恋は盲目。
あの日は、無性にムシャクシャしていた。誰彼構わず殴りたくなり、所構わず叫びたくなるような、そんな日だった。
『喧嘩ばっかりするような乱暴な人とは一緒にいたくない』とは、かつての彼女と交わした最後の会話の中の一言。
そう、俺は振られたのだ。
だから、ムシャクシャしていた。
喧嘩くらいしても良いじゃねぇかよ、と。
大体、俺がこんな奴だったってのは、付き合う前から知っていただろうが、と。
彼女(元)への愚痴を心中に吐き出しながら、ムシャクシャムシャクシャ。そして目に付いたのは、道端に停めてあった一台の胴長の高級車の後ろ姿。高級車の側面の窓ガラスにはスモークがかけられていて、中の様子は窺い知れない。
怒りのあまり冷静な判断が出来なくなっていた俺は、後先考えず──その高級車を思い切り蹴飛ばした。
「……で、今に至る。ってな」
自己回想。
二ヶ月前の俺のアホさに辟易しながら、下半身に掛けられていた布団を捲り、高級車を蹴飛ばした左足──爪先を粉砕骨折していた左足を眺める。入院直後こそギプスやら包帯やら松葉杖やら、病院でよく聞く言葉が我が身に向けられた訳だが、二ヶ月も経てば俺の左足は全快の50%、半快までに回復していた。
容体が良くなれば、向けられる思考も左足ではなくなり、いつの間にか俺の悩みの種は、歩行方法から退院後の事に移り変わっていた。
布団を掛け直し、天井を見やる。
医者が言うには、後一週間かそこらで退院出来るらしい。勿論、退院後もしばらくは定期的な通院は必須らしいが。それでも俺は、この退屈な病院から離れられる事が、たまらなく嬉しかった。
いやはや。
この二ヶ月間、色々あったよ。
同室のじっさんばっさんにやたら話し掛けられたり、リハビリ中にガキから応援されたり、両腕が潰れた男が担架に乗せられて搬送されてくるのを目の前で見ちまったり、深夜に尿意を催してしまったばかりに真っ暗な病院内を徘徊しなければならない羽目になったり。
本当……色々あったよ。
だが、そんな生活もあと一週間。
俺はこれから一週間、その言葉を魔法に頑張っていこう。
と、しようとしたのだ。
だが、現実は早々にフラグを回収し、俺の心を濁らせる。
「これから、半月の間で良いのです。どうか、お嬢様の彼氏のフリをしてくれませんか」
病室のベッド。上体を起こしている俺の目の前で頭を下げるは、白い髭がチャームポイント(主観)の、スーツ姿の初老の爺さん。いかにも執事かなんかやってそうな服装と身の振る舞い。聞いてみた所、やっぱり執事だったらしい。
事の発端はこうだ。
松葉杖片手に病院をウロウロし、時間を潰していた俺。そこですれ違う爺さん。二ヶ月に渡る病院生活で数多のじっさんばっさんの話相手をしてきた俺は、この年代の方がどれだけ挨拶を重要視しているのかを知っている。しかし、アイアム思春期(多分使い方違う)。「……こんちは」と蚊の羽音の如く小さな声と共に会釈をして去ろうとしていた俺の背中に「そこの貴方!」とデカい声を病院内に響かせる爺さん。
んで、今に至る──と。
「いやいや、何すかソレ。いきなり声を掛けてきたかと思えば。訳分からないんすけど」
