約束。
降る。
数え切れない程の〝白〟が辺り一面を埋め尽くす。
積もる。
元あった景色を、真っ白に変える。
吹雪(ふぶ)く。
そしたらもう、帰れない。
❄︎
3月の終わり。
シーズンも過ぎたし、今ならゲレンデも空いているだろうという企みから生まれた、突発的な一泊二日のスキー旅行。突然の提案にも関わらず集まった、つまりは暇人三人で長野県にあるゲレンデまで車を飛ばす。雪が見え始めてから慌ててタイヤにチェーンを巻いたり、道に迷いそうになったりとスムーズにはいかなかったが、それでもなんとか10時前にはホテルに到着する事が出来た。チェックインや着替えも早々に、各々器具を持ってホテルの裏のゲレンデへ。
「しっかし……。まぁ、寒いな」
この旅行の発案者──太田(おおた)が目を細めながら呟く。掛けたスポーツサングラスのレンズには、早くも雪の結晶が付着している。
「ゲレンデなんだから、そりゃそうじゃんね」
同意とツッコミを同時にこなすのは、太田の親友──沢井(さわい)。ニット帽からはみ出た前髪は金色。
「三月だから余裕だとばかり」
肩を抱きながら、予想外の寒さに震えるのは、俺こと今泉(いまいずみ)。太田の無茶苦茶にノリで付いてきてしまった暇人だ。沢井も間違い無くそうなのだが、アイツは太田が行くと言えばどこへでも付いていくだろうからノリとは少し違うというか。うーん、説明が面倒だ。
「どうした、平(ひょう)」
平。
今泉 平。
ね、凄いでしょ。息子にこんな名前付けますかってぐらい変な名前でしょ。でも、ひょうって名前はゲレンデとか寒い時期に合ってるから何だか素敵だよね。
んな訳ねぇだろ。嫌いだわこの名前。
「悪い、寒さで関節が固まってた」
「三月末を理由に、下にヒートテックを着てこなかったのが仇となったか」
「しょうがないってー。今っちはゲレンデ初心者だし」
凍える俺を見て笑う太田。そんな俺を見兼ねてフォローを入れてくれた沢井は、やってる内にあったまるっしょと適当抜かしながらリフトへと歩いていった。リフト券は乗り放題の物を買っているので、特に焦る必要は無い筈なのだが、少しでも早くリフトに乗りたいのだろう。
──そう。
沢井が言った通り、俺は初心者なのだ。スキーもスノボも触った事すら無いし、ソリすら乗った事が無い。地元で雪が降る事は稀にあるが、その度に寒いとボヤいて家に引き籠るような──寒いのが嫌いな馬鹿野郎なのだ。
しかし、このままじゃまずいと思って太田の誘いに乗ったのはつい先日のこと。俺達は四月から大学生になるので、女の子と遊びに行く際にスキースノボの一つくらい出来ておかなければと思ったかだ。
ちなみに、太田と沢井は何回も経験しているのでバチバチに滑れるらしい。今日は、俺への指導半分滑り半分の割合で付き合ってくれる事になっている。ありがたいね。
「ほら、平。リフトに乗るぞ」
「おう、今行く」
太田に急かされながらリフト乗り場へと、重たいスノボ専用の靴を履いた足を動かしながら急ぐ。
本当は、ボードを片足に固定したままリフトに乗るらしいのだが、初心者にそんな事が出来る訳がない。両手に抱えて、太田と沢井に挟まれて昇って行く。
「何か、この感じ懐かしいな」
「どしたん?」
「昔、家族と一度だけここに来た事があるんだ」
「何だ。滑った事あるんじゃないか」
「違う。俺が来たのは夏だ。ほら、ここって雪が無い時はアスレチックとかあるだろ」
「ああ、反対側のアレ?」
補足しておくと、この山はスキー場とアスレチック。冬と夏で山を頂上から縦に綺麗に分けて運営している。向こう側にもリフトがあって、アスレチックをこなしながら段々下山していくという形。
俺が昔に来た事があるのは夏、加えて反対側の山で、今俺達がいるのは冬側の山という訳だ。
