恋に溺れる。

 塩素によって色の抜けた、毛先が茶色い髪。

 日に焼けた、健康的な小麦色の肌。

 人懐っこい笑顔。

 笑った時にキラリと光る八重歯。

 出るところは出ているが、同時に引き締まっているアスリート然とした肢体。

 それが、彼女の特徴でござる。

 それが、〝拙者の〟彼女の特徴でござる。

 そもそも、何故、拙者のような昨今の日本に於(お)ける絶滅危惧種のような──いかにもなオタクに、彼女なんぞ?

 片や美少女、片やキモオタでござる。何の接点も無ければ何の関係も無いこの二人が、何故付き合う事に?

 好意を伝えてきたのは、向こうからであった。パソコン部だった拙者は、最終下校時刻ギリギリまでパソコン部としての責務を全うしていた。疲れ故に目と目の間を揉みながら昇降口で履き物を変えていると、彼女が現れたのだ。

 

『告白したいから、屋外プールに一緒に来て』

 

 と。

 唐突に。

 拙者の手を取って走り出した。拙者には、何が何だか理解出来なかった。考えたのは、彼女が誰かに告白するのを側から見守る──という線。それはそうであろう。拙者のようなキモオタに、こんな美少女が告白する訳が

 

「大好きです。ボクと残りの人生を共に泳いで下さい」

 

 あったんだなぁこれが。いやはや、参った参った。

 ……え、真(まこと)に?

 背後にはプール。目の前には美少女。プールの隣には高い高い飛び込み台。あの飛び込み台に上り、頭から水面に飛び込んだなら、この夢幻(ゆめまぼろし)染みた展開から現実に戻れるだろうかと割りかし真面目に考えてみる。

 

「ちょ、ちょっと待って下され。何故、そのような狂行に?」

「別にボク、狂ってなんかないよ?本当に君が好きなんだって!」

「矢張(やは)り、狂ってるとしか思えないでござる!拙者を好きになるなんて!絶対可笑しいでござる!」

「本当に大好きだもん!何で信じてくれないの?我慢強い流石のボクでも怒るよ!?」

 

 潤々(うるうる)と、涙袋をプールのように波立たせながら拙者を見上げる美少女。

 はて、どうしたものか。えらく頑なに拙者への好意を訴えているが、こんな美少女が拙者なんぞを好く訳が無い。そもそも、きっかけが無い。

 誰かに脅されているのか。それとも何かの罰で強要されているのか。

 兎にも角にも、このままでは埒が開かない。拙者は、何者かによる脅しだとしても、罰だとしても、思わず目の前の美少女が怯むような提案を思い付いた。

 

「相分(あいわ)かった。では、拙者に抱き付いてみるがいい」

 

 こんなキモオタの身体など、女からしたら汚物同然。すると当然、そんな身体に触りたいと思う輩

やから

など一人も──

 

「え、ハグして良いの!?やった!!」

 

 どすっ。

 満面の笑みで、美少女は拙者に抱き付いて。いや、飛び込んできた。脳裏に、かの有名なアニメ【沈黙の詩姫】の12話終盤、ヒロインのスイレーンが主人公のカツミに抱き付くシーンが浮かび上がる。嗚呼、あのアニメは良作であった。二期からは謎展開だが。

 前記のように、拙者はパソコン部。加えて、生まれてこの方外での運動と言えば趣味のイベント参加くらいのもので、身体はヒョロッヒョロのひ弱でござる。

 そんな拙者が、勢いよく抱き付いてきた美少女を受け止められる筈も無く。

 

「──あ」

 

 背水。

 迫水。

 着水。

 

「えへへ〜!これで伝わったね!」

 

 美少女は拙者に抱き付いたまま、濡れた身体など気にする様子も無く喜んだのであった。

 こうして、年齢=彼女いない歴の拙者に、彼女が出来た。

 何故だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あの……」

「ふふふっ。なぁーに?」

「付き合い始めて早二週間となる間柄で言うのも大変アレなのですが、この距離感ばかりはどうにかなりませぬか?」

「なりませーん!」

 

