オトシ(落とし)メル。

 中の上。

 それが、俺を端的に表すに相応しい単語だ。

 大体の事はそつなくこなせるが、天才秀才には一歩及ばない。人並み以上は出来るが、人並みから外れる事は出来ない存在。それが、俺だ。

 男友達と居酒屋や小旅行で馬鹿騒ぎし、女友達と合コンなどで盛り上がる。充実したキャンパスライフを送っている。中の上の成績と、誰とでも仲良くなれるコミュ力があれば俺に出来ない事なんて無い。一般的に見れば俺は、まあまあ凄い奴なのだ。友達と遊ぶ傍ら、家では誰にも知られず講義の復習をし、いかにも勉強してませんといった顔をして定期テストを受け、良い成績を貰う。天才肌を装う俺を、慕う馬鹿は多い。

 気さくな笑顔の裏側で馬鹿を見下し、仲良くする価値のある男や可愛い女の子とは仲を深める。

 充実したキャンパスライフを送っていた、はずだったのだ。

 

「久し振り、道馬(とうま)お兄ちゃん」

 

 俺を兄のように慕うコイツ──紗凪(さな)によって、俺のキャンパスライフは音を立てて崩れて行くのだった。それと同時に、今まで『何だかんだ頼れる頭の良い陽キャ』を演じてきた俺のプライドさえもズタズタに破壊していくのだった。

 事の詰まり。

 どこかに中の上がいるならば、同じくどこかには上の上もいるという事だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おい道馬、メシ行こうぜ」

 

 三コマ目の講義が終わり、昼ご飯でもと食堂に向かって歩いていると、丁度良いタイミングで親友の相庭(あいば)が後方から声を掛けてきた。

 

「おう、俺も丁度行こうと思ってた所だ」

 

 片手を上げて了承すると、相庭が「へへっ」と笑って隣に並ぶ。うちの大学の食堂には、日替わりメニューというモノが存在しない。なので、その代わりに数多いメニュー(数多いメニューがあるのに、何故日替わりメニューが無いのかは疑問だが)の中からいかに飽きないメニューを選べるかが食堂を楽しむコツなのだ。

 今日は鶏肉ときんぴらごぼうのセットでも頼もうかと考えていた所で。

 

「道馬お兄ちゃん」

 

 と、長い黒髪を靡(なび)かせて(物陰から急に飛び出してきた為だろう)紗凪が、行く手を塞いだ。

 顔を顰める。

 俺の紗凪に対する態度を見たのか、相庭は「おいおい」と俺の肩を小突いた。

 

「可愛い可愛い紗凪ちゃんが会いに来てくれたってのに、その顔はねぇだろ」

「い、いや、タイミング悪く腹痛がやってきただけだ。他意は無い」

 

 嘘だ。

 俺が顔を顰めたのは、腹痛が原因によるモノではない。決して。

 ただ単純に、コイツ──紗凪が嫌いだからだ。

 俺が中の上なら、紗凪は上の上。大学こそ地元の中の中の偏差値とはいえ、紗凪の頭はそうではなかったのだ。飛び級に飛び級を重ねて、現在12歳。天才と言っても差し支えないどころか天才の枠からも突き抜けそうな存在。その“イカれてる”といっても可笑しくない天才っぷりは、一時期テレビでも特集され、全国デビューを果たした存在。それが紗凪だ。

 ならば、そんな天才少女である紗凪が、何故こんな地元の大学に飛び級で入学したのか。それに対する答えこそ、俺が紗凪を嫌っている理由に当てはまるのだ。

 紗凪は、俺の事が好きだ。

 幼稚園児──当時5歳の紗凪が、俺に求婚。その頃の俺は16歳、高校一年生(ちなみに、この頃から俺は中の上の成績を維持していた)。

 紗凪に求婚された俺は、戸惑った。ニコニコの鼻垂れ幼稚園児に求婚された俺は、大人のように上手く受け流す事も出来ず、中途半端に幼稚園児の心情を慮(おもんぱか)ってしまい、断る事も出来なかったのだ。その結果、俺は幼稚園児の紗凪に向けて、