「その時に、ルートからはぐれて迷子になっちまってな。知らない女の人に助けてもらったのを覚えてる」
「他所様の親御さんか?」
「分からん。ただ、綺麗だったから何となく覚えてるんだ」
「ロマンチックだな」
太田がそんな感想を残して、この話は終わる。別に広げるほど深い話でもないので、こちらとしてもありがたい。
俺が迷子になって、綺麗な女の人に助けてもらった。ただそれだけの話なのだから。
それからは、雪景色を楽しんだり、ホテルに帰ってからの計画なんかを立てたりしたらいつの間にか頂上に着いていた。人が流れない端っこに移動して、もたもたと準備を始める。
スケボーは何回か触った事があるので、スノボの方が覚え易いだろうという二人の配慮によって、俺はホテルでスノボを借りている。確かにフォームは似てるし、足元が固定されている分スケボーよりも簡単かも知れない。
と、思っていた時期が俺にもありました。
記念すべき最初の一滑りと洒落込もうとした矢先の大転倒。
「大丈夫か、平」
「無理だ。難しい」
「そう言うな。誰だって最初は初心者さ」
眩い日差しと、それを受けて日差しを照り返す白い雪。転んだまま仰向けになり、目を細めながら呟くと、太田が苦笑しながら手を貸してくれた。
「半日も練習すれば滑れるようになるって!」
俺と同じようにスノーボードに乗った沢井が(同じ筈なのだが、沢井はなんだか軽やかだ)立ち上がった俺の肩をバンバン叩く。そうかなぁ。俺みたいな雑魚でも滑れるようになるかなぁ。
二人の優しさに涙が出そうだ。
「ゆっくりで良い。俺も沢井も、平を置いて先に行ったりしない。平が一人で滑れるようになったら、それから楽しもう」
「太田……!」
「今っちがまともに滑れるように、コツとか色々教えるって!」
「沢井……!」
それから、二人による猛指導が始まった。
天候の変化に適応出来るようにゴーグルを着けてはいるが、ゴーグルと服に覆われていない部位なんかは、照り返しで早くも日焼けしている。
何度も何度もリフトで上まで登っているので、リフト乗り場のスピーカーから流れる曲は口ずさめるようになって。
棒立ちで滑らない方が良いと覚えて。
膝は少し曲げた方が良いと覚えて。
サイドスリップが出来るようになって。
滑っている最中でのボードの動かし方を覚えて。
怪我をしない転び方を覚えて。
木の葉滑りが出来るようになって。
おやつ時には、もう滅多に転ばなくなった。
「……成長したな、平」
「凄いよ今っち!」
「あぁ……!これで俺も安心してキャンパスライフを楽しめるぜ」
今まで、付きっきりで指導してくれた二人と、順番に固い握手を交わす。今度なんか奢るよとお互い旅行が終わる頃には忘れていそうな約束まで交わし、これからは各々自由に滑ろうと笑い合って、もう何度目かも分からないリフト乗り場へと足を運んだ。
❄︎
「……何だ、この天気」
ビュウビュウ。
ゴウゴウ。
リフトが山の頂上に到達した途端に、突如として荒れ始めた天候。
木々が揺れる程の暴風と、それに降雪が混じって吹雪き始める。
両足とボードを固定し終える頃には、数メートル先の景色さえ霞んでしまう程の猛吹雪に襲われてしまっていた。
山の上は天気が変わり易いとは言え、ここまでとは。自然の恐ろしさに愕然としながらも、スノーボードを固定する。
「……このままリフトで降りるっていうのも萎えるしな。このまま滑って今日は最後にしよう。下まで降りたらホテルに帰って、暖かい風呂に入ろう」
「平は大丈夫なのか?」
「今日だけで何十回と通ったコースだ。多少視界が悪くても感覚で覚えてる」
「……分かった。だか一応、俺が先頭で滑ろう。それで」
