腕が使えない。



 ある朝の出来事だ。これは僕にとっては人生で一二を争う大事件で、一歩でも間違えていたら僕の人生自体変わってしまうかも知れない出来事──

 

 

 

 

 

 

 

 

 いつもよりも少しだけ家を出るのが遅かった。自転車で十分もかからないので、別に遅刻する時間帯ではないのだけれど、ペダルを漕ぐスピードと比例して僕は少し焦っていた。

 だから失念していた。この横断歩道は、事故が多発している魔の横断歩道だという事を。以前、車が衝突した為に信号が修理中で信号が機能していない、極めて危険な横断歩道だという事を。

 僕はそこを、一時停止も左右確認もせずに通過しようとしたのだ。

 だから、事故に遭う。横からの突然の衝撃。驚きのあまり手が硬直し、ハンドルを離せずに自転車と一緒にそのまま車体に巻き込まれる。横になる視界。不思議と痛みは感じず、もしかして僕は事故に遭ったのだろうか?と呑気に考えていた。

 僕を轢いた車の後部座席から出てきた誰かは甲高い悲鳴を上げた。そんな朝の惨劇を他所に、道路には静かに僕の血が広がっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 時も場面も変わり、一ヶ月後。そして病院の最上階の個室。ハンドルを離さなかったのが悪かったのか、僕は両腕を骨折していた。勿論、身体の各所に縫ったり肌を移植しなければならなかった程の怪我はあるのだけれど、一ヶ月経っても一番深刻なのはこの両腕だ。

 

「はい、あーん」

 

 一ヶ月も経てば痛みは落ち着いて──というか多少慣れてくるが、両腕はそうはいかない。両腕が使えないというのはとても不便なのだ。

 

「ねぇ?あーんっ」

 

 食事や着替えが不自由なのは当たり前として、歩くのも辛いのだ。バランスが取れずに転びそうになる。床に手も付けないので更に辛い。しかも一人じゃ起き上がれない。

 

「……ねぇ」

「ん?──もごっ」

 

 思考に耽ふけっていると、横合いから底冷えするような声がしている事に気が付いた。顔を向けた所で、口にスプーンが入り込む。その後から、最近ようやく食べれるようになった病院食の味。

 

「さっきからあーんって言ってるんだけど」

「も、もご……」

 

 謝ろうにも、口にスプーンと食べ物が入った状態では口が動かせない。ドンドン口の奥に浸入してくるスプーン。ねぇこれは流石にヤバいって。

 

「んー!んー!」

 

 スプーンを持つ手をタップして降参の意を伝える。スプーンの先が喉を掠めた所で、やっとスプーンは口内から退いた。

 

「ごほ、ごほ……びっくりしたなぁ」

「あーんってしたら応えてくれないと」

 

 むぅー、と頬を膨らます女の子。甲斐甲斐しく僕の口に食事を運んでくれるこの子を一言で表すなら、『僕を轢いた車に乗っていた女の子』だろう。

 何とこの病院、この女の子のお父さんの病院らしく。僕はその病院のVIPルームで療養しているのだ。責任を感じたこの女の子にお世話をしてもらいながら。

 何だろう、そもそもあの事故は僕が一時停止と左右確認を怠らなければ起きなかった事故なのに。罪悪感が凄いな。

 まぁ、それを女の子に伝えるつもりは無いけど。ややこしくなりそうだし、もしも事態が良くない方向に傾いた場合の事を考えると恐ろしい。知らぬが仏、と言えば良いのか、女の子はこの事を知らない方が幸せだ。

 

「はい、あーん」

 

 僕の心情など露知らず、僕の口に食事を運んでくれる女の子。幸か不幸かこの病室にはこの女の子以外来ないので、僕はあまり恥ずかしがらずに、餌を待つ雛鳥の如く口を開けた。まぁ、慣れもあるけどね。

 昼食も終わり、女の子が空になったトレーを運んでいる間に僕はふと考えた。果たして僕は、いつ頃退院出来るのだろうか、と。お医者さんからそれらしき話はまだ聞いていない。女の子に聞いてみた事もあったが、強い口調で『まだそんな事は考えなくて良いよ』と言われて以来、この話題を口にした事は無い。

