苦の位置。
翌朝、目が覚めてベッドから起き上がると、自室の床に鬼怒が土下座をしていた。
服装は何故か白装束。彼女の下には、この部屋の床全てを覆う程の布が敷かれていた。いつもの忍者っぽい装いはどこにいったのだろうか。
「何をしているんだ」
「……卦辞めを、主人様をお守りできなかった事への卦辞めを、つけに参りました」
「けじめ、って」
「切腹です」
「は?」
そう言って、鬼怒は懐から短刀を取り出した。
「ちょ、ちょっと待て!人様の部屋で何おっ始めようとしてんだ!やめてくれ!」
「いいえ!それでは私の気が済みません!」
「済め馬鹿!」
「忍は、敵の手の者に捕まった場合の為に、どんな状況でも自害出来るように鍛えられているのです!心配は要りません!」
「あぁもう、面倒くせぇなコイツ!これを見ろ!」
人差し指を立てる。鬼怒は、俺の指をジッと見ている。左右に振る。鬼怒の視線も動く。そのままユラユラと動かして、歩を進め、鬼怒の短刀を取り上げた。
「あっ……!」
「今度、自害なんか馬鹿な真似してみろ!お前との契約切ってやるからな!」
「あうぅ、それだけはぁ……!死ぬことよりも辛いのです」
頭を両手で上から押さえて、地震から身を守る子供のような体勢になる鬼怒。手の上から頭を小突いてから、部屋を出た。短刀は、台所の包丁を仕舞っているコーナーに隠しておくことにした。
*
「主人様。先程は、見苦しい姿をお見せしました」
「おう。分かったなら良いんだ。次からはやめてくれよ」
「はい」
登校中、(最近はたまに姿を現してくれるようになった)鬼怒が深々と頭を下げた。一度立ち止まって、返答。真摯に謝る鬼怒の姿を見て怒る気など起こる筈もなく、俺と鬼怒は再び歩き始めた。
鬼怒の装いは、普段の忍のソレそのものだが、人の目が多くなった辺りで鬼怒は姿を消すようにしているので、今のところ問題は無い。たまに夜勤明けのお兄さんとかがギョッとして二度見をしたりはするが、鬼怒の隣を歩く俺が平然としているので、自分の頭がおかしいのだと錯覚してくれる。
「で、突然と言っちゃあ突然なんだが」
「いかが致しましたか」
「我孫子って、誰?」
何気無い質問。昨晩枕元に現れた謎のクノイチに関する何かを、もしかしたら同じクノイチである鬼怒なら知っているんじゃないかと思っての、朝はあの切腹未遂事件があってドタバタしていたから、どうせなら今聞くかくらいの、本当に何気無い質問。それに対する鬼怒の返答は、
睨。
それだけ。
それだけしか分からない。というか、むしろ、それ以上を知らせない為の牽制とも取れる鬼怒の眼力。
「い、いや、何でもない。どうやら俺は寝惚けているようだ」
必死に、先程の自分を誤魔化す。そうしないと、鬼怒がどうかしてしまう気がして。
そんな挙動を、不審な挙動を十秒程続けていると、鬼怒はやっと眼に込めた力を緩めた。
「……主人様」
「は、はい」
「どうか、私を嫌いにならないでいただきたい」
「嫌いになるだなんて」
そんな筈が無い。
そう言い切る。
鬼怒は、嬉しそうにはにかんだ。
「ありがとうございます」
と、照れてくれた。
これで確信する。昨晩の我孫子の甘言は、あくまで甘言であり、真言ではないのだと。俺を惑わす為の虚言でしかなかったのだと。
一瞬でも鬼怒を殺人犯だと思い込んでしまった自分が愚かしい。唇を噛む。
「昨晩、普段の通り主人様の身を御守りしている最中、何者に襲撃されました」
立ち止まる。
「そ、それって」
