どうしたら僕は強くなれるんでしょうか……はぁ。





「チューして下さい」

「は?」

「だから、チュー」

「……いやいや、いきなり言われましても」

「前もって予約すればOKということですか?」

「そういう訳でもなくですね」

「あたし、先輩にチューしてもらえる正当な理由があったりするんですけど──忘れちゃいました?」

「後輩にキスする理由に正当も何もありませんよ……はぁ」

「先輩が誤って三年生の矢代田(やしろだ)先輩のサブのトレーニングシューズを要らない物と勘違いしてゴミ箱に捨てちゃった話……また一からします? あたし、大変だったんですよ? あと10秒駆け付けるのが遅かったら用務員のおじさんの手によって焼却炉にぶち込まれる所だったんですから」

「それを言われると……はぁ」

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 僕の名前は、宮野義人(みやのよしと)と申します。高校二年生という進学(そのつもりでいます)を視野に入れた、大学受験という緊張感を孕んだソレを心の何処かに在中させる一般学生です。

 黒髪で眼鏡。線の細いなよなよした身体がコンプレックスです。

 中学生の頃は、卓球部の副部長として活動をしていました。目立った成績こそ無い部活でしたが、部員同士の仲は良好でした。

 高校入学を機に、何か目新しい事にチャレンジしようと思って目を付けたのが重量挙げでした。

 重量挙げ(ウェイトリフティング)、でした。

 線の細いという、褒め言葉としても使われてしまう表現を使うには烏滸おこがましいくらい、僕の身体は情けなかったのです。体育のジャージに着替える際に身体を晒すのを恥と思えるくらいには、僕は自分の体型に自信がありませんでした。

 だから、重量挙げという未知の世界に入れば。

 ムキムキマッチョの人達が活躍する世界に足を踏み入れて、ムキムキマッチョになる秘訣を何か教えてもらえれば。

 僕は、校内の壁に貼られていた部員募集のポスターを見て、弱そうで、いかにもガリ勉と言った装いの今の自分を変えられる気がしたのです。

 

「……はぁ」

「先輩、また溜め息吐いてますよ」

「溜め息くらい好きに吐かせて下さい」

「三年生の矢代田さんも、溜め息を吐いている暇があったら腹の一つでも割ってみせろ! ぬはははははは! って言ってたじゃないですかぁ」

「矢代田先輩……あの人だけ、何であんなにいかにもな見た目と喋り方をしているんでしょうかね」

「部長だからじゃないですか?」

「……はぁ」

「あー、また吐きましたよ」

 

 矢代田剛貴(やしろだごうき)。

 僕の入部を唯一歓迎してくれた、入部当初からとてもよくしてもらった恩人にあたる人物です。今は肩を怪我していて試合には出れていませんが、僕が一年生の時に見た矢代田先輩のスクワット230kgの衝撃は今も僕の瞼の裏に焼き付いています。

 ツルツルのスキンヘッドと、制服による拘束を許さない筋骨隆々なその肉体は、趣味の日光浴によって浅黒く彩られ、誰が見ても筋肉関係者だという印象を受けさせる。

 筋肉関係者って何ですか。

 訂正しておくと、重量挙げ部員の誰しもが矢代田先輩のようなムキムキマッチョマンではなく、むしろ矢代田先輩の方こそが特殊と言えます。他の先輩方は服を一枚纏えば一般人とあまり変わらない細マッチョマンなのです。……まぁ、脱げば凄いのですが。

 そんな、部内としてはむしろ異質とまで言えるムキムキマッチョマンである矢代田先輩によくしてもらっている僕は、度々たびたびトレーニングを見てもらっています。何分、筋肉関係には疎かった身なもので、何をどうすればいいのか右も左も分からないのです。矢代田先輩は、そんな僕にトレーニングメニューだとか、練習に対する意識やフォーム、果てには食生活までもをアドバイスしてくれるとても良い先輩です。打ち明けさせていただくと、コーチの先生よりも断然矢代田先輩の方を信頼しています。

