勇者の「血」

 イルマの耳元でささやいた俺の言葉は、後ろに控えているクリーク達にも聞こえていただろう。

 でも、もっとも驚きを現わしたのは誰あろう……イルマだった。


「だ……だめです……先生……! わ……私から……離れて……!」


 それに対してイルマは、苦し気ながら、それでいて力強い語気でそう返答して来たんだ。

 それはどちらかと言えば……懇願の様でもあった。


「な……何を言ってるのよ、先生!?」


 そんな俺とイルマのやり取りを見て、どうにも要領を得ていないんだろうソルシエがそう問いかけて来たんだ。

 そしてその気持ちは、恐らくクリークやダレンも同様だろう。


 吸血鬼や吸血怪物は、その体内に「呪液」を持っている。

 奴らはそれを噛みついた相手に注入し、それを以て相手を同族に……眷属に仕立て上げる厭らしい怪物だ。

 その呪いに、イルマは今まさに侵されている。

 そしてその呪いを「解呪」する為には特殊な魔法か、特殊な呪法、もしくは教会での祈りが必要となるんだ。

 でも残念ながら、俺に解呪魔法なんて無いし、それに類する呪法やらアイテムの持ち合わせも無い。

 教会へ向かうにも、今や転移魔法シフトを使っても間に合わないだろう。

 だけど俺には……いや、俺だからこそ彼女に掛けられた呪いをどうにかする術があるんだ。


「きゅ……吸血鬼の呪いに掛かった者に噛まれたら、それが完全な吸血鬼になっていなくても……今度はその人が吸血鬼の呪いに侵されてしまうのよっ!? 先生、分かってるのよねっ!?」


「せ……先生……。もう……私から離れて……。でないと……私……!」


「だからだよ。だからイルマ……俺の血を吸うんだ」


 俺は猛抗議をして来たソルシエを完全に無視して、意識さえ朦朧としてきているイルマを確りと見据えてそう答えたんだ。

 薄っすらと開かれた彼女の口元からは、既に新しく生えて来ている牙が覗いている。

 彼女の体内では、すでにかなり呪いが進行しているんだろう。

 恐らくは……ここまで耐える事が出来たんだろうな。

 だがもう……限界な筈だ。

 俺は更にイルマの頭を抱きかかえ、彼女の顔を俺の首筋に押し当てる様にしたんだ。

 そんな事をされれば、例えイルマであっても、もう堪える事なんて出来ないだろう。


「安心しろ、イルマ。俺は、他の『人』とは違う。俺は……『勇者』だ。俺の存在は、その『血』に至るまで特別で……俺の血はお前の薬になる。だから安心して良いんだ……。俺を噛んでも、お前が吸血鬼化する事は無い」