爺さんに、敬語になっていない敬語で返す。
「大体、そんなのすぐバレるに決まってるじゃないすか。見て下さいよ俺の髪。緑っすよ?」
そうなのだ。仮に俺が爺さんの願いに了承したとしても、そのお嬢様とやらに一目会えばすぐに偽物だとバレてしまう。
何故なら、俺の髪は、緑色だから。オンリーワンを求めた結果、緑色にしてしまったのだから。
(面倒くさいので)髪色を理由に断る俺。しかし、次の爺さんの言葉に俺は思わず呆けた声を上げた。
「いえ、絶対にバレません」
「……盲目、ねぇ」
曰く、お嬢様なる人は事故で一時的に視力を失ってしまっているらしい。だから、髪の色が何色でもバレはしない。
「けど、目が見えてない分、お嬢さんは声で判断するんじゃ?」
「いやいや、どれだけこちらが切羽詰まっていても、声を掛ける相手が誰でも良かった訳ではございませんよ」
「?」
「声です。貴方の声が、お嬢様のお付き合いしていた方に瓜二つ──いや、同じだからです」
「似ているじゃなくて、同じ?」
「えぇ。普通の声も驚いた声も、囁く声も。どの話し方でも〝あの方〟と同じ。ですから、この度声を掛けさせていただきました」
「つーか、何で本当の彼氏呼んでこないんすか。本物連れてくれば俺必要ないでしょ。流石に、毎日見舞いに来れないという訳でもあるまいし」
「えぇ。〝あの方〟は、お見舞いには……」
「はぁ?」
「この世にいないのです。あの日、お嬢様と行動を共にされていた〝あの方〟は、お嬢様と共に事故に巻き込まれ、運悪く亡くなられてしまっているのですから」
「……」
言葉が出なかった。
この場合、お嬢さんの運が良かったのか。
それとも、彼氏の運が悪かったのか。
そんな事より。
爺さんから視線を外し、天井を見上げる。
これは中々に面倒な事態になってきたぞ。
本物がいない以上、俺が断れば爺さんもお嬢さんも、とても困った事になるのだろう。
だからと言って、半月もの間見知らぬ女の見舞いに行かなければならないのは嫌だ。
俺の答えを待つ爺さん。数秒考えてから、
「無理だ」
そう言った。爺さんとお嬢さんの二人には悪いが、断らせてもらう。了承しても、彼氏に悪いしな。
話は終わりだ、と俺は傍らに置いていたスマホを手に取る。直後、爺さんが口を開いた。
「貴方は何故入院をしていたのですか?」
「はぁ?何故って、──これだよ。左足を折っちまったからだ」
先程までの会話とは関係無さそうな問いに、俺は怪訝な声を出しつつも、掛けていた布団から左足を出して爺さんに見せる。
「何故、足を?」
「な、何故って……」
他所様(よそさま)の車を蹴っ飛ばしたら折れた、とは言いづらい。
俺が答えあぐねていると、爺さんがニヤリと笑った。
嫌な予感。
「車を、蹴飛ばしたのでしょう?」
「……あぁ、そうだよ。つーか、何でそれを知ってんだ?」
「その現場を誰よりも近くで見ていた人物、そう言えばお分かりいただけますか?」
「ま、まさかお前!」
あの車の運転手か!?──いや、俺が言いたかったのはそうじゃない。
それを知っていて、俺に声を掛けたのか!?