 だけど、気になる。両親も姉もお見舞いに来てくれないし。と言うか、スマホが事故の一件でどこかに行ってしまったので親と連絡が取れないと言うのが正しい。そもそも、親は僕がこの病院に入院しているのさえ知らないのかも知れない。場所を教えようにも、僕は手術をされてからこの病室を出た事が無いので教えられない。トイレは──恥ずかしながらこの子に任されてしまっている状態だ。仮に一人でトイレが出来たとしても、この病室はホテルみたく豪華で、わざわざ廊下へ出なくてもこの病室の間取りの中にトイレが存在するのだ。

 病室内に壁掛け時計はあるけどカレンダーは無くて、日にちが把握出来ない。前に事故から一ヶ月後みたいな事を言ったけど、それだって女の子から与えられた情報だ。真実かは分からない。

 ……あれ?これって結構ヤバいんじゃ?

 

「何考えてるの?」

「いや、何でも」

 

 女の子からの問いをはぐらかしながら、視線をさり気無く窓の外に移す。ここから見える景色に見覚えは無い。本当に何処なんだここは。

「心配事は何も無いわ。ウチがいるもの」

「……そうだね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ボーッとして、ごはんを食べて、女の子と会話をして過ごす毎日。一向に僕の容態に関する話は聞かされず、本格的に不安になっていた頃。僕に転機チャンスが訪れた。

 

「……あのー」

「うぅーん、むにゃむにゃ」

 

 眠りから目を覚ますと、やけに温かい。時間を確認すると、午後四時を過ぎた所。温かいのは陽射しの所為かな──そんな訳無い。女の子が、怪我人である僕のベッドに潜り込んで寝ているのだ。顔が近い。何故僕の服を摘んで寝ているんだ。

 

「起きないなぁ」

 

 声を掛けてみたが、応答は無し。両腕は器具で吊られているので、身体を揺する事も出来ない。

 

「……あ、おはよ〜」

 

 どうしようか悩んでいた所でタイミング良く女の子が目を覚まして、寝惚け眼を擦りながら起き上がった。

 

「おはよう。と言っても、そんな時間帯じゃないか」

 

 僕が言ってから女の子も時間を確認して、

 

「そろそろ夕飯の準備の時間かな」

 

 ベッドから降りた。

 ベッドから降りる時に何故か口付けをされた時の僕の純情などは理解していないのだろう。

 女の子は気持ち良さそうに身体を伸ばした。

 

「そう言えば、夕飯って毎日君が作ってるの?」

「……ウチ以外が作った料理をあなたの口に入れるのが耐えられないから」

「ん?」

「何でもない。ウチが作ってるよ」

「へぇ〜、病院食が作れるって凄いね」

 

 見た目からして女の子は十五、十六歳くらいだろうか。僕が今まで生きてきた中で、病院食が作れる女子というのは聞いた事が無い。と言っても僕の場合、身体の中に異常は無いのでガッチガチな病院食ではないのだが。

 

「ありがとう♪じゃあ、用意してくるから待っててね」

 

 病室から出て行く女の子。さて、夕飯までどうやって時間を潰そうかな。

 

「……ん?これって」

 

 首をパキパキと鳴らした時に、キラリと視界で煌めくモノ。視線を向けるとそこには、事故の一件で紛失していた筈のスマホがあった。

 

「何故こんな所僕のベッドに……?」

 

 疑問はさておき、こうして見つかったのだ。素直に喜んで家族に連絡でも取ろうじゃないか。

 って、

 

「僕のこの手じゃスマホ使えないじゃん」

 

 どうしようか。スマホを持つ事は出来ないし、足で操作するには足の所までスマホを移動させなきゃいけないし。

 

「あっ、そうだ」

 

 吊られている両腕はそのままに、右肘を伸ばす。器具のゴムの部分が意外にも融通が利かせてくれて、伸びるや伸びる。難なく肘でホームボタンを押す事が出来た。画面に明かりが灯る。時刻は壁掛け時計と同じ。しかし、日付は僕が思っていたよりも進んでいた。ほんの少し心の中で驚いてから、四桁のパスワードを肘で入力する。二回程間違えたが、何とかロックの解除に成功した。

 懐かしさすら感じるスマホのホーム画面。声が誰にも聞こえない程度の大きさでスマホに呼び掛ける。いつから搭載された機能なのかは知らないが、最近のスマホは話し掛けると応えてくれるのだ。