我孫子じゃないのか。そう言おうとして、脳裏に鬼怒の眼力がフラッシュバックして口を噤む。
「いえ、先程は失礼致しました。主人様が奴に惑わされてしまったのではないかと、不安に……」
「正直な話」
「は、はい」
「惑わされたよ。我孫子に、鬼怒が実は悪い奴だって、一緒にいない方が良いって、唆された」
「っ」
「でも、一瞬でも鬼怒を疑惑の目で見てしまった俺だけど、俺は鬼怒を信じたいって思ったんだ」
「あ、主人様!」
「そんな目で見ないでくれ。信頼すべき忍を疑ってしまった俺は、主人失格だ」
「そんなことを仰らないで下さい。だとしたら、主人様に他の忍を近付けてしまった私は忍失格です」
謝り合い。
罪の被り合い。
やがて終わり、話の続きへ進行。しかし、足は進まず。
「奴、我孫子とは旧知の仲でありました。かつては忍に至るまでの過酷な修行に耐えた仲間でもありました」
「そこまで過去形で語るってことは」
「はい。我孫子とは、ある日を境に決別したのです」
場所が場所ならば、辺り構わず当たり散らしていそうな程、鬼怒は苛ついていた。
宥めるのは、恐らく悪手だ。
「それは、長らくの望みであった、忍へと認められて間もない雨の降る日の夜でした。我孫子は、忍としての禁忌を犯したのです」
禁忌。
禁ずる。
忌む。
タブー。
「忍としての〝絶対的な掟〟を無視した、〝掟破り〟」
一呼吸。
「奴は、自らが仕える筈だった主人を殺したのです」
曰く、主殺(しゅうごろし)。
「こ、殺したって」
「理由は定かではありません。問い質す前に、行方を眩ましているのですから」
「そんな奴が、昨晩現れた」
「えぇ。ですので、私も感情的になってしまいました。申し訳ありません」
「あ、謝らないでくれ!こんなの、鬼怒は何も悪くないじゃねぇか!」
同胞が犯した禁忌。
動機も定かでない内に再び姿を現した不浄なる者になんか、警戒して当然だ。ましてや、そんな奴が主人の前に現れたのだから。
自責。
「なので、我孫子にはくれぐれも気を付けて下さい。勿論、私はいつでもどんな時でも主人様を御守りする所存ですが、主人様自身が警戒されて何も悪いことはありませぬ」
「そうだ、ああ、そうだよな」
「ですので、その紙切れも私がお預かり致します」
「紙切れ」
「奴から手渡された、その胸元の紙切れのことです」
笑顔で、俺の制服の内ポケットに入っている我孫子の連絡先が書かれた紙を指差す鬼怒。確かに、こんなもの持っていたって仕方がない。俺は早々に、鬼怒に紙を手渡した。
「ありがとうございます。これよりも、私のことをよろしくお願いしますね」
「お、おう。こちらこそよろしく頼む」
満開の向日葵のようなその笑顔に、俺は我孫子のことなんかすっかり忘れて、安心するのだった。
安心してしまうのだった。
*
「はぁーい、こんばんは」
昨日の件もあるし、窓の鍵がしっかりと閉まっているかだけ確認しようと窓際まで歩んだその瞬間に、窓の外に我孫子が現れた。
「待ち切れなくて、迎えに来ちゃった♪」
見惚れてしまう程の妖艶な笑みで、いつの間にか入室を許してしまっていた。
「ワタシには近付くなって、警戒しろって鬼怒に言われたんでしょ?」
「鬼怒!」
「許しませーん」
口を塞がれる。女子特有の柔らかな手が俺の唇に現在進行形で触れている。
「鬼怒に、どんな出鱈目でたらめを吹き込まれたのか知らないけど、ワタシは警戒されるような忍じゃないのよ?」
「信用出来るか!」
怒鳴る。
されど、鬼怒は来ない。
「また、鬼怒を襲ったのか」