だ。
つまりは、こうだ。
爺さん(恐らく、お嬢さんが乗っていた車の運転手とは別人物)がお嬢様の見舞いに向かう途中、もしくは見舞いの帰りに、いきなり不良っぽい見た目の男が車を蹴っ飛ばしてきた。痛みに悶える男の声を聴けば聴くほど、お嬢さんの彼氏に似ている。──そして、男は爪先を粉砕骨折。そんな男の入院先も、爺さん(もしくはお嬢さん)のコネで何とかなる。
出会ったあの時も、俺が爺さんに挨拶しなくても元々声を掛ける気だったって訳だ。俺の声を聴いて判断したってのも、廊下でのすれ違いの事じゃない。
多分俺が高級車を蹴っ飛ばした時から、爺さんの筋書き通りだったのだ。
やられた。
それを出されたら、俺の選択肢は一つに絞られてしまう。
「どうでしょう。この話、受けて下さいますか?」
「……あぁ。喜んで彼氏役をやらせてもらうぜ」
場所は変わり、エレベーターで上った七階。要所要所での爺さんによるサポートを受けながら、お嬢さんがいる病室へと向かう。
「そういや、お嬢さんの部屋はVIPルームじゃないんだな」
その途中、そんな疑問をぶつけてみた。
俺には似合わない敬語も取り止め。爺さんも特に嫌な顔はしなかったし、そもそも俺はこの爺さんが気に食わないのだ。
俺の問いに、爺さんは顎髭をさすりながら答える。
「えぇ。どうやら、先客がいるらしく」
「VIPルームって一室しかねぇの?」
「少なくとも、この病院はそうらしいですね」
どうやら、先客を引きずり出してまでVIPルームを使おうとする程、今から会うお嬢さんは傲慢じゃないらしい。漫画とかでよく出てくる、「おーっほっほっほ!」とか言っちゃう感じのお嬢様かと思ってたぜ。良かった。そんな奴だったら迷わずぶん殴ってたからな。
どうでも良い事を考えながら、爺さんの靴音と俺の不規則な松葉杖の音が響く院内の廊下を歩く。
そして。
「着きましたよ。ここがお嬢様の病室です。同室の方はおりませんが、なるべくお静かにお願いします。視力が回復していないので、聴覚が過敏になっていまして」
「あいよ。……つーか、気になったんだけどよ」
「何でしょうか?」
「お嬢さんの彼氏ってどんな喋り方するんだ?少なくとも、口調は似せなきゃ拙(まず)いだろ」
「問題ありません」
無いのかよ。
まさか、彼氏も俺みたいなワルだったってのかよ。片や金持ちのお嬢様、片や口が悪い不良とか。
漫画やん。
それで付き合えてたんだから世の中分からねぇよな。
って。落ち着け、俺。先程の敬語みたく、自分を偽る必要はねぇんだ。いつも通り、普段通りの俺でいれば大丈夫。バレやしない。
深呼吸を二回。
爺さんが横引き戸の鍵を解錠。それからノックし、「爺です。ドアを開けますね」とドア越しに室内に声を掛けてから、ゆっくりとドアを開いた。
爺さんが目で入室を促してきたので、先に入る。
「……ッ」
目を、奪われた。
いや別に、盲目を憂いたお嬢さんが健常者である俺の両目を奪っただとか、そんなんじゃない。
単に、見惚れてしまったのだ。
開いた窓から吹く柔らかな風を感じているからか、窓の方を向いているお嬢さん。
その、美しさに。
風になびく灰色の髪。しかし、不思議と、染色だとか脱色だとかの印象は受けない。初対面のはずなのに、嗚呼、この髪色はお嬢さんのだと俺の脳が認識する。
包帯でグルグル巻きにされた両目。お嬢さんの肌の色と包帯の色合いが、何故かとてもマッチしている。
不完全の中の完全。
両目が隠れているからこそ、お嬢さんの今の美しさはあった。
……つーか、さ。
コイツ、知ってるんだけど。
そう。
実際に会ってみるまで分からなかったが、俺はコイツ──お嬢さんの事を知っている。