 

「矢代田先輩も帰っちゃいましたし、そろそろあたし達も帰りましょうよ」

「帰りませんよ。僕はまだ、筋力トレーニングに励まなければならないのですから。今はまだ腹筋の一つも割れていない身ではありますが、いつかは……いつかは、そう、矢代田先輩のようなムキムキマッチョマンに……!」

「矢代田先輩も、無理な追い込みは良くないって言ってたじゃないですか」

「うぐっ」

 

 拳を握り、僕自身の最終目標を語った所で、彼女からの無慈悲なツッコミが入る。堪らず僕は膝から崩れ落ちました。

 

「ねぇ、せんぱぁい。顧問の先生も、あたし達が部室の鍵を返すまで帰れないんですから。顧問の先生の為にも、早く帰りましょう?」

「……………………分かりました。本日はこれまでにして、帰りましょう。着替えてくるので、先に帰っていて下さい」

「え? 待ってますよ」

「……では、なるべく急ぎます」

 

 着替えも終え、部室の鍵も返し、靴も履き替えての帰宅途中。駅までの道程が一緒だという理由で共に下校をしている彼女。隣を歩く彼女を一目見てから、視線を再び前に戻す。

 川嶋鞠子(かわしままりこ)。ウェーブのかかった茶髪の髪を後ろで束ねていて、黒目が大きくなるコンタクト、煌びやかなネイル、緩んだ口調。真面目とは言い難い装いの彼女は、高校一年生であり僕の後輩にあたる人物です。

 ひょんな事から重量挙げ部のマネージャーを務めています。

 因(ちな)みに、以前せがまれたキスは有耶無耶にさせていただきました。

 彼女が重量挙げ部の部室に(ノックも無しに)顔を出した日の事は今でもよく覚えています。

 

『なんかぁ、この眼鏡の人に助けてもらったんでぇ』

 

 この眼鏡の人とは、一寸の疑いも無く僕の事を指します。

 訳を話すと少々長くなるので要約すると、

 

 ・高校二年生にあがって間も無い頃。

 ・とある、遠方の駅前で途方に暮れる川嶋さん。

 ・たまたま出先で出くわした僕。

 ・他人に、しかも異性に話し掛けるのは気が引けるが、目に見えて悲しそうだったので話を聞いてみる。

 ・財布を落としてしまったらしく、家に帰れないと言う川嶋さん。

 ・話し掛けてしまった以上、何もしないで立ち去る精神力も無く、仕方無く電車賃とついでに軽食代を与える僕。

 ・ありがとうございます。何か代わりにお礼をしたいという川嶋さん。

 ・漫画みたいに、礼はその言葉だけで充分だよと颯爽と立ち去る気障キザな僕。

 ・それを許さない川嶋さん。

 ・なし崩し的に連絡先を交換させられる僕。

 

 と言った感じです。

 経緯はどうであれ、キチンと義理を果たしに来てくれたのはとても喜ばしい事であり、彼女の人間性の高さが窺える──そう思っていたのですが。

 目上の人に対する言葉遣いがなっていない。

 挨拶でチーッスとか言う。

 部員全員の名前を把握していない。

 なんか全体的に舐めてる。

 マネージャーを志願したにも関わらず面倒な仕事はしない。

 汗臭い先輩に向かって制汗剤を吹きかける。

 等、等々。例を挙げれば切りが無いくらいにキチンとしていない女生徒だった川嶋さん。だと言うのに、今でも重量挙げ部のマネージャーを続けているという事は、何だかんだ部員の皆も川嶋さんという存在を重宝しているのでしょう。黙っていれば中々の美人ですし。

 黙っていれば。

 