 

『分かった。俺みたいに頭が良くなったら、結婚してやる』

 

 こう言った。

 言ってしまった。

 所詮は幼稚園児。幼稚園の先生を好きになるようなモノだろうと高を括り、更に言えば、鼻を垂らしながらニコニコと求婚してくる紗凪は成長してもどうせ馬鹿だろうと勝手に決め付けていたため、当時の“自分は最高に頭良い”と思い込んでいた俺は、そんな約束をしてしまったのだ。

 その結果……というヤツだ。

 俺への求婚はどうやら気の迷いではなかったらしく、8歳にして小学校卒業。それから10歳になるかならないか辺りで義務教育を終え、その後僅か一年で高校を卒業。で、今に至る。成長するにつれて俺への好感度は(知らないうちに)上がり、いつの間にか俺が一人暮らししているマンションの隣に越してきやがったのだ。以前のお隣のお姉さんはどこに行ってしまったのだろう。なまじ仲が良かっただけに、何も知らされずに引っ越して行ってしまったのは地味に傷付いた。

 そんなこんなで、俺と結婚する為に飛び級で同じ大学まで進学し、プライベートにも侵食してくるようになった紗凪。

 紗凪が中学を卒業した辺りまでは、俺は笑って祝福したさ。

 だが、紗凪の思惑に気付いてから──紗凪と自分を比べ始めた辺りから、俺は劣等感に苛まれるようになった。12歳といったら、俺はまだ元気に木登りをしていた年頃だ。一方で紗凪は、大学に入学し、以来学年首席の座を一度も譲っていない。

 中の上と、上の上。

 俺はコイツが嫌いだ。

 

「道馬お兄ちゃん、お昼作ってきたから一緒に食べよ?」

 

 そんな俺の心の内に秘めたるドス黒い想いなど露知らず、ニコニコと笑いながら近付いてくる紗凪。「じゃあ、俺食堂行くわ。紗凪ちゃんと幸せにな」と無慈悲にも俺に背を向ける相庭。

 俺は誰とでも仲が良くて勉強も出来る陽キャ(という設定)なので、ここで紗凪の誘いを無碍にするのは拙(まず)い。どこで誰に見られているのか分からないこのご時世、そんな俺を見てマイナスなイメージの噂を流されては堪らない。俺は表面上は笑顔を作り、声を震わせながら返答した。

 

「い、良いぜ。いつもありがとうな」

「ふふ、どういたしましてっ」

 

 俺が了承したのを確認すると、紗凪はすぐさま俺の手を取って歩き出した。俺と紗凪との身長差による歩幅の差異で、足を前に出す速度こそ違うものの、紗凪は疲れるどころか、むしろ段々と歩く速度を上げ始めた。

 着いたのは、大学の敷地内にある林の中。小枝混じりの土が、先程までコンクリートの上を歩いていた俺の靴裏を優しく受け入れる。

 講義によっては使う場所なのか、それとも単なる憩いの場なのかは知らんが、どうやら紗凪はここで昼食を摂るつもりらしい。

 

「……さっさと食おうぜ」

 

 周囲には誰もおらず、知り合いに見られる心配も無いと判断した俺は、素に戻る。陽キャのテンションを持続させることなど何の苦にもならないが、やはり何も取り繕わない素の方が落ち着くのは確かだ。

 意図的にテンションを下げて言外に嫌悪の意思を示すが、紗凪はピクリとも表情を変えない。笑顔のままだ。

 

「ねぇ、ちょっと耳貸して」

「は?何でだよ」

「良いからっ」

 

 人気の無い林の中で、果たして内緒話をする必要性があるのかは分からないが、紗凪が話そうとしているその内容を分かっていないのも確かだ。俺は渋々膝を曲げ、紗凪の目線に合わせる。