 ならなかった。

 マウスを動かす拙者の手の上に手を重ね、拙者の背中に後ろからもたれかかる美少女(名を流と書いてりうと言うらしい。苗字での呼び掛けには断固応じない姿勢の御様子)は、ガリガリと拙者の対人間製空間防護壁を破壊してくる。その笑顔はあまりにも邪気が無さすぎて、拙者はおもむろに【脱法探偵『Geed』】の6話、Geedが犯人を炙り出す為に次の殺害予告者を殺害する(フリをする)シーンを思い出した。『これで犯人が見付かるんですよ?』って、お主相当イかれておるな。

 

 

「ボクは、できるだけ君と近くにいたいのです!」

「流殿。拙者とは、心で繋がっているであろう?わざわざ、こうやって身体を寄せ合わずとも、拙者と流殿の絆はしかと証明されて」

「それっぽいこと言ったって騙されないよ」

 

 言動はアホの子っぽいのだから、騙されてほしかった。

 拙者の説得も流殿には通じず、ジロリと白い目で見られるに終わってしまった。それから流殿は視線を向ける対象を、興味と一緒にパソコンのディスプレイに移した。

 

「そういえば、何調べてるの?」

「よくぞ聞いた!拙者は今、今期の覇権を握っていると名高い【完全電脳天獄『Nameless』】のサブヒロイン、佐中めぐたんのファンアートをpi○ivで検索をかけていたのでござる!」

「ふーん……それって、女の子?」

「それは、ヒロインと付くのだから女の子に決まっておろう!……まぁ、昨今のアニメでは男の娘や受け身形主人公もヒロインに括り付けられているのだが」

「兎に角、女の子なんだ?」

「う、うむ。して、流殿。何故、そのような目が笑っていない笑顔を向けているのでござるか?あと、拙者の手を握る流殿の力が恐ろしく強いのも拙者気になるなぁって」

「女の子なんだね」

「は、はい」

 

 口調が乱れるくらいにはビビっていた。眼鏡越しでも拙者を恐れさせるその眼光。もしや、異能力持ちかも知れぬ。

 流殿は、先程まで握っていた拙者の手の甲から手を離し、拙者の肩に手を置いた。

 態度こそ軽いソレであるが、内に秘めたる意味はとても重い。

 

「……あーむ」

「ッ!?!?」

 

 ガブリと。

 拙者の首筋に、突然流殿が噛み付いた。痛みは勿論感じるが、それ以上に驚き。また、流殿の鼻呼吸が拙者の喉から首にかけての部位に当たり、なんとも言えぬこそばゆさと緊張が大半を占めていた。噛み付かれているという事実の中で、そういえば流殿って綺麗な八重歯をしておったなとか、ヴァンパイアみたいだなとか、どうでも良いことが頭に浮かぶ。

 

「……ぷはぁ」

 

 触れていた口が離れる。

 刺さっていた八重歯

を抜かれる。唾液が糸を引き、やがて切れる。それから、流殿が口を開いた。唇には、少し血が付着していた。それを舐めとる流殿の舌がえらく色っぽい。

 

「ボク以外の女の子は見ないでほしいな」

「拙者、二次元と三次元の区別はしっかりつけるタイプ──」

「でも、性別上はどちらも女の子だよね?それは変わらないよね?」

「はい」

「じゃあ駄目。もしも目移りなんかしたら……君の血、スポドリみたいにゴクゴク飲んじゃうから」

 

 意地悪に、それでいて艶やかに微笑んでみせた流殿。その仕草にどきりとしつつも、これはトンでもない事態になったぞとこれからのことを予想して思い悩む。こういった女子が出てくるアニメに、ハッピーエンドの作品は少ない。【田中の寿命はあと2秒】然り、【か走件(そうけん)(私の彼と添い遂げようとしたら何故か全力疾走する件)】然り。……いや、後者はOVAでイチャラブしておったな。