「先輩、何だか最近元気無いですね」

「あぁ、すみません。悟らせてしまいましたか」

「表情に出るのは、別に悪い事じゃないと思いますよ?」

「そう言っていただけると、少し楽になります」

「それで、どうしたんですか」

「……実は、一年間の身体作りも終えて、やっと先輩方と同じように〝重量挙げの練習〟をさせていただけるようになったのですが……」

「なったのですが?」

「全然、全くと言って良い程記録が伸びないのです! 僕の、この時期に備えた一年間は何だったのかと、少しナーバスになっていまして……」

「なるほどー」

 

『お前は身体が細過ぎるから、まずは女子用のシャフトを触ってみろ』

 

 入部当時に言われた、矢代田先輩からのお言葉です。ちなみに、シャフトとは重量挙げをする際に重りを付ける銀色の棒状の物の事です。男子と女子で重さや長さ、それから細さも違います。男子用はシャフトだけで20kgもあるので、見るからに力のなさそうな僕を見かねてのソレでした。

 確かに、いきなり20kgも持ち上げられる訳がないと、指示通りに女子用のシャフトを両の手で握り、さぁ行くぞと持ち上げてみたのですが。

 重たい。重た過ぎる。女性ウェイトリフターはこんな代物を軽々と頭上まで挙げているのかと内心恐れを抱き始めていると、矢代田先輩から女子用のシャフトでも15kgある事を告げられる。そりゃ無理だと思いましたよ。

 重量挙げというのは、20kgあるシャフトに更にディスクと呼ばれる(僕達は盤と呼んでいます)重りを付けて、シャフトとディスクの合計重量を、地面から頭上まで一気に挙げるSnatch(スナッチ)と呼ばれる種目。それから、地面から引き上げて鎖骨に乗せながらしゃがんで受け止め、立ち上がってから頭上に挙げる(僕達は差すと呼んでいます)Clean&Jerk(クリーン&ジャーク)と呼ばれる種目。計二種目の合計重量を競う競技です。

 つまり、シャフトも満足に持ち上げられない僕はSnatchとかClean&Jerk以前の問題でありまして。

 シャフトを握りながらプルプルとしている矢代田先輩は、笑顔でこう言いました。

 

『よし。そんな筋力で重量挙げをやったら間違い無く怪我する。これから一年間、みっちりと身体作りをするぞ。なぁに、心配するな。俺がしっかりと見てやるさ。ぬはははははははははは!』

 

 長くなりましたが、そんなこんなで、矢代田先輩と共に身体を作った一年間。

 あまりやたらめったらに筋肉をつけ過ぎると重量挙げ向きではない身体付きになってしまう事から、矢代田先輩による指導の元しっかりとみっちりと行われた一年間。

 今年からは、僕もこの部活で活躍するウェイトリフターになるぞと意気込みながらシャフトを握った高校二年生の4月。

 現在は6月。

 5月までの一ヶ月間はフォームを覚える等の事情から、あまり新記録は狙わなかったとしても。6月ともなれば記録が伸びないのは可笑しいのではないかと自分に自信が持てなくなってしまったのです。筋力は間違い無く付いている筈なので、何がいけないのでしょうかとこうして頭を抱える事態になっているのでした。

 

「説明ご苦労様です」

「何の事でしょうか」

「ってゆーか」

「せめて、〝ゆ〟ではなく、〝い〟と発音して下さい。頭が痛くなってきます」

「これがあたしのアイデンティティなんですぅー」

「……はぁ。分かりました。話を続けましょう」

「確かに、先輩は採点制も控えているので、今の状態はまずいかもですね」

「おや。まさか川嶋さんの口から重量挙げ用語が出るとは思いませんでした。関心しましたよ」

「あたしだってマネージャーなんだからこれくらい知ってますぅー!」

 

 採点制。

 正式名称を採点制競技。

 僕が一端のウェイトリフターになる為には、この採点制競技にて100点満点中90点以上の得点を獲得しなければならないのです。ならないのですが、今のままの調子だと心許ないのが事実。