「オレが今っちを挟んで殿(しんがり)って事っしょ?」
「そうだ。頼むぞ」
「オッケー」
せめて、初心者を真ん中に置こうという計らい。二人の優しさに心を温めつつも、立ち上がる。
「これ以上天候が悪くなったらまずい。焦らずに、なるべく急いで降りる事にしよう」
「矛盾してね?」
「気のせいだ」
言って、太田がまず斜面に。それから、近過ぎず遠過ぎずの距離を見計らって俺も続く。その数秒後に、沢井の「ヒュウ!」というテンション高めの声が。
ゴーグルを被ってはいるが、それでも頬とか口なんかは外気に曝されている訳で。正面からぶつかってくる吹雪にチクチクとした痛みを覚える。
「着いてきてるか!?」
前を走る太田の声が微かに聞こえ、俺もこの吹雪にかき消されないように必死に叫ぶ。
「俺は大丈夫!沢井は!?」
オレも大──。
後ろから返ってきた沢井の声に安心しかけた時、突然目の前に一本の木が。何でこんなスキー場のど真ん中に、と焦りと疑問を一緒くたにしながらも、急停止なんて出来る訳がない身体は一直線に木のど真ん中へと突っ込んでいった。
慌ててついた両手に、まずは衝撃。それでも勢いを殺し切れず、木の横を通り過ぎてゴロゴロと雪原を転がりながら、必死にボードを横にして速度を落とす。視界が何度も回り、やがて停止。ゴーグルに付着した雪を手で払いながらボードに固定していた足を外す。
「……は?」
頭を振ってから立ち上がる。そこでようやく違和感に気付いた。両手のじゃない。景色のだ。
俺は先程までゲレンデのコースを、太田と沢井と三人でゆっくりと滑っていた筈だ。吹雪で視界こそ悪かったが、今日だけで何度も滑ってきたコースだ。体感で今どの辺りを滑っているかは何となく分かる。べらぼうな速度で飛ばしていた訳でもない。しかし、今目の前に広がる景色はコース内のどこにも該当しない。コースアウトしたにしても、見渡す限り斜面なんて見当たらない。観光客も動物も在(い)ない、周りを木々に囲まれた雪原だ。
「どこまで転がってきたんだ俺は……」
尚も身体に打ち付ける吹雪に身を縮こませながらも、天候が同じということは、知らぬ間にワープしている訳ではないのだろうと変に安心しておく。
兎に角、このまま吹雪に曝されるのはまずい。転んで潰してしまわないようにとスマホはホテルに置いてきてしまっているので、何とかして人に出会わないといけない。
周囲に足跡は無く、ふわふわの雪(パウダースノーというヤツか)が膝辺りまで積もっているものだから、歩く度(たび)に足を取られそうになる。ボードを杖代わりに、深い穴や段差なんかに埋まらないように確認しながらゆっくりと歩く。
ビュウビュウ。
首を縮めてもウェアの隙間から入り込んでくる寒気に凍えながら、何とか雪原を歩く。元来た道を戻ろうにも、木にぶつかった後に転がったので、どこから来たのか分からなくなってしまったのだ。
だから、兎に角歩く。
木がある方に行けば、ゲレンデのコースに戻れるかも知れない。そんな一縷の望みに懸けて、歩く。
くしゃみ。
唾液が飛散する瞬間に目を瞑り、再び瞼(まぶた)を開ければ、目の前には木造の家が建っていた。
まるで、元々そこに存在していたかのような貫禄さえ感じる堂々とした建築物。
雪が積もらないように、ほぼ壁くらいの角度がついた屋根。
「……どういう事だ」
もしかすると、現実の俺は木にぶつかった後に気絶をしていて、これは夢の中なのではないかと目の前の出来事を疑ってしまう。現実の俺は吹雪の中、雪中に埋もれてしまっているのではないかと嘘か誠か分からない仮説を心配してしまう。
前を向く。
ぽつんと、雪原のど真ん中に存在する木造の家には灯りが付いている。
「……行くしかないか」