 

『お呼びでしょうか?』

 

 人工音声がスマホから流れる。

 

「姉に、電話繋いで」

『畏まりました』

 

 電話帳に登録されている、姉。親よりも姉を電話の相手に選んだのは、そちらの方が説明を省き易いと思ったからだ。今は時間が惜しい。女の子が戻ってくる前に要件を伝えて通話を終わらせ、スマホの存在には気付いていなかったフリをしなければ。

 呼び出し画面。耳に当てられないので、スピーカーモードに肘で設定。通話終了ボタンを間違えて押してしまわないかヒヤヒヤしたがどうやら先程のロック解除の場面で、肘でスマホを操作する技術が上がっていたらしい。失敗はしなかった。

 

『……もしもし?』

「あ、お姉ちゃん」

 

 僕が声を掛けると、電話の向こうから『えっ?』と驚いた声が聞こえてきた。

 

『ちょ、えっ、アンタ、無事だったの!?』

「しぃー、静かに。説明は今の状況故に省かざるを得ないけど、帰ってきたらちゃんと説明するよ。約束する」

『うん……。所で、アンタ今どこにいんの?』

「僕もよく分からないけど、病院の最上階の一室に居る」

 

 病院がどんな構造をしているのかは分からないが、女の子からの説明を信じるならば、こういう事。僕は病院の最上階の一室で、女の子から手厚く看病を受けている。

 

『それってVIPルームじゃない!事故に遭ったとは聞いたけど、その後行方不明になってたから心配したんだからね!?加害者が証拠隠滅の為にアンタを山に埋めたりしたんじゃないかって!』

「うん、ごめんごめん。……そんな事よりも、時間が惜しいから、本題に入りたいんだけど」

『あ、そうよ。何の用?』

 

 久し振りの会話なのに酷い言い様だが、仕方無い。これが姉の普段通りの対応だという事は理解している。例え僕が身代金目的で誘拐されようと、テニスの世界大会(両腕が使えないのにテニスを選んだのはちょっとしたブラックジョーク)で優勝しようと、姉はこんな感じなのだ。

 

「僕が退院する日が決まったら、迎えに来てほしいんだ」

『まだ決まってないの?』

「うん。まだ両腕のギプスが固定されてて」

『うーん、分かったわ』

「両腕が自由になったらまた連絡する。ありがとう」

『早く治しなさいよ。……あと、警察沙汰になってるから帰ってきたら覚悟しときなさい』

 

 ブツリ。

 何か、通話が切れる直前に凄い不穏な事を言われた気がするんだけど……。

  まぁ、何はともあれ、こうして家族と連絡が取れたのだ。あとは退院する日が分かれば──

 

「ねぇ、誰とお話ししてたのかな?」

 

 声が聞こえ、即座に身体が反応し、肘でスマホをベッドの端まで追いやる。が、遅い。

 

「ねぇ?ね〜ぇ?」

 

 女の子が僕に問う。声色がいつもと変わらないのが寧ろ僕に恐怖を与えている。怖過ぎて女の子の顔が見れない。けど、絶対に怒っているというのは分かった。家族と電話くらい別に良いじゃん。そう反論したいけど、それが許されない状況だ。

 

「……答えてよ」

 

 食器の割れる音。見ると、床には僕の夕飯が食器の欠片と仲良く抱き合っていた。ここから『僕の退院日っていつ頃?』とか無神経な事は聞けない。

 

「お義姉さんとお話ししてたの?」

 

 いつの間に僕のスマホを拾ったのか、女の子の手中には、電源を消す間も無かった為に未だ画面の明るいスマホが。

 

「お義姉さん、いるんだよね?」

「話聞いてた?」

「いや、前から知ってたよ」

 

 前から知っていた?

