話を引き出すのだった。

 だから胡桃奈は今までに観た映画の話や好きな監督の演出や映像表現についてなどを話しまくった。

 そしてふと彼女がニコニコ楽しそうに聞いているのに気付き、

「あれ? また僕ばっか話してるよ。楽しいの?」

 と聞くと、

「楽しいよ」

 と、また瞳をくりっと見開いて微笑んでみせるので、胡桃奈はますます調子に乗って話し始めるのだった。

 そんなことを繰り返すうち、いつの間にかソファで眠ってしまっていた。

 朝日を浴びて目を覚ました胡桃名は、ふと夕べのことが夢だったような気がした。

 しかし、キッチンからフライパンで卵を焼く音が聞こえたので、そっと近づいてのぞいてみるとそこには確かにサキがいた。

「おはよう。目玉焼き、食べる?」

 夕べと同じ笑顔でそう言うサキは、寝不足の目にはまぶしかった。


 それからというもの、二人は度々連絡を取り合い、逢うようになった。

 二人で映画を観に行ったり、公園で噴水を眺めたり、遊園地に行ったり、京橋のフィルムセンターで小津特集を立て続けに観たり、そしてその後食事をしながら、また映画の話をした。


 サキは郊外に一人暮らしをしていた。

 いつもデートは渋谷や新宿や横浜だったので彼女は十一時には帰らなければならなかった。

 それが付き合いだしてから一ヶ月程した頃から、サキは帰る時間になると決まって無口になって淋しそうな顔をするようになった。 

 そんな時胡桃奈が「今日は泊まってく?」と言うと途端に晴々した顔になって、うん、と頷くのだった。

 胡桃奈はその笑顔を見るのが何よりも好きだった。


 そうしていつしかサキは胡桃奈の家にずっと住むようになり、いるのが当たり前になった。

 部屋も整理してサキの部屋を作った。

 家具や姿見の鏡や本棚なども買い揃え、毎日一緒に起き、食事をし、映画を観、風呂に浸かり、話をし、笑い、寝た。

 ふたりはよく似ていた。

 物事の感じ方や、感動する瞬間や気になる事柄が同じだった。 

 よく同時に同じことが頭に浮かんで、同時に同じ言葉を発することがあった。

 合唱で合わせようと思っても、なかなかこうはうまく合わないのではないかという位のハミング具合だった。

 しかも言葉の言い回しやテンポまで一致しているので、その度に驚き、嬉しくて笑い合うことが頻繁にあるのだった。

 それはまるで双子の兄妹のようだった。

 幼子の頃に生き別れた双子の兄妹なのではないかと疑ったりしたが、歳が五つ離れているのでそれはあり得なかった。

 そういう瞬間を思い出すたびに胡桃名は嬉しくなった。 

 これは運命的な出逢いなのだと。

 世界中でこのような運命的な出逢いができる人間はそういないんじゃないだろうか。


「……って信じる?」

「えっ?」


 いつの間にか話し掛けていたサキの言葉に、胡桃名は不意に我に返り、サキの話を聞いていなかったことに気付いた。


「また聞いてなかったでしょ」

 サキはいたずらっぽく唇を尖らせながら、胡桃名の耳をつまんだ。

「てて……ごめんごめん。で、何を信じるかって?」

「だから人間が死んだら生まれ変わるっていうけど、信じるかって」

「うーん、俺は、そうだなぁ、信じる、かな?」

「そうなんだ。私はちょっと信じがたい。死んだらそれまでだと思うな」

「どうしてそう思うの?」

「だって考えてみて。人間が人間に生まれ変わるんだとしたら、ひとりが死んでひとりが生まれるのだから、世界の人口は増えないはずでしょ? なのに世界の人口は増えていくじゃない? これって矛盾してるよね」

「でも人間が死んでかならず人間に生まれ変わるわけじゃないでしょ? 他の動物や昆虫や、植物に生まれ変わるかもしれないし」

 それを聞くとサキはちょっと意地悪く微笑んで、

「ま、人間に生まれ変わることもあるとして、もし人間が人間じゃない動物や昆虫や木や草花にも生まれ変わることがあるとしたら、そっちに生まれ変わる確率がほとんどで、滅多に人間に生まれ変わることなんかないはずじゃない?」

 すると胡桃名はちょっと思案して、

「うーん、やっぱり違うな。人間は必ず人間に生まれ変わるんだよ。だって催眠術で前世まで戻された人が急に習ったこともないドイツ語で喋ったりすることはあっても、馬の鳴き声で鳴いたりすることってないじゃん」

「それが人間に生まれ変わる証拠?」

 呆れた顔でサキが言うと、胡桃名は斜め四五度の空中を見上げながら呟いた。

「あ」

 小さく口を突いて出た『あ』の瞬間、胡桃名の脳裏にひとつのひらめきが光った。

「俺、わかっちゃったかも……」

 胡桃名の目がどんどん見開かれていく。

「何が?」

 胡桃名は晴れ晴れした顔でサキに向き直る。

「何が、って生まれ変わりの真実をだよ」

「生まれ変わりの真実?」

「やっぱり人間は必ず人間に生まれ変わるんだよ。ただ、ひとりの人間が死んで生まれ変わる時に、その魂が分裂して複数の体に宿ることがあるんだよ、きっと」

「前世では同じひとりの人間だったってこと?」

「そう」

「わたしとあなたも前世では同じひとりの人間だったって?」

「そうそう、そうだよ、あー、謎が解けたよ。そうか、そういうことなんだ。前世でひとりの人間だったふたりは同じ感覚を持ち、互いに惹かれ合い、互いを必要としている。それが運命的な出逢いってものなんだよ」

「ふ~ん。それ、今、発見したんだ」

「そう、今、発見した」

「ちょっとおもしろいね」

「だろ? そういうふたりが現世で出逢うのは天文学的な確率で奇跡的な事件なんだ。だから君との出逢いは地球の存在と同じくらいの奇跡なんだよ」


 こういう話をする時、胡桃奈はまるで子供のような目をして夢中で話すのだった。

 それを幸せそうな笑顔でニヤニヤしながらサキは聞いている。

 ふと我に返って胡桃名が、

「なに? その何か言いたげな笑顔は」

と聞くと、

「だってピートくんってそういう話するとき、いつも子供みたいに無邪気な顔よねーって思って」

 そんな彼を彼女はピートと呼んだ。

 ピートというのは、永遠に子供のままでいるネバーランドのピーターパンを略したニックネームだった。

 胡桃奈はピートと呼ばれるのをちょっとむっとして見せるけれども、実は割りと気に入っていた。

「そういう君だって人のこと言えないよ。いつだって夢見がちの夢見る夢子ちゃんじゃん。そうだな、僕がピートなら君はシンディだ。いつか王子様が迎えに来て幸せにしてくれると本気で信じてるシンデレラのシンディ」

「なにそれ」

 それからは互いに、冗談めかして話すときにはピート、シンディと呼び合うようになったのだった。


 シンディがそばにいるだけで胡桃名の心は安らいだ。

 シンディと他愛ない会話をするだけで笑顔になれた。

 シンディが微笑むだけでしあわせになれた。

 シンディがいるからピートでいられたのだった。


「シンディ……」


 胡桃名は電車の扉の脇にもたれ掛かって流れていく外の景色を眺めながらつぶやいてみた。


「だけどシンディ、今君はどこにいるの」

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