このまま雪原を歩き続けていても、いずれは賭けに出なければいけないのは確か。ならば、今この家を訪ね、吹雪が収まるまで中に居させてもらうように頼んだ方が現実的だ。
引き戸のガラスを叩く。ノックと共に引き戸が揺れ、これで寒さを凌げるのかと少し不安になってしまう。ここまでの流れに現実感が無いので、死ぬ間際に見る幻覚ではないかと未だに疑っている。
「どなたかいらっしゃいませんか」
……。
けれども家の中から応答は無く、もう一度ノックをしようと構えた所で引き戸がガラガラと開いた。戸の向こうには、またまた現実感の無い、着物姿がよく似合う美しい少女が立っていた。
「──どうしたのじゃ」
息を呑む程の──呼吸を忘れる程の美しさを持つ少女に暫しの間硬直していると、用件も話さない俺に美少女が問い掛けてきた。慌てて正気に戻り、詰まりそうになる言葉を何とか捻り出す。
「ここの近くにあるゲレンデでスノーボードをしていたんですけど、転んだ拍子に迷子になってしまって……。よければ、少しの間ここに居させてもらえませんか」
「良いぞ。入るがよい」
少女は特に考える様子も無く、ほぼ即答といった感じで俺の訪問を許諾。玄関の外に雪まみれのスキーウェアを置こうとすると「その服と板は儂が預かっておこう」と俺のスキーウェアを持っていってしまった。その代わりに浴衣のような衣服を借りて、それを着る事に。正式な客人でもないのに何だか悪いなと思いながら、少女の後に続く。
通されたのは、部屋の真ん中に囲炉裏(生で見たのは初めてだ)のある部屋。囲炉裏の周りに座布団が敷いてある。語彙力の無さ故にまともな説明なんぞ出来ないので、なるべく端的に分かり易く。
頭の中に思い浮かぶ雪国の田舎。
「ここで待っておれ。今、茶を入れてくる」
「そんな、お構いなく」
「馬鹿者。久方振りの客人なのじゃ。もてなさんでどうする」
「は、はぁ……」
そう言って、恐らくは台所らしき所に引き戸を挟んで消えていく少女。戸惑いながらも、二つある内の赤と青。俺は青い座布団の方に座る事に。
間も無くして少女が盆の上に湯気の立った茶を二つ乗せて持ってきた。
「猫舌か」
「ま、まぁ。少しですけど。それが、何か──」
「ならばこっちの茶を飲むが良い。こっちの方が温度が低い」
「あ、ありがとうございます」
渡された方の湯呑みを両手で受け取り、こういう時はいただきますと言うべきなのかと考えていると、その考えを読んだかのように少女は微笑みながら言った。
「作法も何も気にするな。楽にせい」
「ど、どうも。では……」
会釈をして、湯呑みにゆっくりと口を付けて傾けて──熱くない。
いや、正確には熱過ぎない、だ。熱い茶にしてもホットコーヒーにしても、いつも飲む際は舌の火傷とワンセットで考えていたものだが──しかし。この茶は前記の通り熱過ぎないので、舌を負傷せずに済むだけではなく、茶の温かさや味を、冷めない内に楽しめるまであるのだ。
「丁度良いじゃろう」
「はい。温かいです──あ、いや、美味しいです」
「気にするなと言っておろう。無理に感想を出さんでもよい。我が家のように寛げ。その方が儂も楽じゃ」
ホホホと、着物の袖で口元を隠しながら笑う少女。絵になるその姿に見惚れてしまいそうになったので、頭を振って平常心を保つ。
「自己紹介がまだじゃったな」
適温の茶を啜(すす)りながら、無言の時が流れること体感5分。この部屋には時計は置いてないみたいなので、今何時頃なのだろうと気になり始めた辺りで、少女がそう発言。
「儂の名は六出(むつで)じゃ。主(ぬし)の名は、何と申す」
六出。
……さん。
思わず〝さん〟を付けてしまいたくなる程には、大人としての。いや、大人以上の貫禄や落ち着きがある少女、六出さん。珍しい名前だなぁと当たり障りの無い感想を心の中で提出してから、名乗る。