 どうするんだよ、と目で訴えると、紗凪はニヤァッと口角を上げた。あ、ヤバ──

 

「んっ……」

 

 紗凪の意図に気付いた時には、既に遅かった。紗凪に襟首を掴まれ、顔を引き寄せられて強引に口付けを交わさせられる。引き剥がそうとするが、紗凪が俺の頭を抱き締めるように両腕を回し、俺のうなじ辺りに針の先端のような物を当てている為、そしてその正体が何なのか確認出来ない俺は下手に動けないでいた。

 一つ言っておくと、紗凪はその気になれば俺に対して簡単に危害を加えられるようなヤツだ。……何がトリガーになっているのかは不明だが。

 だから、下手に動けないでいた。

 ならば、俺にすべきは拒絶ではなく抵抗。せめて舌だけは入れられないようにと必死に歯を食いしばる。どうやらコイツ、天才であるが故に、〝そういうこと〟には耳年増らしい。紗凪は俺と舌を絡めようと歯の表面を舐めてこじ開けようとする。

 そんな、23歳と12歳の攻防は数分間──しかし体感的にはとてもとても長かった数分間もの間続けられ、遂に紗凪が「今日はここら辺で良いか」と俺から離れ、座れる高さ程の岩に置いていた弁当箱を手に取り、二つの内の一つ、風呂敷に包まれた大きな弁当箱を俺に手渡してきた。俺は紗凪と自分の唾液に塗れた口元を服の袖でゴシゴシと拭いながらそれをぶん取った。

 

「ど、どういうつもりだよ!お前……!」

「どういうつもり、って?」

「こんな人気の無いところで突然キスなんかしてきやがって!ふざけんな!」

「ふざけてなんかないよ。至って真剣だよ。紗凪は、道馬お兄ちゃんが大好きで大好きで堪らないから、こうやってキスして愛を示しているだけだよ?」

 

 何故俺に睨まれているのか理解出来ない、そんな様子の紗凪はカクンと首を傾げた。それに対して俺は、弁当箱を持っていない方の手で紗凪を指差す。

 

「この際だから言ってやるがな」

 

 好きでもない相手からのキス。加えて、俺が苦手意識を通り越して嫌悪感すら覚えている紗凪による奇行。俺はキレていた。

 

「俺はッ、お前なんか別に好きじゃない!だから、もうこんな事はやめろ!迷惑なんだよ!」

「迷、惑……?」

 

 こんな事。

 手作り弁当。

 そして、深い口付け。

 紗凪の想いによってのモノなのか、それとも雲に隠れた太陽によって林内が薄暗くなったからなのか、紗凪の瞳からは光が消えていた。そう言えば紗凪は、俺のうなじに何を当てていたのかと今更ながら不安を覚えていると。

 

「……そっか、道馬お兄ちゃんはツンデレさんなんだね」

「は?」

 

 そんなことを言い出した。

 先程のキスなんかよりも、もっと暴力的な事をされるのではないかと疑っていた俺は、つい紗凪の瞳を覗き込んでしまう。そんな間の抜けた俺を見て、紗凪は口元に手を当てて笑った。

 

「分かってるよ。本当は満更でもないけど、紗凪に格好悪いところを見せたくなくてついツンツンしちゃうんだよね。紗凪知ってるよ」

「ち、違う!」

「違わないよ」

「ッ」

「道馬お兄ちゃんはツンデレさんだから、大学にいる時は紗凪を無視しようとするし、道馬お兄ちゃんはツンデレさんだから、紗凪の好意を拒絶したフリをするの」

「だ、だから違う──」

 

 はっきりと拒絶の意思を分からせないと、今みたいなことがまた起こらないとは限らない。必死に紗凪のポジティブシンキングに水を差し、現実を見させてやろうとするが、タイミングの悪いことに遠くから男女の大きな笑い声が聞こえてきた。どうするべきか、そう考えて言葉が詰まる。

 