何て言ったって、同じ学校だし。
そうか。だから近所にあんな高級車が停まっていたのか。
納得。それから、俺自身しばらく言葉を発していなかった事に気が付く。いかん、これでは不自然だ。
「……お嬢様。筧(かけい)さんがお見舞いに来られましたよ」
筧。どうやら彼氏の名前らしい。
お嬢さんの隣にまで近付いた爺さんが、お嬢さんにそう耳打ちする。静かな室内なので、爺さんのその声は勿論、お嬢さんの「か、けい?」という返事も聞こえてきた。
「えぇ。筧さんです」
「かけい。筧──ひ、ヒロミが来たの!?」
お嬢さんが、キョロキョロと辺りを見ようとする。目が見えないのにそうしてしまうのは、それだけ彼氏を、筧ヒロミを愛していたからなのか。
爺さんが俺に合図を送る。話し掛けろって事か。
「……よ、よう。久し振り、だな」
「ヒロミ!ヒロミなのね!嗚呼、会いたかったわ!」
恐る恐る(ヒロミとやらがどんな男なのか知らないのだから当たり前だ)言葉を発した俺を、お嬢さんは少しも疑わずに受け入れた。
愛する恋人と一刻も早く触れ合いたいのか、お嬢さんの両手が何度も虚空を切る。
溺れる者は藁をも掴む(溺れるお嬢さんは俺の手をも掴む)。
筧ヒロミを求めるお嬢さんは、側からみたら溺死寸前のソレと何ら変わりは無かった。
このまま放っておくと良くない事になるのは分かっているので、近付いてお嬢さんの手を取る。
「ヒロミ!うぅ……!嬉しい、嬉しいわ!貴方と会えるのを、私ずぅっと待ってたんですもの!やっぱり私達、運命なのね!」
何というか、演劇チックなリアクションを取るお嬢さん。冷めている俺の視線など分かる筈もなく、俺の手を取り返しながら運命だ奇跡だと一人で目元の包帯を濡らしている。
どうすりゃ良いんだと爺さんに視線を向けるも、爺さんは、元気を取り戻したお嬢さんを見てニコニコと笑っている。ダメだコイツ使えねぇ。
「え、えーっと」
ひとまず、落ち着かせねぇとどうしようもない。そう思った俺は、お嬢さんに声を掛けようと思い、戸惑う。
そう言えば、お嬢さんの名前を聞いてなかった。
と。
同じ学校だし、俺だって顔くらいは何度か見た事がある。だが、名前は知っているかと問われれば、それは必ずしもYESだとは限らない。お嬢さんと話した事がないのだから、接点は無い。彼女とも、ワル友ともお嬢さんは話題に上がった事がないので、名前も知らない。
「都姫(みやび)お嬢様。爺はこれで失礼致します」
動きが止まった俺に気付いたのか、爺さんが助け舟を出すと同時にトンズラこく。
まだ筧ヒロミの設定が不十分だと言うのに。
まぁ、今まで知らなかったお嬢さんの名前を知る事が出来たのだし、許してやろう。今度アイス奢れよ。
「み、都姫?久々の再会だし、俺も嬉しいけどよ。ちょっと落ち着かね?」
手を取るだけでは飽き足らず、俺の胸に顔を埋めるにまで行動を移していたお嬢さん改め都姫にそう提案。都姫の手を取る為に松葉杖を壁に立て掛けてしまったので、自力での脱出は不可能なのだ。
「嬉しい!私の事を名前で呼んでくれるなんて!」
おい。
顔も知らぬ筧ヒロミさんよ。それが彼女に対する接し方かよ。名前くらい呼んでやれって。
俺が言うのもアレだが、お前ロクでもねぇぞ。
まだ見ぬ──もう見れぬ筧ヒロミに若干の嫌悪感を感じながら、だとしたらあまり拒否するのも可哀想だなと同情し、都姫の肩を押そうとしていた両手を下ろす。
……参ったな。
それから。
俺と同室だったじっさんばっさんは皆退院したので、実質個室と化している大部屋に、爺さんは毎日来やがった。逃げる為に部屋から出ても、この院内で自由に行動出来る場所なんて限られている為、すぐ見付かってしまうのだ。