 

「採点制競技はもう一ヶ月後に控えていると言うのに、どうして僕は……はぁ」

「何言ってるんですか先輩。まだ一ヶ月あるじゃないですか」

「い、一ヶ月という期間を甘く見てはいけません! 一ヶ月というのは単なる時間の経過ではなく、来たる採点制競技に向けて一ヶ月でどれだけ最高のコンディションを持っていけるかという大切な期間なのです! それを〝まだ〟という二文字で片付けるとは! 川嶋さん……! あなたって人は……!」

「はいはい、大切な期間なんですね。そんな漫画みたいに両目を燃やさなくても分かりましたって」

 

 僕の熱弁を、サラリと受け流す川嶋さん。あなたは本当に重量挙げ部のマネージャーなのですかと小言の一つでも飛ばしたくなりますが、あまり自分の価値観を強制するのも、それはそれで嫌な奴というもの。大人しく引き下がると、川嶋さんが思い出したかのようにポツリと言いました。

 

「ってゆーか、先輩って弱っちいのに意識だけは一人前なんですね──あ、嘘です嘘です! 冗談ですから子供みたいに蹲って泣かないでくださいよぉ! もう! 謝りますから! 道端で本当にやめてください! もう! もう!!」

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

「……試合、終わりましたけど」

「正しくは、採点制競技が終わったのです。……はぁ」

「駄目でしたね」

「当人の前でそういった発言は控えていただきたいですね……」

 

 採点制競技、失敗。

 不合格。

 一ヶ月の調整(矢代田先輩による完璧な調整)を経て、最高のコンディションで臨んだ今回の採点制競技。snatchまでは特に問題はなかったのですが、今回の敗因はclean&jerkに他ならないでしょう。所謂(いわゆる)、体力切れ。snatchの時に緊張のあまり力を入れ過ぎてしまった僕は、clean&jerkをする為の力を温存出来なかったのです。

 情け無い。

 自分が恥ずかしいです。全く。

 

「ボロボロでしたねー」

「言わないで下さいよ。……はぁ」

「矢代田先輩も驚いてましたね」

「矢代田先輩の期待を裏切ってしまったのがとても心苦しいです……」

「大丈夫ですよ。矢代田先輩も、『また一から鍛え直しだな! ぬははははははははは!』って笑ってたじゃないですか」

「それがまた悲しいんですよ。怒られると思っていたのに、励まされてしまったのが拍子抜けと言いますか……」

「先輩ってダルい人ですね」

「うぐっ」

「でも、そうやってクヨクヨ悩んでいるのも先輩らしくて良いんじゃないですか」

「それは皮肉でしょうか?」

「……励ましのつもりだったんですケド」

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 選手の試合も閉会式も後片付けも終わった頃。我が校の重量挙げ部も現地解散を言い渡され、各々寄り道したり何なりで騒付き始めた頃。会場の外へと通ずる廊下の端の方で、僕は高らかに語り出しました。

 

「しかし、これで僕に必要な物が分かりました」

「必要な物──もしかして筋力の事ですかぁ?」

「即座に僕の心を折りにかからないでいただきたいです」

「じゃあ、必要な物って何なんですか」

「努力です」

「は?」

「僕にはやはり、努力が足りなかったのです! いくら矢代田先輩の完璧なメニューがあったとしても、それをこなしているだけじゃまだまだという訳です。己の身体を苛め抜き、練習中に嘔吐するぐらいの心構えでないと、まだまだ強くはなれないのです……!!」

「うわぁ、両眼に炎が宿ってますよ。暑苦しい」

「よく気付いたなァ! 宮野ォ!」

 

 僕が決意を新たにした瞬間、どこからともなく勢い良く現れた矢代田先輩。その登場に驚きつつも、僕は歓喜の声を上げた。

 