「じゃあね、道馬お兄ちゃん。また後で」

 

 それを好機とみたのか、それとも単純にこの場に居続けることに何か不都合を見出したのか。紗凪は小さな弁当箱を手に取り、弁当箱を持っていない方の手で俺に手を振り、木々の向こうに消えた。

 

「……クソッ」

 

 上の上、雲の上の存在が俺の近くにいることが腹立たしいのは勿論だが、そんな存在である紗凪を突き放し切れなかった俺自身にも腹が立っていた。

 そもそも、俺が幼稚園児の紗凪の求婚を上手く誤魔化せていれば。

 そもそも、俺が幼稚園児の紗凪の求婚をきっぱりと断れていれば。

 こんな事にはならなかったのだ。

 歯噛み。

 目を落とすと、自分が弁当箱を持っているのを思い出す。

 先程笑い声のした方向に目をやる。笑い声の主はここに居座るつもりではなかったのか、姿は見えない。

 腹が減った。

 苛々しながら、岩に腰掛ける。弁当箱を両腿の上に置き、風呂敷を広げて蓋を開ける。ケースに入った箸を取り出し、弁当箱のおかずのコーナーに詰められた卵焼きを一口。

 

「……美味い」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 考えてみれば、アレは少しやり過ぎたかも知れない。

 そう気付いたのは、あの日から数週間程経った頃。

 紗凪の気持ちも考えなきゃな──だとか、そんな甘ったれた理由ではない。

 ただ単純に、あの林は大学の敷地内。誰が不意に訪れるか分からない以上、あそこまで声を荒げて拒絶するのは良くなかったかも知れない。そう思ったのだ。

 片や、学年ではそこそこの人気者である陽キャ。

 片や、日本中が注目する天才少女。

 どちらが悪いにしても、良いゴシップだ。というか、俺にデメリットがあり過ぎる。12歳の少女に怒鳴る23歳など、字面だけでも恐ろしい。

 反省だ。

 そんな事を考える月曜日の夜。課題であるレポートの片手間にスマホでラインの返信をしながら。

 台所に視線を移すと、上機嫌で身体と長い黒髪をゆらゆらと揺らしながら調理をしている紗凪の姿が。背丈が台所のシンクに届いていないので、踏み台を使いながらの調理だ。

 ちなみに、こういった光景は何も、今日に限った話ではない。

 毎日だ。いや、大袈裟な話ではなく。紗凪は毎日やってくる。

 朝、俺を起こして昼食を作り。

 夕方、俺の家の風呂を掃除してお湯を張り、夕飯を作り。

 夜更け前まで俺の隣でテレビを観て、帰る。

 住んでいるのは同じマンションの同じフロア。部屋だって隣なのだから、実行に移すのは然程難しくはないのだろう。

 以前に、一度だけ侵入を拒んで玄関のドアの鍵を締めていたことがあった。ガチャガチャガチャガチャ。ドアノブを捻ってもドアが開かないことを確認した紗凪は、ベランダ伝

づた

いに窓から侵入してきた。その際に窓は犠牲になった。

 それ以来、紗凪が俺の家に這入ってきて家事やら何やらをするのはどうしようもないと諦めている。これに関しては、俺が楽出来るのであまり嫌ではない。

 

「夜ご飯出来たよ」

「おう」

 

 ノートパソコンのキーボードを打鍵しながら、上の空での返事。脳内でこそこうやって近況を説明出来ていたりするが、俺だって割と忙しいのだ。勉強の出来る陽キャ、という設定を保つには、それなりの努力をせねばならない。課題の一つや二つ、提出し忘れても──と言ってくる輩もいるが、そうではないのだ。そう言った少しの隙が『道馬くんってテストの成績良いけど提出物は駄目だよね』だという評価を生んでしまうのだ。しかも、そんな台詞を吐いてくる輩の大半は俺よりオツムの出来が悪い奴ばかりなのだから、尚更ムカつく。