それでも、都姫と過ごす残り半分の期間は、俺は入院生活を終えているのだ。
だから、大丈夫。後少しの辛抱。
だと言うのに、それさえもフラグだったらしく。爺さん、もしくは都姫の家(金持ちだとは聞いているが、何をやっているのかは不明)が俺の入院期間を一週間程延ばしやがった。
もう訳が分からん。
許可無く病院の敷地外に出れば、家族に連絡がいってしまう。そうなると、色々面倒くさい。
という訳で、俺は泣く泣く都姫の相手をさせられるのだった。
「ねぇ、ヒロミ。今日は何をしましょう?」
七階の最奥。
都姫の部屋。
ベッドの上で上体を起こす都姫の隣に椅子を持ってくる。この関係が始まってからはお馴染みの位置。早々に、都姫が俺に向かってそう話し掛けてきた。
「そうだな……」
顎に手を当て、考えてみる。
読んでくれとせがまれた、海外の和訳された小難しい小説も音読した。
気分転換に、と都姫が乗る車椅子を押して歩いた病院の敷地内は、飽きる程散歩した。
会話のネタも無いし、こういう時に役に立ちそうな爺さんはいつも居ない。俺をこの部屋に押し込むと、自分はさっさと退散してしまうのだ。
「……何かしたい事、あるか?」
困った時の丸投げ。
問いに問いで返すと、都姫は嫌な顔一つせずに、こう提案してきた。
「じゃあ私、ヒロミの昔の事が知りたいわ!」
つまりは、会話。
「え、でも。……いや、分かった」
筧ヒロミとはそんな話をしなかったのだろうか。
ついうっかり、そう聞いてしまいそうになった自分の口を慌てて閉じ、了承。知らないのなら、俺の過去を話しても問題は無いだろうと思ったのだ。
「幼稚園の頃は、確か静かな奴だったと思う。あまり外では遊ばないような、遊具とかオモチャよりも、クレヨンばっかり握ってた気がする」
「へぇ、私と同じね」
「都姫もそんな感じだったのか?」
「えぇ。昔は日差しが眩しくて嫌いだったから、遊んでいたのはいつも室内ね。部屋の中で走り回ると怒られちゃうから、絵を描いたり積み木をしたりしてたの」
雲が流れている様子と、昔を懐かしむ都姫を同時に見る。綺麗だ。いや、どっちも。
「小学生の頃に、ようやく外で遊ぶ楽しさを知ったぜ。それからは、いつも悪さばっかりしてた。トイレに行くフリして脱走したり、知らない人の家の柿を食ったりな」
「ふふ、ヒロミはその頃からやんちゃだったのね」
「やんちゃで済まして良いのか、少し疑問だが」
都姫の言葉に、自嘲を込めて返す。実際、あの頃の親は俺の為に頭を下げてばっかりだった。
「まぁ、中学に入っても同じような感じだな。橋から川に飛び込んだり、教室でドッジボールをして窓を割ったり。毎日休まず馬鹿やってた気がする」
「そんなにやんちゃして、怪我はしなかったの?」
「勿論したぜ。だが、入院する程の怪我は今回が初めてだった」
つまり、俺は年を取れば取るほど馬鹿になってきているという事だ。
他人の車蹴って足の骨を粉砕してるんだから、俺の家族や親戚は余程恥ずかしい思いをしたんじゃないだろうか。……まぁ、訴えられずに、こうして都姫の相手をしていれば許してもらえるんだから、運は良かったのかも知れない。
「高校に入ってから──」
「この高校に入ってすぐに、私と付き合ったのよね」
「そ、そうだったな」
危ねぇ。バレる所だった。
そうか、筧ヒロミは高校に入学してすぐに、こんな美人なお嬢様と付き合っていたのか。今は高校三年の十月だから、二年近く交際を続けている事になる。
このまま行ったら結婚して逆玉の輿だったかも知れないのに。言い方が悪いが、コイツも運が悪い奴だ。それとも、都姫との出会いで運を尽かしてしまったのか?