「や、矢代田先輩!」

「今まで、ズブの素人である宮野の身体を俺のメニューの通りに、ある程度は考慮しながら作ってきたが──これから、宮野の練習メニューを一新するッ!」

「と、言いますと!」

「毎日MAXだ!」

「ま、毎日MAX!? ──そ、それって、練習メニューの全てを自分の限界重量まで触るという、部員の皆さんが嫌い過ぎて記憶から抹消して、例え監督の指示だとしてもサボりまくるというあの──毎日MAXをやると言うのですか!?」

「誰に対しての説明なんですかぁ?」

「そうだ! 宮野、お前に足らないのは努力(ガッツ)だ! 宮野の身体の出来具合からして、まだ早いと思っていたが、そうも言ってられんからな! これからは毎日MAXを実行し、全身の筋肉を痛め付けて限界を超えるぞ! 分かったな!」

「は、はい! 分かりました! 矢代田先輩のメニュー、完璧にやり遂げてみせます!」

「そうか! 楽しみにしているぞ! じゃあな!」

「はい! お疲れ様です! 失礼します!」

 

 去っていく矢代田先輩の後ろ姿に頭を下げながら別れの挨拶。景色の向こうに消えていくのを確認してから頭を上げ、そこでようやく、冷たい目で僕を──正確に言えば、僕と矢代田先輩の遣り取りを眺めていた川嶋さんの視線に気付く。

 

「……何ですか」

「別にー。先輩って矢代田先輩にだけ態度違いますよねとか、そんな事全然思ってないんで」

「……はぁ。はっきりと言わないというか、何と言いますか……」

「何なんですか」

「川嶋さんって、面倒くさい人ですね」

「ッ」

「……あ、あの、僕としては先程のダルい人発言に対する意趣返しのつもりな訳でして。そのような深刻な顔をされましても──えっと、あの。必要以上に傷付けてしまったのならば謝罪しますが」

「い、いい、いやいや。ああああたしも、先輩に対して前から、す、少し言い過ぎている……あ、アレがあったのも事実なので……こちらこそすみませんでした」

「……失礼を承知で言わせていただきますが……しおらしくなってませんか?」

「そんな事ないです。先輩、会場の片付けも済みましたし、そろそろ帰りましょう」

「絶対傷付いてますよね!? 申し訳ありませんでした! 女性に対する配慮が欠けていたのは謝りますから! そのような態度で接しないで下さい!」

 

 その場で瞬間的に繰り出される土下座。その姿を見て笑ってくれている所を見るに、本気で怒っている訳ではなさそうなのですが。

 普段よりも表情が乏しく(何か考え事でもしているような表情で)、平常ではない事は分かるその態度に戸惑いながらも、僕はスタスタを荷物を纏めて会場から出て行ってしまった川嶋さんの後ろ姿を追い掛けるのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……嫌われちゃったかな。嫌われちゃったらイヤだな。先輩……怒ってないかな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

「一年、声出せ!」

「盤付け早くしろ!」

「補助頼む!」

「もう一本いけるぞ!」

 

 怒号や掛け声が飛び交う部室兼トレーニングルーム内。その片隅でゼーハー言いながら、先輩方と比べると大した重量の付いていないシャフトを挙げ続ける。今日のメニュー(矢代田先輩作)は回数MAXと言われるもので、矢代田先輩から指定された重量を10回挙げて、それを1分間の休憩後にもう1セット挙げてを3回程やる練習だ。説明がまとまっていないのは、多分疲れているから。

 

「どうした宮野! キレが無いぞキレがァ!」

「はいぃぃぃぃ!」

 

 こんな僕にも声を掛けてくれるのが矢代田先輩で、その声に覇気も情けも無い声で返しているのが僕。

 やっとこさ3セット終えてから、ベンチに座り込む。腕も腿も背中も足の裏も掌も、身体の至る所が悲鳴をあげているのが分かる。矢代田先輩曰く、これが筋肉の声らしいのだが、僕にはただこれ以上運動するなと身体が待ったをかけているようでならない。