「俺は、今泉 平と言います。ひょうは、平って書いてひょうって読みます」
「平か、では主の事は平と呼ぼう」
「じゃあ、俺は六出さんと呼ばせていただきます」
「そうかそうか。礼儀のなっとる子は好きじゃぞ」
喜ぶ六出さん。少女が喜ぶその姿に癒されつつも、この家に辿り着く前から気にしていた事を質問してみる。
「あの、少しお伺いしたい事が」
「なんじゃ」
「吹雪って、大体どのくらいで収まりますかね」
「さぁのう。儂だってここに居を構えて永いが、天候というのは気まぐれじゃ。ましてや、山の中となれば、尚更の事じゃろう。うーむ」
「つ、つまりは……?」
「分からん。分からんから、平がここでいくら焦ってもどうにもならんという事じゃ」
ヒューゥ。
寒風じゃなくて吹雪が効果音として俺と六出さんの間を通り抜けた気がした。
「俺、友達とスノーボードしてて、その途中ではぐれて……アイツ等に心配かけてるから、早く帰らないとって」
「この吹雪じゃ。平に出来る事は無い。吹雪が収まったら儂も一緒に麓まで案内してやろう。じゃから、それまでは、平はここで大人しくしておくことじゃな。どれ、今風呂を沸かしてやるから待っとれ。その後は夕食を振る舞ってやろう」
お構いなく。そう言おうとして、先程の六出さんの言葉を思い出して口を閉じる。
六出さんは正座の姿勢から立ち上がり、恐らくは浴室の方へと行ってしまう。囲炉裏がある家の風呂はどんな感じなのだろうと、友人へ向けていた不安が薄れてしまっている事に気付いて、これでは行けないと俺は背筋を伸ばすのだった。
❄︎
「良いんですか、布団まで用意してもらっちゃって」
「良いも悪いも、吹雪が止まぬのだから仕方無かろう。それとも何だ?〝この吹雪の中、麓まで一人で歩いていく〟というのなら、止めはせんが」
「い、いや、喜んで泊まらせていただきます!」
今も尚、戸を揺らして猛(たけ)り続ける吹雪に背筋を震わせながらそう言うと、六出さんは、うむっと満足そうに頷いてから部屋の外へと出て行った。
当然のように通された来客用の寝室。布団と押し入れしかない部屋で一人になってみると、押し寄せる不安というものも確かにある。
しかし、この吹雪の中で俺に出来る事など何も無いのも事実。
悩んで、それから悩んで、今日は寝る事にした。明日の朝には吹雪が止んでいる事を願って、寝る事にした。
が。
「止まねぇ……」
「止まぬな」
翌朝。
衰える事の知らない吹雪の勢いは俺の願いを簡単に跳ね除け、文字通り俺の目の前を真っ白にする。
戸を開けたら吹雪が収まっているかも知れないという、一縷の望みに賭けての行動だった。
「自然を前に、儂等は無力じゃ。どれ、朝食にするとしよう」
六出さんは、両手を袖口に入れて寒い寒いと言いながら、一足先に家の中へと戻っていった。
こりゃあ駄目だ。スマホも無いし、二人に連絡一つ入れられない。吹雪が収まるまで、マジで何も出来ない。
これからの行動にある程度の諦めと区切りを付けてから、戸を締めて家の中へと入っていく事にした。
「平は、何でこの山に来たんじゃ?」
「友達にスキーに行こうって誘われたんですよ。俺、春から大学生なんで、スキースノボの一つくらい出来なきゃと思って一緒に来たんです」
「大学、というのでは板で雪山を滑るものなのか?」
「いや、女の子に良い所見せられるように、覚えておきたいな、と」
言った瞬間の突風。家ごと吹き飛びそうになる程の揺れが風によって生じ、身構える。
「……止んだ」
数秒経つと風は収まり、今までの(と言っても吹雪だが)降雪に戻った。
正面を向けば、無表情の六出さんがこちらを見ていた。もしかしたら、女遊びをする男だと軽蔑されたのかも知れない。