「殺してはないわ。安心して」
笑い飛ばす我孫子の様子を見て、コイツはマジで頭がおかしいのだと悟る。バレない程度に距離を取るが、部屋のドアは閉まっている。奴に不審に思われずに逃げることは不可能だ。
更には、鬼怒の不在。この部屋から無事に出られたとして、どうしようもないのだ。
「鬼怒はどうしてる」
「眠ってるわ。道の真ん中でぐっすりとね。もしかしたら、眠りが深過ぎて悪いお兄さん達に乱暴されちゃうかもね」
「テメェ!」
血が上る。
拳が締まる。
飛び掛かる。
俳句で表現できてしまった。こんな時に何を言っているんだ俺はと思ったが、こんな時にこんなことを考えられるくらいには、人間の脳は不可思議に作られているらしい。
「あら、危ない」
我孫子の顔へと伸ばした右手の首は、意図も簡単に掴まれた。そのまま背中まで持って行かれ、関節技を決められる。背後で俺の肩を外さんとする我孫子が、俺の耳に息を吹きかけた。
「貴方、良い匂いがするのね」
「離せ!このッ」
耳を噛まれる。引っ張るように啄まれ、チロチロと舐められる。身を捩りながら必死に振り解こうとするも、勝てるはずがなかった。
「このまま、ワタシの言うことを聞きたくなっちゃうようなお薬を飲ませちゃっても良いんだけど、それだとあまりそそられないのよ。……ね?」
ふぅ、と耳に息を吹きかけてくる我孫子。興奮してはいけない筈の場面なのに、俺の男としての感情はとても正直で、我孫子に全てを委ねてしまいたくなる情動に駆られる。
情動が生まれる。
殺す。
生まれて。
殺す。
「諦めなさいよ。どれだけ助けを呼んでも助けは来ないし、どれだけ粘っても鬼怒は駆けつけては来ないの」
脇腹をなぞられる。段々と密着している肌の面積が広くなり、それにつれて、俺と我孫子の体温も上昇していく。
「心臓、ドクドクいってるね」
「ロマンティックな声出すな……!」
俺は、お前の事が嫌いなんだから。そんな旨の意見を、割りかし強めの口調で言う。我孫子は(やはりというか何というか)、そんな事は意に介さずに俺の耳朶(みみたぶ)を咥え始めた。
「主人様ッ!」
ぶっ壊したのではないかと思わず疑ってしまう程の音量を奏でながらドアを開けて入室してきたのは、救助を心の底から待ち望んでいた鬼怒だった。嬉しくて、普段より数トーン高い声でその名を呼んだ。これだと俺がヒロインみたいだ。
「はい。主人様の忍、鬼怒でございます」
ニッコリと笑いながら、手の内には苦無クナイを逆手に握る鬼怒は、俺の背後の我孫子を睨んだ。俺に対してのソレではない筈なのに、膝が笑ってしまう。
「なーんだ。起きれたのね」
「お前の術何ぞ障害でもなんでもない」
「そう言いながらも、口元に涎の痕が残っちゃってる鬼怒も、ワタシは嫌いじゃないわよ」
大嫌いなだけ。
我孫子はそう吐き捨てて、跳んだ。開いた窓の向こうへと、俺を抱いたまま。
夜空。それから、夜景。移り行く視界に仰天しながら、現状把握に努めようとする。
まず、俺を小脇に抱えて、宵闇に紛れて屋根の上を跳んでいる我孫子。
後方を見れば、十メートル程後ろを鬼怒が。必死の形相で追い掛けてきている。
「あんな怖い顔の女の子見て、一緒に居たいって思う?」
「抜かせ。心配してもらってんだよ!」
「ふふっ、勇ましーい」
会話になっているのか、いないのか。する気がないのか、余裕がないのか。兎も角、繋がらない会話を最後に我孫子は無言になった。
「主人様を返せ!」