 

「お疲れ様です。そっちのタオル、もうビショビショなんで交換しましょう」

「あ、ありがとうございます……」

 

〝あの一件〟以降、少しだけ大人しくなった川嶋さんにフェイスタオルを交換してもらいながら、ドリンクを口に含む。一気飲みは身体に悪いらしいので、少しずつ。

 

「……あの」

「なんですか」

「何故、僕が使ったタオルを鞄の中に入れているのですか?」

「? 洗濯するからに決まっているじゃないですか」

 

 何が可笑しいんですか? そう言いたげな顔で小首を傾げ、鞄を閉じた川嶋さん。いやいや、と僕は食い下がる。

 

「通常でしたら、洗濯するならばあちらの洗濯カゴに入れる筈ですが」

「……マネージャーが仕切る分野なんだから大人しくしてて下さい。ぶっ飛ばしますよ」

「えぇ……」

 

 素朴な疑問。見かけた際にふと思い付いた疑問を投げ掛けてみただけなのですが、戻ってきたのは手厳しい一言。これ以上続けてもまともな解答は返ってこないと踏んだ僕は、意識を練習の方へと戻すのでした。

 

「鞠子ちゃーん! こっちにも新しいタオルちょーだい!」

「あ、今ので最後だったのでもう無いです」

 

 サーセン。

 てっっっっっきとうに謝りながら、三年生(川嶋さんからすれば2つ上)の先輩のお願いを躱す川嶋さん。あまりにも冷たい仕打ちに、上げたはいいが行く手の無くなった右腕を悲しそうに下げる三年生の先輩(長山先輩)。三年生を差し置いて僕が新しいタオルを使っているのは何だか悪い気がしたので、立ち上がる。

 

「長山先輩、僕のタオルを──」

「せんぱぁい」

「は、はいっ!」

 

 立ち上がりますが、すぐ近くから聞こえた底冷えする言葉に、思わず縮こまる。振り返ると、川嶋さんが、光の入らない昏い瞳で僕の事を睨み上げていました。

 

「駄目です」

「……と、言うと?」

 

 有無を言わせぬその一言に従いそうになりますが、理由が無いと素直に従えないのがガリ勉の──面倒くさいガリ勉の性さが。問うてから後悔するも、発言してしまった以上取り消す事は不可能に近いので、年下である川嶋さんの返答を、ビクビクしながら待つ。

 1秒。

 2秒。

 どんな言葉が返ってくるのかと思いきや、川嶋さんの様子が変わりました。正確には、川嶋さんの纏っていたおどろおどろしい雰囲気がピタリと消えたのです。

 それから、か細い声で一言。

 

「……せ」

「せ?」

「……先輩が一番汗かいてるんですから、先輩が使って下さい。汗臭いですよ」

 

 返ってきたのはまともな言葉。しかしながら、日常で使うには鋭利過ぎるその言葉に貫かれた僕は、持ち合わせたメンタルでは耐え切れずにその場で倒れてしまいました。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

「あ! やっと起きた」

「……川嶋さん。確か、僕は、メンタルがやられてしまって」

「何言ってるんですか? 脱水です。矢代田先輩、責任感じて心配してましたよ」

 

 脱水。

 ベッドの上で布団に包まれている僕の横。椅子に腰掛けながら、川嶋さんはいつもの感じでそう言った。

 メンタルがやられて挫けてしまったのは事実ですが! 一緒に脱水症状を引き起こしてしまっていたなんて。スポーツを嗜んでいる人間として、自己管理のなってなさに顔から火が出そうです。

 情け無い。

 