「ち、違うんです」
「何が違うのじゃ?」
ギロリと、そんな効果音が付きそうなくらいには鋭い眼光で俺を見る六出さん。ひっと小さく声を漏らしてから弁明。
「俺は、生まれてこの方女性と交際した経験の無い男です。なので、大学生という節目で今までの冴えなくて映えない人生から抜け出したいという──それだけの理由なんです。決して、爛れたアレソレが目的な訳ではないのです」
「儂はまだ何も言ってないぞ」
「……」
分かりやすく墓穴を掘ってしまった。
「まぁ、何でもよい。平の女遊びが激しかろうと、儂には関係の無い事じゃ」
「……」
恥ずかしさとやるせなさで俯いてしまう。今の俺の顔は赤いのか青いのか。それも分からぬまま、話は変わっていった。
「暇じゃろう」
「……まぁ、はい。この家、テレビ無いんですね」
「うむ。儂には無縁の代物である故な」
考えてみたら、こんな吹雪が起こる雪山にアンテナを張るのは無理かもしれない。頭の中で、雪原の中にポツンと建っているこの家を思い浮かべた所で、何か重要な事を思い出しそうになるが、結局出てこず。
「六出さんは、こういう吹雪の日は何をしているんですか?」
「何をしているか?……うーむ。薪(まき)を割ったり、目を瞑ったり、色々あるがのぅ。言葉でこう説明するのは難しいのじゃな」
顎をさすりながら斜め上を見る六出さん。話を聞く限り暇を持て余しているそうだ。
吹き荒ぶ風と、それに乗って原を駆ける雪。
「この家の周り、雪が積もりすぎたりしないんですか?」
「その心配は無い。生まれてこの方、雪かきはした事無いぞ」
「特殊な立地だったりするんですか?」
「そんなもんじゃな」
「へぇ」
この家を訪れたときには、特に変わった感じはなかったような気がするが、見た目じゃ分からない何かがあるのかも知れない。まあ、今は良いか。あまり掘り下げて聞くのも面倒だし。
こんな感じで、囲炉裏の前で暖まったり、囲炉裏で煮込んだ鍋を食べたり、またお風呂をいただいたり、布団に入って眠ったりして。
❄︎❄︎❄︎❄︎❄︎❄︎❄︎❄︎❄︎❄︎❄︎❄︎❄︎❄︎❄︎❄︎❄︎❄︎❄︎❄︎❄︎❄︎❄︎❄︎❄︎❄︎
吹雪のせいで昼か夜かも分からない時間を過ごし──とある日の朝。恐らくは、朝。大きな大きな欠伸をしてから。
「……あれ、今何日目だ?」
気付く。
「……というか、吹雪ってこんなに続くものなのか?」
気が付く。
気が付いて、飛び起きた。
「──六出さん!」
寝床から、囲炉裏のある居間まで。ドタドタと、焦りから来るバランスの悪い走り方で六出さんの元へ駆け寄ると、当の六出さんは、湯呑みを傾けながら一服している所だった。湯呑みを下ろして、眉を顰(ひそ)めながら問うてきた。
「どうしたのじゃ、そんなに慌てて。ほら、額に汗が滲んでおる。拭ってやるからじっとしておれ」
「あ、ありがとうございます──ではなく!この天気、変じゃないですか!?もう何週間も吹雪いています!」
身振り手振り、天候の異常を伝える。じゃないと、取り返しのつかない事になってしまうような気がして。
「そりゃそうじゃろう。雪山なんじゃから」
「そうではなく、もう何週間も──」
「落ち着け。お主は、今この家を訪ねてきたばかりであろう」
「──へ?」
俺を指差す六出さん。自身の身体を見てみれば、悴(かじか)んだ指先。
着込んだスキーウェアは、強い向かい風によって全体に雪が付いている。
右手に掴んだニット帽は溶けた雪を吸って冷たく湿っている。
「その服と板は儂が預かっておこう」
突然の出来事に唖然としていると、瞬く間に六出さんは俺のスキーウェアを剥ぎ取って、スノーボードと一緒に持って行ってしまった。
「ちょ、ちょっと!」
「なんじゃ」