それからは、ひたすらに都姫が筧ヒロミとの思い出を語っていた。俺はタイミングを合わせて「そうだな」とか「懐かしいよな」とか相槌を打ってやり過ごす。
そして、遂に。
「おい爺さん。遂にこの日が来たな」
「えぇ、そうですね。半月の間、どうもありがとう御座いました。お陰でお嬢様にも笑顔が戻りましたし、感無量です」
爺さんが深々と頭を下げる。「良いって」と、どこからか湧いてくる不思議な達成感に満ちていた俺は、笑っていた。
「では、今日この瞬間をもちまして、私達のこの関係を終了させたいと思います」
「あぁ。俺が言うのもアレだが、後から裁判沙汰とかは勘弁してくれよ?」
「えぇ、勿論です」
ギプスも外れた。松葉杖も、使うのは一本だけ。後は定期的な通院と、家で薬を数種類飲むだけ。
長かった。
本当に、長かった。
見上げるこの天井も、今日で見納めかと思うと感慨深い。足の痛みやら苛立ちやらの記憶が鮮明に蘇って、俺の涙腺を刺激する。
「最後に、お嬢様に挨拶をして行かれませんか?」
「そう言われてもな。大丈夫なのか?混乱させちまったりはしないのかよ」
「御安心下さい。決してそのような事は起きませんので」
やけに言い切る爺さん。何やら策でもあるのだろうかと首を傾げながら、取り敢えず了承する。これから先会話をする事は無いのだろうし、挨拶くらいはしておいても良いのかも知れない。
七階。
爺さんの手で開かれたドアを潜(くぐ)り、都姫の元へと近寄る。
「あら、ヒロミ。今日は私、屋上に行ってみた──」
「都姫、落ち着いて聞いてくれ」
ニコニコと、俺が来室に気付いた都姫は嬉しそうに今日のプランを語る。その様子に胸が痛くなるが、言う時はきっぱり言った方が互いの為だ。
「実は俺は、筧ヒロミじゃないんだ。筧ヒロミは都姫が遭った交通事故で死んでいて、俺は爺さんに頼まれて、筧ヒロミのフリをしていただけなんだ。……俺と都姫は、赤の他人だったんだ」
言う。
いつの間にか、俺は目を瞑っていたらしい。怒られると思ったからか。それとも、都姫が涙を流し、それを視界に入れる事を恐れたからか。
無音。
その理由を気になった俺は、恐る恐る目を開ける。
俺の言葉を受けた都姫は、変わらずニコニコと笑っていた。
「……ふふ。うふふふ。うふふふふふふふふふふふふふふふ」
笑う。
手で口元を隠し、上品に笑う。
その行動が何故か不気味に思った俺は、松葉杖と共にジリリと数センチ後退(あとずさ)る。
「やっぱり、貴方って優しい人ね。──白樺忠則(しらかばただのり)さん」
「な、何で、その名前を」
何で筧ヒロミじゃなく、俺の名前を。
焦る。
何かが可笑しい。
何かが狂ってる。
それはこの状況か、それとも都姫か。
呼吸が少しだけ早まる。まるで俺の周りだけ酸素が薄まっているかのように、やけに呼吸がしづらい。
「ずっと、ずぅっと。忠則さんの事は、一年生の頃から好きだったの」
〝この高校に入ってすぐに、私と付き合ったのよね〟
「最初に、貴方の後ろ姿(背中)を好きになって。好き過ぎて顔も見れなくて、二年生に上がってからやっと顔を覚えて。それでも話し掛けられずに、でも私の事も知っていてほしくて、貴方の記憶に私を刷り込ませるのに一年が掛かって」
〝同じ学校だし、俺だって顔くらいは何度か見た事がある〟
「それで、三年生になって。貴方とこの病院でやっと出会う事が出来て」
〝嬉しい、嬉しいわ!貴方と会えるのを、私ずぅっと待ってたんですもの!〟
「貴方に初めて名前を呼んでもらって」
〝嬉しい!私の事を名前で呼んでくれるなんて!〟
「知らなかった貴方の高校生以前の話も教えてもらって」
〝じゃあ私、ヒロミの昔の事が知りたいわ!〟
今までの都姫との会話が脳裏をよぎる。
な、何だコイツ。
さっさとネタばらしして、謝罪して帰るつもりだったのに。
何なんだコイツは。