 兎に角、少し拙い事態になった。流殿が果たして、これらのアニメに出てくるヒロインのようなタイプに該当するのかは定かではないが、傾向としては危ないと言える。

 そんな、心の中でダラダラと冷や汗を流している拙者の肩に顎を乗せながら「そろそろ帰ろうよ〜」と、流殿は呑気に言うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さて、流殿」

「な〜に?」

「拙者と流殿は、恋仲の間柄。それに、間違いはござらんな?」

「当たり前じゃん!どうしたの急に」

 

 何かを疑うようなその視線。そして、小さな声で「……もしかして、浮気?」だなんて聞こえてくるものだから、拙者は思わず鼻で笑ってしまう。

 

「まさか。そもそも、流殿と恋仲になれたことがまず奇跡だと言うのに、そんな拙者に浮気相手なんぞ出来る訳がなかろう」

 

 笑って、一蹴。

 流殿のように、真正面から大好き!とか言える訳ではないが、それでも、拙者も少なからず流殿のことを好いているのは確かである。それにもかかわらず、そんな不義理と言うか──男として有るまじき行為を働く訳がないだろう、と。

 流殿は安心してくれたようで、「そ、そうだよね!君にはボクしかいないよね!」と拙者の肩をバンバンと叩いた。痛い、痛いでござる。

 良かった、分かってくれたようだ。

 そう安心したのも束の間、流殿は拙者の肩をギリリと掴んだ。女子にしては強過ぎる握力が、拙者の骨間に指を滑り込ませる。ミシミシと嫌な音が鳴る。

 

「でもさぁ……。君、ゲームセンターでよく対戦してる相手、女の子だよね」

 

 心臓が止まったかと思ったでござる。え、どういうこと?『五月蝿いからゲームセンター嫌い』と言ってた流殿が、何故ゲーセンの内部の様子を知っているのだ?

 

「嫌なものでも、好きな人のことは知りたいと思うのが普通でしょ?」

「成る程納得──って、そうではなく。一つ弁解させていただきたいのでござるが、あの子はクラスメイトとか他校の子とかそう言った恋仲に発展する恐れのある人物ではなく、妹でござる。そして、親族でござる。であるが故、流殿が懸念しているようなもしもの出来事は、決して起こらな」

「でも女の子だよね」

「は、はい……」

 

 威圧。弁解すべき言葉を圧せられた拙者は、それ以上言えることは何も無く、だんまりを決め込み、縮み込んでしまう。それを、拙者が悪事を観念したと思ったのか、流殿はニタァ、と不気味に笑った。

 

「り、流殿?」

「はい、首筋見せて」

「ま、まさか、また噛むのでござるか?」

「噛むだけじゃないよ。飲むんだよ」

「拙者、翌々考えてみたのでござるが、他人の血液を飲むって味的にも衛生的に結構マズいのではなかろうかと」

「関係無いよ。君の血は美味しいし、汚くなんかないもん」

「えぇー」

 

 参った。拙者的には、付き合い始めて一ヶ月記念のプレゼント的なsomethingを渡そうと思っていたのでござるが、何やら良からぬ方向へ事が進んでしまっているご様子。流殿がいつから拙者の首筋を噛む変態行為に嵌ってしまわれたのかは知り兼ねるが、何だかもう噛むことは確定してしまっているようで不安である。

 痛いのは嫌だ。誰だってそう思うし、拙者だってそう思う。

 だから、避ける。

 展開を、そして話題を避ける。

 

「り、流殿!」

「なーに?」

 

 拙者の両肩を掴んで口を開けていた流殿の名前を呼ぶ。一瞬動きが止まったのを見逃さず、傍らのリュックを手繰り寄せた。チャックを開け、紙包装のソレを取り出した。

 

「こ、これを、受け取ってほしいでござる!」

「……へ?」

「これは、日頃水泳部の活動で頑張る流殿の為を思い、スポーツショップにて吟味に吟味を重ねて購入した一品(ひとしな)!どうか、受け取ってほしいでござる!」

「うわぁ、キャップだ!」

 