「矢代田先輩が、ここまで運んで下さったのでしょうか」

「何バカ言ってるんですか。あたしがこの保健室まで頑張って運んだんですよ」

「か、川嶋さんが? そんなまさか。部室から数百メートルと離れてる保健室まで、女性が男性を担いで移動出来るとは到底──」

「先輩軽いんで余裕でしたよ」

「……はぁ」

「わっかりやすく落ち込みましたね」

「それって、女性でも担ぐ事が出来るくらい僕の体重が軽い→筋肉が無いって事ではありませんか。落ち込みもしますよ……」

「まぁ、そんな事はどうでも良いんですケド」

 

 どうでも良いようです。

 川嶋さんは、椅子から立ち上がり、ベッドに腰掛けてきました。それから、僕の顔にゆっくりと自身の顔を近付けて。

 

「先輩、チューして下さい」

 

 いつの日かのように、キスをせがんできた。

 

「前にも言いましたが、無理です」

「何でですか? あたし、ここまで先輩の事を運んだんですよ? 報酬の一つくらいあったって良くないですか?」

 

 心無しか、大きめの声で食い下がる川嶋さん。その台詞に溜め息を吐きながら、返します。

 

「では、今度食事に行きましょう。勿論、金額云々は僕持ちで」

「イヤです。キスして下さい」

「では、前に行きたいと言っていたショッピングに行きましょう。お荷物、いくらでも持ちますよ」

「イヤです。キスさせて下さい」

「……では、映画を観に行きましょう。そう言えば、今人気の恋愛映画がありましたね」

「キスしますね」

「は? ──むぐっ」

 

 あの手この手で、どうにかして後輩とキスをするという物事から逃げようと画作しますが、川嶋さんに両頬を掴まれ、身動みじろぐよりも先にキスをされてしまいました。眼前には、鼻息の荒い川嶋さん。それから、瞬き一つせず僕の目を見詰める双眸。

 呆気に取られてしまい、数秒唇がくっつき続ける事を許してしまう。慌てて川嶋さんを両手を払い退けて、両肩を押して離れていただく。

 

「な、何をするんですか! 女性が、こんなッ……! はしたない!」

「えー、良いじゃないですか。あたし、先輩の事好きですし」

「初耳ですし、例え好きだったとしても、物事には順序というものがありましてですね! いきなりキスなど段階をすっ飛ばして──」

「もう一回キスして良いですか? ……って、そんなに身構えないでくださいよぉ。冗談ですって」

「わ、笑えませんよ」

 

 自分でも、頬が引き攣っているのがよく分かります。そんな僕の表情を見て、川嶋さんはどう思ったのでしょうか。

 川嶋さんは、ニッコリと笑ってから、こう言いました。

 

「取り敢えず、あたしが今まで胸の内に秘めていた先輩の事を好きだって気持ちは充分伝わったと思うんで。明日から、よろしくお願いしますね?」

「よろしくとは……何を?」

「彼氏彼女の関係として、末永くお願いしますって事です。では、また明日」

「えぇ、はい。また」

 

 とても。

 とても嬉しそうにしながら、自分の鞄を持って保健室から出て行く川嶋さん。挨拶をされたので、それに返して見送ってから、気付く。

 

「……は、はいぃぃぃぃぃ!?」

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

「……はぁ」

 

 学校への道筋を、重たい足取りで歩く。

 

「……はぁ」

 

 溜め息が止まらない。

 と言うのも。昨日、保健室で奪われた唇。それから、ムードもへったくれも無い軽い告白。そんな気配なんて、今まで感じられなかったものですから、一晩経った今でも信じられない気持ちでいっぱいです。身体を張ったドッキリではないかとも疑っているのですから。

 いや。

 でも。

 しかし……。

 

「嗚呼、僕はどうしたら……!」

 

 頭を抱えて、蹲ってしまいたくなる。

 しかし、ここは学生に限らず通行の多い通学路。そんな醜態を晒してしまっては学校に通えなくなってしまいます。抑えて、抑えながら心の中で悶えます。

 そんな時、曲がり角の陰から見知った顔がひょっこりと顔を出す。

 