〝多分俺が高級車を蹴っ飛ばした時から、爺さんの筋書き通りだったのだ〟
いや、違う。もっと前から──二年も前から、全ては始まっていたのだ。
都姫が俺を知ったその日から。
俺が都姫の瞳に映った、その日から。
爺さんの筋書きではなく、都姫の筋書き。爺さんは協力者で、主犯は都姫。
履き違えていた。爺さんが諸悪の根源かと思っていたが、その実、爺さんは都姫の指示に従っていただけだったのだ。
ニコニコと俺に向かって笑いかける都姫と、手を後ろに組んだままピクリとも動かない爺さん。そして、都姫を心底気味悪がっている俺。
場は混沌としていた。
「忠則さん。貴方、お付き合いしている人がいましたのね。私、とても驚きました。驚いて驚いて、ついその仲を……ふふっ。あの人とお付き合いしてから、トラブルが増えたのではなくって?」
〝喧嘩ばっかりするような乱暴な人とは一緒にいたくない〟
「お、俺の為に、ここまでしたってのか!?」
「えぇ。全て貴方の──そして、私の為にやりました。
貴方が運良く私の車を蹴って下さって、助かりましたわ。もし貴方がもう少し自分を律する事の出来る方でしたら、違う方法でこの病院に入院していただく所でした」
「ち、違う方法って」
「そうですわね。……例えば、〝交通事故〟とか。
本当は、私と貴方が同じ時刻に同じ事故で同じ怪我をするというシナリオの方が良かったのですが、そんな賭けに身を委ねる訳にはいきませんし、何より貴方の顔を見る為には、私も本当に怪我をする訳にはいきませんでしたの」
「……は?」
言うと、都姫が手を二回叩く。その直後に、今まで不動を貫いていた爺さんが都姫の背後に回り、両目を覆っていた包帯に手を掛けた。
する、するする。
見る見る内に包帯が取れていき、今まで隠されていた都姫の顔の一部分が明らかになる。
他の部位と同じく、〝傷一つ無い〟綺麗な肌。異常は見受けられない、焦点がしっかりと定まっている碧(あお)い瞳。
「お陰様で、貴方の優しさに触れる事が出来ました」
「嘘、だろ……」
「はい、嘘でした♪」
彼女の計画への驚愕と、今までの行いの無意味。二つの思考に押し潰された俺は、その場に尻餅をついてしまう。カランコロンと、俺の手から離れた松葉杖が音を鳴らした。
都姫が優雅にベッドから両脚を下ろし、難無く立ち上がる。
ヤバい。早くコイツから離れないと。
松葉杖を掴み取り、それを支えに立ち上がる。膝が震えて上手くバランスが保てないが、それでも何とか転びはしなかった。
俺の数メートル後ろには、つい先程入ってきたドアがある。そこさえくぐってしまえば、後は助けを呼べば何とかなる。
松葉杖が床に付く度に不規則な音を奏でながら、ドアへと歩く。そんな様子を黙って見ていた爺さんは、ドアを開けて自分はさっさと外へ出やがった。待てこの野郎。
ドアまであと一メートル。爺さんの力によって段々としまっていくドアに片手を伸ばす。
ここで、爺さんが口を開いた。
「何故、お嬢様がこの部屋に入院していたのか、分かりますか?」
「知るか!そこをどけ!」
「VIPルームが使われていたから、というのもありますが、本当は、この部屋の構造にあったのです」
トン。と、とても静かな音と共に、ドアが完全に閉められた。しかし、いくら片足を自由に動かせなくとも、この腕でドアを開く事は出来るのだ。
取っ手を掴み、横に引く。
動かない。クソ、爺さんめ。意外と力が強いな。ビクともしねぇ。
何度も何度も、横に引く。可笑しい。全然開かない。それ程までに爺さんの力が強いのか?それとも、数ヶ月に及ぶ入院生活で、俺の腕力が衰えていたのか?
「この部屋、施錠や解錠はどうするのか憶えているでしょうか」
突き放すような、その言葉。それと同時に俺の肩に都姫の手が触れた。
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