 又の名を、水泳帽。

 流殿が今現在まで使っていた水泳帽は、確か紺色の物であった。今回渡したのは、黄緑色の水泳帽。拙者は、流殿のイメージとしてはあまり定着していない色の水泳帽を選ぶことにより、流殿のイメージの可能性の幅を広げると言うか、アイドルをプロデュースするような気持ちで様々な色の水泳帽を左右手に持って吟味をしていたのだ。

 どうやら、このプレゼントはハズレてはいなかったらしく。

 ズレてはいなかったらしく。

 流殿は、やったやった!と喜んでいる。その無邪気さに、笑みがこぼれた。

 

「ありがとう!これで全国制覇するね!」

「う、うむ。頑張ってくだされ」

 

 余談だが、流殿は水泳の強豪校出身なので、団体は兎も角個人では全国制覇も夢ではないのである。

 流殿の特技は、百メートルを息継ぎ無しで泳げることだそうだ。

 そんな化け物染みた背景もあって、拙者は苦笑いを浮かべて激励の言葉を送った。

 あ渡して笑顔。貰って笑顔。とても幸せな空気が流れている時間帯。

 ピリリリリ。

 無粋にも、拙者のスマホが鳴った。

 画面に明かりが灯り、メールが送られてきたという旨のメッセージが浮かぶ。

 

「うん?」

 

 何気無くその画面を見た流殿の目からは、明かりが消えた。

 

「……へぇ、美佳(みか)ちゃん」

「り、流殿?この美佳なる人物こそが、拙者が先程説明した妹の名前──」

「ねぇ」

「はいぃ!」

「今度こそ、首筋出して?」

 

 出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「兄貴ってさ」

 

 隣でゲームのコントローラーをカチャカチャと弄りながら、妹の美佳が話を切り出してきた。

 金曜日の夕方のことである。

 

「何でござるか?」

「モテなさそうだよね」

 

 器用にも両手は動かしたままで、拙者の全身を舐め回すようにじっくりと見ながら、小馬鹿にしたような感じでそう言った。

 失礼な。

 

「失礼な。拙者にも、彼女は存在するでござるよ。とても可愛い、学校内とあらば知らない人はいないレベルの美少女が」

「はいはい、ゲームの話ね。前も聞いた」

「むむぅ……」

 

 全く、これっぽっちも信じていない様子の妹。別に、拙者としても彼女の存在を自慢したい訳ではないので、話が途切れる。やがて、終わる。

 

「……あ、負けた」

 

 拙者のキャラと対戦中であった、妹のキャラがトドメの一撃を決められ、スローモーションで宙を舞った。

 

「カウンターを入れるタイミングにまだムラがありますな。拙者に勝つには、もう少し時間がかかると見た」

「〜〜っ!ムカつく!このっ!キモオタの癖に!!」

「ふっふっふ、そのキモオタにゲームでボコボコにされてるのはどこのどなたでしたかな!」

 

 ゲームで負けた腹癒(はらい)せに、妹がクッションで叩いてきた。物が物だから全然痛くないので、されるがままに攻撃を受ける。再戦はしないのかと言わんばかりに、ゲームのBGMがエンドレスで流れ続けている。

 閑話休題。

 

「まぁ、良いや。どうせ、兄貴が私に勝てるのってゲームくらいだしね」

「そのゲームに負けて本気で悔しがってる妹はなんなのかという件について」

「減らず口をっ!」

「コップは投げちゃ駄目でござるぅ!」

 

 結構な速度で飛来するコップを、置いてあったクッションで何とか受け止める。それが妹の癪に触るようで、すぐさまドロップキックが飛んできた。流石のクッションでも防ぎ切れずに頬に突き刺さり、「ふぐぅ」と間抜けな声が出た。

 

「大体、兄貴みたいなキモオタが私に意見しようだなんて──」

 