「なーに面白い顔してるんですか、先輩」

「かっ、かか、川嶋さん!?」

「そんなに驚かなくてもよくないですか? 一緒に登校しましょうよ」

「そ、それは構いませんが……」

 

 僕の了承を得る前から隣を歩き始めていた川嶋さん。本人を前にしては、嫌でも昨日の事が脳裏にフラッシュバックし、頭の中をそれ一色に染め上げていく。

 

「そんなにチラチラ見て、どうしたんですか?」

「い、いや、別に……どうって事はありませんが」

 

 可笑しい。

 昨日あれだけの事をした筈なのに、何故彼女は平然としていられるんでしょうか。

 もしかして、夢だったのでは? 

 そんな、僕の悩みを大前提から覆す仮定すら生み出されてしまうくらいには、隣を歩く川嶋さんの様子はいつも通りでした。

 川嶋さんと顔を合わせたら、僕はどんな顔をすれば良いんだ。そんな思いが昨日の晩から頭の中の6割くらいを占めていたので、むしろ、予想外の今の川嶋さんの態度に安心している節もあります。

 このままなら、このままで。昨日の事は何かの間違いとして記憶の隅に留め、時間が解決するまで日々を過ごすのみ──そう思っていたのですが。川嶋さんの一言によって、再び僕の意識は現実へと引き戻させる事になりました。

 

「それで、今日のお昼なんですけど」

「お昼ですか? 何か、集まりでもあったでしょうか」

「いや、違いますよ。お弁当をどこで食べるかって話です」

「教室で食べれば良いではありませんか」

「え、そっちの教室行っても良いんですか?」

「何故僕の教室に来るのですか?」

「え?」

「はい?」

 

 噛み合わない会話。すぐさま頭の中に湧き出た可能性にこめかみを抑えながら、問うた。

 

「……もしかして、僕と一緒に食べるつもりなのですか?」

「当たり前じゃないですか」

「僕の記憶が正しければ、今の今まで、僕と川嶋さんはお昼を共にするような間柄では無かったような気がするのですが」

「そりゃ、昨日結ばれたんですから間柄くらい変わりますよ。ほら、ちゃんと先輩の分も作って来たんですよ?」

 

 そう言って、鞄の中から僕の分(恐らくは)のお弁当をこちらに見せる川嶋さん。彼女の口から出たある種恐ろしさすら感じる発言に背筋を凍らせながら、ゆっくりと問う。

 

「もしかして、僕と川嶋さんは付き合っていることになっているんですか?」

「当たり前じゃないですか。昨日告白したんですけど、忘れちゃいました?」

「告白も、キスされた事も鮮明に覚えていますよ──いや、そうではなく。何故、僕の返事も何も聞かずに事が進んでいるのか、という事です」

「了承してませんでしたっけ?」

「してません」

「まぁ、どっちでも良くないですか?」

 

 良い訳ありませんが。

 笑いながら(というより誤魔化したいように思える)兎に角、と話を終わらせにかかる川嶋さん。

 

「あたしと先輩は付き合っています。この事実に変わりはありませんし、変えるつもりもありません。以上! では、あたしの教室はこっちなので。また昼休みにそっち行きますね」

「あ、ちょっと……行ってしまいました」

 

 話しながら歩いているといつの間にか学校に到着していて、川嶋さんは一年生の下駄箱で上履きに履き替えて教室へと走り去ってしまう。公共の場で大声を出す事を良しとしない僕は(駆け回る事もよしとしないので)これ以上彼女に追及する事は出来なくなってしまいました。

 肩を落とす。

 それから、毎度お馴染みの溜め息。

 僕と川嶋さんの関係はどうなってしまうのだろう。そんな思いを胸中に宿しながら、僕はトボトボと弱気な──矢代田先輩に見られたら胸を張れと怒鳴られそうな──足取りで、自分の教室へと向かうのでした。




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