 実際言われた訳でもない自分への悪口に苛々しながらレポートを書き進めていると、俺の耳元で紗凪が

 

「なんだ、レポートやってたんだ」

 

 とつまらなそうに呟いた。

 

「あぁそうだよ。天才様とは違ってこちとら一般人だからな。必死こいて頑張らねぇと良い成績貰えないんだよ」

 

 毒入りの棘を含んだ、その言葉。いつもの紗凪ならば「もう、またツンデレさんだ」と頬を膨らませるに留まっているので、俺もあまり気を遣ってはいなかった、その言葉。

 しかし、今日は違った。

 

「そうだよね。道馬お兄ちゃんは紗凪と違って必死に頑張らないとね」

 

 思わず振り向く。

 紗凪は天才であるが、プライドが極端に高かったりだとか、偉そうだとか、他人が見ていて鼻に付くような奴じゃなかった。普段は、俺が勝手に紗凪のやること為すことをマイナスに解釈して苛立っているだけだったのだ。

 だから、今の紗凪の、言ってしまえばこちらを馬鹿にするような台詞は、一瞬だが俺の思考を止めた。

 

「どうしたの?お馬鹿な道馬お兄ちゃん」

 

 聞き間違いかと思った。

 聞き間違いであってほしかった。

 しかし、二言目も罵倒。

 聞き間違いではなかった。

 

「お、お前……」

「道馬お兄ちゃんは馬鹿だから、12歳の紗凪の頭脳に嫉妬しちゃうような大馬鹿さんだから、課題は一生懸命頑張らなきゃいけないんだもんね。良いよ。紗凪、道馬お兄ちゃんが課題終わらせるまで待っててあげる」

「──て、テメェ!」

 

 紗凪の華奢な身体を、思い切り突き飛ばした。

 ついカッとなって。

 その言葉は、今まで加害者が被害者に対する罪悪感を少しでも無くす為のふざけた言い訳でしかないと思っていた。

 しかし、今の俺の行動に至った理由をよく思い返してみると、当てはまる言葉はやはり一つしかないのだ。

 ついカッとなって。

 成人男性に突き飛ばされた12歳は意図も容易く体勢を崩し、小さな背中をフローリングの床に強(したた)かに打った。

 

「こんなか弱い女の子に暴力を振るうなんてサイテーだね」

「五月蝿ぇ!やめろ!」

 

 紗凪の言葉が頭に響く。俺は両手で頭を押さえた。紗凪との出来の差に今まで辛酸を舐めさせられていた分、劣等感に耐え切れなくなっていた。

 ムカつく。

 ムカつく。

 ムカつく。

 紗凪を突き飛ばした時の膝立ちの体勢から立ち上がった俺とは違い、紗凪はまだ立ち上がれないのか、背中を床に付けて天井を見つめている。数秒の間が空いた後。

 

「もう気が済んだ?道馬お兄ちゃん。一回り近く年の離れた女の子に手を上げて、スッキリした?」

「煽るようなこと言うんじゃねぇ!やめろって言ってんだろ!」

 

 寝転がっている紗凪に近寄り、胸倉を掴む。紗凪が着ていた服が部屋着だったからか、胸倉はとても掴み易かった。

 

「お馬鹿なお兄ちゃん。怒鳴ったりしなきゃ自分の優位性を確立出来ないんだね」

「黙れ!黙れ黙れ黙れ黙れ!!」

 

 苛々する。

 苛々する。

 口を塞げば、もう苛々しなくて済むだろうか。

 喉を潰せば、紗凪は閉口してくれるだろうか。

 首を絞めれば、俺の怒りも収まるだろうか。

 気付いたら実行に移していて、紗凪の細い首筋を両手で思い切り締めていた。

 俺の腕に血管が浮かぶ程に。

 紗凪の顔が段々と青白くなる程に。

 

 

 

 

 

 