 勢いそのままに倒れた拙者を見下し、意気揚々と言い放つ妹。その途中に、拙者のスマホに着信が入る。どうやら電話のようで、拙者が手に取るまで絶え間無くアニソンが室内に響き渡っている。

 

「すまぬ。少々席を外すでござる」

「友達?」

「いや、彼女でござる」

 

 そう言い残して部屋を出る。何やら閉めたドアの向こうから妹の珍妙な叫び声が聞こえたような気がしたが、恐らく幻聴でござろう。あの妹に限って、まさか。

 流殿からの電話は、これと言って特筆すべき内容でもなく、『明日のお弁当のおかずは何が良い〜?』と言った感じの電話であった。拙者は魚系統の御菜(おかず)を好んでいるので、明日は鯖の味噌煮を所望したのだ。流殿、見た目や言動だけ見たらドジっ子で料理で化学兵器を作りそうな感じの女子なのに、中々どうして女子力が高くて、日々驚かされる。

 別れの挨拶。また明日会うと言うのに、何故か、どこか寂しく感じるその挨拶を終えた直後。流殿が、最後に。

 

『ねぇ、僕に、何か隠してない?』

 

 電話越しの彼女の声が、やけに心に刺さる。それもその筈、拙者は流殿からの言い付けを破り、妹と遊んでいるのだから。冷や汗が一筋、頬を流れ落ちた。

 い、いや、だがしかし。妹でござるよ?どんなことがあっても、どんな奇怪な事態が起ころうと、妹との間に愛が生まれるなんてこと何ぞ無いと思うのだが。

 まぁ、二次元でなら話は別だが。拙者だって、ギャルゲーで性癖に突き刺さるキャラは妹キャラが多いでござるし。

 流殿はどうやら人一倍心配性な性格をしているようだが、心配ご無用。拙者がリアルで愛するのは、流殿ただ一人ですぞ。

 そんな意を込めて、優しい声色で言葉を返す。

 

「してないでござるよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 首筋を撫でる夜風の感触で、目が覚めた。

 

「……ここは」

 

 辺りを見渡し、自身が今いる場所を理解して震え上がった。

 横全方位には何もない。

 あるのは、下方。水面と地面、その更に外方には建築物。

 拙者が眠っていたのは、飛び込み台の上だった。拙者の震えに合わせて、歯の根も鳴った。何故ここで眠っていたのかも不明だし、何故眠れていたのかも不明である。兎に角、こんな所から落ちたら例え水面であったとしても怪我はするだろう。痛いのは嫌なので、一刻も早くここから降りようとする。降りようとはする。

 だが、しかし。というヤツである。

 

「何故、両手が縛られているのでござるか!?」

 

 手の支え無しには、起き上がれない。だって、筋肉が全然無いのだから。勢いを付けて起き上がろうにも、大した横幅も無いこの飛び込み台の板の上では、身動ぎ一つで玉ヒュンモノである。

 こうなれば、少しずつ芋虫スタイルで移動すればと考え付く。

 

「おはよう!」

「り、りり、流殿!?」

 

 突然の挨拶に、冗談抜きで心臓が飛び出そうになった。ブワッと脂汗が噴き出たのを実感する。

 

「そんなに驚かないでよぉ。愛しの彼女だよ?」

「愛しの彼女であることは間違いないのでござるが、何分(なにぶん)状況が状況でありまして……。って、そうだ!流殿、助けてほしいでござる!拙者、何者かによって両手を縛られているので、ここから全然動けないのでござる!」

「えぇー?両手を自由にしたら、ここから逃げちゃうじゃん」

 

 まるで、ここから逃げることに何か不都合でもあるかのような口振り。

 拙者が両手を縛られていることには何も疑問に思っていないかのような口振り。

 

「ねぇ、互いに愛し合う二人が、永遠に一緒にいられる方法って何だと思う?」

「な、何でこざるか?拙者に対する遠回しなプロポーズでござるか?」

 