 この時僕は、僕の家族と女の子が前から知り合いという線を期待していたのだが、そうではなかった。僕の予想は外れた。

 女の子は僕のスマホの画面の明かりを消し──即ちスリープモードにしてから、もう一度明かりを灯した。浮かび上がるはロック画面。迷いなく四桁の数字を入力する女の子。

 

「え、何で?」

 

 女の子は、パスワードを知っていた。

 

「愛の力──って言ってもあなたは納得しないよね」

 

 する訳が無い。

 

「画面が暗い時の指紋を見たんだよ。画面上で指紋が多く付着している所はあなたが多くタップしている場所」

「まさか──指紋の位置だけでパスワードを割り出したとでも言うのかな?」

「うん。やろうと思えば誰でも出来るよ」

 

 やろうと思えば、だけどね。女の子は最後にそう付け足した。確かに、指紋からパスワードを割り出すなんて、僕ならやろうとは思わない。それよりも持ち主にバレたら怖いなぁという罪悪感が上回り、実行には移さないだろう。

 実行してしまうような人は、余程その人のスマホの中身を確認したかったんだろうな。

 

「あなたってば、異性の友達が沢山いるから参っちゃったわ」

「まぁ、友達は多いに越した事はないけど──何かしたの?LIN◯とか覗いちゃった?」

「うん、見たよ。旦那がモテモテなのは、誇らしい限りね。──少し嫉妬しちゃうけど」

「旦那って……はは、誰の事?もしかして僕?」

 

 この子は冗談が上手いなぁ。こんな状況なのに思わず笑みが零れたよ。

 

「うん」

 

 まぁその笑みも女の子による真顔の返しによって、すぐに引き攣った笑みに変わったんだけどね。

 

「え、いつの間に?そんな話とかしたっけ?」

「話なんかしなくても、もうウチ達は結婚しているようなモノだよね」

「は?」

「一緒の部屋で起きて、ウチが作ったごはんを食べて、一緒に過ごして、一緒に寝て──これを夫婦と言わずに何て言うの?」

 

 何この子怖い。

 

「でも……」

 

 嬉々として語っていた表情が一転、暗いモノに変わる。

 

「夫が何処かへ行ってしまうのは『違う』よね?」

 

 女の子の手中にある僕のスマホが嫌な音を立て始めた。え、まさかそれを握り潰すおつもりで?男でも難しいのに。

 しかしそれも想像から現実になりそうで。

 

「お義姉さんやお義母さまが迎えに来られたら、夫婦円満に水を差す事になるよね?」

「い、いや、そんな事は無いんじゃないかな?」

 

 夫婦の云々について認めた訳ではないけど、僕は取り敢えず女の子の言葉を否定しておいた。何か嫌な予感がするのだ。僕の人生に致命的な傷を付けそうな──状況的に一歩間違えたらアウトな所で、二、三歩くらい間違えそうな──そんな予感。

 

「ドウシテ?」

 

 怖い怖い。顔が近い。仰け反ろうとするけど、後ろはベッド。両腕は吊られている為、上下には動けても前後にはあまり動けない。

 

「姑とかそんな話じゃないけど、昨今の世の中じゃ片方の親と同居している家庭も珍しくないと思うんだけど?あ、聞いてないっぽいね」

 

「ウチとあなたの部屋に入るモノは誰一人として許さない。この空間はウチとあなただけのモノ。例えお義姉さんだろうとお義母さまだろうとそれは許されない」

 

 ブツブツと何かを呟く女の子。怖い。所々僕の耳に入ってくるのが更に怖い。耳も塞げないから否応無しに聞く羽目になっている。

 

「退院する日が決まったら迎えに来ちゃう」

 

 ブツブツと聞き取り難い言葉が続く中、はっきりと聞こえたその言葉。まさか、退院する日を僕に教えないつもりか?しかし僕の予想は外れた。

 勿論、悪い方に。

 

「あなたが退院する日を延ばさないと──いや、退院出来ないように──ずっとこの部屋で過ごせるようにしないと!」

 

 予想の斜め上を行く女の子の発想。宥めようと口を開く前に、腕を掴まれた。器具に吊らされギプスがはめられている、包帯が何重にも巻かれたその両腕を。およそ怪我人に加えてはいけない力で、女の子は掴んだのだ。

 

「痛い痛い!離してよ!」

 

 子供みたく叫ぶ僕。どんなに大声を上げようが、助けは来ない。

 

「安心して?いつまでもウチが看病してあげる。妻が夫を支えてあげる。……例え両腕が一生使えなくなっちゃっても」

 

 

 

 

 どこかの地方のどこかの病院。最上階の一室で、嫌な音と耳障りな叫び声が響いた。

 

 

 

 


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