『く、苦しいよ。道馬お兄ちゃん』

『どうせ演技だろ!苦しめ、この!』

『や、やめてよ……!道馬お兄ちゃん』

『泣いたって遅えよ!おら、クソ!クソッ!クソォッ!』

 

 

 

 

 

 

「何か、申し開きはあるか」

「……何で、何でこんな物が録画されてるんだよ」

 

 震える声で、呟く。

 震える手で、たった今相庭が見せてきたスマホの画面を指差す。

 午前10時過ぎ。二コマ目からの講義に間に合うように登校すると、正門に相庭が立っていた。「よう」と片手を上げて挨拶をすると、「こっちこい」と強引に手を引かれた先は林の中。奇しくも、紗凪の時と全く同じだった。

 それで、現在。林中。

 

「言いたいことはそれだけか?このクソ野郎」

「ち、違う!そもそも、考えてみてくれ。なんでこんな様子が録画されているんだ?誰か第三者が俺の家の中に居たのか?違う!紗凪だ!紗凪が俺を陥れようと──」

「いい加減にしろ!」

 

 殴られる。視界がチカチカと点滅し、地面に崩れ落ちる。平衡感覚が可笑しくなってしまったのか、地面に右頬が付いている今も地面が揺れている気がした。

 

「お前を一瞬でも親友だと思っていた自分が馬鹿だったよ。道馬、お前は最低の屑だ。……二度と俺に近付くな」

「ち、違うんだ!待ってくれ!待ってくれよ……!相庭ぁ……!」

 

 這って相庭に近付いて手を伸ばすが、その手さえ相庭に蹴られて払われる。

 段々遠ざかる相庭の背中。手を伸ばすが、掴んでくれる者は誰もいない。悔しさで地面に爪を立て、握るように引っ掻く。

 たった数分にして、俺のキャンパスライフは終わりを告げたのだ。

 誰の手によって?

 そんなの決まってる。

 

「あーあ、嫌われちゃったね」

 

 無様に地面に転がる俺の隣に、紗凪がしゃがみ込んだ。紗凪が見詰める視線の先は虚空か木々か。兎に角、俺に向けられていないのは確かだった。

 

「紗凪……。テメェ……!」

「もう、睨まないでよ。紗凪に手を上げたのは道馬お兄ちゃんでしょ?」

「……可笑しいとは思ったんだ。お前らしくもなく俺を馬鹿にするような口振りで煽るし、突き飛ばされても起き上がらないどころか更に煽ってくる。俺が首を絞め始めてようやく、お前は女の子らしく泣き喚いてみせた!」

「そういうこと。録画していた動画の最初の方を切っちゃえば、突然怒った道馬お兄ちゃんが紗凪に乱暴しているような動画になるからね」

 

 煽りと劣等感に負けて暴力を振るった俺が悪いのは、分かっている。しかし、それを認めるのもまた劣等感なのだ。

 

「あの動画、送ったのって実は相庭さんだけじゃないんだよ。知ってた?」

「……は?」

「同じ講義を取ってるってだけで連絡先の交換をせがんできたゴミ全員に送ったから、えーっと、約200人くらいかな?これから鼠算式に大学内に道馬お兄ちゃんの悪行がどんどん、どんどん広まっていって──あぁ、もしかしたらSNSに晒しちゃう人もいるかもだね。道馬お兄ちゃんのご両親のケータイにも送ったし、高校の頃の友達にも送ったし」

 

 順々に指を折りながら、俺の動画を送った相手について楽しそうに語る紗凪。

 俺は恐る恐る問うた。

 

「じょ、冗談だろ……?」

「ううん、本当。兎にも角にも、道馬お兄ちゃんの味方は紗凪以外、誰もいなくなっちゃったのでしたっ!これから大変だねぇ、仲間外れにされちゃうのは勿論だし、もしかしたら退学。もしかしたら、警察沙汰になっちゃうかも!ねぇねぇどうする?どうするの道馬お兄ちゃん────ふふっ、そんなの決まってるよね」

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