鬼怒が叫ぶ。俺も、鬼怒の方に手を伸ばしてそれに応えるが、腕の長さ分の距離など、この場合何の足しにもならない。
鬼怒は、こちらに攻撃が出来ない。我孫子が俺という人質を抱えているのだから、鬼怒は自分の足で我孫子に追い付くことしか出来ないのだ。
畜生。
何か、コイツから抜け出せる方法は無いのか。
ビル群を掻き分ける我孫子に抱えられながら、思案する。
説得、意味無し。
身動ぎ、意味無し。
鬼怒への援護、不可能。
思案に次ぐ思案。没案に没案を重ねながら、一つ思い付く。危険で、ともすれば死んでしまうかも知れない明案命案を。
高速で動く、我孫子の両足。俺は一呼吸置いてから、その片方を掴んだ。俺の腕力程度で我孫子の足を掴んで、止められる訳がない。
しかし、掴めなくとも。止められなくとも。
絡めることは、出来るのだ。
伸ばした手が、前後する足に絡まる。噛まれる。骨が折れた時の擬音って、必ずしも『ボキッ』ではないんだなと詰まらないことを考えながら、バランスを崩した我孫子と共に、不安定に宙を舞う。
「な、何を——」
二つの意味での衝撃に目を見開く我孫子の顔を嘲笑いながら、無事な方の手で我孫子の身体を押す。ロクに力を入れていなかったのか、俺の身体は我孫子から簡単に離れた。
自立。しかし、飛行ではなく落下。
これで、鬼怒が受け止めてくれる筈。そんな、自分の従者である忍の能力を信じて、目を閉じた。
*
「目が覚めた?あまり、僕を心配させないでほしいな」
「……は?」
目が醒めると、見知らぬ女の子が俺の顔を覗き込んでいた。
「全く、走ってる忍の足に手を絡めるなんて、下手したらその手、一生使い物にならなくなってたかも知れないのに。馬鹿なの?」
いかにも、俺を心配しているような声色で、ソイツは注意する。赤のショートを靡かせて、既知の仲のように振舞ってくる。
「お、お前は」
鬼怒は。
我孫子は。
どこだ、ここは。
そんな、様々な意を込めての発言。終えてから、四肢に違和感を感じた。見やる。
鎖。鎖。鎖。鎖。
されど、帷子(かたびら)に非(あら)ず。
強固なもの四本の鎖が、俺の四肢の首に伸びていた。鎖は俺の四肢の首に填められた枷と繋がり、動かしてみても、鎖自体が重過ぎてロクに動かせない。我孫子の足止めに捧げた左腕も、歪に波打ちながらも、一本と数えられるくらいには腕の形をしていて、増えた関節の中から凝視して見付けた手首の部分に、しっかりと枷が付けられていた。
「僕?」
ソイツは、待ってましたと言わんばかりにニヤリとボーイッシュに笑った。
「僕は、雲谷(もや)。君の、本当の忍だよ。鬼怒とか、我孫子とか、アイツ等の言葉は全部妄想だよ。君に仕える本当の忍は、何を隠そうこの僕なんだ!ほら、喜んで?喜んで!」
「え、あの」
「忍ってのは、主人を守る存在でなければならない訳。なのに、鬼怒は守るべき対象を普通に外へ出歩かせるし、我孫子だって守るべき対象を日中は野放しにしてる。はっきり言って馬鹿だよね。そんな馬鹿二人には、君に仕える権利なんて無いよね!」
という事で。寒気のするような溌剌はつらつとした笑顔で、雲谷はこう言った。
「これからは僕が、あの二人よりも優秀で頼りになる僕が、君を守ってあげる。鬼怒みたいに君を野放しにしないし、我孫子みたいに無責任な真似はしない。何の危機も訪れない、何の刺客も現れないこの部屋で、ずっとずっと、ずーっと、死んでも君を守り続けるよ!」
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