「六出さんは、何を言ってるんですか……?」
突然、おかしな事を言い始めた六出さん。前触れも無いソレに鳥肌を隠せない。
振り向く六出さん。その表情は笑顔で。見惚れるような表情の筈なのに、何故か俺は身構えてしまった。
六出さんの両手には何も無い。どうやら床に置いたらしい。
瞬き。その間に距離を詰められ、緊張と恐れでごちゃ混ぜになって引き攣った頬を撫でられる。それから、耳元で。
「〝お主こそ、何を言っておるのじゃ?〟」
言われて、身体に力が入らなくなった。
「のぅ。
憶えているかのぅ。
平がまだ幼子(おさなご)だった頃、一度この山に来た事があったろう。
儂はその山の奥深く、誰にも見付からないような所に、更に人払いの結界を設けてひっそりと住んでおるのじゃ。
数百年とこの山に存在する、言ってしまえば神様みたいなものじゃ。
神は、人間に関わっては駄目じゃから、誰にも見られず見付からないように過ごしていたのじゃ。
話を戻すぞ。
お主が迷い込んで、この家の近くまで来た事があったろう。
驚いたぞ。まさか、人払いの結界を破られるとは思っていなかったんじゃからな。
まぁ、正確には破ったのではなく、人払いが効かないくらい神の類いと相性の良い人間、というオチだったようじゃが。
平の実家の近くに、毎月参拝している神社があるじゃろう。あそこの神が平の事を気に入っているようでの。その神がお主を気に掛けている内に適性が出来たのじゃろう。
話を戻すぞ。
儂は、この地に住み憑いてから人間と対話などした事が無くての。取り敢えず麓まで送るって記憶を消すかと適当に考えていたら、平。お主、儂に向かって何て言ったか憶えておるか?」
『おねーさん。きれーだね』
「まさか、開口一番口説かれるとは思ってもみなかったぞ。……まぁ、神とは言え、褒められて悪い気はせん」
『そうかそうか。じゃあ儂の物になるか』
『どういうことー?』
『簡単に言えば、結婚するという事じゃ。コラ、何を照れておる。……うーむ。分かった。そう真剣に考えんでもよい。お主が齢(よわい)十八を過ぎた頃、この山にもう一度来い。それを返事とみなそう。──なぁに。別に、来なかったら呪うとかそんな事は言わぬ。忘れても構わぬさ。ただ、齢十八までこの事を憶えていて、その気があるのならこの山に来ると良い。そしたら、ここまで儂が導いてやろう──』
「嬉しかった。嬉しかったとも。平はこの事をあまり憶えていないようじゃが……それでも。それでも、この山まで来てくれた事が何よりも嬉しかったんじゃ。神に成ってから、人間とはどんな有事が起ころうとも関わる事が無いと思っていたと言うのに、まさか人間(平)の方から近付いて来てくれるとは。
一度にならず、二度までも。
ならば、儂の物になってもらうしかあるまいて。
この山の神故に、天候を操るぐらい造作も無い。天候でお主を導いたのじゃ。
平、聞いておるか?……ふふっ。すやすやと眠っておるわい。
儂は、平に惚れてしもうた。──これが、神に魅入られるという事じゃぞ。
帰りたいという記憶を徐々に消して、それからこの家で過ごした時間以外の記憶を無かった事にする。そうする事でお主もこの山に住む者となって、未来永劫をこの地で儂と過ごす。どうじゃ。良い考えじゃろう?
じゃから、今は眠ると良い。目が覚めたら、また少し忘れているだろう。何かの拍子に思い出してしまっても構わん。また眠らせて、少し忘れさせるだけじゃ。
そうして、ゆっくりと忘れて、ゆっくりとこの家での記憶を濃くしていけば、お主は帰りたいという気持ちすら──どこに帰るのかも忘れているじゃろう」
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