「う……せ……先生……。ごめんなさい……」


 俺が最後の一押しを言ってやると、もはや身の内より押し寄せる欲望を抑える事が出来ず、イルマは大筋の涙を流しながら俺の首筋にその牙を……突き立てたんだ。

 プツリ……と皮膚を破る小さな音が俺には聞こえた気がした。

 そしてしばらくの間、イルマが喉を鳴らす音だけが周囲に聞こえていた。

 そしてその光景を、クリーク達はただ見守るしか出来なかったんだ。





 イルマは、その欲望を満足させると同時に、泣きながら深い眠りについたんだ。

 眠る直前に彼女が呟いた「ありがとう」と言う言葉には、様々な意味が込められていた。

 そんな彼女の表情は、今安堵に包まれている。

 本当だったならば、この行為は危険以外の何物でもない。

 何故ならば吸血鬼化した人物が他者の血を吸う行為と言うのは……人間としての最後の一線を踏み越える行為に他ならないからだ。

 如何に強靭な精神を持っている者であっても、もしも自らの欲望に抗えず人間の血を吸うと言う行為を行ってしまえば……その心は折れてしまう。

 心の折れた人ほど、闇に堕ちるのは驚くほど容易いだろう。

 自分が怪物と同じ様な行為をしてしまったという罪悪感が、その者を真の魔物と化してしまう引き金となるんだ。

 彼女は……イルマは、それをこそ恐れていたに違いない。


 一般的な見地から言えば、人を襲い血を吸った人間はそのまま完全な吸血鬼化を済ませ、間を置く事も無く周囲にいる者達をも襲うのだ。

 そして周りに獲物がいなくなると、何処かへと姿をくらませてしまう。

 今のイルマのように、安らかな寝息を立てて眠ると言う事は無い筈だった。

 彼女が今、穏やかに眠っていられるのはまさに……なんだ。

 勇者は、どんな毒や呪い、状態異常であっても、それが元で死ぬ事は無い。

 それは、聖霊様に受けた加護のお蔭だと言う者もいる。

 または、その強靭な使命感から来る意志の力だと言う人も少なくはない。


 でも本当は、この身体に流れる「血」のお蔭なんだ。


 いつの段階でそうなるのかは分からないが、気付けば俺の体内に流れる「血」は様々な害毒を寄せ付けないものになっていたんだ。

 ただしその絶対的な効果は、俺自身にしか発揮しない。

 それでも俺の血を飲んだ者には、少なからずその恩恵を受ける事が出来るんだ。

 もっともその事を知るのは、今となっては俺と、以前の仲間だった者達……そして道具屋のマルシャンぐらいだろう。

 もしもそんな事が世間に知れ渡ってしまったら、俺は四六時中魔族どころか人族にも命を狙われてしまう事になるだろうからなぁ……。

 世界を救う勇者だとか人族の希望だ何だと言われていても、その血が様々な事に役立つなんて知られれば……。

 ましてや、その血で売買が行われたり、その血を巡って争いなんて起ころうものなら……目も当てられない。


 兎に角イルマは俺の血を摂取した事で、進行していた吸血鬼化が急激に減衰している事だろう。

 この辺りに生息する吸血怪物ブラッド・サッカー程度の呪液ならば、もしかすれば快癒させる事が出来るかもしれない。


「イ……イルマは……どうなったんだ……?」


 落ち着きを取り戻し寝息を立てるイルマを見て、クリークが恐々とそう問いかけてきた。

 その気持ちは他の面々も同様の様で、ソルシエとダレンも共に不安そうな表情をしている。


「とりあえず、危険な状態は回避できただろう。後は教会に連れて行って、本格的に治療でもしてやればそうだな……2.3日で回復するんじゃないか?」


 俺がはだけた衣服を直しながら、問いかけてきたクリークにそう答えてやると。


「ほ……本当かっ!?」


「イ……イルマァ……」


「せ……先生っ! ありがとうございますっ!」


 それぞれに一同は安堵の表情を見せて、思い思いの言葉を呟いていた。

 でも、安心するのはまだ早い。

 ここは町や村の中でも、安全地帯でも何でもないからな。


「じゃあ、一旦大きな教会の有る街へ……此処からだと『プリメロの街』になるか……そこに行くぞ」


「「「はいっ!」」」


 俺がそう提案すると、現金なものでクリーク達は元気いっぱいにそう答えたんだ。

 ほんと……何時もこれくらい素直ならなぁ……。


「じゃあ、お前達。俺の近くまで来い」


 そんな彼等に呆れながら、俺はクリーク達に俺へと近づくように指示したんだ。


「え……?」


「先生……それは……」


 ソルシエが驚きの声を上げ、ダレンが何かを察したのか俺に問い返して来ようとしたんだが。


「今回は特別だ。イルマも急がないと、容体がどう急変するか分からないからな。俺の魔法でお前達も一緒に連れて行ってやるよ」


「ほ……本当か―――っ!」


 本来なら、こんな事は絶対にしないだろうが……今は場合が場合だからな。

 イルマだけ連れ帰ると言う手もあるんだが、彼女を看病するにも人手はいる。

 俺は恐らく……、こいつらに任せるしかないからな。

 なのにクリークの奴は、状況も考えずに大喜びしやがって……まったく……。


「クリーク、うるさいぞ。それじゃあ飛ぶからな」


 俺はクリークに一言釘を刺すと、そのまま転移魔法を行使してプリメロの街へと向かったんだ。





 プリメロの街へと到着した俺達は、早速教会へと向かいイルマを看て貰ったんだ。

 事情を話す際、と付け加えただけで、協会の職員は然して疑問を持つ事も無く彼女の診察をする事に承諾してくれた。

 言うまでもなく俺は勇者で、歴戦の勇士だ。

 吸血鬼に噛まれた際の処置は勿論、その解呪方法を知っていてもおかしくはない……そう職員は思ってくれたんだろうな。

 俺がわざわざイルマを連れて、クリーク達をも伴って教会へと来たのにはこう言った理由があったんだ。

 まだまだ駆け出しのクリーク達が、もしもイルマが吸血鬼に噛まれた事を説明したとして、患者である彼女を看れば恐らく奇異に思うだろう。

 なんせ、吸血鬼に噛まれたはずのイルマは容体が安定し、更には回復傾向にあるんだからな。

 クリーク達には当然の事ながら、そんな事の出来る技術やら道具がある訳じゃあない。

 疑問に思った職員が、クリーク達に根掘り葉掘り聞くと言う事も十分考えられるからなぁ。


 一先ずイルマを職員に任せて、俺はクリーク達を俺の部屋に連れて来ていた。

 その理由は言わずもがな、こいつ等が戦っていた「シュロス城」で何があったのか、その詳細を聞く為だった。

 イルマが心配なんだろうクリーク達はブツブツと文句を垂れていたが、俺にだって都合ってもんがあるんだ。

 、確りと事情を説明して貰わなければならないからな。


 そして俺は、目の前に座る彼等に、あの時あの場で何があったのかを聞いたんだった。

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