 惚けて、冗談めかして言ってみる。

 

「意図は正解だけど、解答としては不正解だね。残念」

 

 ギシリ。人一人分の体重にしては音が大き過ぎる音で、飛び込み台の板を軋ませてみせた流殿が一歩こちらに──板の先の方へと近付いてきた。

 

「り、流殿。その後ろ手に持っているモノは何でこざるか……?」

「これ?ただの紐だよ」

 

 風に揺れる紐を持ち、他愛も無げに笑う流殿。紐が伸びる先に繋がれたものを見て、ヒッと知らぬ間に小さく息を吸っていた。

 

「……それから、タイヤ」

 

 流殿は、何でもなさそうに呟き、何でもなさそうにタイヤを少し転がしてこちらにその存在を主張してみせた。

 

「こんな夜遅くでも筋トレでござるか?全く、流殿のストイックさには頭が下がりますな!はっはっはっは」

「そうだね」

 

 ミシミシ。タイヤを両手でゆっくりと転がしながら、また一歩こちらに近付いてきた。飛び込み台が軋み、少しだけしなる。

 

「さっきの問題の正解だけど」

 

 流殿が、タイヤと繋がれた紐を自身の足首に結び付けながらそう言う。

 

「あ、あぁ、互いに愛し合う二人が永遠に一緒にいられる方法、でござるか?」

「うん。それって、死ぬしかないと思うんだ」

「……しょ、正気でござるか?」

「うん。正気だよ。『別にボク、狂ってなんかないよ?』」

 

 いつかどこかで聞いたような台詞を流殿が楽しそうに口にする。

 

「君は、何も悪くないの。でも、君は人が良いから、どうしても女の子が近付いてきちゃうんだと思うんだ」

「そんなまさか!拙者は、生まれてこの方流殿以外の女性と良さげな仲になった事など──」

「美佳ちゃん」

「だ、だから、それは妹の名であると言っているであろう!」

 

 安心させる為に、それから身の潔白を証明する為に、声を荒げる。それに反して、続く流殿の言葉は小さなものだった。

 

「……怖いんだよ」

「へ?」

「大好きな君が、誰かに盗られちゃうんじゃないかって。怖くて怖くてたまらないんだよ」

「な、何を馬鹿なことを。拙者の心はいつだって、流殿の物でござるよ」

 

 慰めているのか、それとも励ましているのか。いや、そんな事はどうだって良いのでござる。拙者が流殿を心から愛していることを伝える為に、どうにかこうにか言葉を紡ぐ。当たり前だ。愛する女性の瞳に涙が滲んでいるのだから、多少必死にもなる。

 

「良いの。これからはずっと一緒だって分かってるから」

 

 目元の涙を拭う、流殿。

 それから、笑って言った。

 

「大好きです。ボクと永遠に、愛に溺れて下さい」

 

 ダンッ。

 一歩踏み込み、流殿が拙者に抱き着いてくる。落ちないように何とかバランスを取ろうと歯を食い縛るが、流殿の足首と紐で繋がるタイヤが、先に飛び込み台から落ちた。

 

「う、嘘でござる……!こんなことしたら……!

 

 ガクン。不意の重力に引かれ、流殿が踏み込み台から擦り落ちる。必然的に、流殿に抱き着かれている拙者の身体も同様に引かれ、落ちる。

 一秒に足りるか足らないかの瞬間的な時間。それから、頭から着水。もがけどもがけど、顔が水面から出ることは無い。水中ならば、タイヤの重さは然程問題ではないのだが、流殿が下へ下へとバタ足で進んで行く為、沈んで行く自身の姿勢も姿勢故に、拙者にはどうすることも出来ないのだ。

 流殿は強く強く拙者を抱き締め、締め上げられた肺からはどんどんと空気が出て行く。

 

『大好きだよ』

 

 流殿が常日頃拙者に言っていた言葉が、今一度鼓膜に触れたような気がした。




































故意に溺れる。

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